くろねこライフ...12
116日目
「ラッキーじゃない」
灰色の書類に目を通し、雪菜は言った。
遠い国からから帰ってきた妹は、見慣れないエキゾチックな服を身に纏い、スパイシーな不思議な香りを漂わせている。
「…何がだ?」
会社の寮。
俺の部屋は四ヶ月前と変わらず、何もない。以前と変わらず、殺風景な部屋。買ってもらった服や靴は、全部置いてきた。
綺麗な物など何もない部屋で、俺の胸元でキラキラと光る石だけが、虹のような七色の光を振りまいていた。
もう飼いネコではないのだから、首輪はできない。
二重になっていた紐を解いて、ペンダントにした。
首輪にしていた時は自分ではよく見えなかったが、こうして胸元に下げると本当に綺麗な石だった。
「向こうの都合で契約解除にしてくれたんでしょ?」
そうだ。
蔵馬は、自分の都合で俺を解雇する“雇用主による都合契約解除”扱いにし、払い込んだ契約分の金、三年分の給料の払い戻しの請求をしなかったのだ。
おかげで、俺は当分金には困らない。仕事をする必要もない。三年というのは、この会社では最長の契約期間だ。こうして、昼間からごろごろしていても、会社のやつらに文句を言われることもない。
「まあ、当然よね。治るものなのに、こんなにすぐにクビにするなんてひどいよね」
「………」
…蔵馬が悪いわけではない、が、それを雪菜に説明するのは無理な話だ。
好きだと言われたことなど、恥ずかしくて話せない。
ましてや雇い主と性交したなんて、口が裂けても言えやしない。
「でも喋れるようになったんだから、蔵馬さん、また雇ってくれるかもよ?」
「…願い下げだ。……あの実も、金輪際願い下げだからな、雪菜」
そんなにひどい味だった?と、雪菜は無邪気に目を丸くするが、知っててやったのだろう。
自分では決して食べてみようとしないのがいい証拠だ。
「兄さんのためにはるばる持って帰ってきたのにー」
「…面白半分だっただろ」
「面白かったよ?」
三日前、出張のお供から戻ってきた雪菜は俺の所に飛んできた。
服だの菓子だの、雑多な土産の中にあったその木の実。
勧められるままに一粒口にした俺は、ひどい目に遭った。
「○×?△○?□!? ウニャニャニャニャニャン!! ゲホッ!ウニャッ!」
「アハハハハハ!」
「ウニャニャニャニャニャーッ!!」
「アハハ…これね、ビックリナッツって言うんだって」
「ウニャニャニャニャニャッ!!」
ものすごい味。息ができない。
胡椒とマスタードを凝縮し、そこに酢や塩をどっさり混ぜ込んだような…それでいて嫌な苦味もある。
こんなに不味い物は、野良だった時でさえ食ったことはない。その刺激あふれる味は目にまでしみて、悲しくもないのに涙がぼろぼろ零れる。
「ウニャニャニャニャニャッ!!」
「ショック療法に最適です、って売ってたの。現地のまじない師が」
「ウニャニャニャニャニャッ!!」
「結構高かったんだよ?」
「ウニャニャニャニャニャッ!!」
「もー。他に言うことないの?」
「ウニャニャニャ、ニャニャッー!!…ウニャッ!…ゲホッ…お、お前な!」
俺たちは思わず目を見張る。
「…ゲホッ…ニャアッ……あ…喋れ、る…?」
「ほら見なさい。私はいつでも正しいんだから」
それにしても、顔をこすりながら丸くなってニャーニャー言ってる兄さん、バッカみたいだった。
またもや笑い出した雪菜に、俺は数少ない家具であるクッションを投げた。
***
「しばらく働かないんでしょ?うちへ来る?」
うち、と言うのはあの女社長の家だろう。
なんでも、あいつは俺も飼ってもいいと言っているらしく、いつでも迎えの車を寄越すと言っているらしい。
「いや…今は遠慮しておく」
もちろんいずれ働かなければならない。
雪菜は俺を養ってやるなどと言うが、妹のお荷物になるなどとんでもないことだ。
…でも、今はまだ動けない。
仕事をする気には、なれない。
雪菜が買ってきたサンドイッチを、二人でつまむ。
クリームチーズやスモークサーモン、オリーブ。パリッとしたパン。
サンドイッチは、いかにも雪菜が選んだ物らしい、高級な店の味がした。
「兄さんもうちの飼いネコになればいいのに。躯はお金持ちだし、頭がいいし美人だし、楽しいよ」
「他のネコがいるのは嫌なんじゃなかったのか?」
「兄さんなら別。許したげる。だからおいでよ」
「…そう…だな…」
「兄さんのことも、躯はきっと幸せにしてくれるよ?」
「幸せ…?」
…幸せ?
香りの強いオリーブが、喉につかえた。
幸せと言われても、俺にはそれがどういう状態を指すのかよくわからない。
俺たちは元々捨てネコだったのだから、今こうして屋根のある場所にいて、食い物があればそれでいいような気もする。
何より、俺にとっては妹が、雪菜が幸せに暮らしていればいいのだから。
…それ以上、一体何を望むと言うのだろう?
一体何が、欲しいと?
蔵馬の作る、サンドイッチ。
俺の髪を撫でる、蔵馬の手。
笑いながらのキスで起こされる朝。
一緒のベッドで眠る蔵馬の体温、寝息。
俺の体に入り込んできた、蔵馬の体。
あんなふうに、誰かの体の一部が自分の中に存在して、それが脈打つのを感じるなんて、想像したこともなかった。
…たったの、100日かそこらの間のことなのに。
どうしてこんなに、俺は囚われているのだろう?
金で契約を交わした、ただそれだけのことなのに。
自分から望んで契約をだめにしてしまったくせに。
…好きだよ。
…愛してる。
闇の中で囁かれた言葉になど、意味はないはず、だ。
今となっては、その言葉さえも、自分の寝ぼけた夢だったのではないかと思えてくる。
…好きだよ。
…愛してる。
あいつは、俺のことを本当に…?
同情、だとか…そんなものではなく?
自分のプライドを守りたいがために、自分の大切な物を谷底に落とすのは、馬鹿者だけだ。
俺は…この100日の間、もしかして、幸せだったのだろうか?
……俺は、馬鹿者なのだろうか?
「にーいーさん!聞いてる?」
ハッと我に返り、ふくれっ面の雪菜に謝る。
「悪い、聞いてなかった。なんだ?」
「取り合えずさ、家に泊まりにきなよ」
躯が飼うとかどうとか、そんなのは別にして、ただ遊びに。
一週間くらい、一緒に遊ぼうよ。もうすぐ迎えの車が来るし。
そうだな。
それも悪くないかもしれない。
俺は頷いて、雪菜の後に続く。
外泊許可証を取り、店を通って外に出ようとした俺たちの目に、それは飛び込んできた。
「ねえ、あれ…蔵馬さんじゃない?」
その言葉に、ハッと身を隠す。
長い黒髪、均整のとれた長身。
見間違えるはずもない後ろ姿は…
赤い薔薇の花束を抱えていた。
***
「もう次のネコを探しにきたのかな…むぐっ」
ー雪菜、人語を喋るな
廊下と部屋を繋ぐドアの影に身を隠したまま、雪菜の口をふさぎ、俺はネコ語で鋭く囁く。
ーなんで?
ーいいから。喋るな
ーいいけど…
来客ルーム、と呼ばれている広い部屋には、仕事待ちのネコたちが何十匹もいる。
それを冷やかし半分に、あるいは真剣に物色している人間たちの中に、蔵馬はいた。
真剣に見ているわけでも、冷やかしているわけでもない。
ただ、何かを確認するために見て回っているという感じだ。
一通り見て回った蔵馬は、面談室で客の相手をしていた社員に、何か話しかけた。
他のネコたちも好き勝手にネコ語や人語で喋っているので、俺や雪菜のネコ耳でも何を喋っているのかは聞き取れない。
ふと、社員が肩をすくめ、困惑した様子で首を振る。
ー何話してんだろ?
雪菜が俺の耳元で囁く。
それは俺の方こそ知りたい。
もう一度くるっと部屋を見渡し、何を思ったか蔵馬は大きく息を吸い込んだ。そして…
ー飛影ーっ!!
いきなり大声で俺の名を呼んだ。
ーにゃっ!
ーにゃっ!
広間にいたネコたちはもちろん、俺たちも驚いて同時にネコ語で叫んでしまった。
しまった…
聞こえた…?
いや、大丈夫。
なんせ蔵馬の大声に驚いて、部屋中のネコがいっせいにニャーニャー言ったのだから。
俺のネコ声なんて聞き分けられるはずがない、そう思っていたのに、蔵馬は俺と雪菜が隠れている扉の方に、つかつかと歩み寄る。
慌てて寮の方へ通じる階段に戻ろうとしたが、もう遅い。
ー飛影…
大声に驚いて廊下にぺたりと座り込んでいた俺たちに、蔵馬がもう一度声をかけ…
ん?
こいつ、今…ネコ語を話さなかったか?
ネコ語で名を呼ばれていたことにようやく気付き、俺はびっくりして顔を上げた。
大声に白い耳を両手でふさいでいた雪菜もそれに気付いたらしく、目を丸くする。
険しい顔つきで俺を見つめていた蔵馬の表情が、ある一点を見た途端、ふわりとほどける。
視線の先は…蔵馬から貰った、首輪…今はペンダント…だ。
ー飛影
「ネコ語、喋れるの!?」
雪菜が驚いて人語で聞く。
蔵馬は自分がネコ語を覚えるなどと言ったが、無理な話だと思っていた。
ネコ語やイヌ語は特殊で、どんなに学んでも喋るどころか聞き取れるようになる人間も滅多にいない。
雪菜の言葉に困ったように苦笑いすると、蔵馬は首を振った。
「ううん。まだ全然。なんとか飛影の名前だけ」
ー雪菜、俺が喋れるようになったことは言うな!
口を開きかけた雪菜を慌てて制する。
うにゃ、ともごついて黙った雪菜が、抗議の視線を俺によこす。
「飛影」
「……にゃあ?」
「君を解雇した以上、俺と君はもう雇い主と飼いネコじゃない」
「………」
それがどうした?
…わざわざ、そんなことを言うために?
そのために呼んだのか?
胸の中に、何かひんやりしたものが満ちる。
「…にゃ?」
「これで、君と俺は対等だからね」
対等?
意味がわからん。
おまけに雪菜だけではなく、部屋中のネコがこちらに聞き耳を立てているのが感じられる。当たり前だが。
蔵馬が膝を折り、座り込んでいる俺と同じ目線になる。
すっとのばされた右手が、俺の頬に触れる。
なんなんだ?
何を…?
「飛影、俺のネコになってくれませんか?」
***
その言葉が耳から頭の中に入るまで、数秒かかった。
「にゃぁ…?」
「もちろん一度断られたことはわかってるよ」
けれど、お願いだ。
もう一度考えてみてくれないか?
蔵馬の真剣な眼差しに、声に、
俺は頬に触れる温かい手を、払いのけることができない。
「喋れなくてもいい。俺が必ずネコ語を覚えるから」
「にゃあっ?」
「あんなことして、愛してるって言ったけど…」
「…うにゃ!?」
「抱いている時に、そんな告白をするなんて間違ってた」
「…にゃっ…?にゃにゃにゃ…っ」
「その場の弾みとか、そんなんじゃない。俺は本当に君を愛…」
「…!! うにゃにゃにゃにゃにゃっー!!…っもういい!やめろ!!」
思わず人語で遮る。
恥ずかしい。
ネコに求愛するなんてバカか!
しかも…
雪菜はこっちを見つめ、ぽかんと口を開けている。
部屋の中のネコ達も人間の社員たちも、絶対に聞いているはずだ。
頭の中がカッカした。
「……喋れるようになったの?」
「ああ!! だからとにかく黙…っニャッ!」
がばりと、抱きしめられる。
蔵馬の体は温かくて、さっきまでのひやりとした胸の内が、ぼんわり温かくなる。
「良かった!飛影~!」
「何をす…!バカ!放せっ!!」
…周りに誰もいなかったら、このままでいたかもしれない。
ウニャウニャもがいて、やっと蔵馬の腕の中から脱出し、立ち上った。
「俺は…お前のネコにはならない!そう言ったはずだ!」
心のどこかで、自分を叱る、バカ、という声が聞こえた気がした。
本当は、後悔していた。
側にいたいなら、いたいと言えば良かった。
意地を張って、せっかく手に入れかけた…幸せ、というやつを、俺はまたもや自分で谷底へ蹴落とそうとしている。
「兄さん…?」
わかっている。
でもしょうがない。
これが俺なのだから。
「俺は断っただろう!なぜまた…」
「…君が、その首輪をまだしていてくれたら、もう一回だけ、挑戦してみよう、って」
蔵馬の指先が、胸元の石に触れる。
窓のない廊下でも、石は煌めき、光を放った。
綺麗な石。
虹のような七色の光。
蔵馬が俺に似合うと買ってくれた、この石。
…ふいに、力が脱けた。
「飛影…?」
この石は、俺や蔵馬の生まれるずっと前からあったのだろうし、
俺や蔵馬が死んだ後にも、このままずっと、どこかで輝き続けているのだろう。
なら…
この石からしたらほんのわずかな時間なのに。
何を意地を張る必要がある?
与えられた時間を、幸せな時間に変えてくれる者が現れたのなら…
躊躇う必要なんて、ないはずだ。
「蔵馬…」
「はい」
「本当に、俺のことが…好きなのか?」
蔵馬は無言で、真っ直ぐに俺を見て、頷いた。
「…わかった。……それなら、いい」
「…え?」
「…俺は、お前と暮らす」
「本当に!?」
「文句があるのか?」
「ない!ないです!」
「…いてっ!」
しっぽをつねられた。
俺の黒い長いしっぽをつねり、渋い顔をしているのは雪菜だ。
「雪菜…」
「クビになったなんて。嘘つきなんだから!」
「嘘をついたわけじゃ…」
「はいはいはい」
呆れた風に手を上げて、雪菜は溜め息をつく。
「ばっかばかしい。私帰るからね!まったくもう!」
またねー、と手を振り、雪菜はドアに手をかけた。
「困りますよお客様!」
外に出ようとしていた雪菜も、俺の肩を抱いていた蔵馬も、その声に驚いて振り向いた。
「うちのネコは、全てわが社の管理下にあります!勝手なことをおっしゃられても…」
俺はいまいましく舌打ちした。
ガメツイ野郎だ。
元々俺はこの派遣会社としてはクビにしたいネコだったはずだ。
売れネコである妹の利益を見込んで、派遣登録から外さずにいただけだ。
なのに今になって、蔵馬が金になる客だと知って、そんなことを言い出すとは。
「どうしてもとおっしゃるなら、飛影が辞める分の違約金を頂きますからね」
「なんだと貴様…!」
思わず社員に飛びかかろうとした俺を、蔵馬が止める。
その瞬間、どこかで、パチ、という小さな金属音がした。
シャラ、と音を立てて、空中を青い光が横切り、俺が飛びかかろうとしていた社員の足下に落ちた。
「くれてやるわ。私と兄さんの分の違約金よ」
それは、大きなサファイアついた、雪菜の首輪。
みっともなく大慌てで這いつくばってそれを拾う男に侮蔑の笑みを浮かべ、雪菜は俺と蔵馬の手を取った。
「兄さん、蔵馬さん、行きましょ。こんな所とは永遠にバイバイよ」
***
「おい雪菜…!」
「なあに?」
いいのか?躯がくれた物だろう?
「いいの」
「違約金は俺が払うよ、だからあれは返してもらおう、雪菜ちゃ…」
「いーの!」
石畳の歩道を歩いていた俺たちの側に、黒塗りの車がすうっと停まった。
「急に迎えに来いだなんて、本当にわがままネコだな、雪菜」
言葉とは裏腹に、開いた窓から顔を出した女社長の目は笑っていた。
「躯!私、あなたのネコになる!」
「急にどうした…?誰か一人のネコにはならないって言ってたくせに」
運転手の開けたドアを洗練された身のこなしで降り、躯は雪菜を抱き上げ、髪を撫でる。
「なってあげる。世話の焼ける兄さんが片付いたから」
なっ?
俺が?世話の焼ける兄?
「雪菜…?」
「兄さんが辞めるんなら、別に派遣ネコでいる必要ないし」
そう言いながら、雪菜は躯にぎゅっと抱きつく。
「ん?お前首輪はどうした?」
「なくしちゃった。新しいの買って!あなただけのネコになった記念に」
「まったくお前は困ったネコだな…」
言葉とは裏腹に、躯は嬉しそうに笑っている。
「兄さんから目を離さないでよね、蔵馬さん!」
私が喋れるようにしてあげたんだから。兄さんはほんっとに世話の焼ける人よ。
言うだけ言ってさっさと車に乗り込んだ雪菜に、蔵馬は持っていた薔薇の花束を差し出した
「くれるの?」
「うん。綺麗なお二人に」
「ふーん。ありがと」
「こちらこそ。…ありがとう、雪菜ちゃん」
「いいよ。私の兄さんだもん」
じゃあ兄さん、またねー、と陽気に手を振る妹を乗せ、高級そうな車はなめらかに走り出し、あっという間に見えなくなった。
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