スプーン

暑さを逃れた瞬間にこそ、本当の暑さを感じる。

肌を焼け焦がすような炎天下の歩道から空調の効いた店内に入った途端、肌を包む冷気。
薄いブルーのハンカチで汗を拭い、蔵馬はプラスチックのカップを片手に腰を下ろす。

「年々暑くなるよなぁ」

男友達、と呼ぶほど親しくもない元クラスメイトに会ったのは、二年ぶりくらいだろうか。

さほど親しかったわけでもない者でも街中で出会えば気軽に声をかけ、日に灼けた顔で懐かしそうに笑いかける。
それは男の善良さと先天性の明るさを示しているようで、蔵馬は小さく笑う。

「本当に。暑いね」

値段のわりにたいした味でもないコーヒーをひとくち飲み、蔵馬は熱に揺らぐ歩道を眺めた。

今日もこの街は馬鹿馬鹿しいほど暑いというのに、馬鹿馬鹿しいほど人がいる。

くたびれたスーツを着たサラリーマンも、弾けるような肌をぎりぎりまで露出させた少女たちも、小さなうちわでベビーカーをあおぎ自分をあおぎと忙しない母親たちも。
老いも若きも等しく、突き刺すような陽射しに汗を浮かべている。

「よくオレのことわかったね」
「わかるさ。南野、目立つし。相変わらず暑苦しい髪してるしな」

暑苦しい髪、と評された蔵馬の髪は今日は後ろでひとつに結ばれている。

「お前、親父さんの会社で仕事してるんだったよな?どうよ?」

そっちこそ、大学はどうなんだ?
質問に質問で返すのは、自分の話をしないためだ。
相手が嬉々として始めた大学の話に、さも興味深そうに相づちを打ちながら、蔵馬は小さな手のことを考える。

小さな手は、まずは蔵馬の髪に触れる。
心ゆくまで髪を撫で、指で梳き、頬を包みこむと、しばらく静止する。

冷たい小さな手に頬の温度がうつるころ、ようやく手は離れて行く。

「それでさ、こっちは人生初の彼女に浮かれちゃって」

聞き流していた話は、どうやら大学生活から恋人の話へと進んでいたらしく、蔵馬は溶けた氷が綺麗な二層にしたコーヒーをストローでかきまわす。

「へー。かわいい子?」
「かわいい子だった。顔は」
「何だ、その過去形」

笑う蔵馬に、男は情けない顔をした。

「顔もかわいかったし、性格も最初はかわいかった。なのによー」

段々なんだかおかしくなってきて。
学校違うのに、自分の授業さぼってこっちに来たりさ。最初はそんなのもすげえかわいいとか思ってて。
でもさ、電話もすぐに出ないと何度でもかけてくるんだぜ、こわいだろ?授業中やバイト中なんて出れないのにさ。大学の友達の女の子と喋ってるのを見ただけでもキレるしさ。それに…。

彼女の奇行の数々はエスカレートし、すったもんだの挙げ句、彼女の両親まで出てきて別れることになったという。

「いやあ参ったね。あれがメンヘラってやつなんだなって」

女友達に、あの子はやめた方がいいって言われたんだよ。でもオレなら大丈夫、そんな彼女を受け止められるオレカッケー、みたいな?アホだよなあ、オレ。
プラスチックのカップに残っていたカフェオレをストローも使わずひと息に飲み干し、男はため息をついた。

「…その子とはやったの?」
「やってない。やった後だったらもっと大変だっただろうな」

オレ、当分女の子はいいや。今年は男とばっか遊んでるよ、海行ったりさ、山登ったり。それはそれでいいもんだよな。
南野も今度どう?あ、会社はそんなに長く休みじゃないか。空いてる日あったら連絡よこせよ。

「なかなか忙しくてね。…仕事も恋人も」
「やっぱ女いるのかよ。相変わらずモテてんだろ~?」
「ぼちぼちね」
「よく言うぜ。でもたまには空くだろ?集まって飲もうぜ。電話番号教えろよ」

自分の番号も教えようというのか携帯を取り出した男を、蔵馬は笑って片手で遮る。
空になったカップを自分の分だけ持って立ち上がり、ゴミ箱に放り込み、外の暑さを映すガラスの扉に手をかける。

「おい、南野?」
「…メンヘラを扱うには、それなりの器が必要なんだよ。君にはまだ、無理だね」

外の景色と同じように、店の中も混雑していた。
待ってましたとばかりに蔵馬が空けた椅子に座った女の向こうに、灼けた顔がぽかんとのぞいていた。
***
小さな手は、まずは蔵馬の髪に触れる。
心ゆくまで髪を撫で、指で梳き、頬を包みこむと、しばらく静止する。

冷たい小さな手に頬の温度がうつるころ、ようやく手は離れて行く。

閉じた瞼を覆う布は薄い。
薄いのに何も透かさない異界の布は普段は彼の額に巻かれている物で、彼の匂いをたっぷりと吸い込んでいる。

胸を撫で、腹の筋肉の厚みを楽しみ、小さな手はさらに下へと進んで行く。
既に硬くなりかかっているものを両手でつかみ、上下にゆっくりと動かす。

首や顎を、短い髪がふわふわと掠める。

くすぐったさに身じろぎすると髪は離れ、今度は下腹部をくすぐる。
両手でつかんでいたものの先端を、あたたかく濡れた舌が舐めた。

「……まだ…だめだ…動くな…」

興奮にかすれた声がいつものように命令し、出しかけた手を蔵馬はぎゅっと握り、元通り膝の上に置く。

それは彼のルールだ。
思う存分好きなだけ、彼は眺め、触り、頬張り、舐めて、一度だけ口から飲み込む。
それが終わるまでは、蔵馬からは触れてはいけない。

股間に顔を押し付け、彼は口いっぱいに頬張り、舐め上げる。

遮られた視界。くちゃくちゃとした水音。
脳味噌を丸ごとを蜜に漬け込むようなその感覚に、蔵馬は長く深く息をつく。

全身から集まった熱を彼の口の中に放つと、満足そうに喉を鳴らす音がした。

「…蔵馬…触ってもい…」

体を起こした彼が言い終わるのを待たずに、蔵馬は力強く抱き寄せた。
短い髪をかき上げ、嗅ぎ慣れた匂いの首筋に顔を埋め、汗ばむ皮膚に蔵馬は強く吸い付いた。

「あ…!く、らま……」

鎖骨を舐め、乳首に噛み付き、舌先でふくらんだ先端を潰すと、蔵馬の液で白く汚れた口が大きく開き、艶を帯びた声が上がる。

「あ、ああ!くら……く……まぁ、んあ!」

可愛らしく勃起するものを右手できゅっと握ってやると、声はいっそう大きくなる。
蔵馬の指ほどの大きさしかないものは、それでも硬くなり、大きさにふさわしいわずかな種を吐き出した。

部屋中に匂いが立ち込める。
それは人間ではない生き物特有の、精の匂いだ。

雄でもない、雌でもないその匂い。

最初はその匂いが、不思議でならなかった。
妖怪は雄と雌とで匂いがはっきりと違う。裸にすればすぐに分かることだ。雌雄同体の種族でもない限り、雄と雌の匂いはまったく違うのだ。

妖狐だったころ体を交わした相手は百人や二百人ではない。千人で済むのかさえ怪しいものだ。
それなのに今、腕の中にいる幼い妖怪の匂いは雄とも雌とも判別がつかない、嗅いだことのない匂いだった。

深く吸い込み、手のひらに残る種を舐め取る。
用意しておいた木の実を手探りで割り、とろりとした油を指ですくった。
息を弾ませる体を、肋骨が軋むほど強く抱き、小ぶりな尻を両手で開いた。

「あっ…あ…くら……!んあ!っあああぁ…」

最初は指先だけを入れ、かきまわすように油をなじませる。
だんだんと奥を開き、きつく締まった穴がゆるみ、ひくひく動き出すまで丁寧に解してやる。

「あっ!っああ!んん…ひあ……っぐ」

隠されているのは目だけだ。
なのに彼は、まるで蔵馬には声も聞こえていないかのようにふるまう。

二本に増やした指を根元まで押し込み、濡れた腸壁を引っ掻いてやると、小さな体は大きくのけ反る。

「あ!ああ!うあ、も、あ…!」
「もう、何?…見えないから…わからないな」

蔵馬の広い背中に、がりっと爪が立てられた。
こら、と叱る声さえ、甘ったるい。

「いいよ…ちゃんとつかまって…」
「あ、ああ…く……ら…ぁ……っあああぁぁぁあ!」
***
見るな、と飛影は言った。

抱かせてくれませんか?
軽い気持ちで持ちかけた蔵馬に、飛影は黙ったまま目を伏せた。

あくまで軽い誘いのつもりだった。
飛影の長すぎる沈黙に、蔵馬は少々慌てた。

無理強いをするつもりはないし、あなたが相手じゃ無理強いはできないよ、と笑って言ったが、飛影は返事をしなかった。

「飛影…?」

水面に赤い絵の具を一滴落としたかのように、白い頬がぱあっと赤く染まる。

「…見ないなら、いい」
「え?」

意味が分からず瞬く蔵馬に、飛影は頬を真っ赤に染め、たどたどしく条件を言い渡した。

オレの体を見るな。
している間はずっと、お前は目隠しをしていろ。
最初から最後までな。

オレがいいと言うまで、お前は動くな。
オレのすることに口出しするな。

「それが約束できるなら…してもいい」

ふわりと香った、独特の匂い。
あの時、飛影はもうその先の快楽を感じていたのだろうか。

雄でも雌でもないこの不思議な匂いを、あの日すでに蔵馬は嗅いでいた。
***
「くら…ま、く、あ、ああ…っあ!…あああ」

見えないからこそ、体は快感をすみずみまで感じる。
飛影の体内は熱く狭い筒のようで、蔵馬は陶然と腰を振る。

小さな体の温度、なめらかな手触り。
何にもたとえられない、独特の匂い。

「くら……っあ…ま…も……っと……もっと…強く…し…」

お望み通り、と蔵馬は強く腰を突き上げ、体内を抉る。
二人の腹の間で勃ち上がったものを、今度は搾るように握り込む。痛みを感じるほどに揉み、爪の先で穴をえぐるように弄ってやると、あぐらをかいた足の上で小さな体が何度も跳ねた。

「ああ!くら…く、あ、痛い……つ、あ、痛っう……あぁ、くら…!」
「こういうの、大好きでしょう…?もっとお尻振って…ほら」

急に高くなった体温に、今どんな表情をしているのか見たいと、強烈に願う。
見せてくれたらいいのにと、約束したこととはいえ、蔵馬は少々不満になる。

隠さなくたっていい。何も隠す必要などない。
出会ったあの日にあなたの体を全部見たのだから、と言ったら、幼い妖怪はどんな顔をするのだろう。

未成熟な雄の体はそれなりに魅力的で、じっくり舐めるように見たのだと。

いったい誰と比べているのか、自分の体を醜いと思い込んで見せたがらないくせに、快楽には貪欲なこの子供。
誰かに愛される自信はないくせに、額に輝く異形の目を使い、想い人が今日一日何をしていたかを、じっと見ていたこの子供。

軽い体は簡単に持ち上がる。
飛影を抱き上げ、繋がったまま蔵馬は立ち上がった。

「ちょ……まっ……くら…ああああああ!」

目隠しをされたとて、自分の部屋の中ならば、どちらが壁なのかくらいは分かる。
ぶつけるようにして飛影の背を壁に押し付け、自分の肩へと細い両足をかけさせ、蔵馬は激しく突いた。

「あっ!うあ!あっ!あっああ、くら、あ…」

突き上げに耐え切れないのか、飛影の両手が長い髪を強く引き、抜けた髪が指にからまる。
蔵馬の首筋で交差されている両足の指先は、ぎゅっと丸まっている。

「くら…ああぁぁあ!あっ!あっあっ!」
「…ひえ…い…っ…すごく…いいよ…」
「あ!ああ!うああ!あっ…ひっ…」

蔵馬のことも、蔵馬が何度も囁いた言葉のどれ一つも、飛影は信用などしていない。
それでいて狂おしい独占欲を押し付け、誰にも渡すまいと尻を振るのだ。
***
「今日は何をしていたんだ?」
「買い物。仕事は休みだったんだ。行く途中にクラスメイトに会った」
「くらすめいと?」
「一緒の学校に行っていた人ってこと」

シャワーを浴びるのも、もちろん別々だ。
大きな枕を抱くようにして、自分から聞いたくせに飛影は蔵馬の話を興味もなさそうに聞いている。

もちろん、蔵馬はとっくに知っている。
飛影が一日中自分を見ていて、こうして報告させることで、嘘をつくかどうかを試しているのことを。

「誘われてコーヒーを飲んだよ。それだけ。後はあなたに食べさせようと思って、いろいろ買い物をした」
「…面白みのない話だな」

大あくびをすると、飛影はベッドに横たわる。
蔵馬のパジャマを着て、蔵馬のベッドの上で、眠そうに横になる。

蔵馬と同じシャンプーの香りをさせながら。

壁側を向いて寝転ぶ飛影を蔵馬は背中側から抱きしめ、重なるスプーンの様に横になる。
小さなスプーンと大きなスプーンは、ひとえに大きなスプーンの努力によって、ぴたりと重なる。

「明日も休みなんだ。一緒に出かけようか」
「面倒くさい。人間どもは嫌いだ」

確かに、この街ではどこに行ったって人間たちはあふれている。

「じゃあ、ひとりで出かけてこようかな」

その言葉に、眠りのふちでゆるみかけていた腕の中の体が、きゅっと硬くなったのを蔵馬はもちろん感じている。

「嘘。あなたと過ごせる時間に、わざわざひとりで出かけるわけないじゃないですか」
「……好きにしろ」
「どこも行かないでここにいよう。食べる物はたくさんあるし。昼間からするセックスもいいもんだしね」
「勝手に決めるな…」

腕の中の体は再びゆるみ、ゆるんだまま眠りのふちをすべりおりて行く。

「…飛影」

眠るとなったらあっという間。
小さく口を開け、平らな腹部は蔵馬の手のひらに微かな上下を繰り返す。

「面倒な子…」

信用していないから、見張っている。
信用していないから、自分の体を見せたくない。

少しも信用していない者のそばで、意識を手放し、すっかり眠ってしまう。
そのアンバランスな平衡感覚に、蔵馬は何度でも驚き、笑ってしまう。

「キチガイ」

純粋な賛美を込めて、そう呟く。
耳たぶに唇をくっつけ、もう一度呟く。

「…キチガイ。…大好きだよ」

触れれば手を切る花だからこそ、欲しくなる。
切れた傷口から染み込む毒さえ、愛おしい。

蔵馬も小さくあくびをし、目を閉じる。

あいつの連絡先、聞いておけばよかったな。
酒でも飲んで、語り合うのもいい。
そうだ、メンヘラ取り扱いについて、説教のひとつもしてやるのもいい。

そんなことを考えながら、蔵馬は小さなスプーンの夢に潜り込んだ。


...End.