水月
頬をなぞる指に、飛影が目を閉じる。
目を閉じると幼くなるその顔を、蔵馬は両手で包み、唇を重ねた。
「ん……」
白い頬に血が上るのはいつだって扇情的だ。
薄く開いた唇に蔵馬が舌を差し入れようとした瞬間、二人は同時に目を開けた。
「バカッ…離れろ…!」
飛影が慌てたのも無理はない。
二人が同時に感じた気配は、雪菜のものだったからだ。
控えめなノックの後に、蔵馬さん、飛影さん、とかわいらしく二人を呼ぶその声。
口元を拭う飛影を横目で確認し、蔵馬は引き戸を開けた。
「雪菜ちゃん。どうしたの?」
部屋に入ってきた彼女は、ふんわりと甘い匂いがした。
りんごの匂いだ、と蔵馬は気付く。
「螢子さんに教わってお菓子を焼いたんです。お茶淹れましたから、召し上がりませんか?」
にこにこ笑って言う雪菜は、白く小柄で愛くるしい。
彼女自身が、甘い菓子のようだった。
「…オレはいい」
飛影はそっけなく言うと、部屋を出ようとした。
「あの、私あんまり上手にお菓子作れないんですけど、でも、今日は美味しくできたんです…」
ちょっと悲しげな顔で、そんな風に言われては。
言葉に詰まった飛影の肩を蔵馬はポンとたたく。
「氷女の作るお菓子なんて、前代未聞だなあ」
ぜひいただかなくちゃ、ね?飛影。
そう言って、蔵馬は廊下の方へ、飛影の背を押した。
雪菜は嬉しそうに飛影の後ろを歩き、甘い匂いの元になっている広間へと向かう。
廊下の角を曲がる瞬間、一瞬振り向いた彼女は、蔵馬に向かってニッと笑った。
***
幻海の、庵。
山奥のその古びた建物は、広さだけは十分にあり、時折こうして集まって合宿のように泊まりで手合わせをしたりする。時折旅に出かける幻海が、留守の間は好きに使っていいと言ってくれたのだ。
林間学校みてえだな、と喜ぶ幽助と桑原に、飛影はいつも通り冷めた視線を投げる。
人間界でできる手合わせなどたかがしれている。
結界を張って多少は霊気や妖気の漏れを防ぐが、全力でやるようなことになればコエンマがカンカンになって飛んでくるだろう。
だから、この手合わせは、訓練というよりは顔馴染みの集まりでしかない。
そんな集まりに飛影が顔を出すのは、もちろん…
「蔵馬さん、飛影さん、はい。召し上がってみてください」
…もちろん、妹の顔を見れるからだ。
皿に乗せられたそれはアップルパイで、白い雪のような粉砂糖がかかり、アイスクリームが添えられている。
「アイスが作れちゃうなんてすごーい、雪菜ちゃん!さっすが氷女!」
「美味しーい!初めて作ったって本当?」
しかもさあ、溶けないんだよ?コエンマ様にもお土産に持って帰ろうかなあ?
螢子とぼたんはしきりに感心しながら、アップルパイとアイスクリームを頬張る。
アップルパイは焼き立てだったが、雪菜の作ったアイスクリームは溶けることもなくその隣にある。溶けないアイスクリームに、みな驚いたり、喜んだりだ。
がやがやと好き勝手に喋り、食べている大広間。
一人でいるのは縁側でぼんやりとアップルパイを口にしている飛影と、それを離れた所から見つめている蔵馬だけだ。
蔵馬の手に持った皿は、手付かずのままだ。
そこにタタッと小走りに走ってきた雪菜が、蔵馬さん、召し上がらないんですか?と首を傾げる。
「んー。これ、毒入りかな?って考えてたんだ」
「まさか。誰がどれを食べるかわかりませんもの」
騒がしい大広間で、部屋の隅で交わされる二人の会話は、誰の耳にも届かない。
「わかってたら、入れるの?」
「どうかしら」
蔵馬は苦笑すると、アップルパイにフォークを入れた。
優雅な動作でそれを口に入れ、味わう。
「…美味しい。ところでさ…」
「はい?」
「さっき…わざと、でしょ?」
「はい」
やっぱり、と蔵馬は苦笑する。
「薄々気付いてたけど、オレのことが嫌い?」
「もちろん嫌い。だって…」
雪菜は、蔵馬の皿から、指先で掬ったアイスクリームを舐める。
「だって、私もあなたも、兄が欲しいのなら」
あなたは邪魔よ。
…殺しちゃいたいくらい。
蒼い瞳を細めて、氷女は囁いた。
***
「お前は、やらないのか?」
ふう、と疲れた溜め息を吐いて座り込んだ蔵馬に、飛影が声をかける。
幽助と桑原の二人は、すでに手合わせを始めていた。
「冗談でしょ?オレたちはこれで疲労困憊」
「そうだよー。こんな強い結界を作るのは大変なんだよ」
「そ。三人でごゆっくり」
蔵馬の側に同じように座り込んだのはぼたんだ。
二人はいつもより強力な結界を手合わせのために作ってやったのだ。
「お前はいつもそう言う。…つまらんな」
そう言いながらも、飛影は目を輝かして結界の中に飛び込んで行った。
***
「…オレって、お人好しかも」
「今ごろ知ったのか?」
飛影の嘲笑に、蔵馬はふくれてみせる。
二つの布団の敷いてある部屋には、幽助と桑原を引きずって行く。
三つの布団が敷いてある部屋は、女の子たちの部屋だ。
「人間って、酔いつぶれると重い」
ブツブツ言いながらも、蔵馬は次々と酔いつぶれた皆を布団に運ぶ。
宴会の後始末は、毎回必ず蔵馬の仕事だ。もちろん飛影は手伝う素振りもなく、それを眺めている。手合わせの後に行われる恒例の宴会には、飛影はほとんど参加しない。酒は苦手なのに、それをからかわれ、無理やり飲ませられるのが嫌だからだ。
「よっ、と」
螢子を運んで寝かせてきた蔵馬は、今度はぼたんを抱き上げる。
「飛影、雪菜ちゃんをお願い」
「…嫌だ」
「照れることないでしょ、お兄ちゃん」
「バッ…!聞こえたら…」
大丈夫だってー。
みんな今日もかなり飲んでたもん。
ぼたんを抱き上げて大広間を出て行った蔵馬の背を見送り、飛影は白い頬を薄く染めて眠る妹を抱き上げた。
「飛影ー?何してんの?」
ぼたんを寝かせ、布団をかけてやっても来ない飛影と雪菜を、蔵馬は呼ぶ。
「飛影…?」
誰もいない大広間に、ひんやりとした夜風が抜けていった。
***
「…見つけた」
「隠れてませんよ」
幻海の庵は山奥だけあって、たっぷりの木々に囲まれている。
森の奥、小さな池のほとりに飛影と雪菜はいた。
「こんなに木々のある場所で…あなたから隠れることはできませんもの」
着物姿で優雅に腰を下ろすその姿は、月明かりも相まってひどく妖艶だった。
雪菜にもたれるように座る飛影の目は、開いてはいるが何も映してはいない。
「どうして、彼を?」
「あなたと同じ理由で」
「ふうん。オレは今夜、彼とセックスしようと思ってたけど、君も?」
蔵馬は面白そうに笑うと、同じように池のほとりに腰を下ろす。
「ええ。月明かりの下で」
「いいね。でも彼は屋外でするのは好きじゃないみたいだよ。恥ずかしがり屋だからね」
「そうなの?兄さん?」
その問いかけは、自分にもたれる兄に向けたものだ。
飛影は、ただじっと水面に映る月を見つめている。
「何を飲ませたの?」
「別にたいした物じゃないわ。…お眠り」
そう言って、雪菜は飛影の頬を撫でる。
力が抜けたようにすとんと目を閉じる兄の頭を抱え、膝に乗せる。
妹の膝の上で、飛影は幼子のように寝息を立てた。
「…君は、飛影のこと…」
「好きよ」
遮るような言葉が、水面をすべる。
「意外だな。本当に?」
「…さあ。わからない。母の想い、かも。母が…私の体を借りて、我が子を愛したいのかもね」
「それって…愛情、かな?」
「というよりは、執着、かも。…殺したい、ような気もするから」
むしろ、怨念かしら?
雪菜は笑う。
自分の膝の上で眠る飛影の頬に、瞼に、唇に、冷たい指を這わせながら。
「蔵馬さん、私とあなた…どちらかしか助けることができなかったら…」
兄は、私を助けるわ。
一瞬の躊躇いもなくね。
例えその選択によって、あなたが死ぬとわかっていても。
「…そんな者を、愛せるの?」
冷笑を浮かべる氷の女に、蔵馬もまた、笑みを返した。
「どちらか一人なら、飛影は必ず、君を助けるよ。そして…」
君を安全な場所に移した後、オレの屍体を探して…
「…冷たくなったオレを抱いて、彼はオレと一緒に死んでくれるよ」
その言葉に、雪菜はかわいらしく唇を尖らせた。
「……自信家ね」
「だって、本当のことだから」
「嫌な人」
「そうかなあ?オレと君って、すごく似てると思うんだけど」
「だから、嫌いよ」
雪菜の小さな溜め息が、空中で小さな結晶になり、煌めく。
「連れてって」
飛影の短い髪をくしゃっとかき上げ、雪菜がぶっきらぼうに言う。
「いいの?」
「ええ。兄と二人きりでいると…」
交わるか、殺すかしてしまう。
多分、その両方を…ね。
抱き上げられ、蔵馬の腕の中に納まった兄を見て、雪菜はそう呟く。
「お先にどうぞ。もう少し、月明かりを浴びて行くわ」
「君は、月明かりも霞むくらい綺麗だよ」
「それって口説いてるの?…今度、三人でしましょうか?」
氷女はニヤッと笑う。
「オレは構わないんだけどね」
どうやら雄の氷女は初心らしくてね。
だから、ごめんね。
「はいはい。さっさと戻りなさいよ」
「…おやすみ」
***
「あーあ…」
誰もいない森に、澄んだ声が響く。
「探して、見つけたわよ」
生きてたわ。
おまけに、友人や恋人まで作ってた。
だから、大丈夫。
「……大丈夫よ、母さん」
苦笑するその頬を伝って落ちた、一粒の輝く石は、
水面に映る月を乱してゆらゆらと沈んだ。
...End.
50000キリリク「飛影のことが大好きな雪菜&蔵馬の水面下の争い」
まさゆ様よりリクエストいただきました!
ありがとうございました!(^^) |
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