4.Love triangle start「ええ、じゃあ、火曜日の二時とお伝えください。履歴書?ああ、それはいりませんよ」先生、たまには遊びに来てくださいよ。プレリでもシルヴィオでも。 お弟子さんでも連れて。もちろん貸し切りにしますよ、ええ。兄と待ってます。 挨拶を終え、電話を切る。 すっかり耳が遠くなった先生は、やたらと大きな声で喋っていた。 今年の夏も暑い。 窓一枚隔てた表には、熱気がゆらめくのが見えるかのようだった。 真夏の午後の強い陽射しが差し込む、波打つような歪みが美しいアンティークのガラス。 いつものように店内には調理場から仕込みの音がかすかに聞こえる。 邪魔な髪を後ろでひとつに束ねながら、たった今自分で書いたメモを見下ろす。 男。十七歳。中卒。 資格や免許は特になし。経歴といえるような職歴も、なし。 親はすでになく、双子の妹と一緒に暮らしているという。 「…やれやれ」 メモをピンと弾き、呟く。 先代からの付き合いがある人からの半ば無理やりな紹介でなければ、会う気にもならないような相手だ。 特別有能な人材が必要な仕事ではなかったが、いくらなんでも限度がある。 仕事は忙しい。無駄な時間は使いたくない。 「火曜日の二時。プレリで」 テーブルに向かったまま、微かに軋んで開いた扉に振り向くでもなく、言った。 ああ、と短い返事をした兄は、冷蔵庫から水の瓶を取り出し、栓を抜いた。 「どんなやつだ」 「男。十七歳。中卒」 「華々しい経歴だな。なんでまた」 「先生の紹介だよ」 先生、と呼ばれているが本当の職業は考古学に関連した学者か何かで、先代が生きていた頃はよく家にも遊びに来ていた老人だ。 グラスも出さずに瓶のまま水をぐいっと飲み、兄は眉をしかめる。 「なら、会わずに断るわけにもいかないな」 「そうだね」 「若い男の仕事にしては情けないとは思わんのか」 「そんな気概はないんじゃない?」 「まあな。しかしあのジジイの親が生きてるとはな」 急に変わった話に、俺は振り向く。 ジジイ、と兄が呼んだ男は、五年ほど前から俺たちの店で銀器やガラスを磨く仕事をしていた。 安月給ではあるが、きつい仕事ではない。本人も年金暮らしの小遣い稼ぎだと言っていた。黙々と丁寧な仕事をする男で重宝していた。だというのに、先週急に辞めると言い出したのだ。 なんでも、里の母親が転んで骨折し、治らないわけではないが、いい加減自分がそばにいてやらなければならないと言って。 八十近い人間が言う母とはこれいかに、と思ったが、百を超えた母親だと聞き、二度驚いた。 まあ、そんなこんなで後釜を探していた。 とはいえ、いわゆる求人は出さない。今いる従業員も伝手やら紹介やらで、全て知り合いの中で探した人間ばかりだ。その方が当たりがいいし、履歴書というものはまったく信用していない。紙ではなく、本人に会ってみなければ何も始まらない。 「まあ、面接すれば先生にも断る言い訳ができる。火曜日の二時に」 全ての従業員は、二人で選ぶと決めている。それはルールだ。 会うだけ無駄だろう、面倒だな、とぼやく兄が、それでもちゃんと約束の時間に来ることはわかっていた。 ***
先週と同じように、陽射しは燦々というよりはぎらぎらと、店の中に降り注いでいる。スタッフの一人が運んできたコーヒーが、飴色のテーブルの上で濃い香りを漂わせていた。 コーヒーに手をつけるでもなく座るでもなく、ただ待っていたらしい後ろ姿は、ずいぶん小さい。 十七歳と聞いたのは聞き間違いだっただろうか。びっくりするほど背が低い。 Tシャツにジーンズという後ろ姿は、そのままランドセルを背負って小学校にでも行ってしまいそうだ。 こんなに小さな十七歳がいるか? 同じことを思ったであろう兄と、視線を交わす。 面接前に腰を下ろしたりしてはいけないと考え、マナーとして立って待っていたというよりは、ただ立っていただけのように見える。 いかにも落ち着かないといった風情で、窓辺に立ったまま窓の外を見つめていた少年に、声をかけた瞬間。 勢いよく振り向いたせいで、跳ねるように動いた短い髪。 くしゃくしゃの黒髪。白い肌。大きな目。 意志的にきゅっと引き結ばれている薄い唇が、何かを言いかけ小さく開き、また閉じる。 背中を何かが駆け上がり、髪が逆立つようなその感覚。 ダークトーンで統一した見慣れているはずの店の中が、騒めくように色を変えた。 お忙しいところ、でも、初めまして、でもない。 常識的な挨拶すらできずにいる少年に、うんざりしてもいいはずだった。なのに。 「おかけ…」 「座ってくれ」 おかけください、という俺の言葉を遮るように、いや、実際に遮って、兄が言った。 同時に自分も腰かけると、テーブルに肘をつき長い指先を組み合わせ、色素の薄い瞳でじっと少年を見つめている。 こちらもまた飴色の椅子の背を引き、少年が腰を下ろす。 背は低いが、顔も小さく手足はすんなりしているため、全体のバランスは悪くない。 まずいことになった。 気付かれないよう小さく、俺はため息をつく。 小さかったのはため息だけで、心臓は外に音が聞こえるんじゃないかと思うほど、強く激しく打っていた。 言われた通りに座り、俺たちを交互に見る目は、驚き、困惑していた。 それ自体は珍しいことでもなんでもない。俺たちを初めて見た者は、だいたいこんな反応をする。 自分の顔が整っているかどうかなんて、十年も生きればわかることだ。 振り向かれ、見つめられ、賛美され、好まれ、時に憎まれ嫉妬される。もはや飽き飽きしているといってもいいことだったが、目の前の大きな目にそれを見るのは愉快だった。 勤務が可能な時間や、曜日。給料。 いくつかの質問に言葉少なに返す少年から、目が離せない。こんなにじっと見つめ続けては不審がられる。そうわかっていても止められなかったのは俺も兄も同じだ。 「来週の月曜日から。来れる?」 驚いたような顔をしたまま、少年は頷く。どうやら採用されるとは思っていなかったらしい。 いくつかの書類を渡し、記入して月曜日に持ってきてほしいと説明をする間でさえ、兄の視線は離れない。 「じゃあ、月曜日に。飛影」 「月曜日にな、飛影」 俺の身長は180センチを少し超えるほどで、兄は多分2メートル近い。 外まで送ろうと立ち上がった俺たちを見上げ、飛影は心底困惑しているように見えた。 短い髪。白い首筋。 アンティークのガラスは、遠ざかる姿を陽炎のように魅力的に歪めて消した。 部屋に落ちた沈黙に、コーヒーの香りだけが残っている。 「おい、なんだあれは」 「最低限の礼儀もなっていない」 「ずいぶんとチビだ」 「小さすぎるね」 「本当に十七歳か?」 「さあ。目つきも悪いし」 「愛想もない。生意気そうだ」 「ま、食器を磨くのに愛想はいらないよ」 「ナイフとフォークを使ったことがあるのかも怪しいもんだ」 「試してみよう。だめなら辞めさせればいい」 俺たちはひといきに喋ってしまうと、冷めてしまっても美味しいコーヒーを立ったまま啜った。 オープン前の店の中にはBGMはない。 コーヒーが苦手なのか、面接中だから遠慮したのか、手付かずのままのコーヒー。 ガラスポットの角砂糖が真夏の陽射しにきらめく。もう随分前からこのガラスポットはこの店にあるのだし、角砂糖もいつもと変わらない。 何かの始まりを意味するようなそのきらめきから、俺は目をそらした。 「秀一、ルールはおぼえているだろうな?」 「…もちろん。その言葉そっくり返すよ。穴が開くほど見つめていた人に言われたくないね」 肩をすくめてコーヒーを飲み干した兄は、壁際に寄せられていた航空便の木箱を開ける。 白地に赤と黒の彩りが美しいティーカップ。揃いのソーサーとプレートと共にテーブルに並べ、満足そうに頷いた。 「なかなかいいな、秀一。今夜から使おう」 わざわざ海外で買い付けてきたティーカップも、飴色のテーブルも、臙脂色と黒が美しい絨毯も。 俺たちは仲の良い兄弟ではない。気が合わない。だというのに、兄はいまいましいほど俺と似通った好みをしている。 ***
「飛影、この後時間あるかな?」努めてさりげなく声をかけると、帰り支度をしようとパーカーに手をかけたところだった飛影が振り向く。 何の用かと曖昧に頷き、続きを待っている。 勤め始めて半年、最初は叱ってばかりだったが、慣れてしまえばどうということはない仕事だ。 店の混雑具合で磨くカトラリーやグラスの数は違うが、出勤時間も退勤時間もそう変わらない。こんな風に帰り際に呼び止めたことはなかった。 「夕飯付き合ってよ。友達の店が来週からオープンで、今日がプレで呼ばれてるんだ」 驚いたように、飛影がこちらを見つめた。 確かに、俺たちはあまりスタッフと慣れ合わない。厨房やホールのスタッフが仕事終わりに飲みに行こうなどと話していても、俺たちを誘うことはないし、俺たちも誘うことはない。 プライベートな時間に干渉はしない。個人的な関わり合いは持たない。その方が仕事にはプラスだし、そもそもプライベートに干渉したいと思ったスタッフなど今までいなかった。 もっとも、そう多くはない頻度のスタッフの飲み会やらバーベキューやらに、飛影が誘われている様子もない。 ほとんどのスタッフとは勤務時間が違うし、未成年を酒の場に誘うなと予め釘は刺してある。 小柄すぎるせいで、誰と話すにせよ、飛影は急な角度で見上げるしかない。 夕飯の誘いという謎に大きな目を瞬き、それでも断る理由もなかったのか、無言で頷いた。 十二月の始まり。 外気は冬の冷たさをはらんでいるが、飛影は冬物のコートを着ていない。春や秋に着るものだろうというようなパーカーを羽織り、何も言わずについてくる。 くったりとしたパーカーを見下ろし、貧乏くさい服を着ている、と思う。 なんなら小学生時代から着ているのではないかと思うくらい、色褪せてくたびれている。黒という色は、色褪せると本当に貧相だ。 とはいえ、貧乏くさいのではなく、単純に貧乏なのだろう。 シングルマザーだった母親が死に、引き取り手だった祖母が死に、妹と築五十年にもなるようなアパートに暮らしているという話は、知り合いの知り合いが妹の担任をしているという、紹介者である先生から聞いていた。 とはいえ、金銭的に余裕があったとしても、衣服に金をかけるようなタイプだとも思えない。 黙々と銀器やグラスを磨くことは、たいした給料にはならない。年金暮らしの年寄りが小遣い稼ぎにやるのでもなければ、生活は成り立たないだろう。だが、口数の少ない本人いわく、必要な物もそれほどないのだと言う。 貧乏くさく、色褪せたパーカー。子供のように小さな体。 ちらちらと視線を送りながら、並んで歩く。 「ハンバーガーの店なんだ」 ハンバーガーはもちろん凝ってるんだけど、そいつ、ポテトにやけに力を入れててね。やっと満足いくものができたから店を出すとか言っててさ。 俺の話に、飛影はときおり短く相づちを返す程度で、気の利いた質問を挟むでもない。 それでいてその沈黙は誠実で、きちんと話を聞いていることがうかがえた。 ビルとビルの間を、一際つめたい風が吹き抜けて、飛影が首をすくめる。 短い髪から覗く首が、寒そうに白く光る。 「寒いんだろ?」 思わず笑って立ち止まり、巻いていたマフラーを外しすいっと屈み、剥き出しの首にマフラーを巻いてやる。 俺の体温がこの白く光る首に移るように、手早く巻く。 「いらん」 「風邪引かれちゃ困るよ。店はこれから忙しい時期なんだから」 困ったような目が、見上げる。 吸い込まれそうなその色に、真正面から向き合った。 「あ…」 薄く、形のいい唇。 ありがとう、と言いかけたのだろうか。 注がれる視線は、賛美と好意を表している、はずだ。 そう考えつつも、いまひとつ確信が持てずにいるのは、あいつの存在があるからだ。 ***
銀器の磨き方、ワイングラスの驚くほど薄い飲み口の洗い方。番号の振られた食器棚の収納のルール。一通り教える間中、ずっと飛影の視線を感じていた。 憧れのような恋のような、単純に綺麗なものへの賛美のような視線を浴びながら仕事をすることを、純粋に楽しんでいた。 度を超えない限り、スタッフが自分たちに好意を持つのは店にとってもプラスのことだ。とはいえ、それは嫌なことでも嬉しいことでもなかった。好意は当然のようにいつもそこにあるものだったから。 なのに俺は今、この状態を楽しんでいる。喜んでいる。そしてどこか焦っている。 革表紙の予約帳に常連の名前を書き込みながら、そう考える。 白くて口も背も小さくて目が大きくて、愛想もなく生意気そうで気が強くて、そのくせとてつもなく誠実で、ふいに脆そうにも見えるあの子供のような少年を、心底気に入っているのだ。 何をどう気に入ったのか、上手く説明するのは難しい。 単純に、パーフェクトに好みなのだ、としか説明はできない。 出会った瞬間の、全身を撫で上げた熱風。 もし、あの場に兄がいなかったら。 コーヒーを淹れてくれたスタッフが、調理場で仕込みに入っているスタッフがいなければ。 きっと俺はテーブルを飛び越え、あの小さな体を窓辺に押し付け、肋骨が折れるくらいに抱きしめただろう。 分厚い絨毯の上で、足を開かせただろう。 半年前の出会いは今、失望や落ち着きに変わるどころか、ますますどうにもならなくなっていく。 会えば会うほど、知れば知るほど、欲しくなる。 短い黒髪を指で梳き、白い頬に触れ、あの小さな唇を開かせる。 服を脱がせて、隠れている部分も白いのかを確かめたい。 「飛影」 キッチンから聞こえた兄のなめらかに低い声に、予約帳から顔を上げ、ちらりと振り向く。 後片づけだの準備だの、細々したことには関心がなかったはずの兄がこうして閉店後の店に残っていて、皿を磨くだけのアルバイトに話しかけ、何かを教えるために手を取り、大きな手のひらで包みこむのが見えた。 背中を覆うように背後に立たれ、大きな手に小さな手を包みこまれ、白い頬がふわりと染まるのが離れた場所からも見えた。 瞬時に湧き上がる苛立ちに眉をひそめ、硬い紙にペン先を立てる。 「あ」 万年筆からぽたりと青いインクが落ち、象牙色の紙に滲んで広がる。 インクが漏れるなど、何年ぶりだろう。 修理に出さなければ、と考える傍ら、滲んでいく青色のインクから目が離せない。 大きな手が小さな手を包んだ。 白い頬がふわりと染まった。 あふれて滴り、紙に広がっていくインク。 あふれて、滴って……元には戻らない。決して。 決めたのは、多分この時だ。 この先へ、進む。 決められたルールを破ってでも。 ***
失敗した。一度手に取ったコートをソファに放り投げ、ベッドに仰向けにドサリと横たわる。 二人分の体温が残るベッドで、俺は天井を睨み、こぶしを握る。 小さくなめらかな体。 白い頬が赤く染まり、聞いたこともなかったような声を出すのを聞いた。 体の大きさにふさわしい小さな性器や、きゅっと窄まった狭い穴を思い出す。 初めてだ、と飛影は言った。 こんな形で進めるつもりじゃなかった。 天井を見つめたまま、何度目かの重く深いため息をつく。 カジュアルで美味しい物を食べさせるというデートをして、軽くキスをして、家に送ってやる。 最初はその程度で終わらせなければならない相手だったし、そうするつもりだったのに。 そうするつもりだった? 我ながら笑えることを言う。 コンドームも潤滑油も用意していたくせに? 躊躇いもなくホテルに連れ込み、処女で童貞の相手を食っておいて? 最初のデートでセックスをする。 そんな相手はいくらでもいた。けれど、飛影はそんな風に手に入れてはいけない。 もっと慎重に、追いつめて、逃げ場をなくして、完璧な形で自分のものにしたかったのに。 「…くそ」 どうしてそんなことをしたのかも、わかっている。 あいつがいたからだ。 あいつがそろそろルールを破る気でいることは、わかっていた。 とはいえ半年も我慢したのだから、あの兄にしては珍しいと、苦笑する。 こんな風に手に入れては、遊びだと勘ぐられてもしょうがない。 経験がなかった飛影は気付かなかったらしいが、よくよく考えればコンドームも潤滑油も用意して夕食に誘うなど、とんだ遊び人だと普通なら引くだろう。 ホテル?と不思議そうな顔をした飛影を思い出す。 何のためにそんな場所へ行くのか、何をするのかも見当がつかないというあの視線。 強引に下着を脱がせた時の、あの視線。 熱っぽさと戸惑いと、間違いようもないこちらへの好意。 躊躇いながらも足を広げ、熱い侵入に声を上げて身をよじった。 ホテルのしらじらとした明かりを遮りたくて、閉じた瞼を腕で覆った。 ***
「ルール違反だな、秀一」いつもどことなくふざけたような、歌うような調子で話しかける兄の声が、今日は少し違う。 トゲ、というよりももっと毒々しい。黒い水のような響きに、読むともなくぼんやりと開いていた本から顔を上げた。 無言のまま、兄の色素の薄い髪や瞳を見返す。作り物のような、整った顔だ。 俺の中にもまた黒い水が満ち、唇からこぼれ出す。 「…俺がルール違反をしたと知っているなら、そっちもルール違反をしたということだな」 「ああ。まさかお前が先に抱くとはな。ルール違反は俺の専売特許だろう?」 先に。 その言葉に、腹の中に冷たい塊がむくむくと生まれる。 この兄のことだ、相当強引に抱いたに違いない。なんなら強姦だってしかねない。 先があるのならば、後もあるということだ。 飛影を抱いたのなら、自分が先に抱いたこともわかったはずだ。 「なあ秀一、あれは体もイイな」 飛影の大きな目、艶のある黒髪、白くなめらかな肌が鮮やかに蘇る。 俺が手に入れたはずのものを、自分もまた手に入れたと主張する兄に、殺意にも似た憎しみさえ覚える。 「……つくづく、俺はあんたが嫌いだよ、兄さん」 「俺もだ。なんだって俺が欲しいものにちょっかいを出す?」 話はこれで終わりだ。 俺は乱暴に本を閉じ、立ち上がる。 明治時代に建てられたというこの家は、時代錯誤に美しい。 時代錯誤に美しい家の中で、俺たちは醜く睨みあう。 「で、どうするんだ?」 面白がるような兄の声。 面白がるような響きの中に、確かに俺への憎しみを感じる。 「どうするだと?選ぶのは飛影だ」 ***
「……文句を言われる筋合いなんかない。お前らだって遊びだったんだろうが」低く小さな声で、飛影が言った言葉。 恐れていた言葉が、胸を刺す。 そう思われても仕方がないことをした。 弟は食事に誘ったその日に初めての体を開き、挙げ句の果てには次の日に兄が強姦まがいに押し倒した。 あれが遊びでなければ、いったいなんだったと言い訳したらいい? どうしたら、いい。 怒りに任せて十二月いっぱいで辞めてくれと言い渡してあった。 十二月いっぱい?手放す? 冗談じゃない。 兄の目が、こちらを見る。 こいつもまだ諦めてはいない。まったく強情でしつこいやつだ。 正月に最後の仕事に来いと、冷たく命じた俺に、飛影は素っ気なく断ると返す。 「飛影、君に断る権利なんてないんだよ」 君の妹に言ってやろうか? 兄さんはバイト先で男とセックスしたんだよ、しかも二人とね。それでクビになったんだよって。 卑怯な言葉が黒い水のようにするすると口から流れ出す。 振り向いた飛影のその顔。 信じられないものを見るように、青ざめている。 磨きかけのナイフを握る手は、かわいそうなほど震えていた。 ***
皿を洗う後ろ姿を見つめる。肩の動き手の動き。泡に包まれた指先の動き。 水音の響く台所。戸口に立つ俺たちに気付かずに皿を洗う姿。 誠実で、強情で、生意気で、それでいてどこか儚い後ろ姿。 台所には古びてはいるが問題なく動く湯沸かし器があり、当然、湯も出る。 それなのに真冬の冷たい水で皿を洗う姿は、冷たい水のように澄んでいる。 皿を洗い終え、積み上げる。布巾を探しているのか、振り向いた飛影は俺たちにぎょっとして皿を落とす。 足元でゴトンと音を立て欠けた皿をそのままに、初めて会った日と同じように、俺たちを交互に見つめ、困惑している。 見開かれた瞳も、冷たい水に赤く染まる手も。 戸口に寄りかかったまま、俺は唇を歪める。 「…だから嫌だったんだよ、この子を雇うの」 大きな瞳が、傷付いて揺れる。 俺とやった翌日に兄ともやったくせに、傷付いた色を瞳に浮かべるとはずいぶんな話だ。 それでも、だ。 諦められない。手放せない。 兄がこの小さい体を組み敷いて腹の奥まで貫いたことはわかっていても、手放せない。 いったいなんなんだ。なぜこんな子供を。 前世からの因縁でもあるというのか。 選んでくれ、俺を。 心の中で叫んでみても、答えはもうわかっていた。 聞くまでもない。聞かなくともわかっている。わかっていたことだった。 飛影は、俺たち二人を愛している。 甘美で、絶望的で、どうにもならないその答えはとっくにわかっていた。 こんな風に選択を迫っておきながら、俺たちは二人とも、それを知っていた。 「…どうする、飛影?」 選べないと言うのなら、選択はひとつしかない。 選ばなくてもいいから側にいてくれと、望むしかない。 俺たち二人をお前のものにしてくれと、跪くしかない。 唇を重ね、願いを吹き込んだ。 ***
確かに俺たちは金持ちで、金持ちであることのメリットのひとつは、この家だろう。手入れに惜しみなく金を使っているとはいえ、現在の住宅のような機密性や保温性はこの家にはない。 それでも、貴重な木材をたっぷり使い、華美ではないが贅沢な調度品に囲まれたこの家は美しい。月が輝く夜ならば、カーテンも障子も閉めずに月明かりを存分に楽しめる。 広々とした庭が広がるこの家で、窓を開けようが戸を開けようが、誰が覗く心配もない。 窓辺で奔放に体を繋げていても、何も問題はない。 隣からは、穏やかな寝息が聞こえる。 月明かりの清さに似合わず、部屋には先程までの性交の独特のにおいが満ちていた。 汗に湿る黒髪を撫で、布団を肩までひっぱりあげてやる。 布団から小さく突き出した白い左手。その薬指には重ね付けした指輪が光っている。 金色の輪と、銀色の輪。 ごくシンプルな二つの指輪が、月明かりに薄く光る。 今日は銀色を下に、金色を上にして飛影はそれを嵌めている。 飛影がそれを毎日入れ替えることを、俺は知っていた。 金と銀を交互に上下にすることで、どちらへの思いも等しい量だと示すかのように、飛影は毎朝、指輪を入れ替えるのだ。 「変なところ、律義なんだから…」 頬を軽く摘んでも、起きる気配はない。 二時間以上も繋がっていた。疲れ果てた飛影がことんと眠るまで、上になり下になり、今夜も小さな体を余すことなく味わった。 頬に唇を這わせ、耳たぶを軽く噛む。 「…律義になんかしないで。俺だけにして」 呟くように耳元で囁いてみるが、大きな目はきっちり閉じられ、規則正しい寝息は乱れることもない。 囁いた耳に舌を這わせ、そのままゆっくりと首筋を伝っていく。 「…ん、あ…」 さすがに、飛影が目を開けた。 眠そうに目を瞬くと、呆れたように口を開く。 「おい…まだするのか…」 それには答えずに、掛け布団を剥ぐ。 月明かりに白く光る体を仰向けにし、丸い膝をつかんでぐっと広げ、子供のような股の間に顔を埋めた。 「ちょ…、待っ……ん!」 垂れていたものを口に含み、舌と歯で愛撫する。 尻の奥にも指をすべらせ、まだ濡れたままの穴に指を差し込んだ。 「んん、あ…」 くちゅくちゅと、穴の中を指先で掻き回す。 眠りかけていた内臓が目を覚まし、俺の指にまとわりつくように蠢き始める。 「…あ、うあ……秀一…、そこ、あ、ぁ」 あっという間にぐっと浮いた腰を沈め、寸前で口を離す。 あっ、と声を上げ、うらめしそうに見上げる目に、俺は笑いかける。 「今夜はたくさん出しただろう?もう出さなくていい。後ろでいかせてやるよ」 白い両足を肩に担ぎ、尻の薄い肉を開く。 赤くぬらぬらと光る穴は、先端を押し付けただけで、ぬるっと中に俺を引き込んでいく。 「っふ、あ、あ、ああぁ…っ」 抜けそうになるまで引いて、勢いよく叩き付ける。 硬い棒に穴を広げられ腹の中を突き上げられ、飛影が悲鳴にも似た声を上げ、シーツをつかんだ。 千切れそうなほど強くシーツをつかむ手。 二つの指輪が光る指。 「…飛影…っ、く、あ」 「あ!あ、ぐ、あっ、ああ、あああ!んん、う」 薄い体が弓なりに反り、穴がきつくきつく、俺を締め付ける。 下腹からつま先まで激しく震え、何も出さずにイった飛影のとろけた顔に口づける。 「ひあ…っ、うう、あぁ…」 ドライでイかせると、飛影はしばらく帰ってこない。 いつの間にか俺の背に回されていた両手は、多分背中に傷をつけているだろうが、構わない。 「飛影」 呼ぶ声に、ようやく飛影が小さく息を吐く。 まだ痙攣している尻の中を、からかうようにそっと突いてやる。 「うあ!ちょ、待て……っもう、今夜、は…」 腰を大きく回すように、硬度を取り戻したそれで、あたたかい中を掻き回す。 抗議するように飛影は背に爪を立て、それでも俺に尻を押し付けるように動き出した。 腰を大きく揺らし、白い尻に叩き付ける。 リズミカルな音を立て、深く浅く、抜き差しを繰り返す。 「うあ!ああ!っふ、あ、ああっ、ん、あ!」 「…お前みたい、な、欲張りは、こうされても…仕方ない」 欲張り?と大きな目がきょとんと俺を見つめ、次の瞬間、笑みにほどける。 「ひ、あ、ふ…んあ……そう…だ、な…俺は…よくば、りだ」 俺の背から、左手だけをなんとか離して、飛影は自分の指に口づける。 金と銀とが光る指に唇を這わせ、挑発するように俺を見る。 「…だから……お前は…欲張り、な…俺、を…好きに、したらいい…」 薄い唇の間からのぞいた舌が、二つの指輪をぺろりと舐める。 熱い熱い体内で、俺をぎゅっと締め付けて。 ああ。くそ。 もう、どうにもならない。 選ばなくてもいいから側にいてくれと、望むしかない。 俺たち二人をお前のものにしてくれと、跪くしかない。 暑すぎた夏のあの日から、こうなることはわかっていた。 俺も、そして兄も。 濡れた唇から左手を引きはがし、二つの指輪ごと、細い薬指を口に含んだ。 ...End |