Brother&Sisters
嫌だ嫌だ嫌だ!
やっぱり逃げればよかった…いや、それじゃあ氷菜にバレる、また泣かれる、でも、ああもう!
待合室でチラリと覗いた問診表には、“性交経験の有無”などという欄があり、恥ずかしさに頭が爆発しそうだった。
診察室もまたやわらかな色合いだったが、そんなことは飛影の慰めにはなりはしない。
でも、一緒に来たのが雪菜で良かった、と飛影は身震いする。もし付いてきていたのが氷菜だったら、目も当てられない。
雪菜は、躊躇うこともなく“有”に丸を付け、他の項目も次々埋めていった。
“有”ってなんだ!
…いや、あるけど…!
くっそ、これも蔵馬のせい…ではないけど…
頭がぐるぐるするのは、混乱しているからなのか具合が悪いからなのか。
診察室に案内した看護婦は上手に採血をし、お熱計ってちょっと待っててね、などと、飛影の心境も知らずににこやかに体温計を渡す。
待っている間にも差し込むような下腹の痛みに、ベッドに座ったまま思わず体を二つに折った。
「こんにちはー」
入ってきたのは、先ほどと同じ声。
明らかに、若い男。
飛影は俯いたっきり、顔も上げずに床を見つめていた。
「結構ひどい生理痛みたいだけど、病院にかかるのは初めてなんだね。貧血は元々?生理中だけ?」
知るか。とはさすがに言わないが、質問は無視した。
問診表と簡単な血液検査の結果に目を落としていた医者は、俯いたままの飛影を見て苦笑する。
「そんなに嫌がらないで、顔上げてよ。顔色も見たいから」
そう言われても無視するのでは、まるでたちの悪い子供だ。
しょうがなく、飛影はしぶしぶ顔を上げる。
「……?」
会ったこと、は、もちろんない。
切れ長の金色の瞳、色味の薄い皮膚や唇。
全てのパーツが整っているせいで、綺麗だが冷たい感じのする顔だ。
銀色の長い髪を後ろで束ね、ラフに白衣を羽織っている。座っていても長身なのは一目でわかる。
会ったことはない。見覚えもない。
こんな印象的な男を、忘れる訳はない。
なのに、妙な既視感を感じて、飛影は眉をしかめる。
おかしなことに、相手もそう思っているらしい。
金色の瞳が、ちょっと驚いたように見開かれる。
「真っ青だな。大丈夫?」
大丈夫ならこんな所に来るはめにならなかったんだ、このバカ。
聞こえないよう、口の中で毒づく。
毒づいたのが聞こえたわけではないだろうが、医者は予想通り、飛影が一番避けたいと思っていたことをあっさり言った。
「お腹と中をちょっと見なきゃだから。内診するね」
***
悪夢。
カーテンで仕切られた小部屋も、見たこともない椅子も、妙に気に障る医者も。
悪夢としかいいようがない。
しかも、逃げ場はない。
できるだけのろのろと服を脱いだが、そんなことはくだらない時間稼ぎだということは飛影にもよくわかっている。
壁に貼られた紙には、下着も脱いで座り、足を台の上に乗せるよう書いてある。
つまり、下半身だけが、カーテンの向こうに出されるわけだ。
足を乗せる…台だと…?
「支度できた?できたら座ってね。生理中なのは気にしなくていいよ。椅子は汚れても大丈夫だから」
カーテンの向こうから呼びかける声。
そっちは気にしなくてもこっちは気にするんだ!とわめきたい。逃げ出したい。
しかし逃げた所で待合室には雪菜がいるし、氷菜には説明できない。
飛影は天井を仰いで大きく息を吐くと、下着を脱ぎ、おそるおそる椅子に足を閉じたまま座った。
やわらかいバスタオルを、裸の下半身に看護婦がかけてくれる。
「……!?」
足を乗せる、と思われる場所がある。
ここに、足を乗せる…?
もう一度大きく息を吐き、そろそろとそこに足を乗せる。
裸の下肢に靴下だけを履いているという間の抜けた姿…靴下も脱ぐべきだったのか?…で、乗せた両足は、緩く開かれている。
飛影は目をぎゅっと閉じ、ピンク色のカーテンを視界から閉め出した。
***
目を閉じたからといって、恐怖から逃れられるわけでもないのだが。
「じゃあ、ちょっと椅子が上がるから」
「……っ」
ウィンと音がし、椅子が上がる。
上がると同時に、足を乗せた台は左右に開き、大きく広げさせる。
しかも、医者から見えやすくするためなのだろうが、足は高く持ち上げられている。
「……!!」
思わず飛影は目を見開く。
恥ずかしすぎる。
カーテンがあるとはいえ、向こうから見る姿はバカみたいだろう。
カーテンの向こうから、何やらカチャカチャという金属音がする。
顔が見えるのも恥ずかしいが、何も見えないのもまた怖いものだ。
その気持ちを分かっているらしく、医者は説明をし始めた。
「最初にね、ちょっと膣を広げる道具を入れて、子宮を見るから」
「……っ!」
カチャリという音とともに、何かを塗られた冷たい器具が、ゆっくり体内に入ってくる。
丁寧に、そっと入れてくれてはいるのだろうが、痛くて冷や汗が噴き出す。
「痛っ…」
「緊張しないで。力を抜いて深呼吸をして。力を入れると余計に痛くなるから」
そんなことを言われても、できない。
体はこわばり、寒気がする。
器具が抜かれるまで、飛影は気付かずに呼吸も止めていた。
「じゃあ、指を入れて、中に異常がないか触るからね。同時に外からお腹を押すから、痛い場所があったら教えて」
目をぎゅっと閉じた次の瞬間、侵入してきた指が内壁を探る。
「…ぅ、んぐ……」
「力を抜いて。お腹を押すから、痛い所があったら言ってね」
内部を探る指に合わせて、医者の左手が下腹部のあちこちを押す。
「……いたっ…痛い!…あ、つぅ…っ!」
「大丈夫だから、力を抜いて。気持ち悪くなるようだったら我慢しないで言って。もうちょっとで終わるからね」
大丈夫?力を抜け?こいつはバカなのか?
もう十分に、気持ちが悪くて、吐きそうなのに。
しかしそんなことを言うのも情けない。
こんな所でも、変な意地っ張り精神を発揮し、飛影は唇を噛んだ。
目を閉じたまま、くらま、と飛影は思わず恋人の名を口の中で呟く。
多分、ほんの二、三分のことなのに。
まるで一時間程も経ったかのように飛影には感じられた。
中を探っていた指がようやく抜かれ、痛む腹を押していた手がどけられる。
「はい、おしまい」
安堵して震えた吐息で目を開けた飛影に、予想外の言葉がかけられる。
「お尻に、痛み止め入れるね」
「え!? んう!…嫌…っ」
ぐにっ、と何かの薬が肛門に押し込まれる。
もちろん膣に入れられるよりもはるかに痛みは少ないが、その気色悪い感触と羞恥に、飛影は思わず声を上げる。
そ、そんな所…蔵馬にだって触られたことはないのに!
「はい、これでほんとにおしまい。頑張ったね」
「……う…」
「お尻に入れた薬、出さないでね?すぐ溶けるし、痛みに良く効く薬だから」
「……っ」
拭きますからね、というのはさっきの看護婦だろう。
ガーゼで局部を丁寧に拭かれ、無機質な音を立てて、椅子が戻される。
「服着たら、診察室に戻ってね」
言われなくても着る、と心の中で毒づきながら、飛影はふらふらと椅子を降りる。がくがくする足には、床はまるで綿のように感じられた。
壁に手をついて、ふらふらと下着を着ける。
なんだかひどく寒い。
ふらふらする。吐き気がする。
…蔵馬に会いたい。
…ふらふら?
あ、と思った時にはもう遅く、よろめいてしゃがみ込む。
ガタンと倒れる音に、おい、大丈夫か!?という声はあの医者だ。
カーテンを払いのけた腕が、床に倒れる寸前の飛影の体を抱き留めた。
抱き上げられた腕の中は、あたたかく力強い。
どうしてだろう…?
この男には、初めて会った気が、しない。
心配そうな金色の瞳を見たのを最後に、飛影の意識は、白い闇に包まれた。
***
「あ、起きた。大丈夫?」
心配そうに覗き込む蒼い瞳は、見慣れた妹の瞳だ。
「……?」
「もう。心配させないでよ」
「雪菜…」
「まったく世話がやけるなあ」
診察室の奥に並んでいるベッドの一つで、飛影は目を覚ました。
淡いピンク色の天井は、夕暮れの光でオレンジ色に見えた。
「起きた?」
ベッドを仕切るためのカーテンを開けて入ってきたのは、あの医者だ。
「悪かったな無理させて。気持ち悪くなったら言っていいのに」
お腹、どう?
だいぶ痛くなくなっただろう?
「…ああ」
「まあ、あれは一時しのぎだけどな」
一時しのぎなのは飛影にも分かる。
なんというか、確かにそこにある痛みを、布で包んで隠しているような、奇妙な感じなのだ。
鎮痛剤を肛門に入れられたことをふいに思い出し、飛影は赤くなる。
もうちょっと横になってなさいな、看護婦はそう言って飛影に毛布をかけ、雪菜に薬の袋を渡して説明をする。
取り合えず、漢方薬と鉄分を補給するお薬を一ヶ月試してみてね。
漢方薬は毎食前に飲んでね。鉄分を補給するお薬は食後に。鎮痛剤は生理の日にだけ飲んで。
生理の二日目や、吐き気のする日は、座薬を使ってね。
お金?ごめんなさいね、今日はもう事務の人がいないの。
「じゃあ、明日払いに来ます」
「いいのよ。わざわざ明日でなくても。次回に一緒に貰うわ」
次回、という言葉に飛影がギョッとする。
「…次回?」
来週来いよ、と医者があっさり言う。
「筋腫も腫瘍も確認できなかったから大丈夫だと思うが、生理中の内診だと分からないこともあるからな」
じゃあするな!と憤死しそうな飛影を、妹がなだめる。
「帰れる?タクシー呼んでもらうね?」
「いや、いい」
「そうだ、さっき蔵馬さんから電話あったんだ」
「蔵馬が?」
「うん。迎えに行くって言うんだけど、でもタクシーで帰るから心配しないでって言…」
「…蔵馬?」
驚いたような声を出したのは、飛影ではなく、医者だ。
雪菜は怪訝な顔をして、医者を見る。
「先生のお知り合いなんですか?」
お茶を運んできた看護婦が、不思議そうに聞く。
通常の診療時間ももう終わっている。
医者は髪を解き、白衣を脱いでいた。
「弟が同じ名前なんだ。あんまりない名前だからビックリしただけ」
え?と姉妹は目を丸くする。
「まあ、弟さんがいるなんて聞いたことなかったですよ」
「血は繋がってないんだけどね。あ、今日は孫迎えに行く日でしょ?いいよ、後は俺に任せて」
時計を見て、あらあら、と驚き、それじゃあ…お言葉に甘えて、と申し訳なさそうに姉妹に向かって微笑んだ看護婦に、雪菜はこちらこそありがとうございました、と礼を言う。
「弟さんと一緒の名前なんて、偶然。ねえ、飛影?」
「……」
雪菜と同じように目を丸くしていた飛影は、ハッと目を瞬かせる。
「…蔵馬の…」
言いかけた言葉は、医院の入口から聞こえた、こんにちはー、という声に遮られた。
***
「来なくていいって言ったじゃない」
待合室に出てきた雪菜は、そう言いながらも、目は笑っている。
「だって、心配だから…大丈夫?」
「迎えに来たなら、飛影おんぶして帰ってもらおうかなー」
「俺はいいけど飛影がなんて言うかな」
笑う二人の前に現れた医者が、やっぱりお前だったのか、元気か?と片手を上げる。
「…兄さん!? こんな所で何して…」
「兄さん!?」
蔵馬の言葉に驚いたのは雪菜の方だ。
「お兄さん!? この人蔵馬さんのお兄さんなの!?」
「えーと。まあ一応…」
一応ってことないだろ、と医者が笑う。
「なんで?そんな話したことなかったじゃない!?」
「ええと、母さんの再婚相手の息子で…」
父さんの前妻に引き取られたから一緒に暮らしたこともないし…10歳以上も上だから…その、あんまり接点なくて…
でも、飛影には前に言ったことあるよ、血は全然繋がってないけど、兄弟がいるって。それに…なんて言うか…
雪菜の剣幕に、蔵馬はしどろもどろの言い訳をする。
「相変わらずかわいくないなあ、お前」
カワイイのは顔だけだな。
医者はニヤッと笑い、ソファにどさっと腰を降ろす。
「なんて言うか…つまり、気が合わないんだよね、この人と」
「みたいね」
「で、なんで兄さんここに…」
なぜって医者だからー、と兄はふざけた口調で言う。
「医者ぁ?」
「そう。医大に行って、医者になった。父さんから聞いてなかったのか?」
「聞いたような気も…。…待って!てことは兄さん、飛影を…?」
「診た。それが何か問題が?」
「あるに決まって…!! あ、飛影!大丈夫!?」
飛影は真っ赤な顔をしていたが、それは体調とは別の原因だ。
「お前…どうして言わなかったんだ!?」
蔵馬に向かって、病院のスリッパがビュンと飛んでくる。
「だって!! 俺も知らなかったんだよ!」
「バカ!! 死ね!大体お前は…!」
「おいおい、病院で騒ぐな」
兄はソファの近くに立つ飛影を、ぐいっと引き寄せた。
「ぅわっ…」
思わずよろけた飛影を、兄は膝の上に抱く。
片腕でだけで抱き上げ、いとも軽々と。
「何を…っ」
「なるほどね。蔵馬の彼女だったのか。どうりで…」
「どうりで…なんだ…!?」
…好みのタイプだと、思った。
飛影にだけ聞こえるように、耳元で囁く。
「な…っ…バカなこと…」
放せ、ともがいても、長身の兄の腕はしっかりと飛影を抱いている。
「ちょっと!! 人の彼女に馴れ馴れしい!!」
「おっと」
カンカンに怒った蔵馬が、自分の腕に飛影を取り返す。
今度は蔵馬の腕の中で、飛影は頬を染める。
「冗談だろ、冗談」
「もうここには来ない方がいいよ!変態医者がいるんだから」
「失礼な。有望株なんだぞこれでも」
ここのばーさんは跡継ぎがいないからな、優秀な俺に継いでくれって言うんだ。
「…相変わらずずうずうしい…!飛影、雪菜ちゃん、帰ろう!」
「俺、車だから送ってってやるよ」
結構、と蔵馬が言う前に、雪菜がわーいと声を上げる。
「ラッキー。送ってもらおうよ、飛影」
「ちょっと雪菜ちゃん!?」
お前は歩いて帰れば?としれっと言う兄に、免許の取れる年齢ですらない弟はムッとする。
「待ってろ。鍵取ってくる」
長い髪をなびかせて、スタッフルームとおぼしき奥の部屋へ兄は行く。
通りすがりに飛影の頭を撫で、雪菜の髪に触れ、もう一度蔵馬を怒らせて。
***
「ちゃんと来週も来いよ、飛影」
「あのねえ!兄さん!この子は俺の彼女なんだって!!」
「だから?医者と患者だろ?あっれー?もしかしてエロいこと考えてるのか?」
「……」
「彼女が苦しんでてもいいのか?冷たい男だな」
「……兄さん以外にも医者はいっぱいいるから!」
兄弟のやり取りに、雪菜はクスクス笑っているが、飛影は無言のまま、窓の外を眺める。
恋人の兄に、内診を…つまり、あらぬ所を見られて触られたというショックから、恥ずかしがり屋の姉はまだ立ち直れていないらしい。
しかも、来週も来いだと?
来週も…内診をすると?
そう考えると、めまいがして、飛影は隣の雪菜にぽふっとよりかかる。
雪菜はやさしく慰めるように姉の頭を抱く。
なんだかんだ言っても姉をよく知っている妹は、飛影の不安や不満は手に取るようにわかるのだ。
「そういえば、お兄さん、名前はなんていうの?」
「ヨウコ」
変な名前、と雪菜はずけずけと言う。
「俺もそう思う。俺の母親が、なんでかわからんが女が産まれると思ってたらしくてね」
で、妊娠中に考えていた女の子用の名前を男の俺にそのまま付けたんだ。
変わった人で、恋多き女でね。
アンティーク家具のバイヤーをしているんだが、今も世界中を飛び回って仕事したり、恋したりしてるらしいな。
ヨウコは肩をすくめて苦笑いをした。
「着いたぞ。じゃあな、飛影、雪菜」
「呼び捨てにしない!」
「細かいなあ。細かい男は嫌われるぞ」
はいはい、後は兄弟二人、水入らずでね。
送ってくれてありがと。
ひらっと手を振って、雪菜は笑う。
高級な車にも、送ってくれる男にも慣れている、その仕草。
「俺もここで降りるよ」
雪菜と飛影を少しでも早く車から降ろそうと、いち早く降りた蔵馬に雪菜は家の鍵を放る。
「鍵開けて。ママは会議で遅くなるから、寄ってけば?」
「じゃあ、ちょっと寄ってくね」
俺も寄っていい?と聞く兄の頭を叩き、蔵馬は玄関に向かう。
「またね、お兄さん」
そう言って先に降りた雪菜の後に続いて降りようとした飛影を、ヨウコが呼び止めた。
「おい、落としたぞ」
握ったこぶしを差し出され、飛影は振り向く。
「落としたって、何を…え?」
開いた手の平は空で、不意をつかれた飛影の唇に、ヨウコはキスをした。
「……!! なっ…」
一瞬の、キス。
驚きのあまり、飛影は怒ることを忘れて固まる。
「な…な…っ。何をする!?」
真っ赤になって怒る飛影に、ヨウコはニヤッと笑う。
「…時間外診療料金」
「な、そんな、バカ言うな!」
「バーカ。嘘だよ。だって…」
俺、お前に惚れたみたいだな。
「……は?」
飛影ー?と玄関から蔵馬が呼びかけ、こちらに歩いてくる。
慌てて飛影は車を降り、蔵馬の方へ向かって走る。
ヨウコは軽くクラクションを一回鳴らし、三人に向かって手を振って走り去った。
「どうしたの?何か話?」
街頭や家々の明かりがあるとはいえ、辺りはすっかり暗い。
どうやら、車の中は見えなかったらしい。
「なんでも…ない」
「そう?家に入ろうよ。俺が晩ご飯作ってあげるから」
「…ああ」
なぜだか、飛影は言えないでいた。
ヨウコにキスをされたこと。
お前に惚れたと言われたこと。
そして…
…俺に乗り換えろよ、という、
去り際の一言を。 |
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