羊を数えて

「うっわー」

うわー!と懐かしい!を繰り返す彼女に、まるまるぷくぷくとした赤ん坊をそっと渡す。
十五年というタイムラグを感じさせない慣れた手つきの腕の中に、赤ん坊はしっくりと収まり、満足そうな笑みを浮かべる。

「よかった。やっぱりお母さんはわかるんですね。ね、幽助?」

ほっぺたをつつくと、何やらもにゃもにゃ言いながら、ご機嫌で笑っている。
普段はふざけてばかりいるので忘れがちだが、この友人は結構顔がいい。着ていたぼろぼろのシャツで包んだだけの姿だというのに、このまま赤ちゃんモデルにでもなれそうな整った顔をしている上に、母親の腕の中の居心地がいいのかにこにこしている。

「我が子ながらかっわいいわね~。これ、戻ったら本人は憶えてるの?」
「うーん。薬を作った者もわからないって言うんですよね。体質にもよるし、状況にもよるし、ってことで」
「ふうん。なるほどねえ。ええと、さっきの話だと五日間限定なのよね?懐かしさも五日を超えると苛立ちになるわよ。大丈夫よね?このままもう一回育て直しとか勘弁してよね」
「あはは、大丈夫です。長くて五日ってことだったんで。もう少し早く戻るかも」

ならオッケー。めちゃくちゃ写真とか撮って、戻ったら死ぬほどからかうから!
そう言って豪快に笑う顔は、母の顔といたずらな子供の顔を併せ持っていて、たくましい。

「ところで、そっちは大丈夫なの?」

そっち、と呼ばれたオレの腕の中の赤ん坊は、悪い夢でも見ているかのような険しい顔で眠っている。
ぎゅっと目をつぶり、歯を食いしばるように小さな口をきつく結んで。

「あはは。大丈夫ですよ」

大丈夫だと思ったのだ。この時は。
全然大丈夫ではない、という展開は予想していなかった。

だってそうだろう?

愛しい恋人が、可愛らしい赤ん坊になって無力に腕の中で眠っているのだ。
なんならありもしない母性本能が目覚めるくらいのシチュエーションだ。

会社には夢幻花をばらまいておいたし、温子さんと同じように、後々からかうためのネタもたっぷり仕入れられるであろう数日間。

なんだって飛影と幽助との手合わせに六人衆もいたのかだとか、戦闘の場に発明品を詰め込んだ袋を持ち込む鈴木の迂闊さだとか、トラブルになった途端ためらいなく人を呼びつける都合の良さだとか、もろもろにため息をつきつつも、ちょっとわくわくするような気分で両手に赤ん坊を抱いて人間界に戻ってきたのだ。

「さてと」

小さな体を包んでいた布は、彼がいつも着ている黒いマントだ。砂やらなんやらで汚れた布を取り払い、ベッドに寝かせてふわふわのバスタオルで包む。首にかけられた氷泪石は紐を調節し、ちょうどいい長さにしてやる。

「飛影」

ベッドに寝そべり、幽助ほどは肉づきのよくない頬をつついてみる。
閉じられたままでも大きいことがわかる目。小さな口。額に当然邪眼はなく、つるりと白い。

普段も小さいけれど、今はもっともっと小さな飛影が眠っている。

かわいい。
思わず引き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。

瞬間。
大きな目がカッと見開かれ。

「いたたたた!」

小さいけれど尖った歯が人差し指にがっぷり食いこみ、あっという間に血が噴き出す。
普通の人間だったら、指が一本飛んでいっているところだ。

「いたいいたいいたい!ちょ、ひえ…!」

さすがと言うべきか、人間の赤ん坊とは力が違う。
おまけに爪も尖ってて、片手は手首に、片手はシャツ越しの胸にギリギリと突き立てられている。

「いった!飛影、痛いって!」

ギラギラ光る赤い目。
噛みつかれた指をようやく引き剥がし、鋭い爪をなんとか外す。

「いった~。いきなりこれ?ご挨拶だな」

飛影はいまいましそうにペッと血を吐き出し、大きな目を限界まで吊り上げてオレを睨みつけている。
右手の人差し指は血だらけだし、左手首も引っかかれて血を流している。

まったくもう。
とりあえず止血しなければ。

「ほら、飛影、ちょっと離して」

しがみついたままのこぶしを解こうとしても、ちっちゃな指は頑として開かない。
それはもう、万力のごとく。

「飛影…?」

血の飛んだシャツとタオルとベッド、吊り上がった真っ赤な目。
胸元にくっついて離れない、小さな妖怪。

「あれれ…」

温子さん。
大丈夫じゃないような気がしてきました。    
***
「いや、ほら、ね?ご飯。わかる?ごーはーん。お腹空いたでしょう?ご飯作るから」

胸元にくっついて離れない飛影をなんとかひっぺがすべく、ありとあらゆる方法を試してみたがだめだった。
撫でても叱ってもくすぐっても、だめ。全然だめだ。

抱っこしていればどうやら片方の手だけは自由にしてくれるということが判明し、片手で飛影を抱いたまま、薬草をくっつけて人さし指の傷を塞ぎ、汚れたシャツを着替え、飛影のバスタオルも新しくし、何ヶ所かを安全ピンで留めて服の替わりにする。

オレが片手で四苦八苦している間も、飛影は腕の中でオレをずっと睨んでいる。

これじゃあコアラだ。
しかもずっとこちらを睨みつけ、椅子やベッドに下ろそうとすれば噛みつき引っかく邪悪なコアラだ。

「抱っこだと何もできないよ。おんぶじゃだめ?」

生まれたての人間の子供はもちろん言葉など理解していない。けれど妖怪ならわかるんじゃないか、と思って話しかけてみてもわかっているのかいないのか、言うことを聞く様子はない。
まあ、音が聞こえるということと、意味を理解できるというのは別の話だ。

家にあったふわふわのタオルを巻いて、所々ピンで留めただけの簡易な服を着た赤ちゃん飛影を片手で抱っこしたまま、台所に立つ。
手を離しても恐ろしい力でしがみついているのだから抱いててやる必要もない気がするが、やはり愛しい恋人がコンロの火にかけた鍋に落ちたりしたらと思うとできない。
抱っこひも、のような物があればいいのかもしれないが、そんな物はないし、この状態では買いに行くという選択肢もない。

冷凍してあった米を牛乳とコンソメで煮込む。牛乳の甘いにおいをさせぐつぐつ煮える鍋に、仕上げに冷たい牛乳を少し足して温度を調節する。
片手でする料理は厄介極まりなく、肩や首がこわばってしまった。植物に手伝わせればいいのではと蔓植物に妖気を通した途端、びっくりしたらしい飛影がぽんとまるい火の玉を飛ばすという騒ぎになり、あえなく作戦失敗だった。

「ほら飛影、ご飯だよ」

下ろすのは諦め、片手で飛影を抱いたまま椅子に座り、スプーンでミルク粥をすくう。
口元に差し出されたスプーンとオレの顔を交互に見る胡乱な目。幽助の邪気のないぷくぷくとした笑顔とは真逆の、疑心に満ち満ちた冷たい眼差し。

「あーんして」

しない。まったくしない。
ぎゅっと口は閉じたまま、飛影はまたオレを睨む。
オレが作った食事を何千回も食べてきた口が今は真一文字に結ばれている。何を作ってもいつだって飛影はぺろっとたいらげていたのに。ミルク粥はただむなしく冷めていく。

育児、厳しい。
育児、無理。

半日前のわくわくはどこへやら、早くもめげそうになっている。
仕方なく、ミルク粥を自分の口に入れた。当たり前だが牛乳と米とコンソメの味がして、ぬるいという欠点はあるが食べれないこともない味だ。

「ん?」

ただやわらかくぬるい食べ物をオレが飲み込むのを、飛影はじっと見ている。
もうひと口すくい、差し出してみたが、口を開ける気配はない。

「ほら、飛影。……わっ!」

唇の間にスプーンを入れてみたら、すごい勢いで噛みつかれた。
スプーン、折れたのでは?と思ったが、どうやら曲がっただけらしい。
やれやれ、よく考えたら、このギザギザのご立派な歯があれば肉でも魚でもなんでも食べられるわけで、見た目に惑わされて粥など用意したのは滑稽な話だ。

「お腹空かないの?それともミルク粥が嫌?」

曲がったスプーンを片手に問いかけてみたが、返事はもちろんない。
試しにと、テーブルにあった食パンをちぎって与えてみる。食べない。同じくテーブルにあったりんごを六等分に切り与えてみる。食べない。今の飛影はなんでも食べるけど元々は肉食なのかもしれないと考え、ウインナーを電子レンジであたため、フォークで突き刺し、口元に差し出してみる。食べない。

育児、厳しい。
育児、無理。

「……お風呂、入ろうか?」

手合わせの途中で変身し地面に落っこちたのだから、髪にも頬にも細かな砂や泥が付いている。
ボタンひとつで湯が沸くのは便利なことだと、人間界のテクノロジーに感謝しながら、風呂の用意をする。

「お湯。お風呂」

ちょうどよくお湯のたまったバスタブ。湯気の立ち込めるバスルーム。シャンプーや石鹸のほのかな香り。
お湯と湯気に目を丸くした飛影がまたもや飛ばしたまるい火の玉に素早く水をかけ、お湯に片手を突っ込み、安全だと示して見せる。
飛影が泊まる時は時々手製のハーブを浮かべたりもするが、今日はやめておく。余計なことをしてこれ以上引っかかれたくない。

「砂だけ流そうよ、ね?」

なだめるように言ってはみたが、飛影はオレを睨んだままだ。
お湯のたまったバスタブを眺め、飛影を眺め、またため息をつく。

お湯の中で飛影が炎の力を使えばこの湯は一瞬で熱湯だ。半分人間の体にはあまり有り難くない。五日間ずっと風呂はなしというわけにもいかないが、今夜はあきらめた方が良さそうだ。

お湯に片手を突っ込んだまま、今ごろ温子さんも幽助を風呂にでも入れているのだろうかと考え、そもそも赤ん坊というものが何時頃風呂に入るのか、夕食の前なのか後なのかもわからないな、と思い至る。
自分の時は、赤ん坊でいることが退屈すぎてほとんど意識を手放していたせいであまり記憶にない。

そう言えば、幽助は魔界で拾い上げた時も、人間界に来るまでの道中も、なにやらふにゃふにゃ喋ったり、何が面白いのか握りこぶしをぐるぐる回してはそれを見て笑ったり、かと思えば口をぱかっと開けてぐうぐう寝ていたりした。
人間も妖怪も育てたことはないのだから断言はできないが、それはいかにも赤ん坊らしい無意味で気ままな行動に思える。

飛影はまったく、何一つ喋らない。
眠りもせず笑いもせず、意味を成さない声すら発せず、ただ唇をきゅっと結んでいる。口を開けるのは噛みつこうとする時だけだ。

オレの首にしがみつくようにして、あたたかな水面を睨む飛影の目は、怒っているようにも見えるし、脅えているようにも見える。
少なくとも、幸福な赤ん坊はここにはいなかった。
***
「……あの、飛影…?」

カーテンを引き、電気を消し、飛影を抱えたままもぐりこんだベッド。
もぐりこんだのは夜の九時で、今は日付を超えて一時半。

ぜんっぜん、寝ない。

きっちりと目を開け、オレの胸元にぴったりはり付きパジャマを握り締めて、飛影は起きている。
炎の種族の妖怪なだけあって、胸元に湯たんぽを抱えているようなものだ。
いつもの飛影よりもずっとあったかいのは、多分炎の妖気のコントロールができていないのだろう。こっちは布団と湯たんぽのあったかさにうとうとしているというのに、湯たんぽは眠らない。

寝かしつけ、失敗。
一緒にベッドに入っただけで、そもそも寝かしつけてすらいないわけだが、そもそも寝かしつけとはなんぞや?

「羊が一匹…羊が二匹…」

いや、これは違うな。
羊という概念も飛影の中にはないし、大人のこっちはもう充分に眠い。

魔界で変身して気を失い、人間界で目覚めて以来、飛影は眠っていない。
赤ん坊というものは妖怪であれ人間であれ眠る時間が多いはずだが、うとうとすらもしないのだ。

「眠くないの?」

眠れないの?寒くはない?お腹が空いたんじゃない?
言葉を理解しているのかいないのかはわからないが、言葉以外で話しかけようもない。

飛影は何も食べていないし、オレも飛影が食べなかったミルク粥やらりんごやらを食べたっきりだ。
何か夜食でも作るかあたたかい飲み物でも入れようかと、飛影を抱えたまま起き上がり、毛布で自分と飛影を一緒に包む。

立ち上がりカーテンを引き外を眺めれば、眠れないのか眠らないのか、こんな時間でさえ明かりのついた窓がたくさんある。
カーテンのすき間から外を眺める飛影に気付き、久しぶりに屋上へ行ってみようかと考える。

転落防止の柵もないマンションの屋上は、もちろん住人の出入りはできないようになっている。
とはいえそれは人間向けの話であって、オレはいつも通りに二つの扉の鍵をあけ、屋上へ出た。

冬の夜空は、都会であっても他の季節よりは澄んでいるように思える。
空気も風も冷たいが、毛布に包まり、体温の高い飛影を抱いている今はそう寒くもない。

「飛影、ほら、星」

オリオン座。ふたご座も見えるね。もっと空気の綺麗な場所へ行けば、星もたくさん見えるんだけど。
そんなことを話しかけながらふと胸元を見下ろせば、飛影は微塵も空など見てはいない。

屋上のコンクリートの床は、ふちにあたる部分だけが三十センチほど高く、幅は二十センチほどだ。
その高くなった部分に立つオレの足元、そしてその先に広がる数十メートル先の地上をじっと見ている。

「…飛影?」

パジャマと、なんならその下の皮膚まで握り込むように丸く固められた小さなこぶし。
面白い物があるわけでもない地上を見つめる、険しい眼差し。

ああ。
そうか。

どうしてそんなこともわからずに。
馬鹿だな、オレは。

「飛影」

振り向かない。
抱いたままの背と尻を揺すり、もう一度名を呼ぶと、ようやく飛影は顔を上げた。

険しい眼差し。
引き結んだ唇。

「飛影。落っことしたりしないから。大丈夫だよ」

赤い目が、じっとこちらを見上げている。
片手でひょいと抱き上げられる、小さな生き物が。

縁の部分からそっと下り、コンクリートの地を蹴り、屋上の中央部分へふわりと飛ぶ。
そう広くもない屋上の真ん中で、あらためて飛影を抱きしめる。

「オレはお前を、落っことしたり、しない」

ゆっくりと、噛んで含めるように言う。
意味は通じていないのかもしれないが、構わない。

「絶対に。もし誰かがこの先、お前を落っことすなら」

屋上を吹く風が乱した毛布をひっぱり上げ、飛影をぎゅっと包む。
小さな手の小さな指先。尖った爪が皮膚に食い込む。

「下で待ってる。オレがちゃんと受け止めるから」

わかった?と覗きこんで念を押すと、飛影は何度かぱちぱちと瞬いた。
そして。

眠そうに目を細め、あくびをした。

「…眠かったんだ?」

嬉しくて、おかしくて。
小さな口を大きく開けてもう一度あくびをし、頭をこてんとオレの胸に乗せ、飛影は早くもうとうとし始めている。

「おやすみ、飛影。明日たっぷり朝ごはん作ってあげるよ」

ふすーという気の抜けるような寝息を立てて、オレの腕の中で愛しい生き物が眠りに落ちる。

弱い光の星の下、眠る白い頬にキスをした。


...End.