楽園

ストンと窓辺に降りる、軽やかな身のこなしは変わらない。
ごくあっさりとした白いシャツに、黒のズボン。いつものブーツではなく、上部だけを紐で縛った、やわらかそうな茶色の革靴を履いている。

艶のあるくしゃくしゃの黒髪。
興奮に赤い瞳はきらきらし、頬には赤みが差し、口元には笑みさえ浮かべている。

ご機嫌、としか言いようがない、その顔。

これほど嬉しそうな飛影の顔を見ても、蔵馬の表情は冴えない。
がっくりと肩を落としたまま、力なくベランダの扉を開けた。
***
「はあ!?」

それは十日ほど前のこと、部屋を訪れた恋人といつものように食事をし、一緒に風呂に入っている時のことだった。満腹と湯のあたたかさに頬を染めた飛影が、ぼそっと呟くように言ったのだ。

お前に頼みがある、と。

湯の中で、なめらかな肌に手を滑らせている途中の恋人の頼みごとを、いったい誰が断れるというのか。
オレにできることならなんでも、と蔵馬は笑顔で返し、小さな唇を味わった。

が。

「躯が?ここへ?オレと?なんで?」

目を丸くする蔵馬に、気まずさにぱしゃぱしゃと湯を叩きながら、飛影はぼそぼそと説明した。

百足には七十七人の戦士がおり、いくつかある闘技場では毎日のように手合わせが行われている。
道場で言うのなら戦士は門下生で、躯は師範というところだ。ところがこの師範、最近めっきり手合わせに応じなくなったのだという。

「どうして?」
「知るか。それで…」

筆頭戦士である飛影は、今のところ七十七人中一番強いということになる。当然、他の戦士との手合わせだけでは物足りない。躯に手合わせを望んだが、何度部屋を訪ねても、ここのところすげなく断られてばかりだった。

躯は何をしているわけでもない。巨大なベッドで昼寝をしていたり、何やら本を読んでいたり、酒を飲んでいたり。
要するに、飛影からすれば「どう考えても暇にしている」ようにしか見えなかったのだと言う。

十回ほども部屋を訪ねた所で、とうとう飛影は切れたのだ。
なぜ手合わせに応じないのかと詰め寄る飛影に、躯はしれっと答えた。

自分よりも弱いやつを相手にするのは、飽き飽きしたと。

そこまで聞いたところで、蔵馬は目を閉じた。
ここから先は聞いてもしょうがない。もうオチはわかっているようなものだ。

頭に来て飛びかかった飛影をあざやかにかわし、躯は言った。

「どうしてもというなら、相手してやらんでもないぜ?」
「きっさま……!どうしてもだ!!」
「お前が負けたら?」

この質問は、おかしい。
そもそも飛影が躯に勝てたことなど一度もないのだから。

「何が言いたい!? 今度こそオレが勝つ!」
「自信満々だな。じゃあ、オレが勝ったら、お前はオレの望みを叶えるってのはどうだ?」

天井を仰いだ蔵馬から、飛影は目をそらす。

「上等だ。何が望みだ!? お前が勝ったら…」
「勝ったら、お前の体を貸せ」

寝そべっていたベッドから起き上がり、躯は笑顔で言い放った。
***
シャワーヘッドから、ぽちゃんと湯船に雫が落ちる。

「なるほど。それで勝負をしたと」
「…そうだ」
「で?」

で?とは、これも意地の悪い質問だ。
子供はいかにも子供っぽいふくれっ面をし、蔵馬を睨んだ。

普段の飛影は、一緒に入ろうと蔵馬が誘っても、風呂は一人で入ることの方が多い。
頼みごとのある今日は、素直に承諾したというわけだ。

「で、負けたと」
「……そうだ」
「体を貸せって…どういうことなんです?」
「換えるんだ。魂の交換だ」
「魂の交換…」

もちろん、蔵馬にはその意味も方法もわかっている。
海藤が使った術と少し似ているが、同じなのは肉体から魂を取り出す所までだ。そして、取り出した魂を異なる肉体へと戻す。危険ではあるが、熟練の術士がいればできないことではない。

「そんな…危ないだろう?」
「まあな。交換できるのは三日くらいが限度だろう。それ以上になると体が壊れるからな」
「三日の間に、お互いに何かあったらどうするんだ」
「そうならないようにお前に頼んでるんだ。第一、オレは躯の体で百足にいる。危ないことなどない。躯はこっちへ来る」
「こっち!?」
「オレの体なら、あいつは人間界に来ることができる」
「ちょっと、それ、つまり」

人間界を案内してやってくれ。それがあいつの希望だ。
自分の体では妖気が強大すぎて人間界には入れないし、霊界だってまさか見逃すわけにはいかない。オレと体を交換すれば少しの間だけ人間界に来ることができる。

めずらしくぽかんとしている蔵馬に、飛影は困ったような顔をした。

「…オレにできることならなんでもって、お前はさっき言っただろう?」

あたたかな湯の中で、飛影は両足を蔵馬の腰に絡めた。
***
「よう、狐。世話になるぞ」

どうやらベランダの真上に結界を結んだらしい。
草花の鉢の並ぶコンクリートに降り立った途端、躯は柵にもつかまらず、大きく身を乗り出し、辺りを見渡す。

よく晴れた、初夏らしい青空だ。
通勤時間はとっくに過ぎた午前十時とはいえ、通りすがりの人間がふと見上げれば、子供がベランダから落ちそうだと大騒ぎになりかねない。

「取りあえず上がってください」
「そうだな」

誰に教わったのか、躯はきちんと靴を脱ぎ、部屋に上がってくる。
フローリングの床。木のテーブル、ベージュの布張りのソファ。植物の鉢は部屋の中にもいくつかある。

何の変哲もないマンションの部屋を、躯はまるで美術館にでも来た客のように、じっくりと眺める。

「まあ、座ってください。お茶淹れますよ」
「茶?酒はないのか?」
「あります。でもその体は酒に弱いんで」
「ああ、そうだったな」

同じ顔、同じ体、同じ声。服はいつもと少し違うが、特別女っぽい仕草をするわけでもない。
けれど違う。蔵馬にははっきり違いがわかる。魂の交換の件を知らなかったとしても、この飛影が飛影ではないと、蔵馬はすぐにわかったはずだ。

ティーポットに、マグではなくカップを二つ持ち、蔵馬は部屋へ戻る。なんとなく、砂糖やミルクはいらない気がした。
湯気を立てるカップを目の前に置いても、躯は今すぐ窓から外に飛び出して行きたいとでもいうように、そわそわと腰を浮かせている。

「待ってくださいよ。少し話をするくらいいいでしょう?服も着替えた方がいいですし」
「変か?」
「すごく変ではないですけど。ちょっと変です」

熱さを感じないのか、熱さに強いのか、白いティーカップのお茶を冷ますでもなく躯は大きくひとくち飲んだ。

「ところで。ずるいじゃないですか?手合わせをおあずけにして、勝ち目のない賭けを子供にふっかけるなんて」
「ずるい?」

窓から視線を外し、躯は笑う。
飛影の顔が、飛影ではない笑い方をする。その違和感。背後の窓と見慣れた風景。

「ずるいだと?大人の知恵ってやつだ。お前だって飛影にしょっちゅう同じようなことをしてるんじゃないか?」

そう言われれば、蔵馬も返す言葉がない。
飛影の意地っ張りな所や、すぐにカッとなる幼さを、自分が利用したことはないと言えば嘘になる。

「…飛影と約束しましたからね。二泊三日、お好きなところへご案内しますよ」

どこへ行きたいんです?と問うた蔵馬に、躯は笑う。
小さく笑うでも、はにかんで笑うでも、皮肉って笑うでもない、陽気な笑み。

「どこへ行きたいかなんてオレにわかるわけがない。これぞ人間界、ってのを見せてくれ」

躯は紅茶を飲み干し、まるでスタートの合図のように、タンッと音を立ててカップを置いた。
***
雑多な建物は隙間という隙間を埋め尽くすようにぎっしりと並び、空を遮っている。
階段を上り下りする人の波。ありとあらゆる音の洪水。

蔵馬にとっては見飽きた風景に、黒いTシャツにジーンズ、足元はスニーカーという姿に着替えた躯は魅入っている。

「あれが電車とかいう乗り物か?」

どうやら、書物やなんやらである程度情報は仕入れて来たらしい。まるで海外旅行前にいそいそとガイドブックを買い込む人間のようだと、蔵馬は微笑む。
飛影は電車もバスも、混み合う街中の雑踏も、およそ人間であふれ返る場所の全てを毛嫌いしているというのに、躯は興味津々だ。

「この場所自体は、駅って呼びます。電車は地上を走るのと、地下を走るのがあ…」
「両方乗る」

仰せのままに。では地上から行きましょう、と蔵馬は切符を買い、躯に手渡す。
ホームまではすぐだというのに、コンビニに立ち止まり、ケーキ屋に立ち止まり、隣接する本屋やカフェまで覗いて歩く躯を連れているせいで、駅の中であっという間に三十分は経っている。

「降りた先の街で、案内しますって」
「ああ、悪い悪い。ついな」

駅ビルに繋がるエスカレーターを見つめていた躯が振り向く。

「あれはなんだ?人間が吸い込まれている」
「階段です。機械で動くんです」
「なんのために?」
「階段を上らずにすむから。楽をするために」

飛影ならば、人間どもはどこまで軟弱なのかと鼻で笑うだろう。
けれど躯は、感心したように頷いた。便利な物だな、と。

ようやくホームへたどり着いた二人は、電車に乗り込んだ。
***
これはあれだ。
地方出身の嫁の母親が東京見物に上京してきて、観光地をあちこち案内する気疲れ。きっとそれに似ている。
しかしその場合、通常は嫁も一緒に観光しているわけで、嫁がいない分よりキツイ。義母と婿の二人きりだなんて。

そんなことを蔵馬は考えながら、今日も馬鹿みたいに人がいる交差点を渡る。

「おい、今日は祭かなんかなのか?」

確かに、そんな風に見えなくもない。
人種も、国籍も、年齢も性別もまちまちの人間たち。
この街にいる全ての人間は、いったい何の用があってここにいるのだろう。

「毎日、だいたいこんなものなんですよ」
「すごいな」
「魔界の国の一つに例えるなら、ここがこの国の王都なんです。なので人間が多い。他国から訪れる者もたくさんいる。魔界と同じで、辺境に行けばもっと閑散としていますよ」

人であふれ返っている道の先を見ようと、ふわっとジャンプしかけた躯を、泡を食って蔵馬は止める。
軽々と一メートル以上浮き上がった体を、空中で半ば抱き留めるようにして。

「ちょっと!!」
「なんだ?」

抱き上げられたまま、不思議そうに躯は見下ろす。
ぎょっとした顔でこちらを見ていた中年の男は、何かを察したのか、そそくさと消える。きっと多少の霊感があるのだろう。

「だめですよ!ここでは!」
「何が」

大きな赤い瞳をぱちくりさせる。
中身は違うとわかっていても、そのかわいらしい飛影の目に蔵馬は一瞬ドキッとする。

「人間の子供は、そんなに高く飛べないんですよ!」

なるほど、と頷き、躯は大人しく下へ降りる。
降りた途端に、家電量販店の騒々しい呼び込みと大音響に目を輝かせ、歩き出すのを蔵馬は慌てて追う。

これは、長い二泊三日になりそうだ。
***
「美味い」

食事ひとつにしたって、何を食べさせたらいいのかさっぱりわからなかった蔵馬が昼食にと選んだのは、軽めのコースを出す会席料理の店だ。

ランチで六千円という価格は、まあ安くはない。当然のように店の中には大人の女性同士がほとんどに、年配の夫婦にカップルがちらほら。

男同士、しかも未成年の二人がどうにも浮いているのは否めない。とはいえ、いったいこの組み合わせでどこなら浮かないというのか。ファストフードも考えたが、もてなすという意味合いからはいまいちだ。

「それはよかった。あなたが何を好きなのか、さっぱりわからなくて」
「こっちの食べ物は興味深いな。何もかもが凝っている」

意外に綺麗な箸使いで、躯は飛影の小さな口で昆布締めの平目を味わう。
飾り物のように可愛らしい手毬寿司をしげしげと眺め、口に放り込む。梅シロップを炭酸で割った飲み物には、ちょっと噎せた。

酒以外に、何が好きなんです?という蔵馬の問いに、躯は首をかしげる。

「別に、食えない物はない」
「甘い物は?」
「嫌いってわけじゃないが、好んで食うわけでもないな」

蔵馬が渡したおしぼりで指先を拭い、躯は耳にかかった髪をかき上げる。

蔵馬はつい、違いを確認してしまう。
動作の一つひとつ、それは明らかに大人の仕草で、全然女っぽくはないのに、まさしく女そのものだ。

そう広くはない店を見渡し、躯は蔵馬に視線を戻す。

「いつも飛影を連れてきてるのか?」
「ここにですか?いえ、連れてきたことはないですね」

あまり外で食事はしないですよ。もっぱらオレの家で食べるか、幽助のラーメンくらいですね。
人間も嫌いだし、騒々しいのも嫌いだし。家にいる方が多いです。出かけるとしても人が減る深夜くらいかな。

そこまで話して、蔵馬はふと口をつぐむ。

「へえ~。あいつは純粋にお前に会いに来てるってわけだな?かわいいやつだ」

蔵馬の心を読んだかのように、躯はニヤリとして言う。
香り高い緑茶の湯のみをくるりとまわし、蔵馬は肯定の笑みを返した。

そういえば、と蔵馬は心の中だけで呟く。
大人とデートをするのは、久しぶりだ、と。
***
一日中街を歩き回った。
躯が見たがる物欲しがる物は細々と、そして多岐に渡り、蔵馬の両手はいくつもの紙袋がぎっしりぶら下がっている。

それは雑貨屋のチープなグラスだったり、押すたびに色の変わる乾電池式の卓上ライトだったり、シルバーでできたごついライターだったり、カラフルなチョコレートだったり、全ての色を詰め込んだようなアイスクリームだったり、レースを模した便箋だったり、海辺で使うようなビニール素材のバッグだったり、ショーウインドウに飾られた、誰もが知るブランドのブーツだったり。本当にまちまちだ。

どう見ても小学生くらいの少年が二十万もするようなブーツを指差し、二十歳になるかどうかの青年が異論もなくそれを買う。
どちらの体にも合わないであろうサイズのブーツをプレゼント用にするでもなく買う二人に、店員は瞬いたが、この街にはおかしな者など数え切れない。くっきりとした作り笑いで、大きな紙袋を手渡した。

香水の匂いに満ちた店を出た途端、ふいに立ち止まった躯が、蔵馬を見上げる。

「おい、便所どこだ?そこらでしちゃまずいんだろ?」
「だ、だめに決まってるでしょうが!」

慌てて蔵馬は、近くのビルに躯を連れて行く。
女性向けの服を中心に扱うビルだが、無論男子トイレもある。女子トイレの混雑とは対照的に、男子トイレはそう混んでもいない。

「あれ?」
「どうした?」
「ちょっと待ってください。あなたが、その」
「なんだ?」
「…あなたが飛影の、性器に触るってことですよね?」

トイレのドアに手をかけていた躯は振り向き、はあ?と眉を上げる。

「そりゃそうだろ。じゃなきゃどうやってするんだ」
「いや、でも、それはなんか」
「無茶言うな。…それにしてもなんか、お前が言うと嫌らしいな~」
「嫌らしい!?」
「だいたいそんなもの、前にも触ったことあるぞ」
「前にも触った!?」

蔵馬はあやうく手に持っていた袋を全て落っことすところであった。

「何度あいつを素っ裸にしてポッドにぶち込んだと思ってるんだ」
「だからって!」
「ポッドには全裸で入るしかないんだ」
「でも、そんな所を触る必要ないでしょう!?」
「あんまり小さいから面白くて触っただけだ!」

つま先立ちしても飛影の身長では蔵馬の耳元には届かない。
躯は蔵馬の長い髪を手でつかみ、ぐいっと引き寄せ、囁いた。

「…何をむきになってやがる、狐。あんなガキにずいぶんと惚れ込んだもんだな」

からかうように言い捨て、躯はトイレのドアを開けた。
***
夕飯は、躯のリクエストで幽助のラーメンにした。
マジかよ、と叫び、大はしゃぎでラーメンを作り、挙げ句に手合わせしねえか、などと言いだす幽助を蔵馬は諌める。

「したいのは山々だけどな」

チャーシューも煮玉子もメンマもどっさりこぼれんばかりに盛られた丼に箸を突っ込み、躯は機嫌よく笑う。

「この体は借り物だ。魂の交換の最中に体に傷が付くとまずい」
「つまんねえな~」
「そういう問題じゃないんだよ幽助!霊界にばれたらやばいんだって!」

ちぇー、蔵馬のケチ。
肝っ玉が小さいな、狐。

幽助と躯の二人は好き勝手なことを言う。

「じゃあ、一杯飲んでけよ。いい酒あんだよ」
「人間界の酒か。もらおう」
「ちょ…!」

その辺の酒屋のサービス品のような安手のコップに、幽助はなみなみと酒を注ぐ。どこからともなく取り出したサキイカやナッツを、ラーメン丼にざらっとあけた。

止めたってどうせ無駄だ。
蔵馬は本日何度目かの溜め息をつき、これまた大盛りのラーメンに箸をつけた。
***
「まあ、これはこれで貴重な体験ってやつだな」

蔵馬の背中で、躯はうんうんと頷く。
酔っぱらって歩けなくなったというのに、頭の方ははっきりしているらしい。

「酔っぱらって体が言うことを聞かないなんて、初めてだ。面白い」
「人の背中で何言ってんですか…」

明日仕事の前にお前ん家に届けてやるよ、と言う幽助の言葉に甘え、買い物の大荷物は屋台に置いてきた。
体そのものは、背負うことも抱き上げることも慣れた体だ。なのに巻き付く手の位置が、腰のあたりに当たる足が、はっきりと違う。

「それにしても、潰れないんですね」

幽助と躯は、二人で一升瓶を三本空けた。
いつもの飛影なら酩酊してひっくり返っているか、げえげえ吐き戻しているかの二択だ。

「体は、魂に影響を受ける」

酔いがまろやかにした声で、躯は言う。

「体そのものの性質が優先されるが…魂の性質も影響するからな」
「なるほど」

妖狐として長く生きた蔵馬だが、魂の交換をしたことはない。
それほどまでに他者を信用したことなど、なかったからだ。

そう考えると、ひどく複雑な気分に蔵馬はなる。

躯は飛影を、飛影は躯を、それほどまでに信用しているのだ。
多分、百足では術士と時雨とが飛影を見張っているのだろうし、ここ人間界では蔵馬がいわば躯の見張りでありお守りだ。
とはいえ、どちらもその見張りを振り切るだけの力は持っている。

地下鉄の入り口が見えてきた。
あたたかい体を背負い直し、蔵馬はポケットから財布を引っ張り出し、二人の周囲に簡単な結界を張る。

「どうした?」
「酔っぱらった子供を背負って電車に乗るっていうのは、ちょっとまずいんで。それとも地下鉄は明日にして、今日はタクシーで帰りますか?」
「ああ。そうなのか。ならもう立てる」

手を離し、ひょいと降りると、躯は何かのまじないのように鎖骨の真ん中から首筋へと両手を滑らせ、大きく息をついた。
辺りに一瞬、霧に似た何かが漂い、アルコールのにおいはたちまち消え失せ、ふらついていた足がしゃっきりと地に着いた。

「なんで最初からそうしないんです?」
「人におぶわれるなんて、なかなかないからな」

あははと笑い、結界の輪を抜けると、先に立って躯は地下鉄への階段を駆け降りた。
***
電車が通り抜けるたび、地下の湿ったにおいをたっぷり含んだ風が吹きつける。
帰宅ラッシュの時間はとっくに過ぎたが、疲れ果てた顔をした多くの人々が、目的地への電車を待っている。

見物したい、という躯の言葉に従い、蔵馬は三本目の電車を見送った。

「そもそも、地下に移動手段を置いたのはなぜだ?採掘も大変だったろうに」
「単純な理由です。王都で暮らしたい人間の数に対し、土地は圧倒的に足りない」

人さし指を真っ直ぐ上に立て、蔵馬は続ける。

「となると、高い建物を造り、そこに人々を収容することになる」

指先は今度は真下を差す。

「それだけでは足りなかった。地上を覆い尽くすと、人間たちは今度は地下を利用することにしたんです」
「なるほど。しかし、望んで暮らしているにしちゃ、どいつもこいつもしけた顔をしているな」

二人の会話は、小学生と青年の会話としてはとてつもなく奇妙なのに、辺りの人間たちは振り向くでもない。
疲れ果て、あるいは気が急いて、他人のことなど見ていないようにさえ思える。

「この地に暮らし、この地に倦む者もたくさんいます」
「お前は?」

思いがけない質問に、蔵馬は小さく口を開ける。

「お前はなぜ、この地で暮らしている?望んでのことなのか?」
「元は野っ原を駆け回っていた狐ですよ。どちらかといえば緑の森の方が性に合う。憑依した人間が、たまたまここに暮らしていただけのことです」
「たまたま?」

やはり大人は誤魔化せない。
蔵馬は苦笑し、続けた。

「…多分、この土地が人の邪を多く含んでいたから」

たくさんの者がいれば、願いも欲望も同じ数だけ存在する。邪は魔を呼び寄せる。
他の人間に憑依したとしても、きっとこの地に生きる者だったと思いますよ。

何か言いたげに開けた口を、躯は閉じた。
再び轟音を立てて電車が滑り込み、人間を吐き出し吸い込んで、走り去る。

「ところで、なぜ扉が二重にある?構造上必要な物には見えんが」
「人が線路に落っこちて電車に撥ねられないように、です」
「ずいぶん間抜けが多いんだな」
「事故もありますが、主にそうではないんです。飛び込んで死ぬ人間が後を立たないことが大きな理由なので」

大きな赤い瞳が、驚きに見開かれる。

「死ぬ?自死ということか?こんな物に飛び込んで?こんなに人がいる場所で?」
「人がいるからこそ、なのかもしれないですね」

派手なのに物悲しい、ありとあらゆる壁面を埋める目障りな広告。
地下のにおいと、コンクリートに響く轟音。
騒々しいのに他人には無関心な、人の群れ。

孤独の手のひらは、ある瞬間、人の背を強く押す。

「王都を離れて暮らせば、そういう人間は幸せになるのか?」
「…さあ。月並みな事を言うなら、どこにいても幸福はあるし、不幸もあるのでしょうからね」

ここで暮らす者にここは楽園かと問うたなら、違うと答えるだろう。しかし、辺境に暮らす者に同じことを聞いたとしても、違うと答えるだろう。

楽園は、きっとどこにもない。
地下の湿ったにおいをたっぷり含んだ風が、強く吹きつける。

二重の扉を通り抜け、二人は五本目の電車に乗り込んだ。
***
家に着いた途端に躯は靴を脱ぎ捨て、使うぞ、と風呂場へ行く。
蔵馬が用意したタオルや着替えを持ち、すたすたと。

一度説明しただけでシャワーの使い方は理解したらしい。水音を聞きながら、1LDKのマンションのベランダに蔵馬は立つ。

似たようなマンション、少し離れて大小様々なビル。この街では地べたに暮らすことさえ、なかなか手の届かない贅沢だ。
ゆるい風が長い髪を通り、さっきまでの地下鉄のにおいを微かに撒いた。

蔵馬は考える。

自分も飛影も人間だったとして、出会えたとして、どこで何をして暮らしていたのだろう。
きっと、この街ではないような気がする。

空の見えない地下を走る電車も、精巧なパズルのように積み上げられた箱のような住み家も。人波も満員電車も、世界中から運ばれてくるありとあらゆる面白いことも、目まぐるしい流行り廃りも、飛影は望まない。

人の少ない山里、一日にたったの二本のバスしか通らないような土地。春には力強く緑が芽吹き、冬には雪が辺り一面を覆い隠すような。
あるいは海辺だ。年がら年中潮風が吹き、空と海とを分ける線がどこまでも続くような、そんな場所。

そういう場所を、飛影は好むだろう。
そこに居る飛影を想像する。その側に立つ自分を想像する。

飛影に会いたい。
ふいに、胸を締め付けるような強さで、思いが過る。

「電気、だな」

早風呂なのは飛影とあまり変わらない。
木綿のシャツと半ズボンをきちんと着て、髪を拭いたタオルを首にかけた躯が隣に並ぶ。

電気、と躯が指差したのは、たくさんのマンションの明かりだ。
ひとつの光に一人以上の人間を含んでいると考えると、空恐ろしいほどの数だ。

今さらだろうと蔵馬は部屋に戻り、酒の入ったグラスとボトルを持ってくる。

ベランダの扉を開け放ったまま、床に寝そべる。
少しの氷にたくさんのレモンを浮かべたウォッカは、心地よく甘い。
真似るように、躯も隣に寝そべった。

人の声、車の音、パトカーのサイレン。
夜風が髪を絡ませるまま、無音も暗闇もない街を眺め、二人はグラスを傾ける。

「狐」

振り向いた蔵馬に、飛影の顔をした躯が妖艶に笑む。

「…させてやろうか?」

蔵馬はゆっくりと、グラスを床に置く。

意味がわからないほど、鈍くはない。
わからないふりをするほど、お互い若くもない。

「やめておきますよ」
「なぜ?お前の好む体だろう?」

十日ほど前の、風呂場でのセックスを蔵馬は思いだす。

最初はバスタブの中で。二回目からは転がるように床に降り、高い温度と湿度に息が詰まるほど交わった。
終いには頭から冷水をかぶらなければ、二人とも起き上がれない程だった。
だからお前と風呂に入るのは嫌なんだ、とぼやいた飛影だったが、その後のベッドでも惜しみなく体を開いた。

「もちろん、好みの体ですけど」
「案内の礼にさせてやるぜ?言っておくがあいつより遥かにオレは上手いぞ」

何千年も生きてきたんだ、あんなガキとは一味違うぜ、と飛影の唇が動く。

妖狐だったあの頃、未来の自分が躯とこんな会話をすることになると教えたとしても信用しなかっただろう、と蔵馬は苦笑する。
霊界のハンターに追いつめられたあの瞬間でさえ、追っ手をハンターか躯か選ばせてやると聞いたなら、妖狐蔵馬は迷いなく前者を選んだはずだ。そのくらい躯は強い。あの頃も今も。

「魅力的なお誘いですけどね。遠慮しておきます」
「まさか、オレが飛影に言うとでも思っているのか?」

おかしそうに尋ねる躯のグラスに蔵馬は酒を足し、薄切りのレモンをたっぷり浮かべてやる。

「あなたが飛影に告げ口するなんて思ってないですよ、ただ」
「ただ?」

薄く切ったレモンをそのまま口に入れ、蔵馬はウォッカをごくりと飲み込む。

「その体を愛していますよ。でも、その体に宿る魂を、もっと愛してる」
「じゃあ、もしも」

肘をつき、もう片方の手でグラスを持ったまま、躯は続ける。

「…何か間違いがあって、あいつの魂がオレの体で生きることになったら?」

この体にはオレの魂が、オレの体には飛影の魂が。もう元には戻れない。
その時、お前はどうする?

問いかける赤い瞳に、酔いはない。
長く永く生きた者の強い眼差しを受け止め、蔵馬は返す。

「その時は、あなたの体に宿る、飛影を愛します」

躯は小さく笑い、グラスを干した。

「……何千年も生きたくせに」

こんなガキのどこがいいんだか。
このオレが誘ってやったってのにな。

しかめっ面をする躯は、それでもどこか楽しげだ。

氷を鳴らして蔵馬は笑い、寝そべったまま手を伸ばし、帰り道のコンビニで買ったガイドブックを取る。

明日はどこへ行きましょうかと、カラフルなページをぱらりとめくった。
***
二日前と同じく、青い空、白い雲。
文字通り山ほどとしか言いようがない買い物袋は、ベランダに並べられている。

「世話になったな」

黒く渦巻く結界から差し出された手に、躯は大きな袋をいくつも押し付ける。
あのごつい腕は時雨だな、などと考えつつ、蔵馬は無事に任務を終えたとほっとしている。

人間界で買った赤いTシャツとジーンズ生地の長いスカートに、青と白のストライプの靴下、という普段の飛影の服装でもなく、かといって躯の服装でもない、珍妙でありつつもおかしな具合にセンスのある出で立ちで、躯は結界の下に立つ。

「楽しかった」

本当に嬉しそうな笑顔で言われ、蔵馬は戸惑う。
飛影の顔でこんな素直な笑みをみることは滅多にないから、なおさらだ。

「オレも、大人とデートするのは久しぶりで楽しかったですよ」

まるっきり嘘というわけではない。
なんせ南野秀一にはあまり友人というものがいない。

催促するように、突き出された両腕につかまり、躯は吸い込まれるように消える。
渦を巻く黒い雲のような結界は二、三秒瞬き、ふいにきれいさっぱりと消えた。

ベランダの柵に寄りかかり、蔵馬はしばし空を見上げる。

青い空、白い雲。
目を閉じて、太陽の光をまぶたに受ける。

まぶたを通して目に当たる陽射しに、視界が白っぽく輝く。

「飛影」

会いたいよ、と呟いたのが聞こえたかのように、静電気にも似たピリッとした刺激が肌を走り、ゆっくりと目を開くと、そこには先程までの黒い雲がまた湧きだしている。

笑みを浮かべ、蔵馬は両腕を掲げるかのように差し出した。
湧きだした黒雲から渦が広がり、ぽん、と現れたそれ。

短い黒髪が、風をはらんで広がる。

落っこちてきた宝物を受け止め、蔵馬は抱きしめた。

「おかえりなさい、飛影」
「………よお、狐」

蔵馬は破顔し、さらに強く抱きしめた。

「全然似てない。オレを試したりしないで、飛影」
「…わかるのか?」

あったりまえでしょ、と飛影を抱き上げたまま、部屋に戻る。

いつもの黒いタンクトップとズボンという出で立ちに、脱ぎ忘れたのかストライプの靴下のままだ。青と白のしましまの足先を見つめ、眉間に皺を寄せる顔はいつもより白く、明らかに疲れている。

魂の交換は、どれほど上手く行っても恐ろしく体力を消耗するものだ。飛影はドサッとソファに座ると、背もたれにくたりと頭を預けた。

最近の飛影のお気に入りのオレンジジュースをグラスになみなみ注いでくると、蔵馬は隣に腰を下ろし、くしゃくしゃの黒髪の頭を自分に寄りかからせてやり、頭のてっぺんにキスをする。

「会いたかった、飛影」
「…たったの十日かそこらだろうが」
「長かったですよ。義母の世話をする三日間は」
「ギボ?」

呆れたように、けれどその声音はまんざらでもない響きだ。
されるがままに蔵馬に寄りかかり、飛影はふあ、とあくびをする。

「来た途端に寝ちゃうの?」
「しょうがないだろ…眠くてたまらん」

眠くてたまらないのに、すぐに来てくれたのだ。そう考えると、蔵馬の顔は自然にほころぶ。

「じゃあ一眠りして。起きたら一緒にご飯を食べよう」

蔵馬が言い終わるのも待たず、飛影は蔵馬に寄りかかったまま、寝息を立てている。
起こさないようそっと抱き上げ、蔵馬は膝の上に飛影を座らせる。

飛影のつんつんした髪の毛越しに、窓を開けたままのベランダから外が見える。

同じようなマンション。雨が染みを作るコンクリートの壁。
わずかに覗く空を区切る電線。色の褪せた看板。

ついさっき見た風景と何一つ変わりはないのに、今この瞬間のそれは少し彩度を上げ、確かに光をまとっている。

腕の中の体温、やわらかな呼吸。

「飛影」

世界が輝き、煌めいてそこにある。
どこにもないはずの楽園が、ここにある。

「あなたが居るなら、どこだって…」

規則正しい寝息を奏でる唇に吹き込むように、蔵馬は囁いた。

...End