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傷は小さい割には深く、ずいぶんと血を流した。
赤く染まった手を空へ掲げ、鈍色の空を赤い指の間から眺める。
この一年、何をしていたのかと問われれば、ただ戦っていたとしか答えられない。
強くなりたいというのはたいていの妖怪の本能なのだから、ただ本能のままに生きていただけだとも言えるし、戦うことで逃げていたのだろうと、もし誰かに指摘されたなら、反論もできない。
多分、逃げていた。
考えたくないことを、考えないですむように。
「あと一年、待っていてくれないか」
一年前、老いてなお美しさを残した男は、オレにそう言った。
待つのは構わない。
もう五十年近くも待っていたのだ。一年という時が、今更なんだというのか。
白いものが混ざって銀色のように見える、短くなった髪から目を逸らし、オレは答えた。
「…待つのは構わない。だが、今度会うのは一年後だ」
***
五十年、というのは人間界では長い時に相当するのだろう。
人間としては長生きだったらしい、あいつの母親が死に、あいつは約束通り魔界へ帰ると言った。
「…約束、か」
幾度も、蔵馬は母親が寿命を全うした後は魔界へ帰ると言っていた。
〝南野秀一〟の母親の死を、オレは嘆いても喜んでもいなかった。
嘆いても喜んでも、違うような気がした。
嘆いては嘘だろうし、喜べばまるで死を待ち望んでいたかのようで、母親を大切に思っていた蔵馬のことを思えば、気が引けた。
「つれないな。魔界へ帰るよ」
でも、とやつは、ふと遠くを見た。
見てくれだけの話であれば老いはどうしたって醜いものであるはずなのに、その横顔は美しく、無駄のない体つきも変わらない。
「オレ自身も、片付けないとね」
オレは無言で頷き、同じように遠く、と言ってもたかが知れている人間界の窓の外を見た。
南野秀一は、七十年近くも人間界にいた。
人間として生まれ、人間として生き、人間として老いていった。
その痕跡や人間たちの幾つもの細かな記憶は、夢幻花を使ったところで綺麗に消し去ることは難しい。
もっとずっと簡単な方法がある。
それは、南野秀一自身が、真っ当な人間らしい理由で死ぬことだ。
「ま、せっかくだからね。弟に少しは遺産も遺してやれるし」
そう言って静かに笑い、蔵馬は自分の体にありふれた病の種を撒いた。
***
今度会うのは一年後だと告げたオレに、蔵馬は一瞬驚いた顔をし、すぐに微笑んだ。
わかっている、とでも言うように。
あるいは、わからないが、構わない、とでも言うように。
ある日ぷっつりと人間界に行かなくなったオレに、躯は何か言いたげな眼差しを、時雨は咎めるような眼差しを寄越し、それでいて二人とも何も触れてはこなかった。
あの日どうして、離れるという選択をしたのだろう。
赤く染まった手。鈍色の空。
見上げたまま、一年前を思う。
蔵馬は化けていた。母親を見送るために、人間としての老いを装っていた。
その仮の姿であっても、病に倒れ、葬られるのを見たくなかったのかもしれない。
それも理由の一つではあっただろう。
けれど本当の意味では、それは答えではない。
「約束…」
蔵馬はずっと、母親が寿命を全うした後は魔界へ帰るのだと宣言していた。
幽助にも、自分と同じように年老いた桑原にも、年老いた桑原と未だ一緒に暮らす雪菜にも。
魔界へ帰る、という蔵馬の言葉を信じていなかったわけではない。
離れる選択をしたのは。
認めたくはないが、逃げ出したのは。
魔界へ帰るという言葉は、オレの元へ帰るという意味ではないのかもしれないと、ようやく気づいたからだ。
指先でまるく膨らんだ赤い雫が、頬にぽたりと落ちた。
ある意味で、蔵馬は人間界に捕らわれの身だった。
母親を見送ると決めた以上、やつはどこにも行けなかった。
人間どもと上辺以上の付き合いはできず、交わるわけにもいかず、ただあの場所で時を過ごす中で、側にいたのがオレだっただけのことだ。
魔界に戻ればまた、強く逞しく銀色の長い髪をなびかせ、全てを手に入れることができる。
その時、側にいるのはオレだろうか?
頬に落ちた雫が流れ落ちるのを感じた瞬間、爆発するような歓声が遠く聞こえた。
***
「おい、祝いの言葉の一つもないのか?」
決勝戦の最中に残骸になったらしい石の闘技場に腰を下ろし、躯はにやりと笑う。
相変わらず、強い女だ。
さすがに無傷というわけにはいかなかったようだが、腰を下ろし、無駄口を叩けるくらいの余力も残っている。
「かわいい部下のために、敵を取ってやったんだぞ?」
何が敵を取った、だ。
準決勝戦でオレを破った相手を、躯が決勝戦で破ったというだけの話だ。
少し離れた別の闘技場から、また歓声が聞こえた。
「行ってこいよ、飛影」
躯の言葉に、オレは首をふる。
このトーナメントに三位決定戦、というのができたのは数年前で、二位には望むものが二つ、三位には望むものが一つ与えられる。
ただしそれは、優勝者が許す望みに限り、だが。
優勝以外の勝利になど、意味はない。
三位決定戦になど、参加するつもりはなかった。
「行けよ。勝てたら、オレはお前の望みを許してやるよ」
「オレの望み?何を言っ…」
オレの言葉を聞き終わらずに、躯はひょいと立ち上がり、足を少し引きずりながら去って行った。
***
燃えるような緋色の羽を持つ鳥が、文をくわえて百足を訪れたのは七夜前のことだ。
鳥に案内されるままに訪れた、深い森の中にひっそりと建つこの小さな館で、オレは今夜も窓辺に座り、青白い月を眺めている。
毎朝、器に新鮮な水を汲み、木の実と果物を皿に乗せてやると、鳥は嬉しそうに嘴を突っ込んだ。
陽のある間はどこぞを気ままに飛び回り、夜が近付くと戻ってくるこの鳥は、今は隣の部屋の止まり木で背に顔を埋めて眠っている。
手持ち無沙汰に月を眺めては、白い紙に綺麗な文字で書かれた文を眺める。
帰るよ。
ただそうひとこと、書かれた文を。
懐かしい文字を。
小さいとはいえ、館には書庫も宝物庫もある。
着替えになりそうな服を少し探しただけで、あとはろくに見てもいない。
蔵馬が、帰ってくる。
それが今夜なのか明日なのかその先なのかはわからないが、近いうちにだろう。
そうでなければオレをここへ呼ぶ意味もない。
会って、何を言えばいいのだろう。
人間どものように、おかえりと?
まあ、挨拶なんぞどうでもいい。
問題は、その後どうするのかということだ。
この時を待っていたはずだ。
五十年という、人間にとっては長く、オレにとっても本当は長かった時を。
なのに、オレは恐れている。
蔵馬が帰ってくるのを今か今かと待ちながら、今日でなくてもいい、明日でいい、と。
寝室ではなく、窓辺に引きずってきた長椅子に横たわる。
寝心地がいいわけではないが、大きなベッドでひとりきりで目覚めるよりは、ずっといい。
脱いだままの形で転がる靴を視界の端におさめ、マントに身を包み、目を閉じた。
***
背にやわらかな重みを感じ、目が覚めた。
窓の外はすっかり明るく、魔界らしくもなく晴れた空は眩しいほどだ。
「腹が減ったのか?」
おかしな鳥だ。
森の中には果物も木の実も、新鮮な水が湧く泉も山ほどある。だというのに、こうしてオレに催促をするのだ。
緋色の鳥は背中をとすとすと歩き、床をかちかちと爪を鳴らして歩き、窓をこつこつと突いた。
「待て。今、水を汲んで…」
寝そべったまま手を伸ばし、なめらかな羽をひとなでし、窓の外に目を向けた瞬間、息ができなくなった。
館の門、森と庭との境界線にある、緑の蔦が絡みつく門を開けて、近付いてくる。
もう一度鳥を撫で、オレはゆっくり起き上がる。
窓を開け、裸足のまま庭へ下りた。
自分の足が自分のものではないように、ふわりと頼りない。
走ることもできずに、ただゆっくりと門へと続く道を歩いた。
艶のある、輝くような黒髪が風になびく。
しなやかな体を、飾りのない白い服に包んで。
人間どもも妖怪どもも虜にした、美しい生き物がオレに向かって笑みを浮かべていた。
足のうらに、朝露に濡れた冷たい土の感触がある。
美しい森の美しい道で、蔵馬は立ち止まった。
手を伸ばせば届くところに、あの頃のままの蔵馬がいた。
「飛影」
声。この声。
声というものも、老いるものだったのか。
一年前のあの時とは違う、みずみずしく響く声が、オレの名を呼んだ。
「…ただいま」
おかえり。
ただそう言えばいいのに、口の中がからからで、声が出ない。
おかえり。
魔界へおかえり?
オレの元へ、おかえり?
願って願って願っていたことが、叶うとなると怖い。
いや、叶っているとは思えないからこそ、怖いのか。
「飛影」
もう一度オレの名を呼び、蔵馬は両手を広げた。
この腕の中に、飛び込んでこいとでも言うように。
けれど、オレの足は動かない。
「…蔵馬。帰って、きたんだな?」
「約束しただろう?」
約束はした。魔界へ帰ると。
帰ったあとどうなるかの、約束はなかった。
「なぜ、その姿なんだ?」
考えるより前に、口に出た。
魔界に戻ってくる時は、妖狐の姿だろうと思っていたからだ。
「先にお前に愛されたのは、この姿だったから」
何か言え。何か返せ。
くだらん、オレはどっちだって良かったとか、魔界に戻ってきたなら、相手は選び放題だろう、とか。
あと一歩で蔵馬の腕の中。
その一歩を残したまま、オレはただ蔵馬を見つめて、何も返せずにいた。
「飛影」
「…なんだ」
「お前がいるから、帰ってきた」
魔界に帰ってきたのは、お前がいるからだ。
お前がここにいないのなら、きっとオレは人間のまま、本当に死んでいた。
わざわざ人間から奪った命なのに、たいした未練もなく。
「お前がいるからなんだよ」
「……くら、ま…」
欲しかった言葉。
望み通りの答え。
朝露の冷たさが、今この時を夢ではないと教えてくれている。
欲しかった言葉。望み通りの答え。
そんなものを受け取る資格が、オレにあるのだろうか?
皺ひとつ、染みひとつない蔵馬の手が、オレへ向かってのばされる。
すべるように頬に触れ、唇をかすめ、オレの左手を蔵馬は取った。
「飛影」
持ち上げられた左手、薬指に銀色の輪が落ちた。
硬く輝く、銀色の輪。
これがなんだかわかるくらいには、オレも人間界にいた時間は長かったらしい。
「愛してる」
冷たい輪のはまった指に、蔵馬は唇を落とす。
唇の温度が金属の輪に移り、ぬくもっていく。
「…お前でも、泣くんだな」
「泣いてなど」
頬を伝った一滴が、地に落ちて朝露に混ざる。
何をしているのだろう、オレは。
「帰って、きたんだな?まか…」
「魔界へじゃない。お前のいる魔界へ、帰ってきた。オレの帰る場所は、お前しかないよ」
空いている右手の甲で、ぎゅっと顔をぬぐう。
見上げた先には、深い森の色をした瞳がある。
残りの一歩を踏み出し、一年ぶりの腕の中に飛び込んだ。
「……おかえり」
***
それはいつでも少しずつ違うものなのだろうが、五十年の間になんとなく、やり方のようなものはあったように思う。
お互いのどこに触りたいとか、どこをどんな風に触られたいとか。
突き上げられるのに合わせて動かす腰の角度だとか、どこまで上りつめたら自分を手放してもいいのか、だとか。
前戯も何もなく、一秒でも早く、繋がりたかった。
たったの一年であの頃の手順を忘れるわけもないのに、まるで初めてこうして繋がるかのように、不器用にがむしゃらに突き込まれ、みっともなく声を上げた。
「う、あ!っく、あ、あ!あ!うあぁ…」
「…飛影…ひえ…い…」
痛みは剥き出しで、快感は布のようなもので覆われている。
それでも、そんなことは些細なことだった。
穴はぐちゅぐちゅと濡れた音を立て、必死で蔵馬を飲み込んでいる。
抜かれるたびに引き止めるかのように締めつけて、入ってくるたびに奥へ吸い込むように広がっている。
「……くら…ま…っ」
自分の体の中に蔵馬がいる。
それだけで頭のてっぺんからつま先まで、熱く痺れるようだった。
腹の中が熱い。
しがみついて叫んで、出して、抜かれた途端にまた挿されて、叫んで。
穴からあふれ出した種が、べたべたと尻に広がっていく。
「っああ、あ!あ!あ!、くらま、蔵馬…く、あ…」
「あっ……飛影…」
蔵馬が戻ってきた。
魔界へ戻ってきた。
オレの元へ戻ってきた。
オレの帰る場所は、お前しかないよ。
深く突き上げられたその瞬間、もう一度、そう囁かれた。
その言葉が痛みを押しのけ、今度は快感を剥き出しにする。
下りようとしていた体が、力いっぱい高みへ押し上げられた。
***
全身を震わせたまま、土と草との上に倒れ込むように横たわる。
同じように横たわり、向かい合ってオレを抱いている蔵馬もまた、息を弾ませている。
水でも浴びてきたかのようにオレたちは汗をかき、濡れた髪を互いに指先でかき上げた。
「もう少しこのままで、いい?」
「……いい」
オレはまだ足を広げたままで、尻の中では蔵馬が脈打っている。
いったいどのくらいの時間が経ったのか、陽はすでに高く、尻の中のものはさすがに硬さは失っていたが、自分のものではない体温が体内にあることがひどく心地よい。
最高に気持ちが良くて、最高にくたくただった。
とろりとした眠りの波に飲み込まれそうになっていたオレの唇に、冷たい何かが当たる。
「ん…?」
銀色の輪。
オレの左手に光るものとよく似ている。
「オレにもはめてよ」
尻の中のものが抜けないように、注意深く体をよじり、我ながら不器用な手付きで左手の薬指にねじ込んだ。
二つの指輪は、どうやら同じ物で大きさが違うだけらしい。陽の光を反射し、きらきらと輝いている。
「…綺麗だな」
「人間界では、共に生きることを誓った者たちが贈り合う指輪なんだ」
人間として生きた時間があったから、お前に会えた。
だからこそ、これを贈りたかったんだ。
「約束を、形にしてお前に渡したかった」
お前は疑い深いから。
低く甘い声が、そう告げる。
皮肉な言葉も、毒づく言葉も出てこない。
まだ体の中にある温度が、吸い取ってしまったかのようだ。
「百足にいる時は付けないとか、なしだよ?」
「…安心しろ。もう百足はクビになった」
クビ?と目を丸くする蔵馬に、オレは笑ってやる。
三位決定戦のいきさつと、オレの望みと、躯の許しと。
この一年の話を、急ぐ必要もない。
力の入らない手をなんとか動かし尻を持ち上げ、耳を塞ぎたくなるような濡れた音を立てて、引き抜いた。
また湧き上がった快感に、全身がぞくりと震える。
「…ん、っぁ、ふ」
「そんな声を聞くと困るな」
覆いかぶさろうとした蔵馬を笑って押しのけ、館を指差す。
窓辺で不満げに毛を逆立てている鳥を。見守るだけで邪魔しに来ないとは、可愛いやつだ。
「あいつが待ってるぞ。水を汲んでこないとな」
立ち上がっただけでひっくり返りそうなくらい、足が震えている。
下だけを履き、オレを抱き上げようとする蔵馬の手を払い、脱ぎ捨ててあったマントを羽織り、先を歩く。
「飛影」
あけっぱなしの窓に手をかけたまま、オレは振り向く。
「オレには言ってくれないのか?」
何をだ、などと不毛な言葉は返さない。
多分こいつには聞こえているんだろうな、と緋色の鳥をちらりと見下ろす。
背の高い肩に両手をかけ、目一杯背伸びをして。
屈んだ蔵馬の顔が、オレの目の前にある。
目を閉じて、ごく短いその言葉を、蔵馬へ渡した。
...End.
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2021年、くらひの日に捧げて。
うかうかと9月1日を留守にしていてアップが遅れてしまいました。
書きたいものを自分のペースで気ままにアップしていきますので今後もよろしくー。
実和子 |
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