指輪

シャラ、と軽く涼しげな音を立てて、銀色の光が胸元からこぼれ出した。

「なんだ…?」

蔵馬の首に回しかけた腕を止め、オレはその銀色を見つめた。
細い銀の鎖。

その銀の鎖は、同じ銀でできた小さな輪を通していた。

「ああ、これ。指輪」

動きを止めたオレを不思議そうに眺めていた蔵馬は、視線の先の銀の輪をつまんで言った。

「…指輪?指輪は指にはめる物だろう?」

先ほどまでの続きをしようとのしかかる、蔵馬を押しのけて問う。

「そうなんだけどね。母さんのだからオレの指には小さすぎて」
「お前の母親の…?」

ああほら、再婚したんだよ母さん。
人間界では誓いの意味を込めて指輪を贈るんだよ。知ってる?新しい指輪を貰ったから元の結婚指輪はもうできないじゃない?それでオレにくれたんだよね。お守りに、って。でもよく考えたらオレの父親って早死にした人なんだよね。その人のくれた指輪なんて縁起の悪いお守りだよね?

相変わらずよく喋るやつだ。
オレの冷たい視線に気付いてか気付かないでか、蔵馬はその銀色の輪を鎖から外し指に引っかけて見せる。

「ほらね。オレの指には全然入らない」

だから首にかけたんだ。
なくさないようにね。

蔵馬の指先でくるくると銀の輪が回る。

「…そんなに大事なら、首になんかかけずにしまっておくんだな」
「あれー?お母さんの氷泪石を肌身離さず持ってて無くしたのは誰?」

意地の悪い問いに一瞬返事に詰まったオレの手を、蔵馬のひんやりした手がつかむ。

「飛影ならはめられるかも」

蔵馬の長い指が、オレの指に銀の輪を通そうと…

「やめろ!」

我ながらびっくりするような大声が出た。
振り払うように手を引っ込める。

小さな輪が床に落ちて硬質な音を立てた。

「…どうしたの?」

蔵馬の目が、驚きをたたえてオレを見る。

それには答えず、オレは脱いだばかりの上衣を頭からかぶる。さっきまで心も体も蔵馬を欲して熱くとろけそうだったのに、今は水でも浴びせられたように冷えきっている。

待って、どうしたの?という蔵馬の声を無視して窓から身を踊らせる。

…銀色の輪。

蔵馬の指にははまらない小さな輪。

わからない。
自分でもよくわからないが…

ひどく、みじめな気分だった。
***
百足に戻ると、普段は自室か闘技場でしか見かけない躯が大広間で客を相手につまらなそうにしている。
いつものごとく躯の目の前には貢ぎ物が山と積まれている。

ようやく帰った客に聞こえるような溜息をつき、オレに気付いたらしく、よお、いたのか、と気のない声をかけてきた。

「見ろよこれ」

足でぽんと蹴った箱には、色とりどりの宝玉や武具が溢れている。

剣や盾。
宝玉で飾られた王冠や髪飾りそれに…。

指輪。

蔵馬の母親の物だったという、あんなさえない銀の輪っかではない。たっぷり宝玉を使った、それ一つで城が買えるほどの豪華な指輪。

「興味あるのか?めずらしいな」

黙って指輪の入った小箱を眺めるオレを不審に思ったのか、躯が声をかける。

「…別に。相変わらず馬鹿げた貢ぎ物だな」
「まあな。でもまあお前らみたいな無駄飯食いがここには山ほどいるんだから金になる物は悪くないけどな」

オレはこんな物つけないけどな、肩をすくめて躯は笑う。

「なぜ?」
「あ?」

躯は何を問われたのか分からず、間の抜けた返事をオレに返す。

「なぜ、お前は身につけないんだ?」

自分でも何を聞きたいのか分からない。
でもどうしても聞きたかった。

「なんでって…オレはいらない」

きらびやかな装身具の詰まった箱を見て、困惑したように躯はオレを見る。

「なんでいらないんだ?貢ぎ物だからか?」
「飛影、どうした?」
「必要ないのは、貢ぎ物だからか?お前にとって大事な奴がくれた物ならお前は身につけるのか?宝物みたいに大切にするか?」
「そりゃあまあ…大事な奴がくれたならオレでもつけるよ」

オレの剣幕に押されたかのように、目をパチパチさせて躯は答えた。

もちろんそうだ。
石や金属の欠片が大切な物になるのは、大切な者がくれたからに決まってる。

「なんだよ。らしくないな」

むしゃくしゃしてるなら手合わせしてやってもいいぜ、と黙り込んだオレの頭をポンと叩いて、躯は闘技場を指した。
***
「…っ痛ぅ」

草むらにドサリとひっくり返る。どこの森だか知らないが、崖っぷちのこの場所はえらく見晴らしがいい。

手合わせでやられた傷があちこち痛い。躯は本気も出していないというのにかすり傷一つ負わなかった。

くそ。いまいましい。
余計にむしゃくしゃしただけだ。

頭を冷やそうと百足から出たが、この森は見覚えのない森だ。移動要塞である百足は常に場所を変えている。

冷たい風が、傷を冷やしてくれる気がした。
目を閉じると、瞼にも冷たい風を感じる。

…何に、これほどイライラするのだろう。
両手を空へ掲げ、目を開けた。

傷だらけの手。
右手の薄汚れた包帯にも血が滲んでいた。

指輪などはめたことのない、指。

だけどー

もし、この指に輪がはまっていて…
大切な物だと言ってやったら…

…蔵馬は嫉妬するだろうか?

馬鹿馬鹿しい考えに嫌気が差し、オレはまた目を閉じた。

認めたくない。
自分が嫉妬しているなんて。
しかもヤツの母親に。

情けない。
手を下ろし、溜め息をつきー

「何してるの?」

驚きのあまり、はね起きた。

幻聴かと思ったが、オレを見下ろす翠の目は幻覚ではないらしい。なんだってこいつは気配を絶って近寄るのだろう。

無言でジロリと睨むと意味をくみ取ったらしく、蔵馬はにっこり笑った。

「ごめん。つい癖でね。こんな所で昼寝?手当てしてあげようか?」
「…余計な世話だ。悪趣味な癖は直すんだな。何の用だ?」
「続きをしようと思って」
「続き…?」

途中で帰っちゃうなんてさ、まったく飛影ってば。そう言いながら蔵馬はオレを後ろから抱きしめる。

あの指輪は、見えない。

だが、蔵馬の服の中でシャリ、という軽く涼しげな音がしたのを聞き逃すことはオレはできなかった。

腕を振りほどき、ポカンとしている蔵馬を押しのけて立ち上る。

飛影、どうした?
そう言いながら慌てて立ち上った拍子に、蔵馬の胸元から指輪がこぼれ出た。

頭で考えるより前に、手が動いた。
華奢な鎖はあっさりと千切れ、指輪はオレの手の中にあった。

蔵馬は驚いた顔をしてオレを見ている。

…何をしているんだオレは。

我に返ってももう遅い。
どうすることもできなくて、オレは指輪を返そうと蔵馬に向かって黙ったまま手を差し出した。

蔵馬は受け取ることもせず、オレと、オレの手の中の指輪を交互に眺める。そして、ああ、と頷くとにっこり笑った。

なにが、ああ、なんだ?

やつの長くきれいな指が指輪を受け取る。指輪だけが取り上げられ、鎖がしゃらりとオレの手のひらを滑り落ちた。

次の瞬間…

蔵馬は優雅な身のこなしで、指輪を放り投げた。

「なっ!」

放り投げた先は、崖だ。

「飛影!よせ…っ」

無意識に体が動いた。

銀色の弧を描いて飛ぶ指輪を受け止める。
パシッと心地よい音をたてて手の中に指輪が納まる。

足下は、何もない。

落ちるー

そう思った瞬間すごい勢いで腕を掴まれ、力いっぱい引っぱり上げられた。勢い余って、二人揃って草むらに転げる。

「何してんだ!飛影!」
「何してんだ!蔵馬!」

二人同時に叫ぶ。

転がったせいで蔵馬はオレの上にのしかかるような形になっている。焦りと怒りをたたえてもなお、驚くほど綺麗な顔。

「飛び降り自殺でもするつもりか!?この高さなら妖怪だって無事じゃすまないよ」

蔵馬は乱れた髪をかき上げ、溜め息をつく。

「お前が指輪を投げ…」
「投げたんじゃない。捨てたんだ」

翡翠の瞳に射すくめられる。

「捨てた…?何を…」
「いらないものは、捨てたっていいだろう?」

やつは草を払いながら立ち上がる。

オレは困惑していた。

大事だから、身につけていたんだろう?
なぜ、そんなことを言うー?

…オレが、馬鹿げた嫉妬をしたから?
それに気付いて?

頬がかあっと熱くなる。

「おい、何を勘違いしてるのか知らんが」
「オレの大事なものは、お前だけだよ。飛影」

言い訳を遮られた揚げ句の言葉にオレは今度こそ真っ赤になる。いつものからかうような笑みを浮かべた顔ではなく、翠の瞳はまっすぐオレを見ている。

いたたまれない。
こんな風に真面目な顔でこんなことを言われるのは苦手だ。

蔵馬の手がオレの右手をつかむ。
握りしめた手の中には、先ほど空に身を踊らせてつかんだ指輪がまだしっかりと握られている。

きつく握りすぎて強ばった指が、きれいな指に開かれる。

鈍い、銀色。
細く、長い指が銀色を摘み上げる。
再度崖に向き直った蔵馬の手から、指輪が…

「待て!」

思わず、声を上げた。

「どうしたの?飛影」
「…オレに…」
「え?」
「捨てるならオレによこせと言ったんだ!」

キョトンとしていた蔵馬は、意味を飲み込むと花のように微笑んだ。

「…もらってくれるの?」
「そう言っただろう。聞こえなかったのか?」

まだ草むらに座ったままだったオレのそばに膝をつくと、蔵馬はオレの左手を取った。

…まるで何かの儀式のように。

蔵馬の手の中で温まった銀色が、オレの指に滑り落ちる。
細く、小さな銀の輪。

「ぴったりだね」

左手の薬指に、誂えたかのように納まった輪を見て蔵馬は笑う。
輪の上から、小さくキスを落とされる。

オレは手を振り払うと、指輪を引っこ抜く。

「ちょ、ちょっと?」

蔵馬のすっとんきょうな声は気にせず、オレは指輪を右手の薬指にはめ直し包帯で覆った。

これなら、見えない。
見える場所に堂々とはめておくなど恥ずかしくてできない。躯だの幽助だのに何を言われるかわかりゃしない。

「隠しちゃうの?ひどいなあ」
「オレの勝手だろ」

左手の薬指は特別な意味なんだよ、まったくもう、とかなんとかぼやく声を無視し、オレは立ち上った。

「ま、いいけど。それでもオレは嬉しいよ」

甘やかな笑い声。

ああ、そうだ。

いつも許されている。
いつも与えられてばかりいる。

「蔵馬」

胸元に手を入れ、紐を千切った。

「…お前にやる」

蔵馬は驚きを隠せずに、オレの手の平に乗る氷泪石を見つめる。

「でも…」
「二度は言わん。いるのか?いらないのか?」

蔵馬の指が躊躇いがちに氷泪石を受け取る。首にかけ、引き千切った紐を器用に結ぶ。

「…いつも、身につけていろよ」
「…うん」
「無くしたらお前とは永遠に縁を切るからな」
「ええ!?じゃあしまっとくよ」
「ダメだ。身につけてろって言っただろ。そして、絶対に無くすな」

困った様子の蔵馬にオレは意地悪く言ってやる。

慌てて結び目を二重にしているのを尻目に服を脱ぐ。驚いたようにこちらを見る蔵馬の前で、右腕の包帯以外身にまとうものはなくなったオレは笑う。

「どうした?…続きをしに来たんだろう?」
「…いいの?」

普段外ですることをオレが好まない事を知っている蔵馬はちょっとためらい、すぐに自分も服を脱ぎ、微笑んでオレに腕を回し柔らかな草の上にゆっくり押し倒す。

蔵馬の胸元には氷泪石が光っている。
…これを人に渡すなど考えられなかったのに。

悪くない。
大切な物を、大切な者が、持ってくれている。

…悪くない。

自分からも腕を回し、蔵馬をきつく抱きしめた。


...End