夏散歩

「あそこ、いいですか?」

さほど大きくはない店の、人目につきにくそうな、一番奥まった席を指す。
もっと入り口側の、通りに面した窓辺の席にオレたちを案内しようとしていた、還暦もとっくに過ぎているであろう女性は、オレの顔を見て笑う。

「いいですよ。こんないい男に言われちゃあね」

オレの後ろに隠れるように、無言でくっついていた飛影がムッとしたのが、無言のままでもわかった。
古びてはいるが感じのいい革張りのソファに座り、コーヒーとクリームソーダを注文する。

懐かしの、あの頃の、古き良き、などと見出しをつけられ、さまざまな雑誌のページにも時折登場するこの店は、いつでもそこそこ混雑している。

人間も、人混みも、お断り。
飛影が常々そうオーラを出していることはわかっているが、どうしてもこの店に連れてきたかった。できるだけ空いている時間にしようと、十時の開店に合わせて来たのだ。

店内に立ち込めるコーヒーの香りを吸い込むオレを、飛影は苛々と見つめる。

「おい」
「まあ、そう苛々しないで。すぐにくるよ」

オレの言葉通り、さっき案内してくれた女性が、慣れた様子で銀の盆を片手に乗せ、こちらへ近付く。
お待たせしました、とオレの前に湯気を立てるコーヒーを、飛影の前には背の高い古風な足つきグラスを置き、紙ナプキンにスプーンとストローを添えた。

「ごゆっくり」

まんざら嘘でもない口調で言うと、女性はカウンターへと戻る。
店主の妻なのかあるいは従業員なのか、年季の入ったエプロンが揺れた。

「…蔵馬」

カウンターから向かいに戻した視線に、眉を寄せる飛影が映る。

「なんだこれは」

しゅわしゅわと微かな音を立てるメロンソーダ。
こぼれんばかりにたっぷりとしたバニラアイスに、作り物めいた真っ赤なさくらんぼ。

素晴らしい。
由緒正しきクリームソーダだ。

「飲み物です。飲み物兼デザートかな」

気味の悪い物でも見るように、飛影はじっとクリームソーダを見つめ、今度はオレを見つめる。
なんなんだ、どうしたらいいんだ?
彼の目がそう言っていて、オレはすっかり嬉しくなってしまう。

「まず、アイスからいきましょうか」

スプーンを取り、アイスクリームをひと匙。
口を開けかけた飛影はハッと瞬き、オレの手からスプーンを取る。もう一度スプーンとその上のアイスクリームに視線を落とし、口の中にアイスクリームを入れた。

大きな目が、大きく見開かれる。
スプーンをくわえたまま目をまるくし、まるい目のままオレを見る。

「…冷たい。甘い」
「アイスクリームって言います。美味しいでしょう?」

オレにとってもアイスクリームは驚きの食べ物だった。
魔界にも冷菓はなくはないが、氷の採れる場所だけだし、砕いて蜜をかけるくらいの食べ方しかない。
それより何より、驚いたのは。

「じゃあ、今度はこっち」

アイスクリームの隙間から、緑色の湖面がのぞく。
太めのストローを差し、そっと吸ってみて、と飛影に促す。言われた通りにそっと吸い込む姿は、見知らぬ人間にさえ見せるのが惜しいかわいらしさだ。

「…!? っ、え」

けほ、と軽くむせるとストローから唇を離し、オレを睨む。

「なんだ…?」
「炭酸。酸が少し入ってる」
「酸!?」
「無害ですよ。人間でも飲めるくらいですから」

人間でも飲める、と言われては飛影は引き下がれない。
再びストローに小さな口をつけ、今度はたっぷり飲み込んだ。

飛影の口の中を、喉を、赤い粘膜をぷちぷちと流れていく液体を思い、オレは目を細める。

戸惑ったのは最初だけだ。左手でストローを支え、右手にスプーンを持ち、飛影はみるみるクリームソーダを飲み込んでいく。

「はい、ストップ」

グラスの中身が残り三割ほどになったところで、オレは飛影の手を止める。
止められたことで自分が夢中になっていたことにようやく気付いたのか、飛影はばつが悪そうに手を離す。

スプーンで救出したさくらんぼを飛影の口に押し込み、緑色と白とをくるくるとかき混ぜる。
ぶくぶくと泡を立て、ミルク色をした液体に姿を変えたグラスにストローを再び差し、オレは飛影の口元に手をやる。

ためらいもなくオレの手にさくらんぼの種を吐き出し、飛影は目を輝かせてグラスを両手で引き寄せる。
甘く冷たく泡立つ液体を、ほとんど一気に飛影は飲み干した。

ごくわずかな表情の変化。
子供らしいふっくらとした頬がゆるみ、満足そうに唇がゆるむ。炭酸が押し上げた空気をけふっと漏らした唇に、ここが家だったらキスができたのに、とちょっと残念にも思う。

早くも混雑し始めた店内は騒めき、若い女の子の四人連れが隣の席に案内されてきたのを機に、オレは伝票と飛影の手をつかんで立ち上がる。

からんころん、というドアベルの音もまた、この店の古き良きを担っているのだろう。
冷たいグラスで湿った飛影の手に、オレの体温が移るのを感じる。

「美味しかったでしょう?」
「…まあな」

素直じゃない。そこもまたかわいい。

「オレ、この店のコーヒー好きなんですよ。また付き合ってくださいね」
「気が向いたらな」

繋いだ手を解き、飛影はさっさと歩き出す。

例えば喫茶店。例えばアイスクリーム。例えばメロンソーダ。

例えばキス。
例えば、セックス。

あなたの初めてを全部、オレが与えて見届けたいのだと言ったら、彼はどんな顔をするだろうか。
多分猛烈に怒って、多分同じくらい喜んでくれるだろうというのは、オレの自惚れだろうか。

夏の陽はすでに高い。
並んで歩くオレたちの足元に、二人ぶんの濃い影が落ちていた。


...End.