合縁奇縁の獣たち...9

「いいか。この洞窟の中では妖気はいっさい使えなくなる」

オレは大仕事の最後の砦である崖っぷちの、凍った洞窟を指して飛影に指示をする。
だが飛影は青い顔をして無表情で、話は聞いているらしいがこちらを見ようともしない。

結局オレは白月の家で、白月の目の前で、飛影を抱いた。
どうやらそれがお気に召さなかったらしい。
あれから命令されない限り一言も喋らない。

奴隷の分際で、目を合わそうともしない。
さんざん泣いてよがったくせに。

だが、出立する前に白月に言われた言葉がふと気にかかる。

ーあんなことをするべきじゃない
ーあの子をあんな目にあわせちゃいけない
ーあなたもそれを思い知る時がくるはずよ

紫の眼はオレを責めていた。
いくら長い付き合いのオレとはいえ、割り切った商売をしている白月があんな苦言めいた事を言うなんて初めてだった。

いったいどうしたっていうんだ。

魔界ではあんなのはよくあるお遊びだ。
ごちゃごちゃ言うほどの事もない。

ーあなたもそれを思い知る時がくるはずよ

…思い知る?何をだ?
ぶるっと頭を振って、仕事に集中する。

「どうにか入口の結界は解いて穴を開けたんだ。だがこの大きさの穴を開けるのが精一杯だ。これ以上開ければ崩れ落ちるだろう。見ての通りこの大きさではオレは通れない。ここら辺一帯では変身することも植物を召喚することもできない。だからお前を使う」

氷の洞窟には、そこかしこに呪符が埋め込まれていた。
獲物はこの洞窟の奥の祠にある剣だ。
持ち主はとうに死んだというのに、死んでも誰にも渡すまいと考え、堅牢な秘宝庫を作っておいたというわけだ。

「この穴を這い進め。奥の祠はそう遠くない。だがそこかしこに呪符がある。間違ってもそれに触れるな」

飛影は黙ったまま、洞窟の入口を眺めている。

「あの赤い呪符だけはオレも外せなかった。白月はあれに触れればこの洞窟どころか崖全体が崩れ落ちると言っていた。いいか。絶対に触るなよ。まあお前ならそう大変じゃあないはずだ」

なんだかさっきからオレばかり喋っている。

「…おい、聞いているのか?」

こちらに一瞥もくれず、飛影は這って進むには邪魔なガウンを脱ぎ、剣を外して地面に置いた。黙ったままスタスタと洞窟の小さな、小柄な者が這って入るのがやっとの入口に向かう。

「…気をつけろよ」

手間のかかった仕事だったが、ここまでくればたいした仕事でもない。
造作もなくできるはずだ。
だが…

凍った岩の入口に手をかけ、飛影が振り向いた。

こちらを無表情に見遣る、紅い瞳。
色味の失せた唇が、何かをつぶやいた。

「…なんだ?何を言っ…」

小さな体が、スルリと洞窟の中に消えた。
***
氷の穴を這い進む。

光も射さない場所なのに氷はうっすらと光を放ち、暗くはない。
あちこちに焼け焦げた跡のある赤い呪符が氷からつき出していて厄介だったが、どうにか触れずに進む事は出来る。

出来る、はずだ。

だが。
だがオレはもうそうする気はない。

赤く禍々しい呪符を眺める。
死んだその妖怪の、宝への執着を滲ませているかのようだ。

…何かの血を吸いたくてうずうずしているようにも見える。この呪符は。

自然に暗い笑みがこぼれる。
その願いを、叶えてやるさ。

昨夜の事を忘れる事も、許す事も出来ない。
あんな風に人前で抱かれ、泣いて、…よがった。

命令をされている間は自殺することはできないようになっている。
…そうでなければ死ねたのに。

だが、今は…
今は何も命令されてはいない。

…許せない。

許せないのは、何より許せないのは自分。
不甲斐ない、弱い自分。

祠が見えてきた。
外の恐ろしく頑丈にかけた呪いや封印とは打って変わって、小さな木の祠。閉ざされた扉の中にある剣は見えない。

これが最後に見る景色だなんて、我ながら冴えない。

ちょっとおかしくなって笑った。
ああそうか。オレには相応しいかもしれないな。

狭い洞窟の中でなんとか体を返し、仰向けに寝ころぶ。

掲げた指で、躊躇なく呪符に触れた。
***
最初に聞こえた音は、ピン!という、氷が水の中で弾けたような澄んだ音だった。
だがもちろんオレにはそれが何の音かすぐに分かった。

「あの馬鹿…!?」

バァン!という爆音と共に洞窟の入口が吹き飛ぶ。
あっという間に洞窟が爆発音とともに砕け、氷の塊となって崖下に次々落下する。

飛影の剣もガウンも、氷の上を滑るようにして視界から消えた。それもほんの一瞬で、あっという間にオレの足下の氷まで亀裂が入った。
後ろに跳んだ瞬間、崩れ落ちる氷の流れと共に古ぼけた祠が落ちるのが見えた。

くそ。

結界は一部が壊れたが、まだ生きている。
ろくに出せない妖気でどうにか植物を呼び出し、まだ砕けていない氷に引っかけ手を伸ばす。

朽ちかけた祠が割れ、剣が飛び出した。
精一杯手を伸ばす…

黒い布が、視界をかすめた。

…選んだつもりも、迷ったつもりもなかった。
オレの手がつかんだのは、黒い布の方だった。

崩れ落ちる岩や氷に当たらないよう、小さな体を力いっぱい引き寄せ、抱きしめた。

「っつ…!」

安堵した瞬間、後頭部に鈍い衝撃を感じる。
その途端オレの足下は崩れ、暗闇に飲み込まれた。
***
寒い。

死は無だろうとずっと思っていた。
死んでまで寒さや熱さを感じるなんて因果なものだ。

寒いというのに、なぜだか腹だけ温かい。

妙だな…。

目を、開けた。

何もない。
白く凍った氷とその遥か上空に空らしき薄灰色が見えるだけだ。

…死に損なった?

温かさを感じる腹に手を添えると、サラリとしたものに手が触れた。

「……?」

クラクラする頭を振り、オレはどうにか上体を起こす。

「く、らま…?」

サラサラとした銀糸は、半分が血でべったりと濡れている。

「蔵馬!」

慌てて抱き起こすと、しぶとい狐はどうにか息をしていた。

「なぜ…?」

なぜ、助けた?
自分だけなら逃げ出すことなど容易だったはず。

蔵馬は生きてはいたが、血に塗れた頭部以外にもあちこち大怪我をしている。
どうする、どうしたらいい…?

オレに覆いかぶさっていたせいで、ほとんどの岩や氷塊は蔵馬にばかり当たったらしい。オレの方はたいした怪我はしていない。
とはいえ蔵馬を連れてこの崖を登れるほどには軽傷でもない。右足が折れている。

そこで、はたと気付く。

何を馬鹿な事を…?
今ならこいつを殺せる。

簡単だ。
蔵馬がどうにかここに降りたのか運良く落ちたのかはわからないが、オレ達がいるのは崖の途中にせり出している岩棚だ。
ちょっと押して下に落とせばいい。さすがの妖狐でもこの怪我でこの高さだ。間違いはない。
それで終わりだ。

…終わりにできる。
ゴクリと唾を飲み込む。

ずっとずっとそうしたかった。
今、やっとこいつを殺せる。

こいつを殺せる。しかも相打ちでもなく。
ざまあみろだ。

もちろん正々堂々と、ではないがこの際そんな事は知ったことじゃない。
蔵馬を抱き起こしたまま、矢継ぎ早に考える。

折れた足をかばいながら、狭い岩棚でヤツを引き摺る。
ギリギリの縁まで引き摺り、オレは下を見下ろした。

暗く、深い。
あまりに深くて底が見えない。

手が、震えた。

「…寒いからだ」

誰が聞くでもない言い訳をつぶやく。

どうした。何を躊躇っている?
昨夜された事を忘れたのか?
あと一押しでこいつの顔を永遠に見なくてすむ。

「…っ!」

腕を、掴まれた。

驚いて見下ろした蔵馬の顔は、目を覚ましたとはいえトロンと寝ぼけたような表情だ。

上体を起こしかけたが上手く起き上がれないらしく、固まっているオレをもどかしそうに、力なく引き寄せた。

片腕だけで、抱きしめられる。

「…蔵馬…」

声までが、震える。
オレの呼びかけに蔵馬は微笑む。

「…お前の勝ちだな、飛影」
***
寒いな。

死は無だと思っていた。
思っていたがどうやら間違いだったらしい。その証拠にここはえらく寒い。

ここってどこだ?

ようやくオレは目を開ける。
さっき飛影に別れを告げた岩棚に、オレは寝ていた。

視線を巡らすと、崖に寄りかかるように座っている飛影が目に入った。

「あれぇ?」
「…なんだ」

オレはどうにか起き上がる。
頭がガンガン痛い。

「いてててて…。うー痛い。なんだ、お前オレを殺さなかったのか?」
「…見てわからんのか?」

頭にはオレのガウンを裂いたとおぼしき包帯がグチャグチャに巻かれている。
怪我をするなんて久しぶりだ。いやはや痛いもんだ。

「なんでまた?」

飛影は返事をせず、視線をそらした。

「何、お前もしかしてここで殺すのは卑怯だとか思ったのか?ばっかだなあ。千載一遇の好機ってやつだったのに。そんなことじゃ魔界じゃあ命がいくつあっても足らんぞ」
「…そんなつもりじゃない」

いつもの勝ち気で生意気な態度はない。

「ああそうか。オレに惚れちゃった?」

血で固まった髪をほぐしながらオレはからかう。 あちこち血でベタベタでいい男が台無しだ。それにしても頭が痛い。
いつも通りの怒声を待ったが返事はない。

ポツリと飛影が呟いた。

「…なぜオレを助けた?オレがわざと呪符に触れた事は分かっていただろう?なぜだ?」

今度はオレがポカンとした。
もちろんそれは分かっていた。

でも…
でも…?

ああそうか。
オレは一人納得して頷く。

「飛影」

飛影が顔を上げてこっちを見た。
赤い瞳がオレを見つめる。

「愛してる」
前のページへ次のページへ