Split Syndrome...1

「お願いがあるんです」

いつもと違う人物が窓辺に降り立ち、微笑んで言う。

「いいけど…?」

蔵馬はきょとんとして返事をした。

「まあ、中へどうぞ。兄妹揃って窓から来なくてもいいのに」

窓辺に立つ美しい少女に、苦笑してソファを勧める。どうやら妹の方は室内では靴を脱ぐというルールを覚えているらしく、草履を窓枠に並べて置いた。

雪菜が分けて欲しいと言った毒草は、薬草棚の在庫にある物だった。

「あれね。少しなら今あるよ。誰を殺すの?」

棚を探りながら、蔵馬はまんざら冗談でもなく聞いた。

雪菜は苦々しく笑むと、着物の帯を緩めた。
ほっそりとした体に似合わない、豊かな胸。その下に続く白く平らな腹ー

「…どうしたの、それ」

蔵馬にしてはめずらしく、驚いた声で問う。
白く平らな腹は、わずかだが奇妙な膨らみをみせている。

「…分裂期じゃないでしょう?」

氷女の分裂期は確か百年ごとだと聞いた気がする。雪菜は…ということは飛影も…どう多く見積もっても百年など到底生きていないはずだ。

「ええ。本来は百年ごとでしょうね」

帯を締めながら言う。

「でも、私は純血種ではありませんから」

私にも父の血は影響している、純粋な氷女と同じというわけにはいかないみたいですね、と雪菜は苦笑した。

「どうするの?」
「もちろん、始末しますよ」

あっさりと言う。

「純血種でもなく、おまけに百年ごとでもない子ですもの。多分産まれる前に流れるでしょうね。元々子は望んでいませんし」

この草があればこれ以上大きくなる前に始末できるので、そう言って雪菜は肩をすくめた。
始末すると言った言葉には、なんの躊躇いも罪悪感もなく、物の怪らしく小気味よいくらいだ。

「なるほどねえ」

きらきらした粉をまぶしたような青い草を、小さな瓶ごと蔵馬は手渡した。

「ありがとう。蔵馬さん」

にっこり笑って瓶を受け取ると、雪菜はまた窓辺に立った。

「ああ、そうだ。お代を払わなければ」
「いいよ、別に」
「あなたに借りを作るのはこわいわ。そうね…情報でお支払いしましょうか?」
「情報?」

めぼしい宝のありかでも知っているのだろうか?だがこのところ盗賊家業にはあまり食指が動かない。
食指が動くのはもっぱら…

「兄に、会いに行っては?」
「飛影に?」

会いに行く?
自分の気が向いた時にしか蔵馬のもとを訪れない飛影は、蔵馬が百足に会いに行くとあまり機嫌が良くない。

「兄もきっと、体の具合がおかしくなっていると思います」
「飛影が?なぜ?君と違って氷女じゃないのに」
「…兄も半分は氷女の血が流れていますもの」

お代はこれで、と雪菜は笑い、窓から宙に身を躍らせた。
***
パトロールは嫌いだが、敗者に課せられた仕事なのだからしょうがない。
分かっているのにここのところどうしようもなく、飛影はイライラしていた。

百足の振動がカンに触る。

…めまいがする。気分が悪い。
いつもは気にも止めていなかった揺れに、胸がムカムカする。部屋に戻って、横になっていたい。

どうしたっていうんだ。ここ最近ずっとそうだ。調子が悪い、なんて人間じゃあるまいし。
近くに誰もいないのを確認してからぺたりと座り込む。

蔵馬…。

蔵馬に会いたい。
あいつならきっと、この気分の悪さをどうにかしてくれる。
馬鹿馬鹿しいほど世話をやいて、気分の良くなる飲み物や暖かな部屋、やわらかなベッドを用意してくれる。

なのにあいつは会いに来ない。

百足に馴れ馴れしく会いに来るなと自分が言ったにもかかわらず、飛影は胸の中で恨み言をぼやく。

ゴオン、という音を立てて、百足が激しく揺れた。

込み上げた吐き気を押し戻し、小さくうめく。
額に滲む汗を拭う。

オレのことが好きなら、ずっとオレの側にいればいい。
なのにあいつはここにいない。

嘘つき。

馬鹿だな、お前。
自分自身のそんな声が頭の中に響く。

蔵馬がお前を好きだって?
愛してるって?
馬鹿馬鹿しい。

狐のお遊びにいつまで舞い上がっているつもりだ?
あいつは遊びに飽きたんだ。
お前がどんなに待ったって、会いになんかこない。
お前みたいな貧相なのに、突っ込むのに飽きたんだ。

頭をブルッと振って、頭の中の声を追いやる。
眼前の見慣れた魔界の風景が歪んで見える。

そこで初めて、自分の目が潤んでいることに飛影は気がついた。

変、だ。
最近どうかしている。

体も心もコントロールが上手くできない。
どうしたっていうんだオレは…。

こんなザマを誰かに見られては大変と、慌てて袖で目をぬぐう。

蔵馬に…会いに行こう。
来るのなんか待ってられない。
いますぐ会いたい。

会って、そして…

そこまで考え、なぜか飛影は顔を真っ赤にした。
***
「このオレが相手してやるってのになんだよ?その態度」

躯が怪訝そうに言う。
躯が配下の者と手合わせをすることは滅多にない。よほど機嫌のいい時だけだ。

いつもなら二つ返事で手合わせに応じる飛影は、パトロールから戻った途端、これから出かけるから嫌だ、 とらしくもない理由でごねていたが、躯に押し切られ、渋々とでもいうように面倒くさそうに闘技場に入ってきた。

躯が相手では手合わせでも命がけだ。
今まで付き合わされていた連中は、助かったと言わんばかりに闘技場から逃げるように出て行った。

「まったくどいつもこいつもだめだなあ」

ちっとは強くなれよな、とこぼす。

「ま、お前だって相手にならないのは同じだけどな。あいつらよりちょっとはマシだろ?」

挑発するようにニヤッと笑う。

挑発だとわかっていても、飛影はいつもカッとなる。それを知っていて言ったのに、今日の飛影はぼんやりとあらぬ方を眺めている。

「おい、何ボーっとしてんだよ」

イラついた躯が、長い足を軽やかに繰り出した。
***
「お邪魔しまーす」

小声でつぶやく。
忍び込んでおいてお邪魔しますも何もあったもんじゃないが。

百足に忍び込んだのはいいが、部屋に飛影はいなかった。
しょうがない。待つかな、とベッドに腰掛けた蔵馬の耳に、 廊下の話し声が聞こえてきた。

「参った参った、あやうく死ぬとこだった」
「飛影が来て良かったよ。躯様が相手じゃあ命がけだよまったく」

躯と手合わせをしていたらしい連中がこぼしているのが聞こえる。

そうか。飛影は躯と手合わせしてるのか。
躯の城である百足に忍び込んでいるのに躯と鉢合わせは避けたい。でもまあちょっと覗くくらい大丈夫かな?

好奇心に駆られ、そっと部屋を出た蔵馬はすぐに闘技場とおぼしき扉を見つけた。 ここ以外に扉はないようだ。 ま、見つかったら見つかったまでのこと…

「わ!」

急に中から扉がバン!と開き、逃げる間もなく飛び出してきた躯と衝突し、 二人揃って見事にひっくり返る。

「って~!あれ?狐?なんだお前!ここで何してんだ!?」

今日は狐じゃないですー。
なんて言ってる場合じゃない。困った。

「あの、ええと、お邪魔してます」

間の抜けた返答に、躯は一瞬きょとんとしたが、何事か思いついたように、蔵馬の腕を引っ張って立たせる。

「よく来た。歓迎するぞ」
「え?」

歓迎する?聞き違いかな?
なんだか躯は一刻も早くこの場を去りたいと言わんばかりに慌てている。

「ああ、歓迎するぞ。飛影に会いに来たんだろ?」
「ええまあ…」
「ちょうどいい。どうにかしろ。オレは知らん!」
「どうにか?」

聞き返す蔵馬には答えず、扉を開けると躯は蔵馬を中へ突き飛ばした。

「じゃあな。ゆっくりしてっていいぞ!」

扉がすごい勢いで閉められる。

なんだ?なんなんだ一体?

だだっ広く、殺風景な闘技場の柱に寄りかかった、小さな人影。何やらぺたりと座り込み、俯いているため表情は見えない。
この距離で蔵馬の気配に気付かないはずもないのに、顔を上げようともしない。手合わせでケガでもしたのだろうか?

「飛影、どうした?」

心配して駆け寄った蔵馬は、飛影の周りに散乱しているキラキラした石を見てぎょっとする。

闇でも光り輝く、この石…。
氷泪石…?

ふと、飛影が顔を上げた。

「飛影、だいじょ…」

蔵馬は絶句する。
鮮血のように濡れた輝きの赤い瞳。蔵馬が惚れ込んだその瞳は、ぼろぼろと涙を零していた。

「ど…どうしたの?」

思わず抱き上げて自分の膝に座らせると、蔵馬は驚きを隠せずに問う。

途端に…。
赤い瞳に一層涙がわき上がり、飛影はわあわあ泣き出した。
何?何何?なんなんだ!

硬質な音を立てて、そこらじゅうに氷泪石が散らばる。彼がこんな風に泣くのを初めて見た。まるで子供だ。 すっかり困惑しオロオロする蔵馬に、飛影は泣きじゃくりながらしがみつく。

普段なら人前では蔵馬が触っただけでも怒る飛影が、 こんな場所でぎゅうぎゅう抱きつく。

「え?ええ?一体どうしたの?」
「あいつが…」

泣いているせいでよく聞き取れない。

「あいつ?」

飛影が指差す方を見ると、扉を細く開けて覗き見していた躯がぎょっとした。

「躯がどうしたの?」
「…蹴った」
「はあ?」
「蹴った…」

手合わせをするのに蹴ったも何もないだろうに。
おまけにたいした傷でもない。困惑を深めた蔵馬に、蹴られたとおぼしき腫れた脇腹を指して、 飛影が恨みがましく、痛い、とまた泣く。

「そんなのかすり傷だ!たいした事ないだろ!」

半開きの扉から、躯が慌てたような声で叫ぶ。

躯が見ていることは分かっているはずなのに、 飛影は蔵馬の膝に座ったまま、着ていた破れかけのシャツを脱ごうとする。

「何してんの!?」

慌てて手を押さえ、止める蔵馬。

「…したくないのか?」
「今!? ここで!? な、何言ってんの!」

驚きのあまり蔵馬はすっとんきょうな声をあげる。

「オレとしたくないのか…?」

世にも悲しそうな声で問われ、返答に困る蔵馬。
また一つ、氷泪石が床に落ちる。

「そ、そうじゃないって!」
「貴様は!いつもいつもしたいって言うくせに!」
「待って待って待って!!」
「オレの中はすごく気持ちいいって言っ」
「分かった!分かった!言いました!ごめんなさい!!」

…背中に突き刺さる、躯の視線が痛い。
しがみつく飛影をそっと床に降ろすと、蔵馬はなだめるように髪をなでた。

「わ、分かったから…泣かないで。オレの所に行こうよ」

ひとまず百足から出なくちゃ、と焦る蔵馬に、躯がぶんぶんと頷く。

「そ、それがいいぞ。許可する。連れてけよ」

厄介者を追い払うように、しっしっ、と手を振る躯。

「ほら、ね。行こうよ」

蔵馬が立ち上がるのを促すと、飛影は座ったまま腕を蔵馬の方へ差し出す。

え?
こ、今度は何?

飛影は差し出した腕をもう少し高くした。

…抱っこして、ってこと?
驚きを隠せないでいる躯の視線に、冷や汗が出る。
躊躇している蔵馬に気付いた赤い瞳に、見る見るうちに涙がわき上がる。

「ご、ごめんごめん!」

慌てて抱き上げると、小柄な体が巻き付くようにしがみつく。

「ええと、失礼しました」

主である躯に一応挨拶をしてから立ち去ろうと、蔵馬は訳の分からない言葉を発した。

「…ああ」

躯はぱかっと口を開けて二人を見ている。
せっかくの美貌も台無しだ。

蔵馬も困惑を隠せない。

プライドの高い飛影は表だっていちゃつくのを嫌がるのに、 今日は蔵馬以外の者など見えていないかのように、きつく抱きついたままだ。

こんな風に抱きつかれていれば、忍び込んだ時のようにこっそり出て行くわけはいかない。

つまり、百足中の妖怪がこの有様を見ることになるわけだ。

雪菜ちゃん…。
蔵馬は心の中で語りかける。

飛影が正気に戻ったら…オレ、殺されるよ?
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