Petit a Petit...2ソファで昼寝をしている飛影からそーっと離れ、キッチンに戻った。野菜を小さく刻んだシチューはいい匂いをさせていて、蔵馬の気持ちを和ませる。 この二週間はまったく死ぬ思いだった。 夢幻花をフル活用し、会社を、実家の母たちを、どうにかこうにか煙に巻いた。 百足の女王様はさらに難関だった。 彼女を説き伏せるのに出された交換条件の仕事はどれもこれも厄介事ばかりだった。 三ヶ月後はとんでもない片付け物が山積みだ。 「やれやれ…」 フランスパンを自分の皿に、やわらかい丸パンを飛影の皿にのせる。 ー腹が減った。 ーのどが乾いた。 ー眠い。 ー寒い。 ー退屈だ。 ー風呂は嫌だ。 ーそばに来るな。 ーそばにいろ。 わがままな恋人のわがままな要求に24時間応えるために、仕事も何もかもほっぽり出した。 実家から持ってきた、几帳面な母が保存していた秀一の子供の頃の服を着て眠っている飛影を眺める。きみどり色の地に黄色いキリンの模様があるこの服はよく覚えていて、なんだか懐かしかった。 人間は変わった服を着るものだと思ったっけ、あの頃。 小さくなった分体力も減ってしまったのか、飛影はまるで人間の子供のようによく眠る。 隣に腰かけ、髪をそっと撫で、思わず笑みを浮かべた途端、ピンポーンというインターホンの音が鳴った。 ***
「悪かったって~」「悪かった?よくもまあ顔を出せたもんだね」 ぶすっとする蔵馬の前には、平謝りの幽助。 屋上からベランダ伝いにいらして非常階段からお帰り、という前回とは違い、ちゃんと玄関からのご訪問だ。 悪いと思っているのは確からしく、果物だのケーキだのパンだの山ほど土産を抱えてきた。 さすがに酒はない。 「まあまあ。蔵馬サマならちょちょいと戻せたでしょー?」 蔵馬は無言でリビングのソファを顎で指す。 「ん?……わっ!」 「しーっ。大きい声出さないでよ幽助。起きちゃうじゃない」 「な、なんで戻ってないんだ?もしかしておめーでも戻せないのか?」 幽助は慌てた様子で蔵馬に詰め寄る。 「静かに。目が覚めたら幽助、殺されるよ」 「こんなちっこいのに殺されるわけあるかよ。妖力もないし…ま、まさかこのまま戻らないとか?」 「…そうだね…手は尽くしたんだけどダメみたい」 「ええー!! マジでぇ!?」 「静かに。まあしょうがないよね…飛影はもう魔界では暮らせないし…オレが世話をして…ずっと二人で暮らしていくよ…」 蔵馬は暗い目をしてうつむき、呟くように言う。 「ちょ、ちょっ!マジで!? ほんとに!?」 「あ、でもきみがこれを手に入れてきてくれたら治るかも…」 先日躯に三ヶ月の休暇の交換条件で押し付けられた、彼女の欲しい物のリストを幽助に手渡す。 45層の少数民族の作る布だの、三つの月が揃う晩に嶷闇湖にしか咲かない花の実だの、猛毒の蟲がいる谷底に落っことした剣だの。 どう考えても半分嫌がらせとしか思えない。 「なんだこりゃ?ほんとにこれでどうにかなるのか?」 「治る可能性は少ないけどあるな…オレは飛影の側にいなきゃだから、きみに頼むよ」 「よ、よっしゃ、分かった!行ってくる!」 靴を履くのもそこそこに飛び出して行った背中を見送り、ドアを閉める。 閉まったドアに向かって、蔵馬はさっきと打って変わって明るい表情で、ベ~、と舌を出す。 「君にもこのぐらいの苦労はしてもらわないとね。頑張ってねー幽助」 ***
それから一ヶ月後。パンをかじり、オムレツをもぐもぐ食べている姿は愛らしいとも言えなくはないけど… 「何じろじろ見てやがる」 …この口調さえなければだが。 「…どうせなら言葉も赤ちゃんに戻るならまだかわいかったのに…」 「何か言ったか?」 「いえいえ何も」 蔵馬は笑ってコーヒーを飲む。 ご飯を作る。 風呂に入れる。 服を着せる。 一緒に昼寝をする。 腕の中に抱いて、外を歩く。 ただの家政婦兼ベビーシッターとなって一ヶ月と二週間、蔵馬はまんざらでもなくこの生活を楽しんでいた。 こんな姿では絶対に外には出たがらないだろうと思っていたのに、蔵馬が買い物に行くと言うと飛影はついて行くと言って聞かなかった。 ーいいけど…ただの買い物だよ?ご飯の材料とか ーオレが行っちゃまずいのか? ーまずくはないけど、抱っこして行くよ? ー自分で歩ける! ーあのねえ、人間界ではその大きさの子が歩いてちゃ困るの。すぐ戻るから留守番しててよ ー嫌だ。行く で、結局蔵馬は片手に飛影を抱っこし、片手に買い物袋という、なかなか困難な外出が続いている。 母親がコートから靴から全部とっておいたのは助かった。ベビーカーもあったが…小さな恋人には断固として拒否された。 ついて行くと毎回言い張るわりには、飛影は街中の店にも物にもたいした興味も示さず、腕の中で眠ってしまっていることもよくあった。 今も、オムレツを食べ終わり、さっき起きたばかりだというのにもう眠そうにあくびをしている。 「ちょっと寝たら?オレは片付け物をするから」 「…どこにも出かけるなよ?」 飛影は眠そうに言うと、リビングのソファにころんと丸くなる。 蔵馬は、はいはいと返事をし、毛布をかけてやる。 皿を洗い、洗濯物を干し、ベランダで育てている薬草に水をやる。 冬の昼の日差しは白っぽくぼんやりしていて、とろんと流れる時間に蔵馬もぼんやりとベランダ越しの景色を眺める。 …こんなに長くベッタリ一緒にいるのは初めてだ。 文字通り朝から晩まで、だ。 …まあセックスは抜きでもいいとしよう。 これはこれで、楽しい。 第一、黄色だの薄ピンクだの、パステルカラーの服を着ている彼を見ているだけでも新鮮だ。 最初はこんなもの着れるかと文句を言っていたが、いいよ、裸でもかわいいし、と蔵馬が言うと、それ以降文句を言わずに着ている。 …なんかこのままでもいいような気がしてきた。 目をつぶって冬の匂いを感じる。 なんだか、オレまで眠い。 日差しを感じるまぶたを蔵馬が閉じたその瞬間、まるで目覚ましのように携帯がポケットで震えた。 ***
「ほんとに寝てばっかりだねえ」夕食を終えて風呂にも入り、ソファに座る蔵馬に寄りかかっていた飛影は、いつの間にか蔵馬の膝の上に頭を落としている。 「退屈だからだ…」 「妖力が落ちてるからだよ」 「つまらん」 「本も嫌、テレビも嫌、外に行っても退屈。わがままだなあ」 返事は盛大なあくびで返された。 「もう、寝る」 「そう?じゃあベッドに行こうか。オレはちょっとここで本読んでるから」 「…お前も来い」 赤い瞳がじろっと睨む。 「…まだ七時なんですけど…」 苦笑しながらも蔵馬は結局一緒に来て、一緒に眠る。 毎晩のことだ。 このマンションに越した時に買ったダブルベッドは飛影と二人で寝るには…もしくはそれ以外の事をするにも…十分な大きさだったが、一人がプチサイズとなった今はやけに広々していた。 「元々ミニサイズだったんだけどね…」 つぶやきながら腕の中の、クリーム色のパジャマを着て眠る恋人を見下ろす。 小さく温かな生き物は、蔵馬の腕の中で胸元にくっついて、すうすう眠っている。 チラッとベッドサイドの時計を見る。電光表示は九時を指していた。起こさないよう、細心の注意を払ってそっとベッドを抜け出す。 「ごめんね。すぐ戻るから」 小さくつぶやくと、蔵馬は静かに家を出た。 ***
「蔵馬さん」いつ聞いても彼女の声は、氷の上を煌めいて流れる水を思わせる。 「人間界スタイルなんだね、雪菜ちゃん」 公園のベンチに座る雪菜のふわふわしたコートを指し、蔵馬は笑った。 「今は冬ですもの。こういう格好でないと変に思われるんでしょう?蔵馬さんこそ暖かそうな格好」 「まあね。オレは雪菜ちゃんほど寒さに強くないし」 人間界の冬の寒さなど少しも感じていないだろう雪菜は、それでも一応コートを着てきたらしい。 待ち合わせをしていた恋人同士のように並んでベンチに腰掛ける。真冬の夜の公園は、寒すぎてまるっきり人気がない。 「はい。頼まれてたもの」 蔵馬は小さな袋を手渡す。 「ありがとうございます。どうも蔵馬さんのようには上手く育てられなくて」 彼女は嬉しそうに言うと、袋から乾いた葉っぱを取り出し細く丸めた。薄く形のいい唇に銜えたそれに、蔵馬がライターで火を付けた。 「…おいしい」 「ごめん。煙管も持ってくれば良かったね」 「いえ。このままで十分おいしい」 氷河の国では煙管に詰めて吸うのがポピュラーなこの葉は、人間だったら卒倒するような成分だ。 冷たい夜の外気に蒼い煙がたなびく。 「兄は元気ですか?」 細くきれいな指に甘く香る煙草をはさみ、雪菜は小首を傾げた。 「うーん。まあ、ねえ…」 「どうかしたんですか?」 蔵馬はここ最近の騒動について、苦笑しながら語った。 「…兄さんったら、困ったものね。連れてきてくだされば良かったのに、蔵馬さん」 見たかったな、と雪菜はおかしそうに言うと、深々と煙を吸い込んだ。 「…でもまあちょっと楽しんでるよ、オレも」 「性交抜きでも?」 「愛してますから、ね」 「惚気かしら?」 「まあね。外には出たがらないと思ったのに買い物でもなんでもついて来たがるんだ。変だよね、人間界の店に興味があるとも思えないし。今日も寝ている所を抜け出して来たんだ」 「…疑われてるんでしょう」 え?と蔵馬は驚く。 「あなたが出かけている間に浮気をしてるんじゃないかって、兄は疑ってるんですよ」 「ええ?まさかあ…」 「ほんと」 「オレってそんなに信用ないんですかねえ?」 「…あなたを信じていないというより、自分に自信がないんでしょうね、兄は」 雪菜はいたずらっぽく笑うと、冷たい息を吹きかけ煙草を消した。 「さて、と。静流さんたちが心配するから戻らなきゃ」 じゃ、これありがとうございますね、と残りの葉が入った袋を掲げ、雪菜は行こうとする。 「あ、そうだ。待って、忘れてた」 蔵馬はかばんの奥から何やらごそごそ探し出す。 「これ、飛影から。だいぶ前に預かってたんだった。ここんとこのゴタゴタですっかり忘れてた」 先ほどの袋より一回り大きな袋には、乾燥させた青い実がぎっしり入っていた。 「ああ。碧浚の実。好きです。兄が私に?」 「うん。氷河の国にしかないんでしょ?オレからって言って渡せって言われたんだけどね。本当は飛影からなんだ」 「兄さんたら何を照れているのかしら?こんな物渡したからって兄だってバレるわけでもないでしょうに」 もうバレてるけど、そう言いながら、雪菜はポイと実を口に放り込む。 しばらくもごついた後、蔵馬の手を掴み、口元に引き寄せる。 「何、どうしたの…」 ペッ、と果肉の割には大きい種を蔵馬の手の平に吐き出す。 「…あげます」 青い果肉に似合わぬ真っ赤な種。 「これ、あの薬草と同じ成分があるんです」 「え…ほんと!?」 雪菜の言っている薬草とはもちろん飛影がカップごと叩きつけたあの中身だ。 「知らなかったな…オレでも知らない植物があるなんて」 「この実は氷河の国にしかないですから。素晴らしく美味しいってわけでもないのであまり下界に出回らないようですね」 でも、久しぶりで懐かしい、と雪菜は目を細めて二個目を口に入れた。 「…ありがと雪菜ちゃん。でもオレ約束したから三ヶ月は使わないよ」 「律義ですね。まあお好きに」 ごちそうさま、と笑うと、彼女は姿を消した。 ***
ーあなたを信じていないというより、自分に自信がないんでしょうね、兄は |