春宵
夕暮れにはまだ早い、平日四時半のビールは背徳の味がする。
天ぷらを揚げる母親の背を見ながら、蔵馬はそんなことを考え、缶から口を離す。
天つゆに生姜に大根おろし、抹茶を混ぜた塩が並び、大皿には次々天ぷらが並んでいく。
気にしないで先に食べなさい、揚げたてのうちに、という言葉に素直に箸を取り、色よく揚がった海老に塩を付けて頬張った。
春は植物にとって目覚めの季節だ。
窓から見える小さな庭は、緑を取り戻しつつある。
次は昼間に来て少し庭を見てやろうと考えながら、蔵馬は二つ目の天ぷらに箸をのばす。
天ぷらにちらし寿司。蛤のお吸い物に桜餅とケーキ。
バランスが取れているようないないようなこのメニューは、子供の頃からずっと変わらない誕生日の夕食だ。
ちらし寿司と蛤のお吸い物というのが雛祭りのポピュラーなメニューだと知ったのは、小学生の時だった。
「秀一くんは?」
義理の弟が同じ名だと知った時、因果なものだと蔵馬は笑った。
自分が奪った「秀一」を、神は彼女に返そうとしたのだろうかと。
「部活。帰りは七時過ぎね、大抵」
「そう」
誕生日休暇、などと突然言い出した義父は、運用開始は年度初めの四月からだが、お試し期間で三月から、などと取ってつけたようなことを言い、義理の息子に笑ってみせた。
血の繋がった母子は夕方を二人きりで過ごし、多分七時頃には帰宅した義父と義弟が加わり、一時間ほど四人で過ごす。
そのくらいの配分がちょうどいいし、ちょうどいいということを義父はわかっている、と蔵馬は椀の蓋を開けた。
この時期いやに高くなる蛤は、ふっくらとした身で澄んだ汁に沈んでいる。
天ぷらを揚げ終えた母親がテーブルにつき、同じように箸を取るのを見つめたまま、熱い汁をひとくちすする。
「これって、雛祭りのメニューだよね?」
子供の頃も同じ質問をした記憶はあるが、答えはもう思い出せない。
蔵馬としては沈黙を埋めるためのどうということのない質問で、人間の女がどう回答するのかなど欠片の興味もなかったあの頃。
「そうね。ちらし寿司と蛤のお吸い物。あとは菜の花のおひたしとかね」
でも私は天ぷらの方が好き。おひたしっておかずにはならないじゃない?
なる?そお?でも天ぷらの方がいいじゃない。ボリュームもあるし次の日のお弁当にも入れられるし。
さくさくと天ぷらを食べ、ちらし寿司を食べる姿に、蔵馬は微笑む。
十年以上も暮らした家が、たった一年かそこらでどうして「よその家のにおい」になるのだろうか、などと考えながら。
「女の子だと思ってたの」
ちらし寿司と吸い物の合間にひょいと投げられた思いがけない言葉に、蔵馬は手を止める。
「え?」
「元々三月三日が予定日だったの。桃の節句の三月三日に生まれるんだから当然女の子だろうって」
息子が用意してあるコップを無視して缶のまま飲んだビールを、母親はきちんと小さなコップに注ぎ、ひと息に飲む。
明るいうちに飲むビールは美味しいわねと笑い、すぐに二杯目を注ぐ。
「…三月三日だろうが他の日だろうが、二分の一の確率じゃない?」
「やだ。同じことを父さんにも言われたのよ」
だって三月三日よ?神様のお告げかと思うじゃない。でも男の子だった。もちろん嬉しかったけどびっくりしたのよね。
母さん、あなたにとってはおばあちゃんだけど、おばあちゃんなんかあやうく生まれる前に雛人形買っちゃうところだったんだから。
「期待外れの息子ですみませんね」
ふざけて言う息子に、自慢の息子よ、秀一も秀一くんもと母親はまた笑った。
橙色と薄紅色、彼女の「気」はその二色だと蔵馬は思う。
あたたかさとやわらかさ、穏やかさの色だ。
けれどひとたび子供に危機が迫れば、燃え上がるような赤に色を変えることをもう知っているし、できればこの先は橙色と薄紅色で生きていって欲しいと願ってはいるが。
あたたかくやわらかく、穏やかな色は人間の愛情で、この家も空気も何もかもがそれに満ちていると、蔵馬は二本目の缶を開ける。
愛を掠めて受け取った秀一の誕生日で、愛を受け取り損なった秀一の命日でもある今日に、銀色の缶で密やかな乾杯をした。
***
「…飛影」
重たいタッパーの中身はちらし寿司と天ぷらで、開いたままの窓からの風に、カーテンはゆるく揺れていた。
春の風にまざる花の香りは、持ち主と同じく凛と清い。
「どうした?」
「どうしただと?」
ムッとしたように飛影は眉を上げ、それでも靴は脱ぎ、窓辺に置いた。
「お前が欲しいと言ったんだろうが」
「…ああ」
飛影が腕いっぱいに抱えている花は、濃い緑の茎に小さく可憐な白い花びらが美しい魔界の花だ。
小さな花びらは縁だけが真っ白く、中心にいくにつれ透明さを増し、中央は飛影の手を透かせている。
優れた再生作用を持ち、肉がえぐれたような傷には必需品の薬の原料だが、咲く場所が極端に少ない。
見つけた時には持ち帰って欲しいと飛影に頼んでいたことを、今夜の蔵馬はすっかり忘れていた。
「ありがとう。今日だったから驚いた」
「今日?」
「オレの誕生日だから。秀一のと言うべきかな」
「別に、そういうつもりじゃない」
皮肉っぽく飛影は鼻で笑い、ベッドに腰かける。
魔界にも祝いごとに花を贈る習慣はあるが、蔵馬の人間としての誕生日など飛影は知るよしもない。
「そういうつもりで今日持ってきたわけじゃない。たまたまだ」
首回りに巻く白い布をほどき、飛影は抱えていた花をきゅっと縛る。
大きな白いリボンを結んだような形になった花束を、立ったままの蔵馬を見上げて差し出した。
「…だが、意味を持たせたいなら、好きにしたらいい」
少し冷たくて、けれどきっちり春の夜のにおいを服んだ風が二人の間をそよりと通る。
花束を受け取り、ベッドに座る飛影の前に跪き、むき出しになった首から顎へと蔵馬の指が伝う。
「飛影」
「なんだ?」
「オレを、愛してる?」
たっぷりの間を置いて、空になった飛影の手が、自分の頬を包む蔵馬の手を握る。
何も答えない赤い瞳は、いつものように強く激しい「赤」を迸らせている。
「ごめん」
ごく軽い口調で蔵馬は言い、笑った。
「なんだかさ、人間の秀一があまりに愛されていたから、蔵馬のオレが嫉妬したのかも」
「わけのわからんことを。…くだらん」
「本当に。お腹空いてる?天ぷらがあ…」
「愛だかなんだか知らんが」
離れかけていた手をきつくつかみ、飛影が睨む。
手をつかんだまま顔を近づけ、唇を重ねた。
「愛だかなんだか知らんが…こういうことをしてもいいと思うのは、お前だけだ」
意味を持たせたいなら、好きにしたらいい。
さっきと同じことをまた、今度は呟くように言うと、飛影は目を閉じた。
腕を引かれるまま、蔵馬は花束を床に落とし、小さな体に覆いかぶさる。
蛍光灯の無機質な光と春の夜風の中で、ゆっくりと絡まり合う。
何もかもを透かす花びらの、花言葉も持たぬ花だけが、二人を見ていた。
...End
2021.03.03 非公式誕生日に捧げて。
実和子 |
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