punishment

こわいものなんか何もない。

彼がそう言ったから。
だから、オレは。
***
「…ゆ、きな…雪菜…っ」

それは大体予想のついたことだった。
彼にとって妹を失うことは恐怖に他ならない。

けれど、オレが聞きたかったのは…

「…くら…ま…」

彼は震えながら、床の上で胎児のように丸くなっていた。

「…蔵馬…蔵馬…嫌だ……いや、だ…」

頭を抱え、冷たい石造りの床の上で彼は泣いていた。

あのプライドの高い飛影が、身も世もなく泣いている。
その姿に、歓喜としか言えない感情が込み上げる。

こわいものなんか何もない、って。

貴方はそう言ったじゃない?

部屋には窓はなく、天井近くにはランプが灯されているが薄暗い。
使い魔に運ばせていた一日一回の食事はろくに手が付けられておらず、片隅に押しのけられていた。

床には、あちこちに溶けかけた赤い錠剤が散らばっている。
飲んでしまってから、無理やり吐いたものだろう。

オレは床に転がる瓶を確認する。
中身はまだ三分の一程残っていて、彼の意思の強さにオレは感服する。

今までこれを使ったやつらだったら、瓶はとっくに空になり、薬をくれと泣きわめいていただろう。
それだけこの薬の中毒性は凄まじい。

オレがすぐ側に立って見下ろしているのに、飛影はそれすら気付かない。

「……蔵馬……くら…」
「呼んだ?飛影」

その言葉に、胎児はびくっと震えた。

「…くら…ま……?」

汚れた床に座り、飛影の髪を撫でてやる。
頭を抱えていた腕が解かれ、泣き濡れた赤い瞳がゆっくり開かれる。

「…くら、ま…」

赤い瞳はまるで焦点があっていない。
きょろきょろと、辺りを見回すその瞳は、恐怖をありありと浮かべている。
オレは飛影を抱き起こし、膝の上に座らせた。

彼のあの気の強さ、傲慢とさえ言えるあの視線。いつもはそんなものに惑わされてしまうが、こうして膝に抱き上げると彼は本当に小柄だ。

「……蔵馬?」
「ここにいるよ」

大きな赤い瞳に、みるみる涙が溢れる。
まるで心の闇を映し出すかのように、床に散らばった氷泪石は白濁していた。

「…くら、ま…お前…?…生きて…いたのか……?」
「もちろん。どうして?オレが死んだとでも思ってたの?」

もちろん彼はそう思っていたはずだ。
そして、自分の妹もそうだと。

「…死んだ、はず…だ…」

泣いているせいで、声は濡れてくぐもっていた。

「…オレを…庇って………死んだ…」
「何言ってるの。オレはここにいるよ」
「…ほんとう、か……?」
「うん。目の前にいるじゃない」
「…ゆきな…!…雪菜は…?」
「雪菜ちゃん?もちろん元気だよ」

その言葉に、膝の上の体は弛緩し、ぐたりとオレにもたれた。

「どうしてそんなこと考えたの?」
「あ…わ、わからな……」

わからない。
なんで。
お前は死んだ。……オレのせいで。
雪菜…雪菜は…

焦点の合わない瞳で、飛影はぶつぶつと呟く。

震えているのは、この部屋が寒いせいもあるが、薬が切れているせいもあるだろう。
オレは床に転がる瓶を拾い上げ、赤い錠剤を二錠取り出した。

「具合が悪そうだね。これ、飲んで」

手の平に乗る錠剤を、飛影は初めて見るかのようにまじまじと見つめる。

「…これ…は…?」
「飲むんだ」

強い命令口調に、飛影の瞳が泳ぐ。一瞬躊躇った後、差し出された手の上の錠剤を舐めるようにして飲み込んだ。
その瞬間、茫洋としていた瞳に強い理性の影がよぎる。

「っ貴様…!!」

飲み込んでしまった薬を吐き出そうと、口に指を入れようとした飛影の動きを、オレはあっさり止める。

「はな…せ!……ぅあ…?」

三十秒もしないうちに、薬が体内で溶け出したのか、呼吸が荒くなり、瞳はまた焦点を失う。

「…蔵馬?…蔵馬!お前…生きて…いたのか……?」

そうだよ、とオレは笑って、飛影を膝から降ろした。

「待て…どこへ行く…」
「帰るよ」

飛影の顔が凍りつく。

「…待て…っ」
「忙しいんだ。じゃあね」
「…蔵馬!いや…だ…!」

飛影は再び泣き出し、オレの足にすがりつく。

誇り高い者の壊れる姿は、
本当に…うっとりするほどかわいらしい。

「そう?じゃあしてくれる?」

何を、などと言うまでもなく、飛影はオレのベルトを震える手で外した。
ズボンを寛げ、中から出したものを今まさに銜えようとしていたその頭を、オレは押しのけた。

「…っ?…蔵馬…?」
「用事を思い出しちゃった。ごめんね、行かなきゃ」

元通りズボンをはき、ベルトをしめたオレに、飛影が金切り声を上げた。

「嫌だ!! 行くな!蔵馬!!」

ああそうだ、これ、あげるね。

「もう残り少ないもんね?」

オレが彼に渡したのは、赤い錠剤がぎっしり入った新しい瓶。
飛影は潤んだ瞳で瓶を凝視し、力なく首を振った。

「どうして?必要でしょう?」

後ずさる飛影に無理やり瓶を持たせ、オレは部屋を出る。

瓶を抱いたまま、ゆっくりと床にくずおれる彼を、
そこに一人残して。
***
「…ずいぶん楽しい遊びをしているのね」

煙管から上る煙は蒼く、彼女の瞳の色に似ている。

扉一枚隔てたこの部屋も、灯りはそれほど多くない。
彼女は長椅子に優雅に腰掛け、目の前のテーブルに置かれたたくさんの瓶を眺めていた。

瓶も、その中身も全て同じで、魔界にはそぐわない、きちんと成型された赤い錠剤だ。

「…妖狐がね、昔作った薬なんだよ」

拷問用に、ね。
オレはそう言って、彼の妹に瓶の中身を振って見せた。

「苦痛は体に与えるものだけじゃないってわけね。…いい趣味だわ」

そうだ。
この薬は、飲んだ者の中に眠っている恐怖を呼び覚ます。
薬には強い中毒性があり、なかなか絶つことはできないし、解毒剤を飲んで薬を絶たなければ、永遠にこの悪夢から覚めることはできない。

幻覚、妄想。
本当にその者が恐れていることを、まるで現実のように、繰り返し繰り返し、味わわせるのだ。

だって…
こわいものなんか何もない。

彼がそう言ったから。

「だから、オレは…」

オレはグラスを二つ出し、酒を注ぐ。赤く綺麗なその酒は、彼の瞳によく似ている。
彼女の前のテーブルにそれを置き、オレは隣の部屋に通じる扉に寄り掛かり、目を閉じる。

この扉には、いや、この屋敷全体に、鍵などかかっていない。
外からの侵入は難しいが、中にいる者は、自由に外に出る事ができるのに。

それすら、飛影には思いつかない。
なぜって、絶望しているから。外の世界に出ることなど、最早何の意味も持たないと思っているから。

彼の声が、聞こえる。
すすり泣く合間合間に、雪菜、蔵馬、と、オレたちのことを呼んでいる声が聞こえる。

その甘美な響きに、思わず恍惚とした溜め息が零れる。
雪菜、と呼ぶ回数よりも、蔵馬、と呼ぶ回数の方が遥かに多く、より絶望的な響きを持っていることにオレは満足し、テーブルに戻り、対になっている長椅子に腰掛けた。

「聞いてもいいかしら?」

彼の妹は、赤い酒の入ったグラスを掲げる。

「…貴方が兄にこれをするのは…何回目なのかしら?」

グラス越しに、蒼い瞳が笑いかける。
さすがに彼女は勘がいい。

「さあ…十回目ぐらいかな」
「なら、もう確認はできているじゃない」

兄が、何を心底恐れているかを。
彼女は一気に酒を飲み干し、空になったグラスを置いた。

「そうだね…」

解毒剤と、夢幻花と。
それで飛影は何もかもすっかり忘れることができる。
だからオレは飽くことなく、これを繰り返す。

オレがこれを何度も、何度も続けるのは…

「楽しいから。嬉しいから。彼が…」

彼が、オレが死んだ後の恐怖に打ちのめされるのを見るのが。
彼が本当に恐れていることは、このオレを失うことだと確認するのは、至福の時間だ。

「まったく。付き合ってらんないわ」

彼女はそう言って帰り支度を始めた。
煙管を消して立ち上がる。

「帰っちゃうの?飛影が呼んでいるのに、会っていかないの?」
「馬鹿馬鹿しい。遊びは二人でしてちょうだい」

自分のグラスを干し、オレは笑いかける。

「ねえ雪菜ちゃん、知ってる?」

彼女が空にしたグラスを指で弾く。

「このお酒の中に…同じ薬を入れたってこと」

廊下へ続く扉へと手をのばしかけていた彼女が振り向いた。
その顔は、オレの予想に反し、驚きも、怒りも、浮かべてはいない。

「…知ってるわ」

唇の片側だけで、ニッと笑う。
その笑みに、なんだか嫌な予感がし…

「もちろん、知ってる。だから貴方のグラスと替えておいたわ」

彼女は絶句したオレの隣に腰掛け、オレの顔を覗き込んでクスクス笑う。

「……ま、さか…そんな…雪菜ちゃ…」
「さあ。見せて。今度は貴方の番よ」

貴方の恐れを、貴方の恐怖を、私に見せて。
兄と同じように、泣き叫んで床を這いずり回ってみせて。

その蒼い瞳には、純粋に面白がっている色しかない。
ふいに湧き上がってきた恐怖は、その蒼に対してなのか、それとも…

「あ……」

オレの体は長椅子を滑り落ち、冷たい床に触れていた。

「ところで…ここにあるのは赤い薬だけ、みたいだけど?」

彼女は気の毒そうに、それでいてひどく可笑しそうに笑った。

「解毒剤の在りかは……私、知らないわ」

その言葉の恐ろしい意味が、薬が効き始めたオレにはもう分からない。

「さあ…貴方の番よ…早く見せて…」

耳元の冷たい囁きの向こうで、飛影の悲鳴が確かに聞こえた。


...End