隣人

変な夫婦だ、とは思っていた。

まあ近所と関わらないのが最近の風潮ではあるが、一応両隣ぐらいには、と菓子を持って挨拶に行った蔵馬に、隣の夫婦は居留守で応えた。

腰まで届く黒く長い髪に黒ずくめの服という、異様な身なりした夫の方は毎日どこかへ出かけて行くし、時折ではあるが、小柄な妻の方も見かける。
挨拶をしても、一度も返してきたことはなく、妻の方はいつも帽子を目深に被っており、顔は分からない。

その悲鳴は、恐怖というよりも、苦痛に満ちていた。
壁に叩きつけられるような音、何かが転がり、何かが壊れる音、そういった音の合間合間に、苦しそうな声が、確かに聞こえた。

そして、セックス。
この夫婦は揃って家にいる時にはずっとセックスをしているのではないだろうか?と思うほど、そっちの声も頻繁だった。
もっとも、そのセックスもひどい苦痛を伴うものであることは、妻の方の声でだいたいわかったてはいたが。

暴力。DV。

隣の家は一番端なので、気付くとしたら自分だけだろう、と蔵馬は溜め息をつく。

とはいえ、引っ越して来てまだ一ヶ月。
いきなり警察に通報するのも気が引ける。

夫の方は、整ってはいるが冷たそうな、いかにも酷薄そうな男だった。

厄介事に関わり合いたくない、というのも本音だ。
***
「あの…大丈夫ですか?」

今日はゴミの日だった。
自炊は滅多にしないので、ゴミの日もよく忘れてしまうのだ。
珍しく昨日料理をしたのを思い出し、慌てて蔵馬は台所にあったゴミをまとめ、玄関を飛び出す。

運が悪かったのか、良かったのか。

隣の家の玄関の前に、同じ目的であろう小さなゴミ袋を抱え、隣の住人が座り込んでいたのだ。

「…大丈夫で…」

まだそれほど寒い時季ではないのに、顔を埋めるように首にはストールを巻き、目深に帽子をかぶっている。座り込んだ尻の辺り、黒のズボンから、コンクリートの床にじわじわと広がる…

血。

「ちょっと…!」

座っていた体が、グラリと倒れかけ、慌てて蔵馬は抱き留める。
その拍子に落ちた帽子の下には、案の定、危惧していた通りの顔があった。
***
「あの、今運ばれた患者さんの旦那さまですか…?」

看護婦の目は、嫌悪に満ちていて、それも無理はないと蔵馬は思う。
帽子とストールで隠した顔、いや、顔以外にも、明らかに日常的に暴力を受けていることがわかる、生々しい殴打の跡があったからだ。

「いや、俺は」
「奥さん、流産しましたよ」

吐き捨てるように、放たれた言葉。

「いや、俺は近所の者で…たまたま」
「あら?ごめんなさいね」

年配の看護婦は面食らい、辺りを見渡すようなそぶりをしてから、蔵馬に囁くように話しかけた。

「あの、旦那さんに連絡、しました?」
「いえ。どこにお勤めなのかも知りませんし。俺、引越してきたばかりで、そんなに親しくないんですよ」
「そう、あの…実は、警察に連絡しようかと思って…」

顔、見ました?
顔だけじゃないんですよ。体中ひどい有り様で。
骨折をそのままにしちゃって、曲がったまま癒着している跡もあるくらい。

「警察に言った方がいいと思いません?」
「余計な世話だ」

憤る看護婦に、後ろから冷たい声がかけられた。
青い顔のそこここに、鬱血の跡。細い首が包帯で覆われたその姿に、蔵馬はハッとする。

運ばれた時のままの服をまた着た、汚れたままの姿。
赤い瞳は爛々と輝き、人の心を射るようだった。

「ちょっと、あなた!まだ寝ていないと!」
「帰る。お前に俺を引き止める権利があるのか?」

心配していたであろう看護婦も、さすがにその言葉にムッとしたようだ。

「権利は…でも書類も要りますし…」

それはそうだ。
診察代だっている。

「おい、お前」

金貸せ、言うと同時に、蔵馬のカバンを取り、財布を取り出す。
入っていた札を全部、呆気にとられる看護婦に押し付けると、隣人は危なっかしい足取りで歩き出す。

蔵馬は思わず歩み寄り、手を取った。

「なんだ?」
「一緒に帰りますよ。どっちみち同じ場所なんだし」
「…勝手にしろ」
***
タクシーの中で冷たい車の窓にもたれ、ぐったりと眠っていた隣人を、やむを得ず蔵馬は起こす。

「着きましたよ」

起こさずに抱き上げることはもちろん可能だが、暴力夫のいるこの隣人に、マンション内で余計な噂を立てられ夫の耳にでも入ったりすれば、それこそ大変だ。支払いのためにカードを運転手に渡し、蔵馬はもう一度声をかけた。

「ん…」

薄く目を開けたはいいが、すぐにその目は閉ざされ、熱くせわしない呼吸が繰り返される。
あまり意味のないことだとは思いつつ、蔵馬は自分の着ていたパーカーを着せ、フードをかぶせて、熱い体を抱き上げた。
***
朦朧としている隣人の差し出す鍵でドアを開けたそこは、同じマンションとは思えない異質な空間だった。

調度は素っ気なくシンプルで、全てが黒で占められている。
カーテンも閉め切られている室内は、昼間とは思えない暗さだ。
何より異質なのは、ソファや椅子、テレビや本やクッションなどの、人が寛ぐための物は何一つない所だ。

他人のベッドルームに入るのは気が引けたが、DV男というものは大抵、異常に嫉妬深いと聞く。
自分の家のベッドに寝かせるわけにもいかない。

「あの…ベッドのある部屋、どこですか?」

その言葉に、ようやく目を開けた隣人が、皮肉っぽい笑みを浮かべる。

「そんなもの、ない」
「…でも」

でも、あなたたちがセックスする声、聞きましたけど、なんて言うわけにもいかない。
あなたが苦しがって悲鳴を上げるのを、何度も聞きました、なんて。

「降ろせ」
「降ろせって…」
「床でいい。降ろせ」

怪我をして、流産したばかりで、おまけに高熱を出している人間を床に横たわらせるのは躊躇われたが、蔵馬言われた通り、壁に寄りかかれる場所にそっと降ろした。

「…あの」
「…なんだ?」
「旦那さんは、あなたに暴力を?」

聞くも馬鹿げている質問を、蔵馬は投げかける。

「お前に関係ないだろう?」
「まあ、そうなんですけど」
「正直だな」
「ええ」

どこかが痛んだらしく、隣人は顔を歪めた。
どこからともなく取り出した袋から金を出し、蔵馬に差し出した。

「悪かったな。返す」

差し出された札を受け取りながら、もう一つだけ、と蔵馬は目を反らす。

「流産したって…言ってましたけど」
「だろうな」

あっさりした返事の中には、紛れもない落胆がこめられていて、蔵馬は思わず聞き返した。

「そんな…暴力を振るう人との子供が、欲しいんですか?」
「バカ言え」

座っているのも苦しいのか、ずるずると床に横になり、目を閉じたまま、ぽつりぽつりと喋り出す。

「…子供を産む条件で、契約したんだ」

訳があって…やつは、俺の産んだ子供が必要なんだ。
だから、子供を産んで、やつに渡すまでは逃げられない。
やつは、俺のことなどなんとも思っていないだろう。
むしろ、嫌っているだろうな。見たくもない、触りたくもない、ってこぼしてるぜ、いつも。俺とヤルためになんかベッドもいらないと思うくらいなんだから、たいしたもんだろ?
ああそうだ。あいつ、お前のことを好みだって言ってたぜ。
俺なんかじゃなく、隣に引越してきたやつの方が、ずっと好みだって。気をつけることだな。
そうだな、あいつの理想は、俺が子供を産む時に、命を落とすことだろうな。

「…でも」

もう、駄目かもしれない。
消え入りそうな声で呟き、顔を手で覆う。

「これで…流産するのは……三度目だ」

三、という数字は、素人考えでも、先行きは暗い気がして、蔵馬は何も言えない。
そもそもあの男はどんな理由があって、この目の前の小さな者の子供が欲しいのだろうか?なぜ?なんのために?

「あなたは…自分が産んだ子をそんな男に渡せるんですか?」

蔵馬の言葉に、隣人はギュッと唇を噛み、目をそらす。

「…帰れ。こんな所をあいつに見られたらまずい」

羽織っていたパーカーを脱ぎ、蔵馬に投げる、白い手。

「どこかに…逃げた方が」
「うるさい。さっさと帰れ。関わるな」

そうですか、と帰るのも人でなしだが、確かに夫が帰ってきたらまずいことになる。
この隣人が、より一層ひどい暴力を振るわれるのは確実だ。
ふと、この隣人の名前すら知らないことに気付く。

「あの…」
「…まだ何かあるのか?俺は寝たいんだ」
「名前、聞いてもいいですか?」
「……飛影」

ぼそっと言うと、飛影はことりと眠りに落ちた。
***
悲鳴、苦鳴。
あの小さな体が壁に叩きつけられる、鈍い音。

あの黒一色の部屋で飛影が逃げ回り、殴られ、蹴られ、犯されているのだろう。

やっぱり、警察に…
蔵馬が電話に手をかけた瞬間、ふいに音が止んだ。

沈黙が、かえって怖い。
まさか…

ポーン、という場違いなチャイムの音。
裸足のまま飛び出した玄関。
ドアを開けた、目の前に。

「…飛影」

茫然と、立ちすくむ、小さな姿。
全裸で、昼間巻かれた包帯も解け、体中に散らばる、噛みつかれた跡や殴打の跡が生々しく赤い。両足の間から滴り落ちた血は、白い足を赤く染めている。

「あ…ぁ…」
「どうしたんです?」
「…ぁ…ああ」

ようやく、飛影が胸元に握り締めている真っ赤に濡れた物が、鋭利なナイフだと蔵馬は気が付いた。
カシャン、と血をまき散らしながら足下に落ちたそれを、蔵馬は拾う。

「……殺し、た…」

蔵馬にも、もう分かっていた。
ナイフを染める血は、飛影の血ではない。

「あいつ、が…俺を刺そう、と、したから…役立たずの腹を…かっさばいてやるって…」

大きな瞳は、飛び出しそうに見開かれている。

震える体。
見開かれた瞳。
白い肌は、二人分の血で汚れている。

ほら、な。
やっぱり厄介事になった。

蔵馬は深い溜め息をついた。

「…どうするんですか?」
「どうする…って…」
「警察、呼びましょうか?」

伏せられる、赤い瞳。

「…それとも、俺が一緒に、逃げてあげましょうか?」

その言葉に弾かれたように、飛影は顔を上げる。
蔵馬の目に、その言葉が本気であることを見て取って、飛影は困惑する。

「お前が…?なぜだ…?」
「なぜって、あなたに」

あなたに、惚れちゃったからですよ。

唇についた血の滴を舐めとるようにキスをして、蔵馬は飛影を抱きしめた。
一瞬戸惑ったあと、飛影もきつく抱きしめ返す。

このマンション、結構いい物件だったのに、こんなに早く出て行くことになるとはね、蔵馬はそうぼやく。
恋愛も近所付き合いも厄介なものだが、今回はとんでもなく厄介だ、と苦笑しながら。


...End.

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