雪嶺館から
石造りの長い廊下は、左右に牢が並んでいた。
カツン、と硬質な音を立てる靴でその廊下に入ってきた彼女は左右の牢をゆるりと覗きながら、華奢なグラスから酒をすする。
カツン、カツン、という靴音。
果実酒の芳香を漂わせ、美しい髪を揺らして、ゆっくりとひとつひとつの牢を覗く。
女。男。
黒髪。赤毛。金髪。
青い目。緑の目。七色の目。
さまざまな者たちが、それぞれの意思で彼女を見つめる。
30ほどある牢は、それぞれ番号が小さく鍵穴に刻まれていた。
恐怖。困惑。哀願。羨望。
それぞれの突き刺さるような視線を気にするでもなく、彼女はゆっくり歩く。
廊下の行き止まりまで来ると壁にもたれ、グラスの底に一口分丸く残った酒を干す。
ふう、と満足そうにグラスを眺める彼女に、案内をしてきた男が、いかがですか?と声をかける。
「…17番を頂くわ」
グラスを盆にそっと戻して言う。
途端に案内役の男は顔を輝かせ、頭を下げる。
「ありがとうございます。雪菜様」
雪菜と呼ばれた少女は、薄く笑む。
「最近この店はさっぱりだから、縁をお切りしようかと思ってけど」
でも今日は来て良かった、また来させてもらうわ、と少女のような儚い外見に似合わない辛口の言葉に案内役は苦笑する。
「雪菜様は相変わらず手厳しい。雪嶺館に行けるほどの者はなかなか…。どうぞ今後もご贔屓ください」
「ええ。主は今日はいらっしゃる?ご挨拶したいのだけど」
「でしたらこの後の宴にどうぞ。主はそこですので」
雪菜はやれやれ、とでもいうように皮肉っぽく眉をひそめた。
「宴」という名の、拷問のあげくの処刑の見せ物というここの主の趣味は、雪菜にとって興味のないものだ。
「しょうがないわね。今回は拝見させて頂くわ」
では、と、案内しようとはやる男を片手で制し、雪菜は盆からグラスを取った。
「もう一杯くださる?」
もちろんどうぞ、と素晴らしい香りの酒が注がれる。
来た時と同じように、靴音を響かせて一つの牢の前に立つ。
鍵穴に記された番号は17だ。
「…あたしをどうする気よ?」
牢の中で、栗色の長い髪と金色の目を持つ素晴らしく美しい女が震える声で言った。 それには答えず、すっと床に屈んだ雪菜は牢の中にグラスを置いた。
粗末な石造りの床に不似合いな、美しいグラスが煌めく。
グラスの縁は、いつの間にか輝くような雪で彩られている。
「雪嶺館にようこそ」
薄氷の目が、金色の目を捕らえた。
***
目の前のグラスには、先ほどとは違う酒が注がれた。
薄紫の酒を眺め、お愛想程度に一口すする。
恐怖には、味があるものだ。 血を割って作ったらしいその酒にはありありと、恐怖と苦痛の味がした。
30人ほどの客が集まっている大広間には、血のにおいが充満していた。 豪華な暖炉の前に吊るされたその妖怪は、手も足もなく、血の流れ出している箇所さえなければもう生きているようには見えなかった。
くだらない。
まったくくだらない宴だ。
溜め息をついて、グラスを卓の端へ押しやる。
この館ではどういう手段で手に入れているのかわからない、種々雑多な妖怪を売っているが、売れ残りや、もしくははなから売れる見込みのない者はこうやって客相手の見せ物として殺される。
吊るされている妖怪も、ありきたりの種族でしかも美しいとはいいかねる。
苦鳴は耳障りなだけだった。
もう主には挨拶をした。
帰ってもいい頃合いだと検討をつけ、雪菜は立ち上がり扉に向かった。
扉の近くに置かれた檻には、見せ物用にまだ10人ほどが入っている。首輪で檻に繋がれ自殺などできないように縛られ猿轡をかまされ、みな一様にすがるような視線を雪菜に投げ掛けた。
この檻に、店で使えるような上物はいない。
それを知っている雪菜は足早に通り過ぎようとし…
ふと、足をとめた。
一人だけ、あらぬ方を見ている者がいる。
おかしな事だ。
妖怪の生への執着は並々ならぬものがある。
こちらに哀願し、助けてくれと視線を投げるのが当然だ。
「お前」
その言葉に檻の中の者みなが顔を輝かす。
必死の形相でこちらににじりよる。
「そこの、奥にいる黒髪のお前。顔を見せて」
この館の召使いが慌てて飛んでくる。
「お客様に無礼な態度をするな!」
聞こえていないのか無視を決め込んでいるのか分からないその者の首輪を引き、顔を雪菜の方へ向けさせた。
白い肌に赤い瞳。
短い黒髪は乱れ放題だが、艶やかだ。
それになにより…
敵意。
助けてくれと哀願する者の目ではない。
雪菜を一目見れば、自分の身をこの檻から助け出す力を十分に持った者であることがわかるはずだ。
汚れた檻の中に捕らわれている、もうじき馬鹿げた宴で凄まじい苦痛の中で死ぬ運命の者が、こんな目で見るとは。
「…その子を檻から出して。よく見たいわ」
上得意客の要請に、召使い達は大慌てでその妖怪を檻から引きずり出した。
床に押し付けられたままの姿を見下ろし、じっくりと眺める。
…貧弱な体。
だが、顔立ちは悪くない。
意志的だし、この生意気そうな赤い瞳は素晴らしい。
まるで子供のような体つきだが、客の好みはいろいろだ。
「声を聞かせて」
召使い達の手で、あっという間に猿轡が外される。
「名前はなんというの?」
答えない。
ただ睨むばかりだ。
「声帯を切除してしまったの?」
傍らの召使いに問いかける。宴の拷問の種類によっては声を出せない方が面白いこともあるからだ。
名前は飛影ってんですよ。こいつ喋れるくせに、と振り上げられた鞭を制し、雪菜はもう一度問う。
「名は?」
「…答える義理はない」
予想より低く、落ち着いた声だ。
とはいえ、普段の声とあの時の声は誰でも違うものだし…
「この子の服を脱がせて。体を開かせて見せて」
雪菜はクスクス笑いながら命じる。
やめろ!とかなんとか言ってもがいてみたところで、縛り上げられていては何もできはしない。 雪菜の目の前で、裸にされて足を開かされる。
「ふうん。なかなかかわいらしいわ」
飛影は真っ赤になって雪菜を睨む。
さっきのふてぶてしい態度はどこへやら。
こんなことぐらいで動じるなんて初々しくてかわいらしい。
「後ろも見せて」
「…後ろ?何言っ…」
その言葉が終わらぬうちに、召使いたちは飛影を引き倒し、四つん這いにさせ尻だけを高く上げさせる。
「やめろ!離せ!」
どうもこの手の羞恥は苦手らしい。
逃げようと必死で暴れている。
雪菜は歩み寄ると、高くあげた尻の肉を左右にぐっと押し開いた。
「何する…!」
「ここも綺麗だわ。色もいいし」
つ、とそこは指でなぞられ、氷のように冷たい指がねじ込まれた。
「ひっ!」
驚くほど冷たい指。
まるで氷の棒を突っ込まれたようだ。
「っあ!何…やめ…痛っ!」
「…すごくきつい。締まりもいいわ。中もしっかり動いてるし」
美しい少女から次々吐き出される、卑猥な言葉。
客達は処刑ショーよりよっぽど面白いと興味津々だ。
「雪菜殿、その子供みたいなのをまさか雪嶺館に?」
客の一人が呆れたように声を上げた。
「さあ。それはこの子次第」
指を抜かれると、腰が砕けたように尻が下がった。
雪菜は腸液でぬるつく指で、飛影の顎を捕らえ上向かせた。
赤い瞳は羞恥と混乱を宿してはいるものの、屈服した者の目ではまだない。
「雪嶺館に来る?」
その一言に大広間にいた客達がざわめいた。
「あんなのを?」
「雪菜殿らしくもないー」
「いや、あの生意気さはなかなかいい…」
「処刑篭から雪嶺館とはね…たいしたものだ」
口々に上がる客達の声には頓着せず、雪菜は重ねて言った。
「いい子ね。今日からあなたは私の子よ」
「…何を馬鹿な…。雪嶺館とはなんのことだ?」
高級娼館だ。本当ならお前のような者を買い取る店ではない、ありがたいと思え、と召使いの一人が吐き捨てた。
「娼館…?お前は娼館の主なのか?」
目の前の少女が?
氷のような蒼い瞳。
雪のように白い顔を、薄氷を思わせる輝く水色の髪が包んでいる。整いすぎていて薄気味悪いほどの美少女。
だが、人を値踏みするその視線は間違いなく人買いの目だ。
「…断る」
憤る召使いを目だけで制し、雪菜は微笑んだ。
「ここで死にたいの?」
「娼館に買われるくらいなら。…手でも足でも切ればいい」
先ほど手足を切断され、血のカクテルを提供した妖怪はとっくに息絶えていた。 ねえ、と雪菜が振り返り、傍らに立つ召使いに問う。
「あの水槽の蛇…。この子に使う予定なのかしら?」
檻の後ろには水槽があり、驚くほど長い真っ白な蛇がとぐろを巻いていた。
「そうです。こいつには蛇を使うつもりです」
「あら。うちに来るのは断られちゃったから、見物させていただくわね」
手足を切断されるのも毒蛇にやられるのもどっちもどっちだ。そう考えていた飛影の頭の中が見えたかのように、雪菜が言葉を投げた。
「心配することはないわ。あの蛇には毒はないのよ」
「…何…?」
毒蛇じゃない?じゃあなぜ…
「あの蛇は迷路を探検するのが好きなのよ。入口はあなたのお尻。出口はお口」
氷の女がにっこり笑う。
「な…!」
「でもすぐにつまみ食いしちゃうの。前に見た時はお腹の途中あたりまで行ったところで誘惑に負けてあちこち噛り出して道に迷っちゃったわ」
しょうのない子なのよ、と愛おしそうに蛇を見る。
「ここで会ったのも何かの縁。私が入口までご案内してあげるわ」
その言葉に召使い達はゲラゲラ笑い出し、飛影を引っぱり上げる。裸の体を四つん這いにさせ、客達の方へ尻を向けさせる。
「やめっ…!嫌だ!」
羞恥と恐怖に弱気な態度を初めて見せる。
いつの間にか腕に蛇を巻き付かせている雪菜を見て、さすがに真っ青になる。
出口まで行っても、入口からまだ垂れ下がるのではないかと思うほど長い蛇。
「よせ…やめろ!…」
四つん這いになった膝に、冷たくぬるりとした生き物が巻き付く。
膝から腿へ、尻へとうねうねと這い登る。
「あ…っあ、やめ…」
「今度は道草しちゃだめよ。まっすぐお口から出てくるのよ?」
やさしく諭すようにかけられた言葉。まるで雪菜に飼われていたかのように、蛇はシューシューと返事をする。
必死で暴れるが、4人がかりで押さえつけられていればどうにもならない。
このままじゃ本当にあの蛇…
尻の奥に濡れた感触。
嫌悪感に体が痙攣する。
「ああああ!!」
狭い肉穴に、蛇が頭をぐっと押し込もうとしている。
蛇のぬるついた体にびっしり生えたうろこ。
その感触に、猛烈な吐き気が込み上げる。
「っあ!ああああぁあ!やめ…!」
異質な生き物が体に押し入ろうとする。
その恐怖に発狂しそうになったところに、甘い声が聞こえる。
「最後にもう一度聞くわ。うちに来る?」
蛇の硬いうろこの、感触。
閉じた肉をこじ開けようとするおぞましい生き物。
行く。どこへだって。
だからどうかやめてくれ!
叫びたいのに声も出せない。
必死で頷く。
冷たい手が髪をくしゃりと撫でる。
「いい子ね」
途端に蛇はぐにゃりと力を失いずるりと床に落ちた。召使い達が雪菜の命に従い、押さえつけていた体を放した。
小さな体が崩れ落ちる。
飛影はガタガタ震える体を自分できつく抱きしめた。
…助かった?
コトン、という音に顔を上げると目の前にはグラスに注がれた酒があった。
華奢な、美しいグラス。
その縁を飾るように輝く白銀の雪。
恐る恐る見上げると、氷の瞳に射すくめられた。
「雪嶺館にようこそ」
***
暖炉では赤々とした炎が踊っている。
豪華な長椅子に身を沈め、飛影は炎を眺めていた。
暖かな部屋。
柔らかな長椅子。
目の前のテーブルには甘く香る飲み物が置かれている。
この部屋にいる者たちはみな指の先まで磨かれ、甘やかな香水をつけ、やわらかく高価な衣装を纏ってすっかり寛いでいるように見えた。
とんだ茶番だ。
こいつらみんな金で股を開く淫売のくせして。
飛影は心の中で毒づいてみたが、自分だってその中の一人だ。
悔しい。情けない。
雪菜に買われた時は、逃げ出すチャンスがあるだろうと思っていたが、計算違いもいいところだ。あの女は強く、おそろしく頭がいい。館に着いてすぐにかけられた術はどうあがいても解くことができなかった。
ここにきていったいどのくらい経つ?
一年?二年?
この館では時間の流れが止まるようにさえ感じられる。
扉の開く音が聞こえる。
そろそろ客が来はじめたらしい。
扉が開いたからとて、自分目当ての常連ではないかと振り返るようなことはここの者たちはしない。あくまでお高く、寛いだ姿勢を崩さない。
どんな身分の客でも、こちらが石を渡さなければ二度と指名はできないのだから、常連は自分で決めていけるのだ。
それだけが救いだ。
みっともない痴態をさらした相手に…体の最奥まで見られた相手に…二度は抱かれなくて済むのだから。
キイ、と音を立てて、また扉が開く。
振り返りたい衝動を抑えられない。
あの、客…。
初めて石を渡したあの客。
蔵馬。
会いたい。
あいつがもう一度来てくれないかと、待ちわびている。
らしくもない、と飛影は自嘲する。
だが扉が開くたびに、期待し、落胆する。
これを待ちわびてると言わずになんというだろう。
来たからとて飛影を指名するとは限らない。石を貰った蔵馬には選ぶ権利はあるが、義務はない。
飛影は唇を噛み、炎を見つめる。
紅い瞳に、紅い炎が映り込む。
***
「ずいぶん艶っぽくなるもんだな」
広間の続きの間である小さな部屋では、主とその客が水煙管を燻らせている。
「ええ。綺麗だわ。とても」
自慢の宝石を愛でるかのように、雪菜は目を細めた。
客である半身が機械の女は、くつくつ笑いながら酒を干した。
「待ち焦がれてる、ってなとこだな。かわいいじゃないか」
客は笑い止め、雪菜を見てちょっと心配そうに付け足す。
「なあ、あの客がまた来るとは限らないだろう?」
雪菜は薄く笑むと、肩をすくめた。
「もちろんそれはお客様の自由。でも…」
扉を細く開け、広間を見遣って飛影を見つめる。
こちらに気付きもしないでいる紅い瞳は、濡れた輝きを放っている。
「…あの子が石を渡したのですもの。来るでしょうね」
「そうかねえ?」
「来なかったら…躯、あなたが慰めてあげて」
悪戯っぽく雪菜は笑う。
機械の女も、笑いながら返す。
「冗談よせよ。あんなガキは趣味じゃないっての」
***
昨日も、一昨日も、その前の日も待っていた。
待ちながら他の客に抱かれ、その間にあいつが来たんじゃないかと馬鹿げたことを考えていた。
情けない。どうかしている。
ヤッてすらいない相手なのに。
飛影は小さな体を、より小さく丸めるようにして長椅子に座り直す。
この館に飼われるようになってから、より白く細くなった自分の足が炎を映す。
目の前を蜂蜜色の豊かな髪の女が通る。
「嬉しい。来てくれたのね」
甘く響く声。
どうやら石を持つ客が来たらしい。
まさか、まさか…。
窓の外の雪を眺めるふりをして、そっと扉の方を伺う。
常連客から石を受け取り、艶然と微笑む杣の前に立つ男は蔵馬ではない。
知らず知らずのうちに、安堵の溜め息がこぼれる。
…良かった。これで少なくともあいつは今日は杣を指名できない。
そのみじめったらしい嫉妬に飛影は自己嫌悪にかられる。暖炉に向き直った途端、後ろに立っていたらしい客が肩に手を置いた。
「この子がいいな」
聞いたことのない声。
落胆を顔に出さないよう、表情を消す。
「悪いけど、その子は俺のだよ」
もう片方の肩に、手が置かれる。
低く甘い声。
「……蔵馬?」
「先約か。残念だな」
先に声をかけた男は、蔵馬が石を持っているのを見ると肩をすくめ、あっさりと飛影から手を放した。
「悪いね」
長椅子の隣に蔵馬は腰を下ろした。
「狭いね。ここ」
長椅子は一人がけ用だ。
蔵馬は飛影をひょいと抱き上げ、自分の膝の上に乗せた。やわらかくひらひらした黒い服がふわりと風をはらむ。
翠の瞳が紅い瞳に映る。
「もう、愛想ないなあ。来てくれて嬉しい、とかなんとか言ってよ」
「…来たのか?」
「いるでしょここに。今日はかわいい服着てるんだね」
「え…?」
この間は…そうだ、商売用の服も着ずにひどい格好だった。
前回の醜態を思い出し、飛影は真っ赤になった。
「あれはっ…」
「何を着てもかわいいよ」
「…気障ったらしいことを言うな」
「何も着てないのが一番かわいいけど」
今度は首まで真っ赤になる。
そんなやり取りを雪菜と躯に見られていることも気付かずに。
***
「ん、ああ…」
熱い肉棒が、ぐちゅりと音を立てて体内から抜かれる。
ひくひく弛緩する穴からは、白濁した液体がトロリと溢れて内股に伝い落ちた。
苦痛と快楽の頂点が混ざり合って、脳みそが溶けてしまいそうだった。
最高に、気持ちよかった。
もちろんそんな事は死んでも口にはしない。
だがこの蔵馬という客は最高に上手い。こちらが奉仕する立場なのにまったく翻弄されっぱなしだった。
このまま眠ってしまいたいという願望を押しきりよろよろと起き上がり、飲み物や軽い食事の置かれたベッドサイドのテーブルに手を伸ばす。
放たれた精液が動くたびにこれ以上流れ出すのが惜しくて、穴を閉じようと力を込める。
この種を、もっと長く体に入れておきたい。
そんな自分の考えに驚かされる。
「飲み物なんかいらないから、側にくっついていてよ」
ベッドの中で笑いながら言う蔵馬を無視し、酒を注いだグラスを差し出した。
一緒に、自分の名が刻まれた赤い石も差し出す。
受け取るために差し出されたと思った手は、飛影の手を石ごと包み込み、押し戻した。
「…どうした?」
「石は、もういらないよ」
さっきまでの余韻を残し熱く火照っていた体がすうっと冷たくなる。
断られた?
もう…来ないということか。
「…ああそうか…悪かったな」
声が震えないようゆっくり言って、石をテーブルの上に置いた。
誰が、みっともなくすがったりするものか。
「どうする?帰るのか?他を指名したいなら広間へ戻るんだな」
努めて、普通にふるまう。
内心はわめき散らしたいぐらいだ。
「帰るよ」
飛影の気も知らず、にっこり笑って言う。
黙って脱いだ服を拾い上げる飛影を、蔵馬はひょいと抱き上げた。
「…なんだ?帰るんだろ?」
「帰るよ。飛影も一緒にね」
一緒に?
何を言ってるんだ?
「君と一緒に帰る。君を身請けするから」
言われた意味が分からずにキョトンとする飛影に、思ってもみなかった言葉。
「俺を?身請け…?」
「そう。君が他の客ともやるなんて嫌だからね」
「な…馬鹿言うな!ここから逃げて無事にすむと思ってるのか!?」
雪菜の恐ろしさは骨身に染みて知っている。
捕まれば二人とも殺されるだけではすまない。
蔵馬がぷっと吹き出した。
「何がおかしい!」
「嫌だなあ。俺は身請けするって言ったの」
逃げ出すなんて言ってないよ、と綺麗な顔でころころ笑う。
「請出す…?金を払って俺を買い取るということか?」
「そう。それで手間取っちゃってこの三日間来れなかったんだ」
髪を、頬を、やさしくなでる長くきれいな指先。
「馬鹿なことを…買い取れるような金額じゃない」
雪菜は身請けをさせたがらない。
そのために身請けには恐ろしい額をつけているらしい。
他の者たちから、身請けは国が一つ買えるような額だと聞いていた。現に、飛影がここに来てから買われていった者は一人しかいない。…逃げ出そうとして肉切れになった者は三人ほど見た。
だが…と飛影は頬を染めた。
他の客にはやらせたくない、自分だけのものにしたいと…そう思ってくれただけでも嬉しい。
素直に嬉しいなどとは言えず、プイと顔を背けた。
「…石を持っていけばいいだろう。いつでもここに来れる」
「どうして?ここから出たくないの?」
不思議そうに蔵馬は問いかけた。
出たくないか、だと?
もちろん出たい。
この館に来た日から、そう願わなかった日はない。
毎日毎日、望みもしない相手に体を開かれる屈辱と苦痛。雪菜のかけた術のせいで自殺することもかなわなかった。
初めて客を取った日など、体内に異物を押し込まれる激痛に気絶する有り様だった。
「本当に…ここから出してくれるのか?」
紅の瞳が不安そうにゆらめく。
その瞳に見とれながら、蔵馬は笑った。
「ずいぶん疑われたもんだね」
そう言いながら、足下の雪うさぎに命じる。
「主の部屋に案内してくれるかな?」
***
「これまたすごい額だな」
雪菜の客人であるらしい一緒にいた機械の女…名は躯だと名乗った…がそう感嘆するほど雪菜の口にした額は、途方もない金額だった。
豪華なソファに腰掛けた蔵馬は、あまりの金額に傍らに立ちすくむ飛影を抱き上げ、自分の膝に座らせた。
「構わないよ。今すぐ全額支払う」
あっさりとした返事に、飛影は驚いてまた立ち上る。
「…払えるのか?」
「もちろん。だから来たんだよ」
ここの娼婦たちよりも遥かに美しい顔が、にっこり微笑む。
…めまいがする。
飛影は脱力したように、蔵馬の膝にぺたりと座った。
蔵馬は傍らに置いていたかばんから両手に納まるほどのふくらんだ小さな袋を取り出し、雪菜の目の前のテーブルにゴトンと音を立てて置いた。
「これで足りると思うけど」
雪菜はことさらにゆっくりと袋を取り、中を確かめた。
雪のように白く美しい顔に、薄い、皮肉っぽい笑みが浮かぶ。
「こちらへいらっしゃい、飛影」
白い手の手招きに応じた飛影の首筋に雪菜は指を這わせ一言二言呟き、自殺と逃亡を封じていた術を解く。
「ん、っう」
飛影は呻くと同時に、小さな氷を吐き出した。
暖かな部屋でも溶ける気配のない奇妙な氷を拾い上げ、雪菜は蔵馬に微笑んだ。
「確かにお代は頂戴しました。…この子はあなたのもの」
深く、一例する。
氷の輝きの髪が、さらさらこぼれた。
「ありがとう。ここは噂通り極上の娼館だったよ」
術のかかっていた氷を吐き出したせいで、まだむせている飛影を抱き上げ、蔵馬も極上の笑みを返した。
***
…窓越しでない雪を見るのは久しぶりだ。
刺すように冷たい空気を、胸いっぱいに飛影は吸い込んだ。
信じられない。
先ほどのやり取りを思い出し、夢なのではないかとまだ疑っている。
館を出る時に蔵馬に着せられた、ちょうどいいサイズのたっぷりとした温かなコートに顔をうずめる。
外に出れる日は来ないような気がしていたのに。
…雪の冷たささえ心地いい。
通りに出ると、蔵馬の物らしい馬車…といっても引いているのは奇妙な生き物だ…が主の帰りを待っていた。
さて、と呟きながら荷物を先に放り込み、蔵馬は飛影に向き直った。
「飛影、俺と一緒に来てくれる?」
「…何を今さら…?」
風になびく髪をかきあげ、蔵馬は少し寂しそうに笑んだ。
「君は自由だよ。その上で、俺と一緒にいたい?」
術をかけて縛る気はないんだ。
君の自由意思で側にいて欲しい。
その言葉に飛影は驚いて目を見開く。
買い取られた以上自分は奴隷と一緒だ。当然、逃亡防止の術をかけられると思っていた。
「…どこまでもお人好しなんだな」
「体だけじゃなく心も欲しいからね」
よくまあそういう恥ずかしげもないことを言う。
気障なセリフに飛影は赤くなる。
初めて、石を渡した。
それでもう十分に意思表示をしたつもりだった。この上、言葉にして恥ずかしい思いを告げなければならないのだろうか?
どう言えばいいのか分からない…。
うつむいて、唇を噛む。
途端に、またもや頭上で笑う声がした。
からかわれたのかと慌てて顔をあげると、蔵馬の顔が面前にあり息を飲む。
非の打ち所なく整った顔。
深く輝く翡翠の瞳。
「お前が照れ屋なのは知ってるよ」
そう言うと、きれいな両手で飛影の顔を包む。
「俺と一緒に来てくれますか?」
笑いの消えた、真剣なまなざし。
真っ赤に染まった顔をコートにより深くうずめた飛影が、黙ったまま頷くことは蔵馬にはお見通しだった。
***
「雪菜、あこぎな稼ぎしてるなぁ」
水煙管の煙は、甘く煙たく部屋にたなびく。
呆れたように言った割に、機械の女は面白そうにニヤニヤしている。
「…私の子を欲しがるなら、当然よ」
城の最上階にある雪菜の私室は、玄関から通りへ渡る道が見渡せる大きな窓がある。術がかけられているために、外からはただの壁のように見えるはずだ。
雪菜が売り払った商品は、通りに止まった奇妙な馬車に、ちょうど抱き上げられて乗せられたところだった。
もちろん表情など見えはしないが、見えなくても分かっていた。
「…ねえ、躯。もっと高くふっかけてもよかったかもね?」
色っぽいふくれっ面をする雪菜に、躯は苦笑する。
「あんだけぼったくっといて、よく言うぜ」
氷の女も笑って、肩をすくめた。
「さて…商売に戻りましょうかね」
氷の髪を後ろに払い、美しい少女は立ち上った。
玄関へはまた新しい客たちが来始めている。
...End
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