1.Love triangle最低の十二月。最低のクリスマスだ。どこもかしこもイルミネーションに彩られた通りは人があふれていて、文字通り雑踏だ。飛影は深く重いため息をつくと、人波を縫うように足早に歩き、駅へと向かう。 ***
混み合う電車のむっとするような人いきれから逃れるように、開いたドアから一番に飛び出し、急ぐ理由があるわけでもないのに改札口へと走る。
降り立ったこの駅もまた、たくさんの人とクリスマスがあふれている。ツリーが、リースが、ちかちか瞬く光と音が。誰かへの贈り物を買うのであろう、騒々しい人の群れ。安さの代わりに、アパートは駅から遠い。普通に歩けば二十分ほどの道のりを、飛影はバスに乗るでもなく、いつものように十分ほどで走り切る。 妹と二人で暮らすアパートの外階段にも、住人の誰かが飾ったのか、百円も出せば買えそうな安っぽいプラスチックのリースがぶらさがっていた。 ビニールの葉、柊を模した子供の遊ぶビーズのような実。カサカサし、触れればパラパラと粉が落ちるだろう金色のモール。錆びた外階段の寒々しさとその安っぽさは悲しいほど似合っている。 ついさっきまで、自分が仕事をしていた場所とは雲泥の差だ。 本当に、今年は最低のクリスマスだ。 そう考え、飛影は乱暴に鍵を開けた。 ***
床の冷たさに構わず、飛影は素足で台所に立ちヤカンに火をつける。ガス台の青い火を見つめたまま、湯が沸くのを待った。 あと二週間もすれば今年も終わりだ。 年末はどんな仕事も忙しいのだろう。アパートの住人はみなまだ帰っていないのか、安普請のアパートも今夜はめずらしく静かだった。 粉の紅茶、という美味しくなりようもないインスタント紅茶に湯を注ぎ、立ったままマグカップの熱く甘い液体を啜る。 雪菜に説明することを考えると、頭が痛い。 この年の瀬にまた仕事を辞める兄に、妹はきっと呆れるし、嘆くし、怒るだろう。 そして悲しむ。 そうするしかなかったのだ。 けれど、理由を妹に説明することはできない。 「…最低のクリスマスだ」 今日何度目になるのかわからない言葉を、飛影は呟く。 飲み終えたマグカップを流しですすぎ、剥き出しの蛍光灯の天井を仰ぐ。 子供の頃から、クリスマスは好きな季節だった。 両親はろくに記憶にもないほど早死にしたし、一昨年まで一緒に暮らしていた祖母もクリスマスとは無縁だった。 家族でクリスマスパーティーをした記憶もないし、恋人とロマンチックに過ごしたこともない。もちろん誰からも豪華なプレゼントがもらえるわけでもなかったが、ごくささやかなプレゼントを妹と贈り合うのも楽しかった。 木々に建物にイルミネーションが輝き、街並み全てが色づくのを見るのが、飛影はただ好きだった。 クリスマス用にディスプレイされたショーウインドウの中の、必要もない、必要だったとしても到底買えない商品でさえ、美しくに飾られているのを見ると目が離せなかった。毎年変わらないように思える音楽も、気付けば聞き入っていた。 綺麗なものが、好きなのだ。 物であれ、人であれ。 兄さんって、面食いだね。 妹にそう言われ、驚いたのは何年も前の話だ。 女の人でも男の人でも、兄さんは綺麗な人ばっかり見てる。知ってる人でも知らない人でも。気付いてないの?ずーっと目で追ってるよ。そういうの、面食いっていうんだよ。 したり顔で言う雪菜に、飛影はびっくりした。 みんな、そうじゃないのか。 綺麗なものを見るのは幸せだし、楽しい。見ているだけでいいのだ。自分のものにしたいとか、手に入れたいとかそんな野望があるわけではない。 きっと雪菜のように自分自身が綺麗な生き物だったら、他に綺麗なものを求める必要もないのだろうと、飛影は何も言い返せずに苦笑したものだ。自分と妹は、双子であっても全く違うと。 なのに。 階段を上がってくる疲れた靴音が、妹の帰宅を知らせていた。 ***
銀器と、グラスを磨く。そんなことが仕事になるのかと、飛影が首を傾げた仕事を雪菜が見つけてきたのは、半年ほど前のことだった。 「兄さんに向いてるんじゃない?」 ただ黙々と、銀器と、グラスを磨けばいい。 主に開店前や閉店後の仕事で、あまり人と喋る必要もなく交流すべき同僚もいない。客に愛想を振りまく必要もない。 「その仕事をしてたおじいさんが辞めちゃうから、次の人を探してるらしいの」 老人でもできるような仕事を若者がするのも情けない話のような気もしたが、飛影としては文句も言えない。 人付き合いが苦手で愛想もない。当然客商売には向かず、仕事仲間と協力が必要な作業にも向かず、望んだ肉体労働も小柄すぎるせいでことごとく断られていた。おまけに学もない。 どんな仕事であろうが、金を貰えるのならば文句など言える立場ではない。妹と暮らしていなければ、こんな安アパートの家賃にだって事欠いていただろう。 その妹が念願だった学校に合格し、次の春から遠く離れた土地で暮らすことになった。 一緒に来る?と雪菜は聞いたが、学校には希望する者には女子寮があるという。自分でアパートを借りるよりも格安で、しかも安全だ。その土地で仕事があるとも限らないのに、進学する妹にのこのこと兄が付いて行くわけにもいかない。 私がいなくなっても大丈夫?一人で暮らせる?心配だよ。 この仕事ならそんなに人と話さなくてもいいし。兄さんでもできるでしょう?お願い。面接だけでも受けてみて? 畳みかけるように話す妹に、飛影は黙って頷くしかなかった。 そんなわけで始めた仕事だったが、意外に上手くいっていた。 雪菜が高校の恩師から紹介されたという、超がつくほど高級なレストランの銀器とグラスを磨くという仕事。 形ばかりの面接の場に現れた兄弟は飛影を見ると驚きを隠さなかったが、しょうがないとでもいうように視線を交わし、肩をすくめ、いつから来れるかと聞いた。 驚かれたことは飛影は気にならなかった。 低すぎる身長と幼く見える顔立ちのせいで驚かれるのには慣れている。歳は十七だが十二、三にしか見えないと他人は言う。おかげで仕事探しはいつだって困難だった。 兄弟は二人でフレンチとイタリアンの二つのレストランを経営し、両方の店に交互に顔を出していた。どちらの店も隠れ家のような店というのが売り文句の金持ち相手の店だ。隠れ家、という言葉にはふさわしくないが、店はどちらも連日満席だった。 驚いた、という意味では飛影も同じだった。 兄弟で経営していると聞いてはいたが、その兄弟が若く、しかも驚くほどの美形だとは想像もしていなかった。 多分、飛影も驚いた顔をしたことだろう。だが兄弟もそんな視線に慣れているのか、それを気にする様子もなかった。 こんな綺麗な顔をした男がいるのか。 それも、兄弟揃って? それが二人への飛影の最初の感想だった。 兄は白というより銀色に染めた真っ直ぐな髪を腰のあたりまで伸ばし、陶器のような白い肌に冷たく感じるほど整った顔をしている。服を着ていても分かる胸板の厚み、腕の太さ。何より驚いたのは、身長は少なくとも百九十はあるだろうことだ。 弟はといえば、癖のある黒髪を背の中ほどまで艶やかに垂らしている。兄とは違う意味でこちらも素晴らしく整った顔だが、兄の切れ長の目とは対照的に大きな目がかわいらしい。顔立ちは中世的で、一瞬男女どちらか分からない。だが得意客にワインを注ぐその腕は、男らしいしなやかな筋肉で覆われ、話す声は甘いが低い。 多くはない店の従業員は、すべて兄弟が教育することになっていた。 それがクオリティを保つ唯一の方法、というのが兄弟の一致した意見らしい。 「その歳まで銀器を触ったこともないのか?」 兄の方の名前は蔵馬。ずけずけと物を言うが、嫌味な感じはしない。 ただ思ったことをそのまま言っている、という風だ。 「気にしないで。教えてあげるから」 弟の名前は秀一。銀器用の布を飛影に渡し、綺麗な顔で笑った。 銀器の持ち方、磨き方、保管方法、と丁寧に、それでいて明確に説明をする。 驚くほど細い足のグラスを割っては叱られ、ガチャガチャと銀器を扱い傷を付けては叱られた。 それでも飛影にしてはめずらしく半年も続いた仕事だった。 兄弟は仕事には厳しいが、的外れなことや理不尽なことを言うことはなかったし、従業員を叱る時さえその顔は美しい。毎日会えるわけではなかったが、飛影にとっては兄弟を眺めることができるのも、この仕事を続けられる理由のひとつだった。 だが何より夢を叶えるために遠くへ行く妹に、これ以上心配をかけたくはなかった。 誰にでもできるような仕事だ。特別いい給料でもないが、飛影は贅沢をする方ではない。なんとかやっていけるだろうとほっとしていたのに、こんなことになるとは。 ***
「飛影、この後時間あるかな?」イタリアンの店であるシルヴィオは午後三時からという中途半端な時間からの貸切があったせいで、めずらしく早い閉店だった。 夜八時前には銀器もグラスも磨き終えた飛影が帰ろうと、投げておいたパーカーに手をかけると、秀一がそう呼び止めた。 妹の雪菜もバイトで遅いし、飛影には予定などあった試しがない。 何の用かと曖昧に頷くと、秀一も同じようにコートを手に取り笑う。 「夕飯付き合ってよ。友達の店が来週からオープンで、今日がプレで呼ばれてるんだ」 十二月の始まり。 外気は冬の冷たさをはらんでいるが、飛影は冬でも厚ぼったいコートは着ない。移動の時は大抵走っているのであまり寒さを感じないからだ。 「ハンバーガーの店なんだ」 ハンバーガーはもちろん凝ってるんだけど、そいつ、ポテトにやけに力を入れててね。やっと満足いくものができたから店を出すとか言っててさ。 黙ってただ秀一の話に耳を傾け、綺麗な横顔に視線を送りながら、飛影は隣を歩く。 妹と二人暮らしとはいえ、豊かではないこともあり、あまり二人で出かけて食事や買い物ということもない。 秀一の歩く速度に合わせて、ということは普通の速度で歩くということだが、それではTシャツにパーカーを羽織った姿では寒いと飛影は気付く。 「寒いんだろ?」 ビルの間をひゅうっと通った風に思わず身をすくめた飛影に、なんでそんな薄着なんだか、と秀一は笑い、自分がしていたマフラーを外す。 「ほら」 薄くなめらかな生地のベージュのマフラーを、秀一は飛影の首にくるっと巻く。きっと高価な生地なのだろう。薄いのにとてもあたたかなマフラーは、秀一の体温と、微かな匂いを残していた。 「いらん」 「風邪引かれちゃ困るよ。店はこれから忙しい時期なんだから」 そう言われては、何も言えない。 背の低い飛影に合わせてかがんでマフラーを巻く指先。こちらを見る秀一と、真正面から目が合った。 「あ…」 ありがとう、と言うべきなのだろう。けれど妹以外の人間にそんなことをされたのは初めてで、飛影は何も言えないまま、足を速めた。 波打つ胸元で、マフラーが揺れる。 ***
ピクルスって、本当はこういう形だったのか。肉の焦げる甘く香ばしい匂いで満ちた店内で、飛影はまじまじと皿を見つめ、そんなことを考える。 たっぷり十センチの高さはあろうかというハンバーガーは、さまざまなディップを添えた山盛りのポテト、オニオンフライ、まるごとのピクルスをお供に、大きな皿に湯気を立てて鎮座している。 「冷めないうちに食べなきゃだよ」 さっさと食べ始めた秀一が、声をかける。 薄い漬物のような物だと思っていたピクルスが親指ほどのサイズでごろんと転がっているし、おまけに紙ナプキンにくるまれたナイフとフォークがある。丸ごと揚げられ花びらのように開いているたまねぎも、説明されるまで飛影にはたまねぎだとはわからなかった。 困惑している飛影に秀一はまた笑い、テーブルのホルダーに置かれたワックスペーパーを取ると、熱いハンバーガーを器用にくるっと包み、差し出す。 「別にナイフとフォークでなくていいんだよ。火傷しないでね」 パンも、肉も、チーズも、トマトも、飛影にはなんだかわからない、他に挟まっているいろんな物もとても美味しい。 スパイシーなポテトを秀一に勧められるままおそるおそるディップにつけ、ピクルスを齧り、さっくりと甘く揚がったたまねぎを味わい、ピリッと辛いジンジャーエールを飲んだ。 「美味しい?」 人ときちんと話をしないとだめ。そんなんじゃ、どこでもやっていけないよ。 妹にも死んだ祖母にもさんざん諭されていたことを思い出し、飛影は慌てて口の中のものを飲み込む。 「…ああ」 「味や接客はどう?何か改善すべき点はない?」 そういう意見を聞くための食事なのだとようやく理解した飛影だったが、美味いという以外の言葉も出てきそうにない。 今までに食べたことがあるハンバーガーより美味い、などと言うのは的外れなことくらいは飛影でも分かる。 「嘘。冗談だよ。ただ食べさせたかっただけ。こっちも食べてみて」 切り取った自分の分の一切れを、秀一は飛影の皿に移す。 どうやら種類が違うらしく、バンズの色も中身も違う。 ナイフとフォークを使い、秀一はみるみる皿を空にする。 優雅に、それでいて手早く食事を片付けられるというのはどういうことなのだろうかと、飛影はワックスペーパーをガサガサさせながら、すっかり見蕩れてしまう。 「味はどうだぁ?」 赤茶色に色の抜けた髪をした男が、キッチンカウンターの中から大声で聞く。 陣、と秀一が呼びかけた男は、整った顔をしているがどこか垢抜けず、言葉にはどこともつかぬ訛りがある。気の良さそうな男だ。 「美味しいよ。でもピクルスはもっと小さいのにして他の種類も添えたら?」 オリーブやれんこんもいいよ。京野菜なんか使うと女性受けするしさ。 でもよ、俺としては絶対このオーソドックスなきゅうりが合うと思うんだな。 まあね。美味しいのは間違いないんだけど、あ、でもこの焼き海苔を挟むってのはいいね。提供までの時間の問題もあるけど。このジンジャーエールもすごく合う。これで原価はどのくらいになる? 今まで食べたこともないような美味しいハンバーガーを咀嚼しながら、飛影は二人の会話に耳を傾ける。 長い髪。綺麗な目と、形のいい鼻と唇。深い声。 話の意味は分からないが、秀一の声は夜中にふと付けたラジオから流れる、一生行くこともない遠い国の音楽のように聞こえた。 あらかた食べ終え、雪菜に土産に買っていける値段だろうかとメニューを裏返し、ハンバーガーだけで千八百円という値段に肩をすくめたところで、沈黙と視線に気付いた。 「おめ、誰か連れて来るなんてめずらしいな?」 「でしょう?この後、口説こうと思ってるんだ、この子を」 陣の言葉に、秀一は軽口で答え、笑う。 原価だのオペレーションだの、スタッフの動線だの、意味の分からない言葉ばかりだったが、口説く、というのは飛影にもわかった。 「口説く?」 「そう。君を口説こうと思って」 サワークリームを使ったというディップをポテトで掬い上げ、秀一は飛影の口元に差し出す。 飛影が慌てて口を閉じると、秀一は笑って自分の口に放り込んだ。 「会った時から、かわいいなって思ってたんだ」 かわいい。 ついぞ言われたことのない言葉に飛影は瞬く。 椅子がガタンと音を立てるほど身を引くと、秀一を睨んだ。 「………からかうな」 秀一と陣は目を合わせ、何がおかしいのか盛大に笑った。 ***
これも試してみてくれと出された、ハンバーガーの形を模したアイスクリームもきっちり食べ終え、久しぶりの満腹感に飛影は幸福なため息をつく。外は変わらず寒かったが、美味しいもので満たされた腹を抱えてならば、そう苦ではない。 「美味しかった?」 ごちそうさまです。すっごーく美味しかった。あんなハンバーガー初めて!また連れてきてくださいね。 妹の雪菜ならきっと、かわいらしい笑みとかわいらしい声で、そう言えただろう。そうできたなら、人生はもっと楽だったろうに。 飛影はただ無言で頷き、再び貸してもらったマフラーに顔を埋めるようにして隣を歩く。 「十二月は書き入れ時だからね。開店が間に合って良かった」 「そうか」 足の長さはずいぶん違うのに、どちらが無理をするでもなく二人は並んで歩く。 行きは合わなかった歩調が、不思議に今は合う。 最寄り駅の入り口が見え、飛影が足を止める。 首から外したマフラーを差し出し、じゃあまた明日、と秀一が言ってくれるのを待つように、飛影は視線を上げた。 「さっきの話の続きだけど」 「さっき?」 君を口説こうと思って誘ったって、言ったでしょう? もう忘れちゃったの? 冬の風に、黒髪がなびく。 頬にかぶる艶のある髪を、長い指がかきあげる。 木々が、街並みが、イルミネーションが、この一瞬の背景のために存在するかのように輝いていた。 風が飛影の手から、マフラーを落とす。 綺麗なものが、好きだった。 昔から、ずっと。 見ているだけでいいのだ。 自分のものにしたいとか、手に入れたいとかそんな野望があるわけではない。 手に入れたいわけじゃなかった、はずだ。 「…からかうなと言っ」 「本気かどうか、試してみる?」 ***
ホテルというものも、飛影は初めてだった。落ち着いた白い天井。モダンな家具やベッド。 いわゆる高級な部類に入るホテルだろうに、暖房が効きすぎているのか、ひどく乾燥していた。 秀一の腕の中で裸でいる自分がまだ信じられず、飛影は部屋にかかった絵を見つめる。 それは油絵で、大きな河で洗濯をする女達と、羊のような生き物がざっくりとしたタッチで描かれている。 生まれて初めてするセックスは、痛かった。 痛いし、恥ずかしい。 足を広げてあんな所を舐められるのも、指で弄られるのも、四つん這いになって自分でも見たことのない場所を晒すのも。そこに他人の勃起した性器を押し込まれて、痛さのあまり悲鳴を上げたのも、揺さぶられているうちにだんだん気持ちがよくなって、何度も射精したことも。 何もかもが、恥ずかしい。 そんなものをなぜ持っているのか、最初からそのつもりだったのか、秀一はいい香りのするオイルの小瓶をどこからともなく取り出すと、念入りに飛影の穴を慣らした。 したことはない、と情けなく呟いた飛影に目を丸くし、本当に?嬉しいな、俺に任せて、と秀一はいつものように綺麗な顔で微笑み、言葉通り丁寧に飛影を抱いた。 洗濯をする女達と、羊のような生き物から目を離し、飛影は眠る男の顔を見る。 女だか男だかわからない、と思った男は裸になれば男以外の何者でもなく、たくましい腕を飛影に絡めて眠っている。 帰らなければ。 十一時を過ぎた。終電の時間も気になるし、いくら帰る時間がまちまちとはいえ、十二時までに帰らなければ雪菜が心配するだろう。 眠る男を起こさないようそっと起き上がった飛影だったが、ぐっと腕を引かれ、ベッドに倒れ込んだ。 「なっ」 「行かないでよ」 クスッと笑うその顔に、寝たふりだったのだと飛影はようやく気付く。 「……帰る。妹が心配する」 「ずるいな。そう言われちゃ帰さないわけにもいかないじゃない」 ベッドボードのどこかしらのスイッチをひねり、秀一は部屋の明かりを点ける。 やわらかく暗いオレンジ色の光から急にしらじらと明るくなった部屋と、裸の自分に、飛影は慌てて服を取る。 「今さら慌てなくたっていいじゃない。よーく見せてもらったんだし」 カアッと赤く染まる頬に、やっぱりかわいいなあ、と秀一はしれっと言う。 「帰る!」 「チケットあげるから、タクシーで帰りなよ」 「いらん!」 チケットがなんだかはわからないが、火照った頭と顔で、飛影は怒鳴る。 「酔っ払いだらけの夜の電車に乗せたくないからさ」 ね?俺のために使ってよ。 たいした金額でもないんだから。 下着をつけシャツを羽織り黒いズボンを履くと、秀一はコートを取る。 「じゃあまた明日。飛影」 歌うように、秀一は言った。 指先で弾くように、飛影のパーカーのポケットにタクシーのチケットを差し込み、耳たぶに素早いキスをして。 ***
シルヴィオがモダンイタリアンならば、プレリは昔ながらという風情の重厚なフレンチレストランだ。元々老舗だった店が倒産し、そこを兄弟が買い取り、明治頃に立てられたという建物の趣は残したままに改装したのだという。 「おい、飛影。ちょっと来い」 昨夜のことを思い出しては赤くなりながらキッチンでグラスを磨いていた飛影に、蔵馬が声をかける。 二人がけのテーブルが八つほど、中央には六人掛けの丸テーブルが二つ。プレリはシルヴィオよりさらに小さな店だ。 店の奥、対になったソファは食事用ではなく、デザートや食前酒を楽しむための場所だという。 「どちらがいいと思う?」 猫足の、アンティークなソファ。片方はマホガニー材を使い、深い緑の天鵞絨が張られている。もう片方はウォールナット材に赤みを帯びた革素材だ。もっとも、飛影にはどちらも椅子、としか見えない。 「…どっちでも」 「それは意見とは言わんな」 これには少々飛影もムッとした。 二つのソファはどちらもとても素敵に見えたが、飛影にはそれが何でどれほど高級なのか、ましてやどちらがこの店に合うのかなどわかりはしない。 雪菜が子供の頃読んでいた絵本に出てきた、お姫様が暮らすお城にあるような椅子だ、というくらいの感想だ。 「なぜ、俺に聞く」 もう一度交互にソファを眺めてみたが、やはりどちらも店のインテリアに似合うように思えた。 グラスや銀器を磨く飛影以外のスタッフは、今夜はもう帰ってしまっている。 「他のやつに、明日聞けばいい」 「お前に聞きたかったからさ」 「俺にはわからん」 「決められないのか?じゃあ使い心地を試してみるとしよう」 試す?と振り向いた飛影の視界いっぱいに、銀色の糸が広がった。 ***
「やめろ!」首筋に吸い付く男を引きはがそうとしたところで、大人と子供ほどもある体格差。 おまけに蔵馬は見た目通り、信じられないくらい力が強かった。 「何を……やめ…!」 重ねられた唇は噛み付かれる寸前に離れ、またからかうように重ねられる。 銀色の髪はまるでカーテンのように飛影の視界を覆い、酒に酔ってでもいるかのように、現実感を薄める。 「あ!やめ、あ!」 力任せに下着ごとジーンズを引き下ろされ、股間を握られる。 大きな手のひらの中にすっぽり納まる小さなものは、揉まれるたびに一丁前に硬くなっていく。 「っ、あ!離せ!この…っ」 「こんなに小さいのに硬くなるんだな。かわいいもんだ」 人さし指と親指だけでこねくりまわし、蔵馬は喉の奥で笑う。 ソファの上。 下半身だけを丸出しにしたみっともない自分の姿に、急に怒りが込み上げる。 なんとか右手を解き、飛影はやみくもに腕を振り回し、覆いかぶさる相手を引っ掻いた。 「離せ!!」 指先に、皮膚を削る手ごたえはあった。 ふいに重みが消え、おそるおそる飛影は目を開ける。 陶器のような白い肌。 首筋から鎖骨へと、短い爪が引いた赤く細い四本のライン。 唇だけを上げた笑みが、飛影を見下ろす。 綺麗な、本当に綺麗な生き物。 息が、できない。 …なんだか、人間じゃ、ないみたいだ。 呼吸さえも忘れて凝視する飛影の髪を、蔵馬が乱暴とも思えるほど強くつかみ、顔を上向かせる。 「嫌なら、本気で抵抗しろ」 またもや手が伸ばされ、親指と人さし指がきゅっとそこを押さえる。 全身の血がそこに集まったかのように、どくどくと脈打つ。 「……っあ…」 起き上がれ。そして走ってここから逃げろ。 今すぐに。でないと、戻れなくなる。 頭の中で喚くどの声も、飛影の体を動かしはしない。 「…どうした?逃げないのか?」 ***
ほとんど無理やりだった。ほんの少しクリームのようなものを塗られただけで、捻じ込むように入れられた。 レトロなガラスが震えるほど、飛影は痛みに声を上げたが、体内で暴れるものは大きくなるばかりだった。 体中が悲鳴を上げるような、軋むようなセックス。 尻の中に何度も何度も注ぎ込まれた熱いものは、納まりきらずにあふれ出し、ソファを汚した。 痛みの果てに快楽があるなど、知りたくもなかったのに。 蛍光灯の明かりの下、妹のためにもう一度湯を沸かしながら、飛影はぼんやり考える。 無理やりだった? 確かに。でも、逃げれなかったわけじゃない。 逃げることはできたはずだ。 逃げたくなかったから、逃げ切れなかったのだ。 シャワーの水音が止むの気付き、トースターに食パンを放り込む。 マグカップにはさっきと同じ粉の紅茶、冷蔵庫から取り出したのはマーガリンといちごジャム、一昨日雪菜が作ったマカロニサラダだ。 安いジャムは、色まで薄い。 現実と、現実感。 髪を拭きながら出てきた妹と、折り畳みのテーブルでトーストを食べる。 「つっかれたー。今日やけに混んでて」 疲れた、とこぼす妹は確かに色濃く疲労の色を浮かべている。それでも充分に綺麗だった。 化粧もしていないのに濃い睫毛が、大きな目をぐるっと囲んでいる。さえざえと白い肌も、色味の薄いやわらかな髪も。 桃色の唇から覗く、トーストに立てた前歯さえ、形よく白い。 「……お前、綺麗だな」 「は?」 うん、知ってる。私って綺麗だ。美人だ。 だから割りのいいバイトができるのだ。美人というのは得なものなのだぞ? ふざけた口調で雪菜は返し、目を細めて笑う。 「…急に何言ってんの。兄さんってば」 トーストの耳を紅茶で流し込み、雪菜は紅茶の温度の残るあたたかな息を吐く。 「良かった。ここを離れる前に、兄さんが続けられそうな仕事を見つけてくれて」 「そうだな…」 言えない。 馬鹿げたセックスで、またもや仕事をなくしたなど。 二人分の皿を重ね、飛影は立ち上がった。 ***
言わなくたっていい。そう結論づけて、飛影は今日も家を出る。 十二月いっぱいで辞めてくれと言われてるが、雪菜は三月には引っ越してしまう。 それまでなんとか仕事を続けているふりをしながら、他の仕事を探せばいい。日雇いでもなんでもいい。 プレリの裏口を開け、キッチンへ入ると、秀一がいた。 シェフとの打ち合わせの資料なのか、フランス語で書かれたいくつものメモとノートを並べ、料理を置くカウンターに頬杖をついていた。 以前のように、顔を上げて微笑んでくれることも、ちょっと食べてみる?と試作品を食べさせてくれることもない。 両方と寝たことはあっという間に二人に知れたらしく、それからというもの、秀一も蔵馬もまるで飛影が見えないかのように振る舞っていた。 どのみち今月いっぱいだ。 本当は今すぐ消えてくれとでも言いたかっただろうが、さすがに今は一年で一番忙しい十二月だ。替わりはすぐには見つからないと、兄弟は渋々今月にしたのだろう。 営業時間ではない今は、流れる音楽もない。 息苦しくなるような沈黙の中、飛影は銀器を磨き続ける。 「初めてのふりまでするなんてね」 唐突な言葉に、飛影は磨いていたフォークを取り落としそうになる。 振り向けばそこには、冷たく光る目があった。 「挙げ句、翌日に兄さんとやるとはね。おそれいったよ」 何も返せずに、飛影はまた一本のナイフを取り上げ、教えられた通りに丁寧に布で磨く。 「自分の見る目を信用して生きてきたのに、がっかりだな」 トントンとメモをまとめていた秀一が、ドアの音に気付き顔を上げる。 ゆるく髪を束ねた蔵馬が、相変わらずの存在感でキッチンに入ってきた。 「おい、淫乱」 久しぶりにかけられた言葉が、これだ。 蔵馬の言葉に、思わず飛影は勢いよく振り向く。 「どうだ?どっちが良かった?ん?聞かせろよ」 笑ってはいるが、その目は秀一と同じく冷たい。 みっともなく言い訳をする気はない。ゆっくりと、飛影は磨きかけのナイフを下ろした。 菓子など食べたことのない子供が、目の前に見たこともないような菓子を二つ出され、欲張って両方を欲しがったようなものだ。 見ているだけでいい、手に入れたいなんて思ってもいないと、自分で自分を騙し続けてきたくせに、いざ目の前に出されたら嘘もつけなかった。どちらも欲しい、どっちもくれと、地団駄踏む子供のように欲しがったのだ。 「……文句を言われる筋合いなんかない。お前らだって遊びだったんだろうが」 そう言って、飛影はまたナイフを磨き始める。 言い訳など、しない。 何を言っても、馬鹿馬鹿しいことだ。 「ま、君はクビなんだから別にいいけど」 まとめたメモとともに、秀一が立ち上がる。 正月はどうする?と蔵馬が久しぶりに秀一に話しかけた。 「あのジジイはいないしな。あんな山ほどの洗い物ごめんだからな」 「誰か雇えば?」 「今からか?」 「ああ、そうだ」 飛影、正月に最後の仕事に来いよ。得意客を家に呼ぶんでね、山ほど洗い物が出るんだ。金に困ってるんだろう?金はいつもの日給の三倍やるからさ。 「断る」 「生意気な口を利くな」 冷たく言い放った蔵馬を制し、秀一が嫌な笑みを浮かべる。 「飛影、君に断る権利なんてないんだよ」 君の妹に言ってやろうか? 兄さんはバイト先で男とセックスしたんだよ、しかも二人とね。それでクビになったんだよって。 「初めてだなんて嘘をついて、散々尻を振ったって」 君のこと心配して、進学はあきらめてここにいてくれるかもね? あ、もしかしてそれが狙いとか? ナイフの柄に刻まれた彫刻が、飛影の手のひらにくっきりと跡を残した。 ***
クリスマスは忙しすぎて、何かを考える暇はなかった。店の大きさを考えればたいした人数の客が入るとも思っていなかった飛影だが、そもそも繁忙日は時間を区切って回転させるのが普通であることなど知らなかったし、クリスマスのメニューがあれほどたくさんの銀器やグラスを使うことも知らなかった。 当然、人のいない開店前と閉店後だけというわけにもいかず、普段は会うこともない料理人やサービスの人間とも顔を合わせることになった。忙しさを理由にろくに口を利くこともなく過ごせたのは飛影にとって幸いだったが。 同じようにバイトから帰ってきた妹と、去年と同じようにささやかなプレゼントを交換し合い、クリスマスは終えた。 いつものように、足早に歩く。 何度も見たメモを、また開く。 綺麗な文字は、秀一のものだ。メモに書かれた住所には階数や番号はない。きっと嫌味なまでに豪華なタワーマンションの高層階にでも住んでいるのだろう、と考えていた飛影だったが、どうやら一軒家の住所らしい。 高級住宅地だね。戦前からのお金持ちが住んでるような場所だって歴史の先生が言ってたけど。 飛影が口にした住所に、雪菜はそう答えた。何、その辺に用でもあるの?と首を傾げられ、さっき電車の中で見たニュースでその辺で火事があったと出てたから聞いただけだ、といつになく上手い嘘を飛影はついた。 時折地図に目を落としつつ、飛影は歩く。 ぴりっと新鮮な正月の空気に、足取りは次第に重くなってきた。 皆が皆、帰る郷里があるわけでもないだろうに、正月の街は驚くほど空いていた。 人気の無い街に、ふと飛影は足を止める。 今年はもう、ささやかなプレゼントさえ、贈り合う相手もいなくなるのだ。 なぜか今そう気付き、胸の中にすうと冷たい風が通るのを感じる。 新しい仕事を見つけたとしたって、この先もきっと、クリスマスや正月に雪菜に会いに行けるほど懐は豊かではない。向こうでも雪菜はバイトを続けるだろうし、自分ときたらバイト程度の仕事さえなくしてしまっているではないか。相手が綺麗な顔をしているというだけで骨抜きになり、誘われるままにセックスをし、仕事をなくしたのだ。 綺麗な顔にあからさまに軽蔑の色を浮かべた兄弟を、飛影は思い出す。 そんな顔をされなくたって、わかっている。軽蔑されて当然のことをしたのだとわかっている。 皿洗い?皿くらい自分たちで洗えばいい。今日はこのまますっぽかして帰ってしまおうか。金が三倍貰えようが、知ったことか。 行くのか?行かないのか? 冷たく晴れた空を見上げ、深呼吸にも似た息を吐き、飛影は再び歩き出す。 雪菜に知れる可能性があると思えば、行かないわけにもいかない。そんな言い訳をしてみる。 この期に及んで、最後にもうひと目あの兄弟に会いたいと思っている自分に呆れながら。 ***
数寄屋門はそう大きくはないが古びており、柵の向こうには二十個ほどの飛び石が連なり、苔むしている。都会の真ん中で、庭付きの家を持つ者がいることに飛影は驚く。表札がないことにためらったが、地図からするとこの家に間違いない。躊躇いながら鍵のかかっていない門を開け、飛び石を踏んだ。 「入れよ」 客を迎えたのは大晦日の昨夜だったのだろうか。大きな家に客の気配はすでにない。 火の気のない玄関は当然のように冷え込んでいた。正月らしく兄弟は和装を纏い、飛影を見下ろした。 兄弟を見た途端、跳ね上がった鼓動を無視し、飛影は靴を乱暴に脱ぐ。 兄はいつものように髪を下ろし、弟はゆるくまとめ、薔薇を象ったべっこうの簪を挿している。 アンティークな洋間で、蔵馬は揺り椅子で本を読み、秀一はテーブルに向かい届いたばかりらしい年賀状を広げている。台所はそっちだと顎で使う仕草も、憎々しいのに美しい。 洋館というのだろうか、日本家屋というのだろうか。飛影にとっては見たこともない類いの建物だ。 玄関は和風だが、すぐの部屋は対のソファのある応接間になっている。板張りの廊下にはいくつもの部屋が続くが、分厚い絨毯を敷いた洋室もあれば、床の間に掛け軸のかかった畳敷きの和室もあった。 広い廊下の反対側には縁側と、手入れをきちんと施された、冬だというのに豊かな庭が見える。 戦前からのお金持ちが住んでるような場所、という雪菜の言葉を思い出し、今ほど貧乏を情けなく思ったことはないと、飛影は小さくため息をつく。 金を持てば、見える風景まで変わるのだ。 隣の部屋のテレビの音、剥き出しの蛍光灯、サッシ窓から見える散らかったごみ捨て場。カーテンを閉めても近くのコンビニの明かりは遮れない。金を稼げる優秀な人間だったら、そんな場所から妹を救ってやれたのに。 「…これだけの皿を洗うのに、人を雇うこともできるんだろうな」 一人きりの台所で、嫌味っぽく呟く。 いったい何人の客を招いたというのだろう。流しに積まれた皿はどう見ても大量とはいえない。二人分といってもいいくらいだ。 こればっかりは高級になりようもないのか、どこにでも売っている洗剤とスポンジを手に取ると、飛影は皿を洗い始めた。 ***
洗った皿を積み上げたはいいが、布巾が見当たらない。蛇口をきゅっと締め、濡れた皿を片手に布巾を探し、振り向いた飛影はぎょっとした。 いつからいたのか、にやにや笑う蔵馬と、しかめっ面をする秀一の姿がそこにはあった。 小ぶりだが重みのある皿が手から滑り落ち、硬い床で鋭い音を立てる。ハッと下を見た飛影だったが、四角い皿は角が欠けていた。 「やれやれ。皿洗いもまともにできないのか」 台所の入り口に頭がぶつかりそうな姿勢のまま、蔵馬が笑う。 秀一は飛影と皿とを交互に見、しかめっ面をしたままだ。 「…な…何見てやがる!! お前らが急にいるから…!」 何がしたいのか、何のつもりなのかと困惑する飛影を、兄弟は無言のまま見つめている。 もしかして、皿洗いは口実で、兄弟は両方と寝たことに心底頭にきていて、自分を殺して広い庭にでも埋めるつもりだとか? 一瞬そんな考えが、飛影の頭を掠めた。 「…だから嫌だったんだよ、この子を雇うの」 吐き捨てるように、秀一が言う。 だから、の意味はわからなくとも、その言葉は飛影の胸を刺す。 「なら、いいんだな?」 「は?誰がそんなことを言った?」 長身をかがめ、戸をくぐるようにして近付く蔵馬を制するように、秀一も台所に入ってくる。 ダイニングテーブルの椅子を引き、並んで座った兄弟の前で、飛影は立ち竦んでいる。 「やめておけよ秀一。俺とお前にケツを差し出すようなガキだぞ」 「俺とお前じゃないね。お前と俺と言うべきだよ。俺と先にやったんだから」 「早い者勝ちの理屈はない。そもそも先にルール違反をしたのはそっちだろう」 「兄さんにはモラルってものがないのか」 「ないな。だからこのビッチを引き受けるのは俺だろう?」 目の前で交わされる会話の意味が分からず目を白黒させていた飛影だったが、ようやく自分の話をしているらしいと気付く。 「誰が…」 「しょうがない。俺がお前を引き受けてやるよ」 笑いながら蔵馬が差し出した手を、秀一がパシッと叩く。 ほとんど睨むような眼差しが、飛影を射る。 「嫌になるよ」 今日でやめるというのにまだ言うのかと飛影が顔を上げ、言い返そうと口を開けるのを遮るように、秀一は続ける。 「その顔。その体。その性格。なんで雇っちゃったんだろう」 「だからルール違反をしたのか?」 ちゃかすように言う蔵馬に、秀一が真顔で返す。 「そうだよ。兄さんも好みだってわかってたからね。だから先に抱いたのに」 「早い者勝ちじゃなかったってわけだ」 「強姦したんじゃないの?兄さんのことだから」 「痛がったのなんて最初だけだ。後は喜んで尻を振っ」 「やめろ!!」 飛影の大声に、台所には沈黙が降りる。 もう皿も布巾も知ったことかと、テーブルに置きっぱなしのパーカーに伸ばした手を秀一につかまれた。 「離せ!!」 「まったく…雇い主に向かってその口の利き方ときたら。君はどこまでも、俺と兄さんの好みだな」 「………………は?」 「前世かなんかからの因縁としか思えないよ、飛影。なんでこんなに俺たちの好みのタイプなんだろう」 眉をしかめたままの秀一の言葉は、飛影にとって青天の霹靂だ。 間の抜けた声を上げ、飛影は手を振り払い後ずさったが、すぐに流しにぶつかってしまう。 「それは俺のセリフだ。今回は俺に譲れよ秀一」 「嫌だね。これは俺のだよ」 「誰にでも股を広げる淫乱でもか。心の狭いお前には無理だろう?」 「これから躾けていくからご心配なく」 「俺が長男だろ」 「だから?年少の者に譲るのが家長じゃないのか?」 「じゃあ」 ぽかんとしたままの飛影をよそに、言い合いは続く。 「じゃあ、共有するか?」 「この家も店も共有してるのに、この子も?冗談じゃないよ」 「毎晩三人でってのもなんだしな。交代制にするか?」 「お断り。諦めろよ」 「決めるのはお前じゃない。なあ、飛影?」 突然自分に話をふられ、飛影は面食らう。 「………お前らは…いったい、何の話をしてるんだ?」 蔵馬は笑み、秀一は眉をしかめた。 「頭、悪いな」 「そこもまた、好みだろ」 頭、悪いな。 直球の悪口にムッとした飛影だったが、またもや口を開ける前に遮られた。 「飛影。お前を俺たちの恋人にしてやろうって話さ。どうする?」 俺、………たち? たちとは?どういう意味だ?共有?何を?誰を?俺を? 「何を馬鹿なことを…」 「嫌だってこと?」 「あ、当たり前だ!! そんな馬鹿な話聞いたことない!」 「今日弟とセックスして、明日は兄とセックスする、なんてことが平気な人間に馬鹿呼ばわりされる筋合いはないな」 秀一の意地の悪い言葉に詰まる飛影に、蔵馬はまた笑う。長い銀糸を揺らして。 「そうだぞ。俺たちを穴兄弟にしておいて」 「兄さん…下品だよ。飛影、俺にしておきなよ」 蔵馬の着物は薄鼠色。秀一の着物は山鳩色。兄弟は揃って優雅にこちらを見つめている。 ゆっくりと、言葉が飛影に染み込んでいく。 どうやら自分はこの二人に好かれていて、しかも選択権があるらしい。 意味は飲み込めたが、どうしたらいいのかは全くわからない。 取りあえず、ここから逃げ出したい。それ以外、考えられない。 逃げる。 決めた。 足の早さには自信があった。玄関まで走れば数秒だ。サッとパーカーを奪い取ると廊下へと走り出し… あっさりと、捕まった。 大柄だというのに素早い動きで、蔵馬は飛影を捕まえ馬鹿力で押さえ込み、膝に抱き上げる。 「離せ!」 「んー?駄々っ子だな」 くすくす笑いながら、蔵馬は飛影の顔を秀一の方へと向ける。 「どうする?どっちとのセックスが良かったんだ?俺の方が大きくて良かっただろう?」 「兄さんはでかいだけじゃないか。テクニックは断然俺が上だよ。飛影、そうだろう?」 大きかっただの、テクニックは俺が上だの。 混乱と、恥ずかしさ。もう何もかもが。 「どっちのセッ……良かったとかじゃない!ただすごく綺麗だと思ったから!だから、俺は…悪いってわかっていた!今だって……選べな…っ!! お前ら俺をからかってるんだろう!? 帰る!離せ!!」 何を言ってるのかさえもうわからない。 真っ赤になり、次の瞬間には肩を落とした飛影に、秀一の顔が近付く。 「飛影」 「うるさい!あっちいけ!! 見るな!」 深い色をした瞳が近付き、思わず飛影は目を閉じる。 ぎゅっと結んだ唇に、あたたかい唇が重なる。 「この顔。この性格…」 蔵馬に引かれて開いた、飛影の足の間に、秀一の右手が掠めるように触れる。 「…この体も。すごく好き」 耳元で、甘く囁く。 「声も好き。聞かせて」 秀一の指先が、ジーンズのファスナーを下ろす。 「やめ…っ」 「よせよ秀一。姫始めを台所でなんて無粋だぞ」 ファスナーの中を探っていた指が引っ込み、秀一が顔を上げる。 「そうだね。それには賛成。交代制なら今日は俺の番だよね」 立ち上がった秀一が、飛影の両手を取る。 「おいで飛影」 「行くか馬鹿!」 両手を振り払い、立ち上がった飛影の声は裏返っている。 「お前ら頭おかしいぞ!? 帰る!!」 「…いいんだ?」 また妹と盾に脅されるのかと身構えた飛影に、秀一が笑う。 晴れやかな、綺麗な笑み。 仕立てのいい着物、整った目鼻立ち、宝石のような瞳、べっこうの簪が品良く光る、艶やかな黒髪。 形のいい唇が、くっと上がる。 「俺たち二人を手に入れられるなんて幸運、君の人生にもうないと思うけど」 いつの間にか、飛影の両手は再び秀一の手の中にある。 いつの間にか、飛影の首には蔵馬の腕が回されている。 「そうだな。こんな幸運二度とないぞ。手放していいのか?」 「断るって言うなら…君とはもう会うこともないね。残念だな」 頬に秀一の唇を、首筋に蔵馬の唇を感じ、飛影はぶるりと身震いする。 今逃げ出したら、もう二度とない? 二度と、この二人に会えない? 「…どうする、飛影?」 ***
「交代制なら今日は俺の番だって、さっき言っただろ」 ***
尻の中を、ずぼずぼと熱いものが行き来し、誰かの手が腹にくっつくほど勃ちあがった陰茎をしごき、起ち上げ、絞り出す。太すぎて口内に納まらないものに舌を這わせ、息苦しさに舌で押す。そんな稚拙な動きでも感じるのか、ますます大きくなる性器に、飛影は何度か嘔吐いた。 四つん這いの太股を伝う液体は、どろりと熱い。 生臭いようなにおいが部屋に立ちこめ、二人分の乱れた呼吸と、一人分のすすり泣くような喘ぎ声が、ぬるい空気を震わせる。 自分の尻の中を突く肉が立てる音。 銜えたものと自分の唾液とが立てる音。 耳からまで犯されるような音が、部屋に満ちる。 「ふあ……っぁぁぁ、あ………っぐ!あああ!!」 急にずぽっと引き抜かれ、引きずり出された直腸が外気に触れ、すぐに引っ込む。 軽々と体をひっくり返され、上下が逆さまになる。 「あ、待っ…ああ、ああああーーーーーーっ」 ずぶっと、入る。 蔵馬のものを受け入れた穴はさらに広がり、痛々しく充血しながらも、体内にきっちり肉棒を納め、ひくついている。 「あ、や、やあ、動くな……あ!」 「大丈夫さ。ほら、尻を振れよ」 「無理…む、あ、っくう、ああ、んぐっ…」 無理だと訴える口も、また塞がれる。 さっきまで自分の尻の中にあったものを舐めるのかと考えると思いっきり抵抗があったが、それを抗議するまもなく口を開かされ、侵入された。 「んん、ん、んんんんーーーっ」 出し過ぎて痙攣しそうな陰茎を弄る手、乳首を摘む指。 口の中で舌を求める肉、尻の穴を目一杯広げ、直腸のやわらかな粘膜をこすり上げる肉。 体内を行き来する動きに、飛影の体はがくがくと揺さぶられ続ける。 痛い。苦しい。辛い。気持ちいい。 ……気持ちいい。 頭がおかしくなりそうなくらい、気持ちいい。 甘く湿った呼吸を、飛影は繰り返す。 「飛影」 どちらが自分を呼んだのかも、もうわからない。 眩しい光の中で、ふつりと糸が切れた。 ***
好みが同じだからこそ、店の従業員にも客にも取引先にも手を出さないってのが俺たちのルールだったんだ。お互い相手は違うフィールドで見つけようってね。 呆然と天井を見上げる飛影には、話が聞こえているのかいないのか。 されるがままに足を広げ、おむつを替えてもらう子供のように尻を突き出し、後処理のために差し込まれる指先に、時折ビクッと尻が動く。 「ほら、力を入れないで。緩めて」 秀一の指が、中を探り精液を掻き出す。 肛門からどろっと滴る流れを拭き取るが、後から後から湧き出すように流れるそれに、兄弟は苦笑する。 「やりすぎだろ、秀一」 「その言葉そのまま返すよ」 ほら飛影、緩めて。 叱るように尻をぺちりと叩き、秀一はさらに深く指を差し込む。 「っあ、う」 「まーだ、したいんだ?」 「お…まえ…ら…」 力なく、だがはっきりと意思を込めて飛影は秀一の手を振り払い、汚れたシーツに両手をついてなんとか体を起こそうとする。 「…っぁ…頭…おかし…この変態…!」 リップクリームを塗るような習慣を持ち合わせていない荒れた唇は、所々血を滲ませ、乾いた精液が口の周りにこびりついている。 全身に散らばった鬱血の跡と噛み跡。 閉じる感覚を忘れたかのように、だらだらと精液を零す穴、弄られすぎて腫れ上がった股間。 自分の有り様を確認し、飛影はぐらりと傾き、もう一度布団に倒れ込む。 「風呂、もう冷めちゃったかな」 まだ中にいっぱい入ってるみたいだから、お風呂でお湯を入れて綺麗に洗ってあげる。 正月早々、腹痛で寝込むとか嫌だろう? 楽しそうといってもいい、秀一の言葉。 裸の男二人にはさまれて、汚れた布団の上で。 起き上がろうにも、体中が軋んで力が入らない。 「風呂、湯を足しておいてやるから、飛影を連れて来い」 先に立ち上がったのは蔵馬で、弟にそう言うと着物を羽織るでもなく堂々と裸のまま部屋を出る。 「…冗談じゃな…っ!触るな…帰る…」 「荷物は追い追いでいいさ。取りあえず風呂に入ってご飯でも食べたら?」 荷物?追い追い? どうにか引き寄せた自分のシャツで体を隠した飛影が、は?と声を上げる。 「…荷物?」 「ああ、三月までは妹と暮らしたいか。なら待つけど」 拾い上げた着物を羽織り、窓辺に立った秀一は細く窓を開け、熱く濁った空気を入れ替える。 「何の話…」 「何って、君はここで暮らすんだよ」 「はあ!?…馬鹿言え…ぁ…っ」 片ひじをついて体を起こした途端、尻の穴からどろっと粘る液があふれ出す。 ひくひく痙攣し、自分の意思では閉じることもできずに漏れるそこに、飛影は丸めたシーツをぎゅっと挟み込み、押さえた。 「見るな…!」 あまりの恥ずかしさに枕に顔を埋めた飛影に、秀一が笑う。 「いいね。淫乱で卑猥で生意気なくせに、今さら恥じらうなんて本当に完璧」 妹が引っ越す日、教えて。 その日に合わせて業者を手配するよ。どうせ君はたいした荷物もないんだろうから、店の休みに合わせてくれれば俺たちが行ってもいいけど。ああ、妹の引っ越しも手配してやるよ。行く先はどこだっけ? 「勝手に決めるな!なぜ俺がここで暮らさなきゃな…」 「もう俺たちが決めたことだから」 秀一はあっさりと答え、飛影に近付く。 「触るな!」 「体の中まで触られといて、何言ってんだか」 裸のままの飛影をひょいと抱き上げ、尻を撫で、廊下へと出る。 「やめろって!!」 「漏れるんだろ?風呂場まで、栓しておいてあげるよ」 「栓!? あ、うあ!」 右手の中指が、ぬるつく穴にぐにっと入り込む。 「あ!ああっ……んん、ぁ」 「勃ってきたけど?こっちを塞げばこっちから出ます、ってわけか?」 「や!め、この…っ」 風呂、いいぞー、という間延びした声のする方へと、秀一は飛影を抱いたまま歩く。 どれ、よこせ、と差し出された蔵馬の手をかわし、尻を持ち上げ指を引き抜き、脱衣所の壁に寄りかかるように、なんとか自分の足で飛影は立つ。 「待てって言ってるだろうが!! お前らおかしいぞ!! 共有だの…ここで暮らすだの!」 兄弟はまるで、わけがわからないとでもいうように、きょとんと飛影を見る。 「男三人で暮らすとか…い、一緒にセ…セックスするとか!そんなことおかしいぞ!!」 「おかしいとかおかしくないとか」 羽織っていた着物をカゴに放り込み、秀一がニヤリと笑う。 これまた裸のままの蔵馬も、同じように笑っている。 それぞれ彫刻のように美しい兄弟の裸体の間で、飛影は目のやり場がない。 子供のような自分の体がひどく貧相に思えて、惨めになる。 「おかしいとかおかしくないとか、決めるのはお前じゃない」 「そう。俺たちが決めた。俺たちが選んだ」 ただ君は従えばいい。 ううん、逆らってもいいよ。 「逆らうのをねじふせるってのも、いいよね」 「ならそうさせてもらう!!」 裸のまま脱衣所から飛び出した飛影だったが、小さくうめき、すぐに立ち止まる。 今は尻肉に隠され見えない場所から、生あたたかい液がごぽっとあふれ、太股を伝う。 飴色の木が美しい廊下に、淫らな液がぽたぽたと落ちる。 「あ…っ」 思わずしゃがみこんだ飛影だったが、腹圧がかかり排泄に向いているその姿勢を取ったのは失敗だった。 剥き出しになったそこは、遠慮なく中身をこぼし始めた。 「あ、ああぁ…っや…見るな…見るなぁ!!」 広い縁側。明るい庭。静かな館に、時折鳥の声がする。 ぶちゅぶちゅと濁った音を立て廊下を白く汚す飛影に、兄弟は感嘆にも似たため息をつく。 「…完璧だな」 「本当に。最高だね」 もうどうにでもなれと廊下にぺたりと尻をつき、立てた膝に顔を埋めた飛影の前に、着物を羽織り直した秀一が腰を下ろす。 また冷めたかもな、もう少し湯を足してくるさ、と蔵馬は風呂場へ戻っていく。 「取りあえず、お風呂に入ろうか」 秀一の優しい声音にも、飛影は顔を上げない。 「お風呂に入って、お尻の中を洗わないと」 「…るさい」 「ご飯作ってあげるから食べようよ」 「…食わん」 「食べて少し休んだら、家に送ってあげる」 「…自分で帰る」 「いいよ」 腕の中に埋めていた顔をずらし、飛影は目だけで秀一を睨む。 「帰ってもいいよ。でも」 俺たちは必ず、君をこの家に迎えるから。 それは覚悟しておいて。 「皿洗いだなんて…騙しやがって」 かすれた声で、飛影は言う。たったあれだけの皿。どう見ても二人分程度の皿。自分の鈍さに、半ばうんざりしてしまう。 近付いてきた手を拒絶するように、飛影はぎゅっと目を閉じる。 「飛影」 「………」 「言っておくけど、どんな手を使っても、手に入れるよ」 疲れ果てた子供のように熱でも出始めたのか、熱くはれぼったくなった飛影の頬を両手で挟み、秀一は断言する。 どうやら蔵馬は先に入っているらしく、戸の開いたままの風呂場から盛大な水音がした。 頬に重なる手。 近付く唇から、口移しに注ぎ込まれた言葉。 「好きだよ。飛影」 「…俺は…お前らなんか…」 「俺も好き、って答え以外は聞かないけど?」 「……俺は」 飛影の声は、小さく今にも消えそうだ。 そうだ、こんなことをされてもまだ、俺はこいつが、こいつらが。 ならもう、俺は。 秀一の黒い瞳は、庭の光の反射か、どういうわけか緑がかって見える。 綺麗で、意地が悪くて、わがままで、変態で、キチガイで、狂っていて、それで… 俺も、狂ってる。 ただ好きだっただけなのに、ついさっきの狂ったひとときに、本気で狂わされた。 だめだ。もう離れられない。 この先どうなるかなんて、わかりはしない。でも。 いっそ、全部受け入れて、みようか。 唇を噛んだまま、飛影は顔を上げる。 青い空と白い冬の光が、裸の肩を照らす。 「飛影?」 「………………俺…も…」 花のない冬の庭を彩るような、満開の花を思わせる笑顔が飛影の前で咲く。 風呂が冷めるぞ、と大きな声がした。 ...End 2017年一発目です。一発です! 本年もぼちぼちやっていきます所存です。チラシの裏に書いてシュレッダーにかけてるのと同じじゃないか!?と思ってしまうので時折メッセージ等、どうぞよろしく(笑) この兄弟の住むお家は「美の壺」に出てくるようなお家だと思われます。 2017年1月 実和子 |