mama...8
…九十八夜目…
躯に一緒に来て欲しいと頼んだのはなぜだろう?
幽助はらしくもなく自問自答した。
オレは、魔族になったけど、魔界のあれこれを知っているわけじゃない。魔界の事を…妖怪を…知り尽くしている躯の方が、オレよりずっと飛影を助ける役に立つ。
そう思ったからだ。
蔵馬が送って寄越した小さな鍵を扉に差し込みながら、幽助はそれが半分嘘だと自分でも分かっていた。
認めたくないが…本当は、怖いから。
あの狂った空間で、狂った飛影ともう一度二人きりになるのは、怖かった。
いや、躯の方が、オレよりずっと役に立つのも確かだ。
そう自分に言い聞かせ、きれいな木細工の扉を開けた。
***
唯一体にかけている薄いシーツは、じっとりと濡れて体に張り付いていた。侵入者である幽助と躯にも、その呼びかけにも、飛影はなんら反応を示さない。
目を開ける事もなく、何か喋る事もない。
額に埋め込まれた第三の眼だけが開いていたが、その眼球は白く濁って何も映してはいない。
呼吸の際に微かに動く体だけが、目の前の肉体がまだ死体ではない事をかろうじて示していた。
意識のない飛影の眠る傍らには、前回訪れた時には気付かなかったが、蓋の開いた小さな箱があり、長い黒髪が散らばっていた。
…蔵馬の髪だ。
そう気付いて、幽助は思わず目を背けた。
部屋の悪臭は堪え難いものになり、寝台のほとんど全部が血でどす黒く染まっていた。
「見ろ」
躯が指差した、この前とは違う悪臭の原因を目にし、幽助は、立ちすくんだ。
赤く染まったシーツから出ている右足は、紫と黒に変色し、所々腐敗した肉がドロリと垂れ下がり骨を覗かせていた。
「っ…うわっ…!」
「妖気が減りすぎて、体の末端までいかなくなっているんだ。額を見ろ。邪眼も死んでる」
「なんとか…なんとかする方法はねーのかよ!?」
「無理だな。多分体内も腐り始めてる。ここまできたら妖気を分けてやる事もできん。今他人の妖気を入れたら即死だろうよ。同族でも無理かもな」
「同族…?同族って……氷女?」
「ああ。同族の妖気の方が受け入れやすいんだ。氷女を何人か捕まえるのは簡単だが、もう手遅れだ」
「手遅れ…?」
「人間だってそうだろう?死にかけている奴に他人のものは移植できん」
自分でも頭より体を使う方が性に合っているのは分かっている。
だが、幽助は必死で考え込む。
「待てよ…。他人って…じゃあ、妹は?」
「…妹…?」
飛影には妹がいる。その子の妖気なら?
幽助はそう叫び、目を輝かせた。
***
…九十九夜目…
誰でも自分の都合のいいように、記憶を多少は改竄して生きているものだ。
それは人間だけに限らず、魔界の者とて同じ事。
躯は目の前の美しい女を見つめた。
飛影の記憶を通して見たこの女はもっと儚げで弱々しく感じられた。
守ってやらねばならない、柔らかで優しい生き物に。
それは、兄である飛影の思い込みであり、願望でもあったのだろう。
だが、違う。
和服を纏っているのに分かる、しなやかな体つき。
明晰な頭脳を感じさせる、怜悧な瞳。
上手く隠してはいるが、妖気は強大で、鋭く冷たい。
氷と炎の両方の息遣いが感じられる、稀有な妖気だ。
大抵の者は躯を恐れている。
百足のほとんどの者でさえ…躯を心の底では恐れている。
魔界に住む者ならそれは賢明な事だ。
だが、氷の瞳の女は、兄がかつてそうしたように、真っ直ぐに躯を見つめ返した。
「私の、妖気を…?」
「ああ。そうだ」
躯はその理由を、感情を交えずにざっくりと説明した。
慌てる様子もなく、女は目の前の茶器を手に取って聞いていた。
「どうする?」
「…どうする、とは?…選択の権利があるのでしょうか?」
「なるほどな。…お前の方が一枚上手だ。選択の権利はない。拒否する気か?」
「とんでもない。貴女は自他共に認める、この世界の女王。私を生かすも殺すも簡単でしょう?」
「オレの要求を飲めば、お前に危害を加える気はない」
「ええ」
空になった茶器を卓に戻し、雪菜は両手を何かを包むかのように胸の前で丸めた。
「…しかし似てないな、お前たちは」
「よく言われます」
蔵馬さんにも、よくそう言われました。
そう言いながら、雪菜はゆっくり目を閉じる。
言われます、ではなく、言われました、と過去形で言ったのに気付かぬ躯ではない。
「兄が、あの人に夢中なのは知っていました…けれどまさか、そんな馬鹿げた事をするなんて…」
夢中、なんて言葉じゃ足りないわね、狂乱、と言うべきかしら。
雪菜はそう呟いた。
割れた薄氷から水が溢れ出すように、部屋中に妖気が満ちていく。
雪菜の全身が青白い光に包まれ、両手の間には氷の球体が姿を現し始める。
床も壁も霜に覆われ、茶器が甲高い音を立てて砕け散った。
「幽助さんは…兄の具合がちょっと悪いから助けて欲しいと、そう私に言いました」
あの人も兄と同じで、嘘が下手ね。
雪菜はくすっと笑う。
「貴女にとって氷女の一人や二人、調達するのは容易い事でしょう?…私の妖気を望むのは…つまり」
扉の向こうから、躯様!いかがなされました!? という部下たちの大声が聞こえた。
雪菜の凄まじい妖気は、どうやら百足中に伝わったらしい。
「なんでもない。下がれ!」
扉は開けずに女王は言い放つ。
「…つまり、兄は死にかけてる。…もう同族の、どころか、血を分けた者の妖気しか…受け入れられないような状態」
白い帯を引くように、妖気は丸く集まり、輝く蒼い氷の玉を形作る。
「…兄は結局……母と同じ理由で、死ぬのかしら」
子を為して、それを産み落とすのと引き換えに。
雪菜は薄く寂しげに笑った。
出来上がった氷の球体に、雪菜はふ、と、息を吹きかけた。
まるで何かの魔術のように、氷の中央に、蒼い炎が燃え上がった。
燃え上がる炎を包む、氷の玉。
袂から取り出した呪符で、雪菜は震える手で素早くそれを包む。
限界までの妖気を閉じこめたのだろう。肩で息をし、素早く呪文を唱え封をした。
「…これで、全部…」
ぐらりと崩れ落ちそうになった体を躯が抱き留めた。
「上手いもんだな…自分の妖気を体外に取り出す事が出来る者はそうそういない。本当は…お前をやつの所に連れて行くつもりだった」
「お断り…します…」
躯の腕の中で、蒼白になり、激しく息を切らしながらも雪菜はニッと笑った。
「本当に…兄こそ…が、母の子だわ。母と同じ理由で死ぬ…愚か者を…わざわざ看取ってやるつもりは……ない」
その強い意志を示す笑み、凛とした氷の眼差しに、躯は見蕩れる。
「気に入ったな…」
雪菜の薄く形のいい唇を、躯は指先でなぞった。
口移しに妖気を分け与えるのは、一番簡単な方法だ。
「気に入ったな…お前にはオレの妖気を分けてやるよ。オレはお前が気に入った。…お前もオレの元に置く」
この日から五十夜も経たないうちに自分の新しいナンバーツーとなる女に、躯は唇を重ねた。
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