3.Love triangle present何もいらないと即答すると、何も考えていないだろうと怒られる。去年と同じ失敗をしないよう、飛影はいかにも考えているようなふりをして、目の前に置かれたオレンジジュースのグラスを引き寄せる。 二種類のオレンジを使ったという搾りたてのオレンジジュースはつぶつぶしていて濃くて、ちょうどよく冷たい。ぽってりと黄色いソースを揚げたてのポテトですくい、飛影は口に放り込む。 「あちっ」 「聞いているのか、飛影」 「聞いている」 蔵馬の言葉に、指先についた塩をぺろりと舐め、飛影は答える。 聞いてはいるのだが、答えに困って肩をすくめた。 「欲がないね、相変わらず」 秀一はぼやくように言うと、赤ワインを口に含む。 蔵馬と同じように、ポテトとピクルスをつまみがわりにし、二杯目の赤ワインを揺らしている。 欲がない、とはこの兄弟が、飛影に時折言う言葉だ。 秀一の友人だという男の経営するハンバーガー屋での、遅い夕食を三人は取っていた。クリスマス前の街はどこもかしこも混んでいたが、この店は三人のためにいつでも席を取ってくれる。 搾ったばかりのオレンジジュースの甘酸っぱい匂い。フライドポテトを揚げる香ばしい匂い。肉の甘く焦げる匂い。 空腹な体に幸福な匂いを吸い込み、ビールを飲む蔵馬とワインを飲む秀一を眺めていた飛影に、欲しい物は決まったかと蔵馬が聞いたのだ。 クリスマスに何か欲しい物を考えておけと、今年も飛影は言われていた。 飛影としても何も考えなかったわけではない。考えた結果、何も思いつかなかったのだ。 ***
「クリスマスプレゼント?」いぶかしげに飛影が問うたのは、去年も同じだった。 去年の十二月、兄弟は飛影にクリスマスに何が欲しいと聞いたのだ。 「まあクリスマスプレゼントでも、お年玉でも、名目はなんでもいいんだけど」 「何か欲しい物を言えってことだ」 「あ、現金ってのはなしね。面白みがないから」 「金額の上限はないんだからな、言ったもん勝ちだぞ」 代わる代わる言う兄弟を代わる代わる見ながら、飛影は首をかしげ、しばしの沈黙ののちに言った。 「自分の部屋が欲しい」 「ダメ」 「駄目だ」 言ったもん勝ちだと言ったのはどの口だ、と飛影はぶつぶつ言ったが、元々その願いが聞き入れられるとは思っていなかったらしい。あっさり諦め、テーブルに頬杖をついた。 少しだけ考え、その後は考えるふりをして、飛影は呟いた。 「別に、欲しい物はないな」 綺麗な顔をした兄弟は、その言葉に眉を上げ、ため息をついた。 それが去年の話だ。 ***
今年もまた、同じ質問に飛影は首をかしげている。欲しい物。 考えてみても、今年も特にない。 クリスマスだから正月だから何かを買ってもらう、という恵まれた人生ではなかったし、自分には必要ない気が飛影はする。 相変わらず、妹への仕送り以外に飛影は金を使うことがほとんどない。 去年は十万円だった手取りの給料は、今年は十五万円になっていた。理由としては、基本的には朝食は飛影が作ることになった、に対する報酬だが、兄弟が雪菜を気づかって増やしてくれただけのことだと、飛影にもわかっている。 増えた分は、秀一の考えた不自然のない説明とともに、そっくりそのまま妹の仕送りに上乗せした。 結局去年は、蔵馬からは黒いコートを、秀一からは黒いブーツを買ってもらった。どちらもやわらかく暖かく、誂えたかのようにぴったりのサイズで飛影は気に入って今年も使っている。 「欲しい物…」 服?いらない。靴や鞄?いらない。食い物?いらない。これから美味いハンバーガーを食べるのだし。 「自分の部屋が欲しい」 「それは去年も却下しただろう」 小瓶とはいえ四本目のビールを干し、蔵馬が言う。 「お前みたいにチビじゃ、車もいらないしな」 「こんなに小さくても、免許って取れるのかな?危ないんじゃない?」 兄弟の言葉に飛影はムッとしたが、ここで反論でもすれば、蔵馬は車を、秀一は免許を取るための金を出すなどと言い出しかねない。 そもそも、衣食住が足りていて、あとはいったい何が必要なのか飛影にはよくわからない。 隣の席に置いた二つの紙袋を、飛影は見下ろす。 紙袋のひとつは、アンティークのデニム生地で作られた小さな鞄だ。もうひとつの紙袋はクリスマスらしいキラキラした模様が印刷された箱に入った“入手困難!売り切れ続出!今年大ヒットのアイシャドウのクリスマス限定色パレット”で、どちらも雪菜へのクリスマスプレゼントだ。 選んだのは、兄である飛影というより秀一だったが。 雪菜へのクリスマスプレゼントを買うのを付き合って欲しいと秀一に頼み、定休日の今日、買い物をしてきたのだ。 頼みごとなど滅多にしない飛影が困ったような顔で頼んできたのだから、秀一としては知識とコネとをフルに使った、大はりきりの買い物デートだった。 「だいたい、なんで俺じゃなく秀一を誘うんだ?」 ポテトの先端で飛影を指し、面白くなさそうに蔵馬が言う。 どちらかと言えば秀一の担当である店のシルヴィオが今日は定休日だったから、というのは建て前で、百九十を超える身長と長い銀髪、冷たく感じるほど整った顔を持つ蔵馬は、どこにいても目立ちすぎていたたまれない、というのが飛影の本音だ。 もっとも、秀一とあちこちの店を見て回った半日でさえ、いたたまれない他人の視線を充分すぎるくらいに飛影は浴びた。 すれ違う女たちは決まって振り返り、慌てたように連れをつついて、揃って秀一とその小さな連れとを眺める。その繰り返しだった。 「はいよ、お待ち~」 この店の店長である陣が、相変わらずボサボサと広がった髪をそのままに、火傷しそうに熱いハンバーガーの皿を置いた。 これ以上言い訳をしなくて済む、いいタイミングだと言わんばかりに、飛影は目を輝かす。 テーブルに備え付けてあるワックスペーパーで厚みのあるハンバーガーを包み、小さな口を大きく開けてかぶりついた。 さくっと焼いた香ばしいパンも、シャキシャキした野菜も、甘酸っぱいケチャップも、肉汁があふれ出るパティもベーコンも完璧で、無口な赤い目が細められるのを兄弟もまた目を細めて眺める。 「ちゃんと考えておくんだよ?」 「クリスマスは忙しくてそれどころじゃないからな。早めにな」 口いっぱいにハンバーガーを頬張ったまま、飛影は頷いた。 ***
大きなもみの木に、黒と白とグレーと金色と透明のガラスのボール。プレリのクリスマスツリーは大人びていてシンプルで、そしてとても綺麗で。片付けるのがもったいないような気がして、しばし飛影は手を止める。 「無欲なやつほど、早死にするぞ」 長い髪を背中で軽く結わき、飛影には届かない高いところのオーナメントを外す蔵馬の言葉に、飛影は肩をすくめ、大きなガラスのボールをそっと受け取る。 欲しい物を思いつかないままクリスマスを終えたくらいで、早死にまで宣告されるとは。 薄いガラスを爪で弾くと、どこか風鈴にも似た硬く透明な音がした。 「…そういうお前らだって、俺に欲しい物を言わなかっただろうが」 「俺たちが欲しがりそうな物を考えろ。それがプレゼントってもんだ」 「自分たちは人に何が欲しいか聞いておいて、そんな言い分があるか?」 やわらかな布でガラスのオーナメントを磨き、包み、丁寧に箱に仕舞う。 クリスマスが終わった途端に年の瀬はするすると近付き、慌ただしい静けさで何もかもをひたしていく。 「本当に、欲しい物はないんだ」 今年の正月は、また三人での正月だ。 兄が増やした仕送りのおかげで、妹の雪菜は冬休みの間、海外で染色を学ぶ講座に参加している。本当に嬉しそうに電話をしてきた雪菜は、春休みはそっちへ行くと笑って約束してくれた。 店のテーブルの上でピロン、と着信を告げる携帯を見れば、外国人に囲まれた雪菜とクラスメートが、満面の笑みで何やら藍色の布を掲げている。昨日から、こんな写真ばかりが送られてきている。 飛影はやわらかく笑うと、秀一に教わった通りに写真を保存する。妹が幸せにしていることは、何よりも嬉しい。 それでもやはり、この正月に会えないのはちょっとさみしい。 美しいオーナメントを木箱に仕舞い込み、飛影は裸にされたツリーを見上げる。 「よし。出かけるか」 今日は元々、蔵馬と二人で過ごす日だ。 飛影は頷き、木箱の蓋をそっと閉めた。 ***
祖母はもちろん、母親も車を持っていなかったし、そもそも免許を持っていたのかすら今となってはわからない。雪菜とよく似た、けれど雪菜の持つ生命力のような輝きのなかった母親の顔を思い出し、窓の外を流れる景色を飛影は眺める。 何度名前を聞いても覚えられない外国の車は銀色の車体に白いシートで、それは蔵馬によく似合っている、と飛影は思う。 ドライブにおいて、どこに行きたいと問われた場合、飛影の答えは大抵「海」か「山」だ。買い物だの映画だのカフェだの美術館だの、そんな言葉はついぞ聞いたことがない。 とにかく人のいない所を望む飛影に兄弟はどちらも笑い、あちらへこちらへとお互いの愛車で連れ出した。 とはいえ、山はともかく、田舎の季節外れの海でもない限り、海というのは存外人が多いものだ。海が見たいと望む人間が多いことを、兄弟は飛影と付き合って初めて知った。 「あそこから、よく見えるんじゃないか?人もいないしな」 海辺に張り出すように立つ、小奇麗な、けれど用途はそれしかないラブホテルの建物を指差され、飛影は小さく舌打ちし、顔を赤くする。 兄弟と出合ってそういう仲になってから数え切れないほどセックスはしたし、この手のホテルに行くのが初めてなわけではない。むしろ普通のホテルのようにチェックインの手続きの間、フロントでいたたまれなく立っている必要もない分、気が楽だとも言える。 なのにいつでも困ったように頬を染めるのを、兄弟はたまらなくかわいいと思っている。 多分、海が見えることを売りにしているのだろう。 この手のホテルにしては珍しく、窓も開くし、小さなバルコニーもついている。その分料金は高めだが。 近くで見ればお世辞にも綺麗とは言えない都会の海も、遠くから眺める分には青く美しい。 窓を開け、潮の匂いをたっぷり含んだ風に飛影は深呼吸をする。熱いシャワーを浴びたばかりの体に冷たい風が心地よい。 いつか妹の雪菜の暮らす海辺の街の、綺麗な海を見てみたい、などと考えながら。 「お前はいつでも、海とか山とか言うな。他に行きたい場所はないのか?」 腰にバスタオルを巻いたままの姿でベッドに寝そべり、蔵馬が尋ねる。 大きなベッドも、この男が寝そべると小さく見えた。 「そうだな…」 今朝、飛影が作った簡単な朝食を食べながら蔵馬が見ていた朝のニュースを思い出す。 兄弟がテレビを見るのは朝のニュースだけで、それは「客と会話をするには世の中の最低限の情報が必要」だからで「客と会話はしないし最低限の世の中の情報も得に必要ではない」飛影もなんとなく一緒に見ている。 元々テレビを見る習慣は飛影にも雪菜にもなかった。テレビもラジオも、音楽を聞くという習慣もなかった祖母の影響もあるだろうが。 蔵馬との朝食は大抵和食で、秀一との朝食は大抵洋食で、いつの間にか朝食当番になっている飛影が作る。 と言っても作れる料理などたかが知れている。和食なら米と味噌汁と焼き魚と漬け物を並べ、洋食ならトーストを焼き、目玉焼きとベーコンと簡単なサラダを添えるくらいだ。 「雪なら、見てみたい」 「雪?雪を見たことがないのか?」 驚いたように、蔵馬が言う。 「バカにするな。見たことはある。東京でも雪は降るからな。そういう雪じゃなくて」 今朝のテレビは、いつものニュースである世界中の悲劇と、馬鹿馬鹿しい政治家のスキャンダルを短めに切り上げ、地方の冬の祭りを特集としていくつか映していた。 そのひとつが、雪国の海辺の村の奇妙な祭りで、女たちが作った赤子ほどの大きさの雪だるまを、褌一丁の男たちが海の中へ運ぶというものだった。できるだけ遠くまで運べた者が勝ち、らしい。 降りしきる雪の中、寒さに悲鳴にも似た奇声を発しながら海へと突進する男たちは滑稽だったが、飛影を引きつけたのは、海にも雪が降るという当然といえば当然、けれど想像したこともない光景だった。 「…海にも雪が降るのかと思って」 「ああ、今朝のニュースか。そりゃ降るだろ。でもあの辺りはあまり積もらないぞ」 「そうなのか?」 ああ。海風が雪を散らしてしまうんだ。だから雪国であっても海辺はそう積もらない。 一メートルも二メートルも雪が積もるような場所は、大抵海から離れた山奥さ。 「そうか」 何も知らないな、俺は。 飛影は小さくため息をつく。 学はないし、世を知らない。それがどうしたと開き直って生きてきたつもりだったが、何もかもに答えを持っているかのような二人と暮らしていると、時々自分を情けなく思う。雪菜のことを思えば、ろくな育ちではなかったことは言い訳にはならない。 蔵馬は起き上がり、小さな体には大きすぎるバスローブを着て海を見つめる飛影を引き寄せる。 五十センチ近い身長差は抱き合うには不向きで、いつものように蔵馬は飛影を抱き上げた。片手はほとんど添えるだけのようなもので、幼子のように片手で軽々と胸元へ抱き上げられるというのは飛影の本意ではない。しかし、これが一番しっくりくることももうわかっている。 「どうした?ん?」 「別に…ん、う」 抱き上げられたまま、キスをする。 唇を合わせるだけから始まり、徐々に深くなっていく秀一のキスとは違い、蔵馬のキスはいきなり長い舌で口の中をかき回される。 車の中で飲んだコーヒーの味がかすかに残るキスに、飛影は遠慮がちに舌を絡めて応えた。 ぽんとベッドに放り出され、バスローブを脱がされた。 蔵馬のバスタオルもとっくに床に落ちていて、立派な性器が丸見えだ。よくもまあこの大きさのものが自分の尻に入ると、飛影は何度でも驚いてしまう。 「ん……ふ、あ…」 首筋に鎖骨に、強く吸い付かれ、飛影は身をよじる。乳首に歯を立てられ、短く声を上げた。 きっと秀一が眉をひそめるであろうほど濃い痕が体中に付く。そう考えると、なぜかなおさら飛影は興奮した。 開けたままの窓から冬の冷たい風が吹きつけたが、飛影は構わず、下腹部を探る手に素直に足を広げる。 どうせこの後、馬鹿みたいに熱くなるのだ。冷たい風が吹き込むくらいがちょうどいい。外は海なのだから誰も見てはいない。 大きな熱い手にすっぽり包まれ、快感に飛影は腰を浮かせる。 大人と子供ほどもある体格差の蔵馬に抱かれていると、まるで自分が一人では何もできない子供になったような錯覚に陥り、飛影はいつの間にか何もかもを蔵馬に委ねてしまう。 快楽に腰がびくびく跳ねるのも、大きな手のひらに射精するのも、オイルを絡めた指をきつくきつく締め付けるのも、全部が蔵馬の望むままでいい、という気がしてくる。抗うことなくこのままでいていいと、誰かが許してくれているような、そんな。 力の入らない手をのばし、髪の毛よりは僅かに濃い色の陰毛の中でそそり立つそれを飛影は握る。 自分はろくに行動もせずされるがままだと言うのに硬く勃ち上がっていることに、気恥ずかしさはあるが嬉しさもある。 「くら…ま…あ、く…んあ!」 三本に増やされた指が、乱暴ともいえる強さで飛影の穴をかき回す。 ぶちゅぶちゅと濡れた音に耳まで犯されるようで、飛影は背を反らし悲鳴を上げる。 「くら…くら、ま!もう……い…っひ、ふ、あぁ」 「どうした?もう入れて欲しいのか?飛影」 白い肌に薄く汗を浮かべた蔵馬は笑い、勢いよく指を抜いた。 先端を押し付け、大きく広げられた足の間から見える、真っ赤に染まった飛影の顔に、微笑みかける。 「あ……く……らま」 「息を吐け、力を入れるな」 「…ん……っぐ、う、ひあ…っ!」 小さな穴がメリッと開かれ、太すぎる肉棒が突き刺さる。 たっぷり濡らしても慣らしても、蔵馬のものは大きすぎる。痛みに飛影は顔を歪めるが、入口さえ通ってしまえば、あとは痛みより快感が上回ってくるはずだ。 ぐちゅ、という音とともに、蔵馬の体が飛影の尻に密着する。 その熱さと痛みと圧迫感に、飛影は長く息を吐き、大きな枕の端を握り締めた。 「……ああ、うあ、くら、まあ……っん、あ」 「動くぞ」 太い棒が、ゆらゆらと動く。 最初は小さく、段々大きく。 挿入の痛みから回復した飛影も、抜き差しのリズムに合わせて尻を振り始める。 「…うあ!あ!あ!ぁあ!」 「飛影…っ」 窓から離れると、潮騒はかすかにしか聞こえない。 なのにまるでその音がきちんと聞こえるかのように、飛影は寄せては返す波のように穴を収縮させる。 「あ、ひ!っあ!く、ああ、あう!ひっ」 「飛影…目を開けろ…」 「あ!っあ、あ、うあ、ああ!あっ」 「飛影」 なんとか目を開け、覆いかぶさる男を見上げた飛影の目に、長い二本の指、その指が摘んでいる小さな銀色の輪が見えた。 「…ひ、あ……あ、あ…?」 「プレゼント、やるよ」 枕にしがみついていた左手が、強い力で外される。 汗ばむ手のひらにキスをし、蔵馬はその銀色の輪を薬指に通した。 「……っぁ…ゆ、びわ?」 体の中に脈打つ他人の肉を入れたまま、飛影は大きな手につかまれた自分の左手を見る。 飾り気のないシンプルな銀の指輪が、汗で湿った薬指に光っている。 「ゅび……あ、え…どう…して…」 「お前は俺のものだ」 蔵馬は指輪を嵌めた左手を自分の首筋に導き、しがみつくように回させる。 抜ける寸前まで腰を引くと、一気に飛影の中に叩き付けた。 「俺は……ふ、あ!っああ!あ!あああ、く!あ!」 いきなり抜き差しを再開され、飛影は悲鳴を上げる。 直腸より奥へ刺さっているんじゃないかと思うほど、蔵馬のものは体の奥を突き上げる。 「くら……あ、は、うあ、ああ、あう、あ!」 「何もかも、見せてやる。どこへでも連れて行ってやるよ」 「あ、くら、ちょ、まっ……ああ!う」 「海に降る雪も、山を覆いつくす雪も…」 「あ、は、う、うあ、っうあ!あああ!」 「お前が見たいと思うもの全てを、俺が見せてやるよ」 だから、俺のそばにいろよ。 一生だ。飛影。 海から吹く風に銀色の髪を乱し、赤く染まった飛影の耳の中に蔵馬は囁いた。 ***
「たまにはいいでしょ」気に入りの店にわざわざ焼き立てを買いに行ったらしいクロワッサン。ふっくらとしたオムレツにカリカリに焼いたベーコン。その隣ではたっぷりとアサリが入ったクラムチャウダーがもうもうと湯気を立てている。 いつになく機嫌のいい秀一が作った豪華な朝食を前に、飛影は途方に暮れていた。 カフェオレのマグカップを受け取り、持っただけでもさくさくと崩れそうなクロワッサンを口に押し込む。 秀一の機嫌がいい理由を飛影はわかっている。年の瀬だというのに今日から三泊四日の出張に蔵馬が出かけたからだ。帰ってくるのは大晦日の朝だという。 以前はしょっちゅうあった出張やら食器や什器の買い付けやらを、飛影と暮らすようになってから兄弟は行きたがらなくなった。 とはいえ、全てを避けて通れるはずもない。ぼやきながらも時折二人は遠くへ出かけて行く。 自分が作るよりもはるかに美味しい朝食を食べながら、飛影は納戸の木箱のことを考えている。 昔、果物を送るのに使っていたという大きな木箱を貰って、大事な物を入れる箱として飛影は使っていた。 数少ない祖母と母の形見、雪菜からの手紙や贈り物を入れていた。そこに昨日、小さな箱が加わり、その中には銀色の指輪が入っている。 左手の薬指に指輪を嵌めることがどういう意味を持つかを知らないほどには、飛影も世間知らずではない。 蔵馬の前でそれを外しているのいうのは心苦しく、かと言って秀一の前で嵌めているというのも難しい。蔵馬が今日から出かけてくれたのは、そういう意味では好都合だった。 とはいえ、この先を考える時間はたったの三泊四日分しかないわけだが。 「飛影」 「なんだ?」 スープボウルから顔を上げ、秀一の艶のある黒髪を眺める。 上機嫌、としか言いようがない顔が、自分を独占できることが理由であることを思うと、飛影はくすぐったさを覚える。 「美味しい?」 「ああ。美味い」 「よかった。でも食べ過ぎないで」 「は?」 崩すのがもったいないような、完璧な形のオムレツを大きくひとすくい口にした所だった飛影は目を丸くする。 「久しぶりに昼間からセックスしたいな、と思って」 オムレツを頬張ったままの飛影の頬が、みるみる赤くなる。 そういう対象として自分を見ている者がいる、といういつまでたっても慣れない恥ずかしさと、昨日もそう言えば真っ昼間からしたんだった、という思い出し羞恥だ。 「あんまりいっぱい食べると、セックスしたくなくなるだろ?」 「……じゃあ、こんなに作るな」 いつもなら頭にきて怒鳴るところだが、昨日の指輪のことがちらついて、飛影の声には力がない。 何も悪いことをしたわけではないが、後ろめたさがある。残りは昼にしようと、半分ほど食べたオムレツとスープに蓋をかぶせた。 「やけに、素直だね」 「え?」 自分はオムレツの最後のひとくちを優雅にフォークに乗せ、秀一が飛影を見つめている。 「いつもなら、昼から盛るなとかなんとか、怒るだろう?」 「…昼から盛るな」 「夜には夜の、昼には昼の」 良さがある。わかってないね、子供は。 ニヤリと笑ってそんなことを言われても。子供に手を出したのはお前らだろうと飛影は心の中で毒づく。 「先にあれ、片付けようか」 ずいぶん前から検討していた、が、忙しくて手を付けていなかったあれのことだ。 飛影は頷き、冷めかけたカフェオレのカップを置いた。 ***
「こんな部屋もあったんだな」兄弟の家、というより屋敷は、基本的には平屋だが、部分的に二階がある。二階部分はどれも居室ではなく、収納のための部屋ばかりらしい。 飛影が私物を置くのに使っている一階の小さな納戸とはまた違う、飴色の箪笥がずらりと並ぶ、広い納戸だ。 昨日とはうって変わって今日は雨降りで、火の気のない納戸は指先を痺れさせるような床の冷たさだ。 「今年も雪菜ちゃん来ると思ってたから、その時に選んでもらおうかと思ってたんだけど」 あまりにも物がいっぱいで開けたくなかったんだよね、この部屋。 でもまあ、せめて着れそうな物とそうでない物とくらい分けておかないと選ぶのも大変だろうし。ざっと選り分けて、春休みに来た時に欲しい物はなんでも持って帰ってもらえばいいよ。 「まあ、ジャンルは違うけど、染色を学ぶ人には喜んでもらえると思うよ」 こっちへ来いと手招きする秀一の側に、言われた通りに着た襦袢姿で飛影は立った。 秀一は畳紙に包まれた着物をいくつも床に並べ、手早く中身を確認し、検討してもいい物と、男物など検討する意味もない物の二つの山に分けていく。 「おい、何で俺がこんな格好を…」 「着物は基本的には誰かのために誂えた物だから。あまりにサイズが違うと直すのが難しいんだ。雪菜ちゃんが着れそうなサイズの物をあげるよ。お前はだいたい同じくらいの身長だろう。着てみろよ」 小柄な女である妹と変わらない身長であることを指摘されるのは面白くないが、妹の喜ぶ顔を思えばしょうがない。 言われるがままに渡された着物を羽織り、秀一があちらをつまみ、こちらを引っぱりするのに大人しく従う。 着物のことなど、飛影にはさっぱりわからない。 わかりはしないが、正月や成人式のたびに街中で見かける若い女たちの纏う、どれも同じに見える派手で安っぽい着物とは質が違うことはなんとなくわかる。 「秀一」 「ん?」 「いいのか?着物は高いんだろう?お前たちの一族の大事な物じゃないのか?」 「一族にはもう、こんな着物を着る人はいないんだ。俺たちに娘が産まれて受け継ぐって可能性もないし」 娘を…つまり子供を…持つ可能性はない、ときっぱり言い切る秀一に、飛影はまた途方に暮れてしまう。 男である自分は、どんなに腹の中に種を流し込まれてもせいぜい腹を壊すくらいのもので、秀一の子も蔵馬の子も産むことはできない。 そもそもずっと一緒にいれる保証もないのだから、自分を選んだせいで、などと思うこと自体が図々しい気もするが。 「どうした?」 「…今から、娘を諦めることもないだろう?」 光の加減で色を変える群青色の着物を脱がせていた、秀一の手が止まる。 いつもは飛影を見下ろしてばかりいる目が、今は跪いているせいで、見上げるように飛影を射る。 「お前も、蔵馬も、好きなだけ娘でも息子でも作ればいい。俺は」 「…この冷たい床の上で犯されたいのか、飛影?」 「っあ、ぐ」 緩く結ばれていた腰紐を、秀一が思い切り左右に引っぱり、細い紐が飛影の腹部に食い込んだ。 戯れではない。本気の力で引っぱられ肋骨が軋む。ついさっき飲んだばかりのカフェオレがせり上がってくるようで、飛影は呻いた。 「っ、やめ、なに…しゅ…」 「飛影、お前は本当に馬鹿だな」 「な、あ…ちょ…待っ…ぐ」 腹に食い込んだままの腰紐を強く引かれ、飛影は床に倒れ込む。 ゴン、という鈍い音ともに頭に走った衝撃に一瞬めまいがしたが、それより何よりこの食い込む紐が苦しい。解いて欲しい。 「おい、何…なんだ……!やめ…」 襦袢の下には、下着を一枚着けていただけだ。 腹に食い込む腰紐をそのままに、秀一は襦袢をめくり上げ、下着を下ろす。 痛みを感じるほど強く握り締められ、飛影が声を上げた。 「いっ……な、ひ、あ、やめろ!」 「やめない」 襦袢の襟を広げ、噛み付くようなキスを落とされる。 秀一にしては珍しい、苛ついたような舌打ちは、昨日の痕を見つけたからだ。 「あ、うあ、あ、おい!…こんな…所で」 どちらかの部屋でもベッドでもホテルでもない。 潤滑剤代わりになる物が何もないことに思い至って、飛影は手を振り払おうとする。 何も塗らずに入れられたらと思うとゾッとした。 「秀一!やめろって言っ…あ!ひあっ!」 飛影の裸足のつま先がきゅっと丸まり、ぶるっと震える。 腹を締め上げられ、無理やり足を開かされ、片手でちょいと弄られただけで射精した自分の体がうらめしい。 「無理だ、って…ここ…じゃ…外せ……っ」 「無理?イったくせに」 「……!!な、中…なにも…塗っ」 「ああ。塗ってやるよ」 「な、あ!ひ、ふあっ!」 両足をさらに大きく広げて持ち上げられ、背が秀一の膝に乗るような形になる。 割られた尻の中心に秀一は顔を寄せ、小さな穴をべろりと舐めた。 「や!!!め!、やめ……この…っひ、ぐう」 ここを舐められるのは、苦手だった。恥ずかしすぎる。 秀一の両手は飛影の膝を抱え上げ、がっしりつかんで離さない。 取りあえず腹に食い込む紐をなんとか解きたいと、言うことを聞かない両手を飛影は持ち上げ、ゆらゆらする指でなんとか腰紐を見つける。 「……あふ、あぁ」 ようやく解放された腹部で深呼吸をし、腹の痛みから解放されたことで、ますます舌をねじ込まれている箇所の感覚が鋭敏になるのに気付く。 「しゅう、い、あ、舐め…るな、そ…んな」 「切れたら痛いから、濡らしてやってるんだろ」 「無理…だっ…て言って、る、だろうが!」 「わがままだな。じゃあこれで我慢しろ」 ジーンズのポケットから、何やら秀一が取り出した。 きゅぽ、と音を立てて白い蓋が飛び、その親指ほどの物の先端を秀一は押し込んだ。 「な、なん、おい!なに」 「リップクリーム。ポケットにあった」 「は!?」 リップクリームの先端を、飛影の穴でくるくると回し、指先で押し込み、また引っぱり出す。 ぐりっと塗りこめた白いリップクリームで穴は白くべとべとに光り、ひくっと盛り上がる。 「やめ…本当に、ばかやろ…!」 秀一のジーンズは膝まで下ろされ、飛び出したものは既に天井を向いている。 唾液とリップクリームを塗り込むように中指と人さし指を入れ、クチッと広げる。 ぬらりと赤い入口に、秀一が押し付ける。 「つう!あ、ぐう!ひあ、あ!ああ!」 丁寧な慣らしもなく、潤滑剤代わりのリップクリームを塗っただけで押し込まれ、飛影の両足がピンと突っ張る。 悲鳴を上げる寸前に唇を重ねられ、声は飲み込まれてしまった。 「あっつう、あ、いた……いたい…って、おい、やめ…っ!いた…」 「すぐに良くなるよ」 「いっ、あ、うあ!っあ!っあ!」 入り口だけに付着していたリップクリームが、体内にも溶け出したらしい。 すり切れるような摩擦感が消え、肉がぬるっと動き出す。 「あ……ひ、あぁ……ん、ふあ…」 「…ひえ…い」 火の気も音もない部屋で、強い雨音と、二人分の乱れた呼吸と、ぐちゅぐちゅと粘った音だけが響く。 はだけて落ちた襦袢の上で飛影は大きく足を広げ、尻の中を貫かれるまま喘いでいた。 「あ!っあ!う、あ、あ、ひ、ああ」 「…飛影…気持ち、いい?」 飛影は唇を噛み、視線を反らす。 その途端、奥をぐっと強く突かれ、唇が開き高い声を漏らす。 「ああ!く、う…い…ち、いち……聞く、な、ふ、ああ」 「言うまで、やめない、けど」 一回、二回、三回、体内を立て続けに強く押し上げられ、飛影が叫ぶ。 「わか……っ、た、か……ら!ああ!あ!い、イ…ぃっ」 「何?聞こえない」 「………ふ、ひあ、あ……っイイ…すご、く…」 きもちいい。 雨音にかき消されそうな、小さな小さな声で呟き、飛影は目を閉じる。 寒かったはずの部屋で、二人は汗だくになっている。 痙攣する穴で銜え込んだ肉を締め付け、最後の一押しを待っていた飛影は、秀一が動きを止めたことに気付き、そろそろと目を開けた。 「っふ、あ…おい…?」 「…お前が時々、いつか俺から離れるようなことを言うから」 俺を不安にさせないで。 百人の跡継ぎよりも、俺は。 「お前がいいんだ。…俺から」 リップクリームが入っていたのとは反対側のポケットから、何やら光る物を秀一は取り出す。 解いた腰紐をつかんだままだった飛影の左手に、秀一の手が近付く。 「永遠に俺から離れるな、飛影」 昨日と同じように、汗に濡れる左手の薬指。 金色の輪がはまった瞬間、体が浮くほど突き上げられた飛影の声が、雨に濡れるガラスを震わせた。 ***
一人きりの家の中。大きな柱時計がカッチコッチと音を立てる和室で、飛影は座布団も敷かずに畳にぺたりと座り、大きな座卓に頬を乗せ、今日も雨に濡れる庭を縁側越しに見ていた。力なく膝に置いた手には、指輪は見当たらない。 銀色の指輪と同じように、金色の指輪も納戸の箱の中だ。 「……参った」 ぼそっと呟く。 友人というものがいたことのない飛影の人生だったが、今日ほど友人がいればいいと思った日はない。 家族といえば雪菜だけだし、そもそもこんな話は両親から兄姉弟妹、祖父母まで揃っていたとしたって家族にはできはしない。飛影はひたすら困り切っていた。 一生俺のそばにいろと蔵馬は言った。 永遠に俺から離れるなと秀一は言った。 シンプルな指輪を、飛影の薬指にねじ込んで。 俺たちのそばにいろ、でもなく、俺たちから離れるな、でもない言葉を飛影は何度でも反芻する。 あの二人が自分を争っているような、そんな雰囲気はもちろんわかってはいたが、独占欲を形にしたような光る輪っかを指に嵌め、あからさまに示されては飛影もどうしていいのかわからない。 いい加減どちらかを選べと、突きつけられたような気が、したのだ。 そんな選択を突きつけられるのはもちろん困るが、何より飛影が困っているのは、自分はどこかでそれを喜んでいるということだ。 あの二人が互いに嫉妬し、自分を取り合うような真似をしている。そう思うと、下腹の奥あたりから、じわじわと悦びの熱が生まれるのはごまかせない。 秀一は業者との打ち合わせがあるとかで、先に店に向かった。 今年からどちらの店も大晦日から休みにすることになっている。多分、年越し蕎麦を食べ、順番通りでいけば蔵馬の部屋で過ごし、正月の夜は。 正月の夜は、二人に同時に体を開かれ、貫かれる。 飛影としては断じてそんなことは望んでいないし、許していないという態度をとってはいるが、あまり意味はない。 普段の機敏さからはほど遠く、のろのろと起き上がり、今日だけで百回目くらいのため息を飛影はつく。 畳から縁側の冷たい床へと素足で歩き、廊下の一番奥の、自分の部屋代わりにしている納戸の戸を開ける。 木箱から取り出した二つの指輪を小さな卓袱台に並べ、飛影は床にあぐらをかく。 気が合わないとはよく言ったもんだと、飛影は唇を尖らせる。 二人して同じことを考え、一日違いで同じ物を寄越すとは。そんなことがあり得るか? 「…あいつら、二人で相談したんじゃないのか?」 誰もいない家に、飛影はぼやく。 指輪というものはちょっと大きくてもちょっと小さくてもだめで、ぴったりでなければ嵌められないと、以前雪菜から聞いたことがある。付き合わされた古着屋で、すごく欲しい指輪なのにサイズが合わないとぼやいていた妹を思い出す。 金と銀の輪を、交互に左手の薬指に嵌めてみる。 どちらもごく細く、飾り気がなく、測って作ったかのようにぴったりだった。 ***
兄弟の家では、おせち料理は作らない。付き合いのある割烹に注文するのが毎年の習わしだったし、別に用意してある蟹だの海老だの帆立だのもある。雑煮だけは、丁寧に出汁をひき、焼いた甘鯛とかまぼこと椎茸と三つ葉、それに柚子を散らしただけのシンプルな物を秀一が作る。 曽祖母の代からの馴染みの蕎麦屋の蕎麦も届いている。 大晦日の今日、昼間は上得意客への挨拶回りを兄弟で手分けして片付けた。帰ってきた家には飛影はおらず、夕方になった今もまだ帰ってきていない。 大晦日だというのにどこへ行ったのかと、秀一は眉をしかめる。 ガラリ、と玄関の扉が開く。 とはいえ、秀一にはそれが兄の扉の開け方だとすぐにわかる。 「おい、飛影は?」 「さあ。帰ってきたらいなかった」 出張帰りでそのまま、蔵馬は得意先回りをして帰ってきたところだ。 秀一と同じように眉をしかめた蔵馬が、携帯電話を取り出すのに、秀一は無駄だよと、声を掛ける。 「繋がらないよ。電源切ってるか、充電切れか」 「なんのための携帯なんだ」 面白くなさそうに言うと、客先で貰ったらしいワインの瓶を、開けもせずに蔵馬は台所のテーブルに置いた。 ***
「どこへ行ってたんだ」広く寒い玄関で、黒いコートと黒いブーツ、今年のクリスマスプレゼントに雪菜が送ってきた黒い手袋を身に付けたまま、飛影は寒さに頬や鼻を赤くし、無言で突っ立っている。 「何時だと思って…」 「やめろ秀一。まあいい、上がれ飛影。腹が減っているだろう?蕎麦を茹でてやる。着替えてこい」 柱時計は、十時を指している。 かばってくれた蔵馬に礼を言うでもなく、怒る秀一に言い訳をするでもなく、飛影はするりと靴を脱ぎ、納戸へ行ってしまう。 「許してやれ。四日ぶりに見ると、かわいくてたまらん」 「兄さん」 「怒るなよ。言い訳は俺が後でベッドで聞いておいてやるさ」 ニヤリと笑った兄にしかめっ面をし、秀一は鍋の火を強くした。 ***
「死んだ爺さんのせいだな」畳、細工を施された欄間、柱時計、一枚板の大きな座卓、座卓の上にはざる蕎麦と蕎麦猪口、蕎麦湯の入った湯桶。天ぷらや煮しめといったいくつかの総菜も並んでいる。 テレビもなく、大きな座卓に年季の入った器が並ぶこの部屋は、タイムスリップしたかのような錯覚を飛影に与える。 死んだ爺さん、という言葉に、俯いていた飛影が顔を上げる。 蔵馬は箸を取り、薬味を蕎麦猪口に放り、豪快なのに綺麗な所作で、蕎麦を啜った。 「普通、年越し蕎麦ってかけ蕎麦だろう」 「熱い蕎麦なんて、江戸っ子の食うもんじゃねえとか言ってたね」 ジーンズとセーターに着替えた飛影は、黙ったまま箸も持っていない。どうやらずっと屋外にいたらしい飛影の顔は、寒さのせいで白っぽくなっている。 帰ってきた時には腹を立てていた秀一も、心配そうに自分の箸を置く。 「飛影、具合が悪いのか?」 「…いや」 短く答え、箸を取ろうとようやく上げた飛影の手は、黒い手袋に包まれたままだ。 「おい、それ」 「どうした」 兄弟が同時に声をかけ、同時に飛影を見つめる。 大きな赤い瞳は、怯むでもなく二人を見返し、何かの儀式のようにゆっくりと手袋を取った。 兄弟に比べればずいぶんと小さい手。白い手。 左手の薬指には、金と銀の指輪が重ねて嵌められている。 兄弟が揃って、息を飲む。 柱時計だけが、この場の主役だとでも言わんばかりに、カッチコッチと元気な音を立てる。 「……本当に、お前は嫌なやつだなぁ」 先に口を開いたのは蔵馬で、その言葉は隣に座る弟に投げられたものだ。 「こっちのセリフだけど。どういうつもり?」 「何がだ?俺は俺の愛しい者に誓いの指輪を贈っただけさ」 「薬指に?兄さんひとりのものでもないのに?」 「お互い様だろ。お前の指輪も薬指に合わせたように見えるがな」 本格的な口論の開始の合図のように、秀一が音高くパシッと箸を置いた瞬間、飛影が口を開いた。 「俺は……どこにも、行かない」 指輪を嵌めた薬指を包むように、飛影の右手が左手を包む。 困り果てた子供のような顔の中で、赤い目が輝く。 「飛影…」 「…俺が欲がないだと?馬鹿だなお前らは。俺は欲張りなんだ」 何かを決心するかのように、飛影がぶるりと震え、大きく息を吸う。 蔵馬を振り向き、言った。 「蔵馬。俺は一生お前のそばにいる」 飛影はくるりと右を向き、秀一を見つめる。 「秀一。俺は永遠にお前から離れない」 もう一度、飛影が大きく息を吸い込む。 「お前らは両方とも、俺のものだ」 宣言するように言うと、飛影は箸を取り、薬味も入れないまま蕎麦を猪口に放り込み、勢いよく啜った。 老舗の蕎麦屋のありがたみも何もなく、押し込むように食べる飛影の手がひどく震えているのに、兄弟は気付く。 きっと飛影は、これだけのことを言うのに、決心をするために、大晦日の寒い街をぐるぐる歩き回っていたのだろう。 どうしたらいいかわからなくて、でもどちらも自分のものだと、自分は二人のものだと、それだけはわかっていて。 「飛影」 高さも質も違う兄弟の声がぴたりと重なり自分を呼ぶのに、飛影の手が止まる。 口に入れたままの蕎麦をごくりと飲み込み、おそるおそるという風に兄弟を見る飛影の目に、座卓を飛び越えるような勢いで自分の手をつかむ、兄弟の姿が飛び込んできた。 「お、おい!なんだ」 「脱いで」 「脱げよ」 えっ、と飛影が異論を挟む間もなく、セーターにジーンズに手が伸ばされる。 かろうじて蕎麦猪口と箸を置いた途端、畳に押し倒された。 「おい、バカ、待っ、あ、蕎麦を食ってるだろうが!」 「爺さんは天才だな」 「本当。かけ蕎麦だったらのびちゃうもんね。ざる蕎麦なら問題ない」 「そうじゃな、ちょ、おい、あ、や、っあ!」 除夜の鐘の最初の一突きが、冷たい冬の空に響く。 厳かに鐘を鳴らす近所の名のある寺に申し訳ないような、煩悩の夜が始まった。 ...End 2019年は新しいクラヒストさんたちがたくさんの蔵飛を見せてくれた幸せな一年でした! 外食で満足まんぞく、の一年で更新はあまりできなかったので、今年はぼちぼち更新したいなと思います。 今年もどうぞよろしくお願いいたします。 2020年1月 実和子 |