ミルクティー...2

もみじがり。
聞きなれない言葉を頭の中で変換するのに、飛影はしばし時間がかかった。

「…もみじ…?紅葉?」
「そう。山道ってほどじゃなくて、ちゃんとしたハイキングコースなんだけど…」

紅葉の山を散策しよう、という蔵馬の提案。
生物部といい、年寄りみたいなやつだな、と飛影は目をぱちくりさせる。
とはいえ、どこでもいいと言っておいて文句を言うのもおかしな話だし、人混みよりも野山の方がはるかにいい、と飛影は考え直す。

休日の街中ではなく郊外へ向かう電車は比較的空いていて、快適だ。
車内を見渡した飛影は、ふと蔵馬の大きなカバンに違和感を感じ、目を留める。

「…なんでお前はそんなに荷物が多いんだ?」

飛影の持っている小さなトートバッグの中身は財布と携帯、小さなポーチとハンカチくらいだ。
男などというものは財布と携帯をポケットに突っ込んで、カバンなんて持たないものじゃないだろうか?実際、車内にいる男の乗客たちも、大半はカバンを持っていない。

「お弁当持ってきたから」
「弁当?」

うん、と笑って蔵馬はカバンのファスナーを開ける。
中には保温できる水筒が2本入っており、三段重ねのタッパーが覗いている。
ふわんとしたいい匂いは、海苔を巻いたおにぎりの匂いだ。何やら紙袋も見える。

「…悪かったな」
「え?」
「お前の母親は、休みの日だってのに朝から弁当作らされたんだろう?」
「ううん。俺が作ったんだ」
「お前が!?」

すっとんきょうな声に乗客の二、三人が振り向いた。
飛影は慌てて声を落とす。

「…お前が弁当作ったのか?」
「うん。お昼、楽しみにしててね」
「……」

飛影は首を傾げる。

中学生男子の作る弁当?
味ははなはだあやしいものだ。
もっとも家庭科の授業だって、女子よりはるかに料理の上手い男子も多い昨今ではあるので、一概には言えないが。
***
「これはクヌギ。これはコナラ」

蔵馬はドングリを次々拾い、飛影の手の平に乗せていく。
丸くツヤツヤしたドングリに触れるのは幼い頃以来で、飛影は物珍しくそれを眺めた。

紅葉する木々に覆われた散策道は確かにベストシーズンではあるが、辺りにいるのは老夫婦や、それに小さな子供を連れた家族連れだとかばかりだ。子供にとってはたいして面白い場所でもないのだろう。帰る〜、などとごねている声も聞こえる。

「黄色く紅葉してるのが、イチョウでしょ、後はクリにクロモジ…赤いのが…」

山道は大人が四、五人は並んで通れるような立派な造りだが、時折枝分かれのように、細い小道が出現する。
蔵馬は道を知っているのか、人のいない、細い小道ばかりを選んで進んで行く。

「赤いのが、ナナカマドと……」

はた、と蔵馬は足を止める。

「ごめん。そんなの興味ないよね」
「別に…」

別に構わない、という意味だったが、別に興味はない、という意味にも取れる言葉だったと、飛影は慌てる。

「構わん」
「ううん、ごめん。俺ばっかりしゃべって。退屈?」
「別に」

つい、口癖の、別に、という返事をしてしまう飛影だったが、まんざらでもなかった。
天気はいいが、風は冷たい。それでも歩いていればちょうどいい気温だった。細い小道はちょっと歩きにくいせいか人気がなく、それもまた飛影には好ましかった。
見事に色付いた風景も綺麗だし、足下に重なった落ち葉の、さくさくとした感触も新鮮だ。トートバッグやポケットの中で、互いにぶつかって音を立てるドングリも、ちょっと楽しい。

「…別に、俺は退屈じゃない。お前は退屈なのか?」

お前、ここに来たかったんじゃないのか?
大きな赤い瞳をくるんと丸くし、不思議そうに飛影は聞く。

「まさか!俺はすごく楽しいよ」

柄にもなく赤くなった蔵馬は、慌てて小道にかかる枝を避ける。

この下にお弁当食べるのにちょうどいい場所があるんだ。
生物部の野外学習で見つけたんだけどさ。

いつになく早口で喋る蔵馬もまた、実は飛影と同じくらい緊張していたのだ。
***
いろんなことを、スマートに、そつなくこなしてきたつもりだった。
それは、家でも、学校でも。
女の子、というのは未知なる領域だったけど、同じようなものだろうと高をくくっていたのに。

飛影に出会った日、その自信は脆くも崩れてしまった。
…俺も人並みに純情らしい、と蔵馬は心の中で呟く。

なぜって、初めての彼女と、初めてのデートで、こんなに緊張するとは自分でも意外だったからだ。
朝の五時から起きて弁当を作り、30分も早く着いた待ち合わせの駅で、飛影は来てくれないんじゃないかと、そんなことを考えどきどきした。
それに、もっと気の利いたことを、しゃべれると思っていた。紅葉の種類なんかじゃなくて。
…そもそも紅葉狩りを初デートに選んだことが気が利いてないとか、まあそういう意見もあるかもしれないが。

レジャーシートの上に座り、拾ったドングリを種類別に並べ替えている飛影の横顔に弁当を並べていた手を止め、蔵馬は見蕩れる。
なんてかわいいのだろう、と、蔵馬はほうっと小さく溜め息をつく。

白い横顔。
その顔は、笑顔というわけではもちろんないが、いつもよりはやわらかく見えるのは蔵馬の気のせいだろうか?

きめ細かな白い肌に、大きな赤い瞳。小さな鼻。
ピンク色の唇は薄いが、下唇の真ん中だけが少しふっくらしている。

ほっそりした手足、小さなお尻。
黒いニットに包まれた、小さめだがやわらかな曲線を描く胸。

いつもにこにこしている女の子も、中学生とは思えないほどグラマラスな女の子も、学校にはたくさんいる。
制服姿で、かわいらしい私服で、女の子たちはいつだって、蔵馬に笑いかけてくれてきた。

なのに、この愛想のない、小さくて痩せた女の子に、惚れたのだ。
この子にだけ、エロい妄想を掻き立てられるのは、なぜだろう?
着ている物だって、およそおしゃれをしてきたという感じではない、ごく普通の普段着だ。
形のいい唇にキスをすることを想像し、やわらかな曲線を自分の手の平で包むことを想像し、蔵馬は思わず息を飲む。

大きな赤い瞳を閉じた彼女は、どんな風に見えるだろう?
パンツやブラは、何色だろう、なーんて。
………彼女の裸は、きっと白くて綺麗だろうな。

「…すごいな」
「…え?え、何?」

考えただけだよね?俺、しゃべってないよね?と焦った蔵馬だったが、飛影の視線は弁当箱に注がれている。

「本当にお前が作ったのか?」
「うん。わりと上手でしょ?」

たまご焼きに、タコウインナー、イカリングにエビフライ、アスパラガスのベーコン巻き、根菜の煮物。
サラダの入ったタッパーには、たっぷりのオレンジとりんごも添えられている。俵型になったおにぎりは、海苔の巻かれたものやわかめごはんなど、彩りよく詰められていた。

いつもの弁当に似ている、と飛影はふと気付く。

「もしかして…学校に持ってくる弁当も、お前が作ってるのか?」
「学校?ああ、そうなんだよ」

俺の母親、ちょっと前まで病気で入院しててさ。三年間くらいだったかな。
父親は早くに死んじゃったもんだから、ずっと二人暮らしだったんだ。
あ、今はもう良くなって普通に生活してるんだけどね。再婚もしたし。
でもその三年間で、家事のほとんどはこなせるようになったよ。

「なんか、リクエストあったら作るから言ってね」

水筒から注いだ熱いほうじ茶を差し出しながら、蔵馬は笑う。
整いすぎた顔というのは、えてしてちょっと意地悪く見えるものだが、蔵馬の笑顔はとても優しい。

エビフライやら煮物やらをもごもごしながら、飛影は蔵馬のお喋りに耳を傾ける。
自分が喋るのは苦手だが、蔵馬の言葉を聞くのは構わなかった。

相手に会話を強制しない、蔵馬の落ち着いた心地よい声を聞きながら、まあまあ美味しい手作りの弁当を食べる。
時折ひらりと落ちてくる赤や黄色の落ち葉を拾ったりしながら、流れる時間。

熱いほうじ茶で、腹のあたりが気持ちよく暖かい。
飛影の感じていた、緊張感や気まずさは、いつの間にか消えていた。

多すぎるようにも思えた昼食を、二人はきれいに食べ終わる。

「…美味かった」

飛影なりの精一杯の言葉に、蔵馬は嬉しそうに微笑んだ。
もう一つの水筒に淹れたお茶は熱い紅茶で、甘いミルクティーだ。

「…まめだな、お前」

コーヒーよりも紅茶が、ミルクも砂糖もたくさん入れた紅茶が好きだと一度言ったが、それを憶えているとは。
紙袋から出されたクッキーが添えられる。

「まさか焼いたんじゃないだろうな?」
「これは買ったの。クッキー好きなら、今度挑戦するよ」

ミルクティーの他には、何が好き?
飛影の好きな物、なんでも教えてよ。

「好きな物、教えて。嫌いな物もね」

碧の瞳にじっと見つめられ、白い頬が熱くなる。
返事に困っている飛影を見て、蔵馬はまた笑う。

「飛影って、本当に無口だね」

前の学校の話も、家族の話も、まだ何も聞いてないや。
今知ってるのは、紅茶が好きってことだけ。
双子の妹がいてすっごく仲良しなのは、もちろん知ってるけど。

「でも…いいよ。気長に知っていくから」

時間はたっぷりあるから。

まるでこの先ずっと一緒にいることが決まっているかのような言葉に、飛影は面食らう。

けれど、嫌ではない。
むしろ…

そんな気が、した。
飛影の方でも、そんな気がしたのだ。

でもそれを伝えられない。
何と言えばいいのだろう?

「飛影」

なんだ?と飛影は目だけで返す。

「無理しなくていいよ」

俺が君の分もしゃべるし、笑うから。
君はしゃべりたい時だけしゃべって、笑いたい時だけ笑って。
君の好きな物も、嫌いな物も、俺はちゃんと見つけるから、大丈夫。

「……!」

本格的に、飛影は赤くなる。

「………お前……恥ずかしいやつだな…」
「…これでも緊張してるんですけど」
「緊張?」
「緊張するよー。だって」

だって、女の子と二人きりで出かけたことなんかないし、しかも好きな子と出かけてるなんてさ。
照れくさそうに言ったその言葉が意外で、飛影はキョトンと蔵馬を眺める。

「…そうなのか?お前、モテるんだろ?」
「どうでしょう?そうだったら妬いてくれる?」

ふざけた口調で返し、蔵馬は水筒の蓋を閉める。

「さてと。もうちょっと歩こうか」

まだお菓子も紅茶もあるし。次の休憩でまた飲もう。
てきぱきとレジャーシートや弁当箱を片付け、蔵馬は立ち上る。
右肩にバッグをかけ、空いた左手を飛影に差し出す。

反射的に、飛影はその手を取った。
大きくて、しなやかで、温かい手に、小さな手が包まれる。

赤や黄色に染まる道を、二人は歩き始めた。

足下の落ち葉に気を取られているふりをして、飛影は俯きながら歩く。

…顔だけで選んだわけじゃないぞと、雪菜に報告しよう。
ドングリを土産に、報告しよう。

自分の帰りを、デートの報告を、きっと今か今かと家で待っているであろう妹を思って、飛影は思わず笑う。
蔵馬の手の温かさに、背の低い自分を気遣ってゆっくり小幅に歩く姿に、思わず笑う。

零れた笑み。
小さいが、確かな笑み。

その瞬間、繋いだ手はぎゅっと握られた。


...End.