糸...4
海に飛び込んだら取りあえずその場はしのげるというのならば、きっと飛び込んだ。
ここは港であって海水浴場ではないが、知ったことではない。
雪菜の白い細い指先は、きっちりと赤い糸をつまんでいる。雪菜が糸を引くたびに、俺たちの小指は引っぱられる。
勘違いでもなんでもない、雪菜にはこの糸が見えている。
見えているどころか触れることができるのだ。
(これか?これは今、俺たちの学校で流行ってるんだ)
そんなわけがあるか。どんな流行りだ。だいたいなぜ急に糸が現れたのかの説明にはならない。
(何がだ?俺には何も見えないが)
見えないふりをして押し切る?雪菜の気が狂っているとでも言うつもりか?却下だ。
暑くもないのに、変な汗が背中に流れる。
だめだ。何も思いつかない。
俺は思わず、蔵馬を見上げる。
どうにかしろ。
今すぐなんとかしろ。伊達に学校一の頭脳じゃないだろう。
この状況を打開する策は俺には全く思いつかないが、こいつならなんとか…。
「君にも、見えるの?」
殺そうかと思った。
妹の前で殺人事件はまずいし、乱闘もまずい。
口を開けば罵倒になりそうで、ぎゅっと唇を噛む。
「見え…ます。糸、ですよね。赤い糸。え?なに?なにこれ?さっきまではなかったよね?飛影?」
蔵馬に向けられていた言葉の後半が急に俺に向かい、途方に暮れてしまう。
「…その…これは…」
「手品だよ」
からりと、蔵馬が言う。
は?何を言い出すんだ。手品だと?
「手品?…え?嘘ですよね?」
「嘘」
本当に殺そうかと思った。
まあ、立ち話もなんだし、座らない?
笑顔で海の方を蔵馬は指した。
多分、腰を下ろして海を眺めたり休憩したりするための場所なのだろう。
階段と呼ぶには幅が広く、ゆるい段差のスペースが広がり、あちこちで人々は腰を下ろして飲み物を楽しみ寛いでいるように見えた。
こっちは寛ぐどころの話ではない。
青空も海風もカモメも、何ひとつ助けにはならない。
「…飛影?」
雪菜が、困ったように俺を見る。
その視線は俺の顔と、俺と蔵馬とを結ぶ赤い糸の間を行き来している。
困ったような顔をしてはいるが、俺の妹は弱気な女でも、引っ込み思案な女でもない。
筋の通った説明を聞くまで引かない、というその気の強さは誰よりもよく知っている。
化粧をしていなくても綺麗な大きな目からなんとか視線を引きはがし、再び蔵馬を見上げる。
これまた完璧な形の綺麗な目が、俺を見つめる。
その視線に含まれる意味を察して、俺は細く長いため息をついた。
まあ、そうなるだろう。
そうするしか、ない。
「この糸は、運命の赤い糸なんだ」
低くて甘い声が、海風にのってすべるように耳に届いた。
***
喉、乾いちゃった。
ひどく長かったような、短かったような話を聞き終えた雪菜は呟くように言うと、すっと立ち上がり、コーヒー屋らしい近くの店へと歩いて行く。
追いかけるべきなのか座って待つべきなのか迷い、中途半端に腰を浮かせた俺を、待ってて、と雪菜はひらりと手を振って制する。
「似てるね」
蔵馬はそう言ったが、あまり言われたことのない言葉だ。
俺と雪菜が似ているのは小柄なことくらいだろう。
「嘘をつくべきじゃないかなって、彼女には」
「そもそもお前が、ここに来なけりゃよかったんだぞ…」
「でもほら、セックスについては話さなかったし」
「…当たり前だろう。そこまで話したら殺すぞ」
恨み言をぼやいて、立てた膝に頭を乗せる。
海風を浴びていても、顔が熱い。
蔵馬が話したのは赤い糸と運命についてのことだけで、さすがにセックスうんぬんについては触れていない。
それでも、キスをした瞬間に俺にも見えるようになった糸の話だとか、それだけでも充分顔から火が出そうだ。
プラスチックのふた付きの容器に入ったコーヒーを三つ抱えた雪菜が、こっちへ戻ってくるのが見えた。
その顔は、怒っているわけでも困っているわけでもなく、いつもの雪菜だ。
「どうぞ」
ありがとう、お金払うよ、という蔵馬に首を振り、俺にも一つ、カップを寄越す。
雪菜はコーヒーをブラックで飲むし、蔵馬もそうだ。蔵馬の好みを知っているはずもないのに、ミルクと砂糖はどういうわけか俺の分しかない。
熱いコーヒーをそのまま飲む二人はスマートで、ふたを外してミルクやら砂糖やらを入れることが間抜けに思えて、そのままひとくち飲んだコーヒーはやけに苦い。
「あっつ」
顔をしかめた雪菜が、小さく舌を出す。
真冬でも冷たい飲み物が好きなはずなのに、なぜホットコーヒーにしたのだろう。
「あのお店、アイスコーヒー、なかったんだもん」
なんかホットじゃなきゃっていうこだわりなんだって。俺の心を読んだかのように、雪菜は言う。
冷まそうというのか、コーヒーのふたを外し、風が乱す髪を押さえた。
「赤い糸、ね」
「…信じるか?」
「例えば、だけど」
学校の誰かとかが、誰にも見えてないのに霊が見えるとかこの人のオーラが、とか騒いでいたらハイハイ、って聞き流すけど。
でも、この糸は私にも見えるもの。触れるし。
「…それに、飛影がそんな嘘を私につくはずがないもの」
湯気を立てているコーヒーを、雪菜はふーと吹く。
ゆっくりとコーヒーを飲むと、カップを置いた。
「ねえ、飛影」
「…なんだ?」
熱いコーヒーのせいで、ますます顔が熱い。
雪菜と目を合わせることもできずに、俺はコーヒーのふたに目を落としたままでいる。
白くて細い手がのばされ、俺の頬に触れる。
両手ですくい上げるように顔を上向かされ、雪菜と見つめ合うような形になる。
こんな綺麗な女と自分が双子だということが、ひどく不思議に思えた。
「ゆき…」
「今、幸せ?」
唐突に投げられた問いに、言葉に詰まる。
ふと視線をそらせば、真剣な目で、蔵馬もこちらを見つめている。
二人とも、この問いの答えを待っている。
妹が雪菜であることも、今日一緒に過ごしたことも、ここでパンケーキを食べたことも。
決して切れない赤い糸が小指でゆらゆらしていることも、その糸が繋いでいる相手が蔵馬であることも、どうやら蔵馬は自分にとって運命の相手とやらであることも。
「………しあわせ、だ」
観光客らしい、家族連れのはしゃぐ声にかき消されそうな声で答えた途端、がばっと雪菜が抱きついてきた。
「飛影!」
「おい、どうした、雪菜…」
良かったあ、と顔を上げた雪菜は、子供のような笑顔だ。
「雪菜」
「ねえ、蔵馬さん」
面食らう俺を無視し、雪菜はくるりと蔵馬を振り向く。
「この糸、見えたのは飛影以外では、私が初めてなんですね?」
「うん」
蔵馬も面食らったようだが、笑顔で答える。
「蔵馬さんの家族にも、見えたことはないんですね?」
「うん。ところで、敬語じゃなくていいよ、雪菜ちゃん」
雪菜は頷き、たたみかけるように続ける。
「この糸、他にもある人はいないの?見えたことはないの?」
「俺も相当探したけど、他の人の指に見たことはないな。今のところ」
「なーんだ、残念」
海へ向かって自分の左手を掲げ、雪菜は首を傾げる。
「見えていないだけで、私にもあるのかな、糸」
少しぬるくなったコーヒーを飲み、呟く。
まさか痴漢から助けてくれた男とやらを思い浮かべているんじゃないだろうな、とこんな時なのに俺は考える。
「二人とも、立って」
促されるまま、俺たちは立ち上がる。
「蔵馬さんは左へ、飛影は右へ行って」
言われるままに進む俺たちの間には、一本の赤い糸。
十メートルほど離れたところで、ストップー、と雪菜が声をかける。
離れて向かい合う俺たちのちょうど真ん中、ゆるやかな階段に雪菜は座っている。
風に髪をなびかせ、見惚れるほど綺麗な笑みを浮かべている。
「不思議…糸はどこまでものびて繋がるんだ…。…赤い糸が水平線の位置にある」
空と海とを区切る、糸。
雪菜の目に映るであろう赤いラインを、俺も思い浮かべてみる。
手招きされ、俺たちは雪菜の元へ戻る。
「ふつつか者の兄ですが、よろしくお願いします」
蔵馬に向かってぺこりと頭を下げ、雪菜はそんなことを言う。
誰がふつつか者だ。それを言うならこの男は不埒者だというのに。
お前の兄を便所に連れ込んで、いきなり覆いかぶさって尻に無理やり突っ込んだんだぞ、ご立派なぶっといのを、と言えるわけもない。
「ゆき…」
「運命の人かぁ…いいな…」
しみじみと、そんな風に言われると。
すっかり丸ごと受け入れて、なんなら羨ましがっている雪菜を見ていると、誰がふつつか者だとか、男同士なのにいいのかだとか、どうでもいいちっぽけなことに思えてくる。
雪菜を真ん中にして両隣に腰を下ろし、晴れた空と海を眺める。
どこまでもついてくる律義な赤い糸が、座る雪菜の膝の上にふわりと乗った。
***
またね、と笑う雪菜は、改札口を通り、あっという間に人混みに消える。
いつだって会いに行ける距離なのだし電話だってできるのに、いつでもこの瞬間は少しさびしいものなのだが、今日ばかりはほっとした。
今日一日にあったことを、まだ頭の中で俺は整理できていない。
「飛影、顔、赤いよ」
「うるさい!」
別れ際に雪菜が残した言葉のせいで、また顔が熱い。
運命の赤い糸だなんて。すごく不思議で、すごく素敵なことじゃない?
それにしても、ファーストキスを飛影に先越されちゃうなんて、びっくり。
蔵馬に聞こえないよう、耳元で吹き込むように言われ、死ぬほど恥ずかしくなったのは、隣を歩く男とのキスを妹が思い浮かべていたらどうしよう、という焦りなのか、そもそもキスどころではないことまでしてしまっているせいなのか。
熱い頬でカッカしながら歩いても、足の長さが違うこいつは余裕綽々でついてくる。
「それにしても、似てるね。さすが双子」
「またか。どこがだ。似てないだろうが」
「似てるよ。口や鼻が小さいのとか、すごく色が白いこととか」
立ち止まり、蔵馬を見上げて睨んでやる。
背が低い、というのを言わないのはこいつなりの気遣いなのだろうか?
「…嘘を見抜かれそうな、強くて澄んだ目、だとか」
「何をわけのわからんことを」
ため息をつき、歩き出す。
混雑する駅の構内を抜け、混雑する街を歩く。
「夕飯の材料買って行こうよ」
「誰が来ていいと言った?」
「元々その予定だっただろ?」
「お前が元々の予定を勝手に変更したせいで、雪菜にばれたんだぞ」
立ち止まる蔵馬を置いて、俺はさっさと先を歩く。
角を曲がりかけた瞬間、ふいに左手がくいっと引かれる。
小指に繋がる赤い糸を引き、蔵馬が笑っていた。
「…おい」
微笑んだまま、蔵馬は糸をたぐるように、引く。
引き寄せられて戻った俺を、蔵馬は両腕に納めた。
「おい、離せ」
「離さないし、離れないよ。ずっとね」
こんな人混みの中で、何をやっているんだか。
引っぱられた小指を見下ろし、今度は諦めのため息をついた。
「わかったから、離せ」
「離さない。永遠に」
「…お前が言うと、冗談に聞こえない」
並んで歩き出し、いつもの商店街を目指す。
ドラッグストアに寄ってコンドームも買って行こう、という蔵馬の足を蹴飛ばしてやる。
「今度さ、俺の家族にも見えるか試してみようか?」
「バカを言うな。もし見えたらどう説明するんだ」
運命の人だよ、って説明するけど。
真顔で言う蔵馬の足をもう一度蹴飛ばし、繋ごうとする手を振り払い、歩幅の違う足で歩く。
商店街への道のりは、たくさんの人でごったがえしている。
もしかしたら。
この大勢のうちの誰かは同じように自分の指に揺れる赤い糸が見えていて、今日も明日もその繋がる先を探しているのだろうか。
見えていないだけで、あるのかもしれない雪菜の赤い糸のことを考えてみる。
あの白くて綺麗な指に結ばれる、真っ赤な細い糸のことを。
優しくて、誠実で、真っ直ぐな相手に繋がっているといい。
「…人混みは嫌いだ。さっさと行くぞ、蔵馬」
そう言って差し出した手を、ゆらめく糸ごと、軋むような強さで握り返された。
...End |
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