この手で...4
たいした数ではないとはいえ、明日からは客が戻ってくるからね。
明日の仕込みをしてから行くから、オレの部屋で待ってて。
言われるまま、ついさっき入った風呂と鍋物だった夕食のせいであたたまった体で、冷たい布団に横になり、飛影は考える。
時々触れたりするくらいはできるだろうが、こういうことができるのは、今夜が最後なのかもしれない。
痺れる右腕を無意識にさすり、飛影は目を閉じる。
あたたかかった昼間とはうって変わって、部屋の中は肌寒かったが、ストーブをつけに起き上がるのも億劫だった。
「寒くないのか?」
戸が開き、風呂に入ってきたのか、めずらしく湯のにおいをさせた蔵馬が入ってくる。
泊まり客の着る、浴衣にも似た服を着て。
「寒いが、面倒だった」
蔵馬は笑うと、ストーブをつけ電気を消すと、布団に横たわる飛影に覆いかぶさると、服を脱がせ始めた。
何度したところで、飛影にとってこの時間は、気まずく恥ずかしい。
いっそ繋がって突き上げられている時は、何もかもわからなくなって恥ずかしさすらも遠くにあるのだが、こうして裸にされるのは、短い時間であってもいたたまれない。チビで貧相で、薄くなったとはいえ、傷痕があちこちに残る体だ。
「白くて、綺麗」
「言われたことがないぞ、そんなこと」
唇に、首筋に吸い付かれながら、飛影はゆっくり息を吐く。
これが最後なのだから、全部余さずに味わいたい、と。
ちょうどと、半に鳴る柱時計。
服を脱がされる時に聞こえた音が、硬くなったものを蔵馬の舌がぬるりと這うのに耐えられず、背を反らした瞬間、また鳴った。
「ーーーーーっ!あ…くら、ま……あ」
「飛影…」
飛影、と名を呼ばれるだけで、体中が痺れるようだった。
長い指先が入り口を探るのに応え、飛影は足を広げる。薄い尻の肉が開き、くちゅ、と濡れた音を立て、穴が指を吸い込むように動いた。
「う、あ…ああ、っあ…」
体内に、他人の指がある。
中を探り、気持ち良くなる場所を探して、時折強く押す。
「もっ……と、奥…ひっ、あ…」
このままずっと、この指で掻き回され続けたい気持ちと、こんなものは早く抜いて、もっと太くて硬いものを入れて欲しいという気持ちを飛影は行き来する。
汗もかかず、自分の指先ひとつで飛影を押し上げ、引きずり下ろし、蔵馬は笑みを浮かべてくねる体を眺めている。
最後にきゅっと中を押し、指を勢いよく抜いた。
「……っ!うあ!あ、ぁ、あう!」
「飛影、どうしたい?」
仰向けになって両足を折りたたまれて、横たわって片足だけを持ち上げられて、あぐらをかいた足の上に抱き上げられて後ろから。
さまざまな形の快楽を思い出し、飛影は口を開ける。
「む、かい合う……やつ」
「いいよ」
脇の下に手を入れられ、ひょいと抱き上げられる。
あぐらをかいた蔵馬の足の上に乗せられ、見上げる形で、飛影は蔵馬を見つめる。
これが最後なら、向かい合ってしたい。
ちゃんとこの目に焼き付けて、終わりにしたい。
飛影は腰を浮かせると、太くて硬いそれを濡れた穴に導く。
左手だけで穴を広げると、一気に腰を落とした。
「アア、ーーーーーっ!あ、っつう!っアアア!アアアアっ…く」
「そんなに一気に入れたら痛いのに」
「ア、アア、い、あ、…痛い、が……」
痛いけど気持ちいい。
体の中に蔵馬がいると思うだけで、熱い。溶ける。とろとろにとろける。
「ア!ア!ア!っ、くら、ア!アアア」
左腕だけで広い肩につかまり、両足を腰に巻き付ける。
片腕が使えないというのに、必死でしがみつき、腰を振っては声を上げる。
みっともないことだ。けれど情けなさを感じている余裕などない。体の中がこの形になってしまうくらい、刻み付けなければ。
柱時計が、また鳴った。
乳首をつままれ、耳を甘噛みされ、何度も何度も何度も突き上げられる。
蔵馬の下腹部に擦られ、もう何度出したかもわからないし、何度、中に出されたのかもわからない。
「くら!ま!っア!ア!ア!ーーーーーああ!うあ!?」
「…あげるよ、飛影」
絶頂の最中、ふいに、蔵馬が飛影の肩口に唇を寄せる。
でこぼこした醜い傷跡に尖った歯が立てられ、力いっぱい噛まれた。
「アアアア!くら、ま!う、あ、アアア!ーーーーー!」
瞬時に立ち込める、血の匂い。
錆びた匂いの液体が、肩から肘へと伝い、指先を染めた。
痺れなんてものではない。それはまさに電撃だった。
無理やり押し上げられた高みに、飛影はのけ反り、叫び、ぐるりと回る視界に目を閉じた。
***
陽射しで、布団の中で、裸で。
昨日までと一緒なのに、自分を抱きしめていたぬくもりは今朝はない。
今朝といっても、いったい今が何時なのかもわからない。この部屋には時計がないし、携帯電話の充電はいつしたのが最後かも思い出せない。そもそもどこにしまったのだろうか。
「…くら」
声が枯れていることに、飛影は気付く。
ということは、昨夜のあの、濃く長い時間は夢ではないようだ。
起き上がって見下ろせば、夢であるわけもない。
体中、乾いた液体が独特のにおいを放っていたし、尻のまわりは中からあふれた液体でべとべとだ。布団に飛び散るいくつかの赤茶けた染みは、紛れもなく血だ。
血?
なぜここに、血が?
「まあいい」
取りあえずは、風呂だ。もう他の客もいる時間なのだろうか?
のろのろと、畳に落ちていた蔵馬の浴衣を羽織る。いくら自分専用の風呂があったって、客が廊下をうろうろしていてはこんな格好では歩けない。
そろそろと廊下を進み、いつもの風呂場の鍵を開ける。
カゴに浴衣を投げ、とろりとした湯に浸かる。
日の光の中で、昨夜の残滓を洗い流す。
あちこちに残る紫の跡に、このまま消えないといいのにと、指を這わせながら。
木の椅子の上に投げておいたタオルを取ろうと、飛影は湯に浸かったまま手を伸ばす。
伸ばした手がどさりと床に落ち、椅子に立て掛けてあった手桶をはね飛ばす。
「何をして」
何をしてるんだか、とぼやきかけ、飛影ははっと息を飲む。
伸ばしたのは、どさりと落ちたのは、右腕だ。
「……な」
恐る恐る、首を回して右肩を見る。
そうだ、血、血のついた布団。
あれは昨夜、肩に噛みつかれて流した血だ。なのに。
肩口にあるはずの傷跡が、見当たらない。
…あるはずの、昨夜の噛み傷も。
ゆっくりと、右腕を持ち上げる。
顔の高さまでなんとか上げ、空中の鍵盤を弾くように、そろりと指を動かす。
「うご…く…」
ぎこちない。痺れる。ひどく重い。攣りそうだ。
けれど間違いなく、動いている。
客がいるかもしれないなどとついさっき考えたことも忘れ、バスタオルを羽織っただけの姿で、飛影は廊下に飛び出す。
広間を覗き、台所へと走る。
「わかってるよ。え?今日?急だね」
片手に菜箸を持ったまま、蔵馬は黒い受話器に、その向こうの相手に、やれやれとでも言いたげに眉を上げる。
手を伸ばしコンロの火を弱めると、電話に戻る。
「別に構わないよ。じゃあバス停で?場所わかるんだ?いいよ、昼過ぎに」
あっさりと電話を切り、コンロに戻る。
飛影に気付いているのに、声をかけるでもない。
「…蔵馬!」
「ああ、飛影。おはよう。なんて格好してるんだ。もうじき他の客が来るぞ」
「蔵馬、オレは」
「迎えが来るよ、今日」
「今日?迎え?」
軀、と短く答え、蔵馬は菜箸で電話機を指す。
「昼過ぎには着くらしいよ」
「軀が?ここに?」
「バス停に。あの人はここには来れないから」
来れないとはどういう意味だ、と問うべきところなのだろうが、飛影の耳には入らない。
今日帰るということ、軀が迎えにくるということ、その二つが頭の中にわんわんと響いている。
「もう十時だよ。ご飯食べて。ほら急いで」
追い立てるような仕草に、飛影は何も返せない。
どうやら今日の客が着いたらしい、車の音を合図に、廊下へと走った。
***
ことごとく、打ち砕かれる。
いったいいつまとめたのか、荷物の準備はできているよと部屋の隅を指され、バス停までの道のりだけでも話せるのだろうかとそわそわすれば、通いで来ているらしい爺さんに蔵馬は明るく声をかけ、この子、バス停まで送ってくれる?などと言い出す始末だ。
そこまで嫌われるようなことをしただろうか。
みっともなく、一晩中しがみついて腰を振っていたから?馬鹿みたいな声を出したから?
違う、多分そんなことじゃない。ただ単純に、終えたからなのだろう。
病が治って退院していく患者に医者が興味など持たないように、とっとと家に帰れということなのだ。
「飛影、これお弁当に。おにぎりと卵焼きと、あとたいした物じゃないけど」
通いで来ている爺さんの車も軽トラックで、もう道路に出てエンジンをかけている。
爺さんには悪いが、今すぐあの軽トラックが故障して走らなくなったらいいのに。そんなことを考えながら、飛影は鞄の上に受け取った包みを乗せる。
「飛影、行かないと。待たせてるんだから」
「わかっている」
「そう、じゃあね」
玄関へ戻ろうとする蔵馬の長い髪が、洗いざらしのシャツの背にかかる。
ゆっくりと飛影は蔵馬に近付いた。
「蔵馬」
振り向いた蔵馬に、飛影は真正面から向かい合う。
ここに着た時と同じ、Tシャツにパーカー。
パーカーに包まれた右腕をゆっくりと持ち上げ、飛影は蔵馬の頬に震える右手で触れる。
手のひら、指先。
肌の感触、その温度。
「飛影…?」
「この腕が、治ったら。一番最初に」
一番最初に、お前に触りたかった。
最初にお前を、感じたかった。
はっきりと意志を持ったその声。その言葉。
ひどく驚いた顔で、蔵馬は飛影を見返す。
「…それだけだ。じゃあな」
左手で鞄を持ち、右手で包みを持ち。飛影は軽トラックに向かって駆け出す。
右手の小さな包みは頼りなく揺れながらも、落ちることはなかった。
***
バス停から見渡す山道は、ちらほらと緑が芽吹き、この山にも確実に春が近付いている。
どえらい車だな、と目を丸くする爺さんに礼を言うと、どえらい車と評された軀の車に二人は乗り込み、山道を下る。
普段こんな道を運転しているとは思えないのに、軀の運転には危なげなところはまるでない。
「どうしたんだ?なぜ、急に?」
「一回きりであれから電話もないから、雪菜が心配してな」
そうか、悪かったな。
素直にそう言うと、飛影は窓の外を眺める。
膝の上に置いた包みからは、いい匂いがした。
「…嘘だ」
「嘘?」
「お前が、取り憑かれたんじゃないかと思って、心配になった」
「取り憑かれる?」
一体いつ知り合ったのか、どういう知り合いなのか、そもそもあいつはなんなのか。
軀に会ったら聞きたいことは山ほどあったはずなのに、全て終わった今では、何もかもがどうでもよく飛影には思える。
「それ、弁当だろ?食ったらどうだ」
「お前も食うか?」
「いらん」
即答で返し、軀はちらりと包みを見る。一人分しかない弁当は、軀が断ることをまるでわかっていたかのようだ。
いくら運転が上手くとも、よそ見していられるほどのん気な道ではない。軀はすぐに視線を前へと戻し、ハンドルを握った。
「軀」
「なんだ?」
振り向いた軀は、小さな手とそこに乗るおにぎりを認め、次の瞬間、それが右手であることに気付き、うわ!とらしくもない大声を上げる。
「飛影!…っばっかやろ、事故るだろうが!」
道から飛び出しかけた前輪を慌てて戻し、軀はブレーキを踏む。
こんな場所で止まっては対向車が通れないが、そもそも対向車など半日に一回いるかどうかだろう。
「お前…その手…!」
「いい湯が湧いてるって言ったのは、お前だろう?」
驚いた顔など、軀は滅多に見せることはない。
新種の生き物でも見るように、まじまじと飛影の右手を見つめる。
「ずっとはまだ無理だがな」
らしくもなく、飛影はぎこちなく笑う。それは雪菜の作り笑いに、驚くほど似ている。
痺れが強くなり、落としそうになっていたおにぎりを左手に持ち替え、大きく頬張った。
「お前、あいつに触ったな?」
無言のまま、飛影は咀嚼する。
「…別に責めてないぞ。オレがそう言って送り出したんだし。…その」
「触った。腕とか背中とか、理由を作って触るのは大変だったんだぞ」
あっさりと答え、飛影はまた笑みを浮かべる。
相手が作り笑いに気付いていることにも気付かずに、飛影は口の中に残った種を転がす。
今どきない、やけに酸っぱい梅干しの種を。
***
歓声と、笑顔と、涙と。
息が出来なくなるほど雪菜に抱きしめられ、飛影はようやく作り笑いではない笑みを浮かべる。
どうして、なんで、すごい、ほんとに?そればかりを繰り返す妹に兄は笑い、両手で抱き返した。
ハンバーグとシチューとオムライスとエビフライとフライドポテトいう、雪菜が作れる限りのご馳走が食卓にに並び、軀はピンク色のシャンパンを開けた。
「どうして?なんで?すごい!ほんとに?」
右手でシャンパンのグラスを受け取った飛影に、もう何度目になるかわからない、雪菜の言葉がかけられる。
食べきれるはずもない量の料理が取り分けられ、目の前の皿に飛影はフォークを突き立てた。
しばらくぶりの、こってりとした洋風の料理はどれも好物のはずなのに、飛影は上手く飲み込めない。
老人向けのような食事に慣れてしまったのか、それとも。
それとも、破れた初恋に、人並みに傷付いているのか。
そう考えついた途端、喉をきゅっと絞められるような気がした。
大きく切りすぎたハンバーグを飛影はなんとか飲み込み、きっと高価なのであろうシャンパンで流し込む。
学校、病院、この先、もろもろを話す二人の声がなんだか遠いのは、酒のせいだろうか。
しゃんとしろ。こんなことで嘆くのも、しくしく泣くのも、いじけた真似をするのも、性には合わない。
腕が治って、雪菜が笑っている。それ以上に何を望んでいる?
テレビをつける習慣のないこの家に、そのチャイムは場違いに大きく聞こえた。
ピンポーン。
軽やかなのに大きく、鋭い。
軀と雪菜が、顔を見合わせる。
この家に来訪者というものはおよそいないし、二人が顔を見合わせるということは、何か届くような予定もないということだ。
「…っ!」
つま先から頭のてっぺんまで、長い指先でさあっと撫でられたような気がした。
自分でもなぜなのかわからずに、飛影は跳ねるように椅子から立ち上がる。
そう広くもない家を走り、相手の確認もせずに玄関の鍵を外す。
「こんばんは」
「くら…!」
あやうく玄関で、尻餅をつくところだった。
宿にいた時と全く変わらず、蔵馬はシャツとジーンズで、見たところ鞄ひとつ持っていない。
「くらま…?…え?……蔵馬?」
「いい匂い。夕食?」
飛影の肩に腕を回し、勝手知ったる我が家のように、蔵馬は家に上がり込む。
追って慌てて飛び出してきた女二人は、一人はぎゃっと短く叫び、一人は兄を治した温泉宿の主だと知ると歓声を上げた。
歓迎どころの騒ぎではない。雪菜は跪かんばかりに礼を言い、ぽかんとしている飛影には気付かず、当然のように夕餉のこの場に席を作る。
いつだってやるべきことはわかっている、というのが軀だったのに、飛影を見て、雪菜を見て、蔵馬を見て、天を仰ぐと席に戻った。
「へえ。話には聞いていたけど、里の食事って今はこういう感じなんだね」
山のように盛られた料理に箸をつけ、シャンパンを飲み、どれも美味しいね、と蔵馬は頷く。
今生の別れ、とまで思っていた相手が何食わぬ顔でエビフライを食べている状況に、飛影はまだぽかんとしたまま、自分はすっかり食べる手を止めている。
「…おい、蔵馬」
名を口にすると何か祟りでもあるかのように、絞り出すような低い声で軀が呼ぶ。
手にはいつの間にか、シャンパンではなくウォッカがある。
「その…、飛影のことは礼を言う。でもな」
牛乳を飲むような大きなコップに注いだウォッカを、軀は一気に干す。
顔色ひとつ変わらないのは、相変わらず見事だ。
「何しに来たんだ?お前」
思わず飛影も、蔵馬を見る。
本当にそうだ。それを聞きたい。まさに「何しに来たんだ?お前」だ。
なんてこと言うの、失礼じゃない、何日でもいてください、部屋もありますしお布団もあります。
雪菜が続けた言葉にも、軀の視線にも、蔵馬は揺らぐそぶりもなく、シャンパングラスを明かりに翳す。
「うーん。そうなんだよね。オレもそんなつもりじゃなかったんだけどな」
「じゃあ、どんなつもりだ」
「預かりものなのは、わかっていたし」
「そうだ。預けただけだ。返してもらった。なんでお前がここに来る」
「だって」
グラスを置き、蔵馬は左手を伸ばす。
斜め前に座る飛影の右手を取り、ぽかんとしたままの飛影に笑いかける。
お客に見せる笑みではない、解けた笑みで。
それは飛影にとって初めて見る、蔵馬の本物の笑みだ。
「蔵馬…?」
「飛影から、愛の告白を受けちゃったから」
「くら……。は?」
「しかも二回も」
「は?」
手を握られたまま、飛影は固まる。
右側には蔵馬が、左側には雪菜が、向かいには軀が座るこの状況で。
「愛?二回?お前、何言って…」
蔵馬の左手が飛影の右手を持ち上げ、手のひらに唇が押し当てられる。
軀と雪菜が息を飲む音が、いやにはっきり飛影の耳には聞こえた。
「この腕が治ったら一番最初にお前に触りたかった。最初にお前を感じたかった。そう言っただろ?そんなこと言われちゃうと、オレとしても」
「な!おい!お前…っ」
「だいたいさ、誰かに虹を見せたいと思ったらもう、そういうことだろう?預かりものだとしてもまあ、もらいに行こうかなってなるわけで」
「な、馬鹿、虹?おい!どういう脳の回路で、あれを愛の告白…!」
「違うんだ?」
じっと見つめられ、右手をつかまれたままで。
どうして二人きりの時に、宿を出る前に言ってくれなかったのかと、飛影は恨めしく蔵馬を睨む。
目をまんまるくした雪菜が、二人を交互に見ている。
この場で、そうだ愛しているなんて言えるわけがないし、違う帰れこのキチガイなんて、もっと言えるわけがない。
言えるわけがない。
なにせ愛しているから、言えないのだ。
この部屋にテレビがないことを、飛影は心の中で嘆く。
ここに馬鹿げたバラエティ番組のような雑音でもあれば、少しは救われたのに。
「…取りあえずやめろ、飯が冷める。せっかく雪菜が作ってくれたんだ」
疲れ果てたような軀の声に、飛影ははっと我に返る。
慌てて引いた右手はびくともせず、おい、と声を荒げる。
「離せ」
「いいじゃない。左手でも食べれるだろう?」
蔵馬は腕を下げ、それでもテーブルの下で手を繋いだままでいる。
料理、上手だね、などと、しれっと雪菜に笑いかけながら。
***
自分の家の匂いも、自分の部屋の匂いも、しばらく離れるとどういうわけか、見知らぬよその家のにおいのように感じられるものだ。
今夜はそれをしみじみ味わいながら、ひとり眠れぬ夜を過ごすはずだったのに。
年月を経た木の匂い、磨き込まれた飴色の床や柱、景色が波打って見える薄いガラス。そういう場所でひどく美しく浮世離れして見えた男は、ベージュの壁紙と、飴色にはほど遠い板張りの床、紺色のカーテン、雪菜とお揃いで買った何の変哲もないベッドという背景でも、飛影の胸を高鳴らせるほど、美しいままだ。
これなら着れるだろ?そう言って軀が投げるように渡してきたのは男物の浴衣で、双子にとってはまたひとつ、軀の謎が深まった。
「お前な…部屋を用意したのになんでここにいる?」
隣は雪菜の部屋だ。
風呂上がりに、雪菜の用意した黄色いパジャマを着た飛影は、聞こえないよう小さな声でなじり、しかめっ面をする。
「わざわざ部屋なんて。ここで充分」
「ちゃんと布団もあるぞ」
「お前を追いかけてきたのに、別の布団?」
いたずらっぽく微笑む蔵馬に、飛影は頬を赤くする。
ベッドの中で蔵馬は壁側に寄ると、空いたスペースをぽんぽんとたたく。ここへ入れと言うように。
別にこの部屋で何かするつもりもないが、隣の部屋で雪菜が寝ているのに?階下の部屋では軀がまだ起きているかもしれないのに?
もろもろを差し引いても、もう二度と会えないと思っていた想い人が目の前にいて、どうやら自分を憎からず思っているということが判明した今となっては、飛影としては抗えない。
電気を消し、シングルベッドの狭苦しい片側に横たわり、大人しく毛布で包まれるままにしている。
「この服も、かわいいね」
「ここではしないぞ。その……ああいうことは」
スナップボタンをいくつかパチンと外し、蔵馬は肩口の薄い傷痕に口付ける。
肩を腕を吸われるまま、飛影は右手で、緩慢な動きで長い黒髪をつかむ。
「お前、宿はどうした?客を放り出して来たのか?荷物もないのか?財布も?だいたいどうやってここへ来た?」
「いつになく喋るね。質問、ひとつなら答えてあげるよ」
黒髪を指に絡めていた飛影が、ひとつ、と呟き、手を止める。
鎖骨のすぐ下を強く吸われ、ぶるっと身震いをする。
「……お前は、いったいなんなんだ?」
「ひとつしか聞けないのに、それでいいのか?」
蔵馬の両腕が、閉じ込めるように飛影を抱きしめる。
狭いベッドで向かい合い、しばしの沈黙の後、飛影は口を開けた。
「お前に……」
虹を見せたかった。この腕が治ったら一番最初にお前に触りたかった。最初にお前を感じたかった。
それは確かに、紛れもなく愛の告白だったと、今なら飛影にもよくわかっていた。
ならば、答えも欲しい。
「質問を変える。お前は、オレを」
「愛してるよ。愛さないように気をつけてたのに愛しちゃった。本当は愛しちゃいけなかったんだけど」
「…まだ質問してないだろうが」
広い背には腕が回りきらないが、飛影も抱きしめ返し、薄闇の中で笑う。
病院も学校も、もっと言えばこの家も、少し遠いものになってしまうことに気付きながらも、飛影は笑った。
「蔵馬」
気付かないふりをしていただけだ。
闇の中でこいつの眼が碧を帯びて光るのを、何度も見た。異形の者であることなど、本当はとっくに知っていた。
愛してはいけない者を愛したのは、こちらも同じだと、飛影は笑う。
「…蔵馬。こうなったのは誰も悪くない。誰のせいでもない。そうだろう?」
碧の眼が笑みに細くなり、腕の中の体を一層強く抱く。
見知らぬ家の匂いの中、自分を包む馴染んだ匂いを深く吸い込み、飛影はそっと目を閉じた。
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