heaven's day...4
簡単に、か。
あれっきり飯屋の親父は姿を消した。
トタン屋根も丸太も、汚れきって元の色のわからなくなっていた寸胴鍋も、幻のように消えてしまった。
親父が消えたのがヘヴンリーの復活のせいなのか、あるいは狐という与太話を親父が信じていたからなのかは、ホンにはわからない。似たような飯屋も見つけたし、どうでもいいことでもあったが、簡単に金を稼ぐという言葉はぼんやりと残っていた。
「…簡単に、か」
何が簡単で何が簡単でないかは、人それぞれ違うのだろう。
体を売ったり薬を売ったり、人を傷つけあるいは殺して稼ぐか。
ぬるい大気は割れた窓から入り込み、踊り場は蒸し暑く、変わらず不快な臭いがした。
ポケットの中で震えたデバイスを、階段を下りながらホンは引っ張り出す。
今夜の“店”の場所を指示するメッセージはいつものように短いもので、確認した三秒後にはデバイスから消えるようになっている。通りと建物のナンバーを示す、七桁の数字とアルファベット。
久しく行くことのなかったその番地は、以前は受け渡し場所の一つだったが、近ごろではめっきり使っていなかった古ぼけたビルだ。
このところ、薬の受け渡し場所も売り上げの回収場所もころころ変わっている。
どうやら飯屋の親父の噂話はただの噂ではなく、警察が動いているのだろうとホンはしかめっ面をする。
警察。
あるいは……狐?
一年ほど前に仕事を始めたばかりのホンでも、その名前を一度や二度は聞いたことがあった。だがそれは想像力のたくましいどこかの誰かの作り話にしか思えなかった。
狐。
それが特定の人物のコードネームなのか、あるいはチームとして動く組織の名なのかすら、誰も知らないという。
四年前にこの街の麻薬組織を壊滅に追い込み、その後は遠い国からの依頼で国を離れていたが最近戻ってきたのだと、したり顔で言う売人仲間もいれば、いつぞやの抗争で死んだという者もいる。だがどいつもこいつも、狐が組織なのか単独なのか男なのか女なのかさえ知らないと言う。
そんなバカな話があるだろうか?
人の口に戸は立てられない。本当に数多くの密売組織を壊滅に追い込んできたのなら協力者もいるだろう。組織を裏切った密告者もいるはずだ。誰も何も知らないなどということがあるだろうか。
警察組織の仕事を誰かが面白おかしくドラマティックに色付けしたとしか思えない。
だからこそ、誰もがどこか夢物語のように狐のことを話すのだろうか。
煙草の箱を振り、残っていた一本に火をつけ、ホンは箱を握りつぶした。
今日のノルマは、エンペリアルが30、ヘヴンリーが50だ。ピンインが死んでから、持ち場の近かったホンにヘヴンリーを求めて来る客は絶えなかった。ヘヴンリーのノルマはどんどん増えている。そのうちヘヴンリーだけになるのだろうと、ホンは煙草の煙の行き先を眺めた。
夜になっても大気は暑く、たっぷりの水分を含んだ空気にホンのシャツは湿っていく。
***
「こんばんは」
洗いざらしの白いシャツ、色褪せたジーンズ。薄汚れたスニーカー。この客はいつも同じような格好をしていた。
「何本いるんだ?」
今夜は売れ行きが悪かった。
通りに立って三時間は経っているのにまだホンの湿ったズボンのポケットにはたっぷりのアンプルがある。
「ねえ、ヘヴンリーは扱ってないの?」
「ヘヴンリー?まだ言ってるのか。あれは四年前に消えたって話だぜ」
我ながら空々しい、とホンは考える。ヘヴンリーが復活して二ヶ月が経った今、この街の底辺に暮らす者ならば誰もがヘヴンリーの復活を知っていると言ってもいいのだから。
ふと、ホンは男の顔を見る。
「…なぜ俺に聞く?」
今のところヘヴンリーはホンの組織の独占販売だが、組織の売人は一人ではない。ホンの知る限りでも三十人近くいるはずだ。
持ち場はそれぞれ違うがさして広くもない街だ。買いに行けない距離ではない。
「それって、君以外の人ならヘヴンリーを売ってくれる、ってこと?」
穏やかな、のんびりした口調。
ポケットの中ではホンの体温を吸い込んだヘヴンリーが、ぬるくあった。
「……一アンプル、金二だ」
碧の目が、ネオンに輝く。
「じゃあ、二本…」
「明日だ」
ピシャリと遮るように、ホンは言った。
「今日は持ってない。明日だ」
「…そう」
心底残念そうに男はため息をついたが、明日ならもっと金を用意できる、五本欲しいと言う。
「わかった。銅貨一枚たりとも負けないからな。ちゃんと持ってこいよ」
うん、と子供のように嬉しそうに頷く。
綺麗な碧の瞳から、ホンは目をそらした。
***
「なんだこのザマは!!」
キャンキャンわめく、ひょろりとした会計係にホンは肩をすくめてみせる。
「エンペリアルもヘヴンリーも、十本以上も残ってるじゃないか!」
「しょうがないだろ。見張ってるやつがいたんだ。だから早々に店じまいするしかなかった」
しれっと嘘をつく。あの髪の長い男にヘヴンリーを売る約束をした後、どうにも今夜は仕事をする気がなくなったなどと言うわけにもいかない。金勘定以外にはできることのなさそうな男、とホンが思っている会計係が、ホンの嘘に顔色を変えた。
「見張り…?警察か!?」
「さあな。見かけたことのない犬だった」
ひどく慌てて会計係は金をしまい込み、ホンに明日の分のアンプルを渡す。
「今日の分は勘弁してやる。明日はきちんと売り切れよ」
偉そうに言いながらも、あたりをキョロキョロと見渡す姿は本当にみっともない。
ホンはため息混じりにわかったと頷き、アンプルをポケットに納めた。
親父の店よりもさらに劣る店で、食事と呼ぶのもはばかられるような食べ物を口にしながら、ホンはめずらしくぼんやりと手を止めた。
なぜ、明日などと言ったのだろう。
あいつに売る分は十分にあったのに。
自分が売らなかったとしても男はいずれ他の売人を見つけ出し、ヘヴンリーを手に入れるだろう。一日のばすことになんの意味があるというのか。
***
ねだっていた玩具を手に入れた子供のように、と思いついたが、よくよく考えてみればホンの人生で玩具をねだる子供など見たことはない。そもそも玩具など、手の届く場所にあったこともない。
だからこそ、こうなってしまった。
玩具どころか何もない人生だったから、あいつは逃げ出してしまった。
苦い笑いを胸に押し込め、ホンは約束通り、金貨と引き換えに五本のアンプルを手渡した。
「…ヘヴンリー」
感極まったかのようなその声に、またもやホンの幼い顔に苦い笑いがこみ上げる。
四年前よりもさらにヘヴンリーは精度を上げた。より強力に、より依存性は高く、トリップはまさに昇天ものだという。
しなやかな長い指、ジャンキーのくせに艶のある長い髪。
以前にもヘヴンリーを使ったことがあると言っていたが、今回はそうもいかないだろう。一年後には冷たい土の下で、墓標もなく朽ち果てるであろう男をホンはじっと見つめる。
「何?どうしたの?」
機嫌のいい、明るい笑顔。
よほどヘヴンリーが手に入ったことが嬉しいのだろう。恋人にでもするようにホンの短い黒髪をクシャクシャと撫でた。
指先の温度、感触。
誰かにそんな風に触れられたのは何年ぶりだろうかと、ホンは少し驚く。
「…全部いっぺんに使うなよ」
そんな忠告を客にしたことなど一度もないのに。
違う。いっぺんに使うなと忠告したのはすぐに死なれては金づるにはならないからだ。自分で自分に言い訳するかのような考えに、ホンはめずらしく動揺した。
「うん。ありがとう」
男は立ち上がり、ジーンズの尻を払うと、にこっと笑う。
「優しいんだね」
思いも掛けない言葉にホンが面食らってる間に、男はさっさと行ってしまう。
優しい。
臭う泥のように、その言葉はホンの中に微かな淀みを残した。
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