Lunatic月は欠け、月は満ち、月は高く登る。手を差し伸べて、指の間から仰ぎ見る。 熱くてつめたい、その輝き。 ***
月のもの。 そう教えてくれたのは時雨だった。 邪眼の手術を受ける一年ほど前からだった。 だいたい二十日に一回ほど、腹痛と出血に見舞われるようになったのは。 もうじき死ぬのだろうか。 そう漠然と考えていた。 何かの病なのか、それともこの忌み子の体は不完全で、とうとう尻の穴からだらだらと血を流すようになったのか、と。 それにしては、変だった。 五日ほども経てば血は止まり、ひどい腹痛もなんとも嫌な眩暈も、どうにもならない眠気も嘘のように消えてなくなった。 そんな壊れた体で移植手術はできないなどと言われてはたまったものではない。時雨に話すつもりは微塵もなかった。 だが、運が悪かった。手術前に体を調べられた時、まだその時期ではなかったはずなのに、またもや出血し始めたからだ。 隠そうにも素っ裸。 足を伝う赤い流れに時雨は驚き、もう一度診察台に戻れと命じた。 「嫌だと言ったら?」 「移植の件はなかったことになる」 そう言われては、選択の余地もない。 白く硬い診察台に横たわり、言われるままに足を広げた。 月のもの。 ひっくり返された蛙のようなみっともない姿で、ごつごつした指や得体の知れない道具で体の中を掻き回され、うんざりした所で時雨はそう言った。 「月のもの…?」 ただでさえ腹が痛いというのに、体の中を掻き回された痛みと気色悪さに吐き気がしてきた。 血がついた器具を桶に放り、時雨は手を洗っている。 「種族ごとに異なるが、年頃の女の体は子供を作れるように変化する」 「オレは女じゃない」 「そうだな、だが」 時雨の指が、裸で横になったままのオレの下腹部、ちょうど陰部のすぐ上あたりに触れる。 「ちょうどここに、雌で言うところの子宮に似た臓器がある」 「……なんだと?じゃあ…子供ができるのか?オレも分裂期を迎えるというのか?」 あまりに驚いて跳ねるように起き上がったオレに、時雨が服を差し出した。 そんな物はどうでもいい。氷女でもないのに、なぜオレが分裂期を迎えなきゃならない? 時雨は少し考え、首を振った。 「その可能性はほとんどないように思う。分裂期は来ないだろう」 少しだけほっとして、オレは渡された服を羽織る。 診察台から降りようと足を伸ばしたオレを、もう少し座っていろと時雨が止める。 「このことは、誰にも知られないようにしろ」 「話すつもりもないが…なぜだ?」 そもそも、こんな話を誰かにするわけがない。 時雨にだって、話すつもりではなかった。 「出血や腹痛だけか?」 オレは眉をしかめ、その質問の真意を探る。 だが、ここまで話して続きを隠す意味もない。 「いや…眩暈もあるな。吐き気も。あとは強烈な眠気だな」 「なら、なおさら誰にも言うな。弱る時期があることを、他者に知られて得などない」 「弱る…?」 弱ってなど、と反論しかけたが、そもそもここに来るきっかけになったのも…。 失せ物をした。あの時も、オレは。 「魔界は広い。強いやつもいれば、変わった好みを持つ者もいる」 「何が言いたい」 「強者や権力者には珍しい生き物に目がない者も多い。拙者ですら実際に忌み子に会うのは初めてのことだ。忌み子を蒐集したいと考える者もおるであろう」 蒐集品。 珍しい宝石や希少な武具のように、オレを欲しがるやつがいると? 「増してや忌み子が子を産めるとなったら、生まれた子はさらに希少な妖だ」 「待て、さっきオレが分裂期を迎えることはないと…」 「分裂することはないだろうと言っただけだ」 意味がわからない。 いったい何を言っているんだ、こいつは。 「男と交わっても子ができないという保証はない」 「何を馬鹿なことを言っ」 「先のことなど誰にわかる?誰かを好いて交わるにせよ、誰かに負けて組み伏せられるにせよ」 「ふざけるな!」 「いや、男と交わって子種を注がれたとしても、子ができることは多分ないとは思う」 だが、思う、というのは仮定でしかない。 前例を知らぬのだから、断じれることなど何もない。 「それを確かめるために、取っ捕まって強姦されたりするのは割に合わなかろう」 「オレは!」 「自分が強いつもりでいるのだろうが、現に御主は大切な物を敵の手で無くしたではないか」 そうだ。 いつもなら、かわせたはずだ。なのにむざむざと石を無くした。 足の間にどろっと流れた血にふらっとしたのはほんの一瞬だ。だがその一瞬で、刃の切っ先は…。 大きくため息をついて、診察台から足を振り下ろす。 忠告は的を得ている。この医者に苛ついたところで何もならない。 着物を羽織り、裸足の足が床にとんと着いた途端、腹がぐうっと痛み、足に粘り気のある血が伝い落ちた。 耐えられないほどひどい痛みというわけではない。けれど、重く、不快で…。 「気の持ちようだ」 「何?」 診察所の扉にかけた手を止め、オレは振り向いた。 白茶けた床には所々、オレの血が足跡のように残っている。 「月のものの痛みは心の状態にも大きく左右される。ささくれて、苛ついた気持ちで生きていると、痛みはなお激しくなる」 ささくれて。 いったい何が言いたいのかと、オレは視線を受け止め、投げ返す。 「ゆったりと」 ゆったりと、安穏に暮らしていれば痛みは和らぐ。 そうやって苛々と刹那に生きておれば、日を追うごとに痛みは酷くなろうよ。 股にあてがえということなのだろう、折りたたんだ布を時雨は差し出す。 「ゆったり?安穏?」 笑わせる。 そんな日々など、今までも、これからも、ない。 そんな場所は、この広い魔界にさえ、どこにもない。 「…くだらん話を聞く暇などない。予定通り、明日だ。なんならついでにこの腹の中の余分な臓物も取ってくれてもいいぜ」 「邪眼の移植手術のついでに腹も開けると?馬鹿馬鹿しい。不可能だ」 まあ、そんな話がどれほど馬鹿げているかは、御主にもすぐにわかる。 説明した通り、手術の成功率、つまり生存率は一割だ。七割の者は移植の痛みに耐え切れずに発狂して死ぬ。残りの二割は邪眼が上手く適合せずに死ぬ。 御主も明日の午の刻には七転八倒し、殺してくれと泣きわめいているだろうよ。 時雨はため息をつき、咎めるように赤い足跡を見た。 ***
移植手術のついでに腹も開ける。時雨の言う通り、そんな話がどれほど馬鹿げているかは嫌というほど思い知らされた。 七転八倒などという言葉は生ぬるい。 あの痛み。あの苦痛。動けないように手も足も縛られていた。手足が自由だったら、きっと自分の手で邪眼を引きずり出して全てを終わらせていたはずだ。 もしあの時に腹を開けるなどという苦痛を上乗せされていたら、間違いなく発狂して死んでいただろう。 開けることのできなかった腹の中に相変わらずあの臓物は居座って、周期が狂うこともあったがだいたい同じだけの日をおいて、腹立たしいほど律義に血をあふれさせた。 誰にも知られないようにしろ。 時雨の言葉は、正しかった。 妹を探し、魔界中を旅して、人間界さえもこの目でこの足で訪れて、頭のおかしい者は魔界にも人間界にもいると知った今となってはなおさらそう思う。 めずらしい生き物を集めたがる者のなんと多いことか。 手に入れるためならば、手段を問わない者はいくらでもいた。だから。 苦々しく、そう説明してみたが、碧の瞳はオレを見据えたまま揺らがない。 説明は我ながら言い訳じみた響きをおびていて、なぜこれを言い訳だと感じるのかはわからなくて、オレは目の前の男を睨む。 …睨んだところで、あまり迫力はない。 粗末な寝台に座り込んで、股に布をあてて押さえているという有り様なのだから。 ***
勝手に人のねぐらを探し出すことに腹は立ったが、その目にはただオレを心配している色だけがあって、激怒して追い返すのもはばかられた。というよりも、追い返した所で諦めるわけもないことがわかるくらいには、長い付き合いでもある。 「どうしたんだ、飛影」 寝台の下には水をはったたらいがあって、血で染まった布が何枚も沈んでいる。 血で汚れた布を水に放り込み、新しい布を股間にあてがった瞬間という、なんとも間が悪い訪問に、怒るよりも先に脱力してしまった。 「…勝手に人の家に入るな」 「馬鹿を言うな。出血してるじゃないか。診せてみろ」 「なんでもない!これは…」 なんでもない、で、蔵馬が納得するはずもない。 まあ、誰だって相手が尻からだらだら血を流していたら、理由を聞くだろう。 「これは……月のものだ」 「月のもの!?」 目を丸くした蔵馬に、オレはしぶしぶ説明をした、というわけだ。 「分裂期を迎えて子を産む可能性はないと時雨は言った。男の…」 蔵馬を目の前に、男が子種を注ぐうんぬんは言いにくかったが、そこを無視して話をするのも難しい。 「…男の子種を注がれても、子はできないそうだ。絶対に」 だから単純に、その…これは月のものがきているだけだ。 五日もすれば止まる。何もお前に心配される筋合いはない。 ぼそぼそと話し、あてがった布を押さえるように服を着た。 横になっている方が楽だったが、床に膝をついてオレを覗き込む蔵馬に合わせ、座ったまま見返す。 「…なぜ、話してくれなかった?」 「誰にも知られないようにしろと、時雨が」 「お前はオレより、その男を信用するのか?」 時折姿を消すオレを、蔵馬が不審に思っていることはわかっていた。オレが姿を消すのが定期的であることに、この男が気付かないわけなどないのだ。 それでも説明する気にはならなかったのは、信用していないのではなく、つまり。 男の子種を注がれても、子はできないそうだ。絶対に。 さっき、オレは蔵馬に嘘をついた。 時雨は、男と交わって子種を注がれたとしても、子ができることは「多分」ないと言った。 絶対と多分の間には、距離がある。 忌み子に子ができたら面白いと、孕むまでオレを犯したりは蔵馬はしないだろう。 そうではなくて、オレが蔵馬に言わなかったのは。 …子ができるかもしれないような生き物を抱くのは面倒だと、思われたくなかったからだ。 蔵馬は黙ったまま、オレを見ている。 狭い部屋に横たわる沈黙に、腹の中がうねるように収縮し、替えたばかりの布にどろりと血を吐き出すのがわかった。 以前は毎回毎回ひどく痛かったし、腹がむかついて吐くことさえあった。 血でぐしょぐしょになった布を替えるたび、みじめったらしい情けない気持ちになった。 痛みで眠れない夜も一度や二度ではなかったし、そのたびに時雨の言葉が頭をよぎった。 蔵馬と出合ってそういう関係になってから、不思議と周期は安定し、痛みはやわらいでいたのに。 こちらを見据える碧の目に、痛みがひどくなるような気さえした。 きっと無意識に、オレは痛みに顔を歪めたのだろう。 「……飛影」 心配そうな、その声。ようやく名を呼ばれたことに安堵して、オレは顔を上げる。 けれどその目には笑みはなく、オレは急に不安になる。お前のような気味の悪い生き物はもういらないと、吐き捨てられるのではないかと。 そんなはずは、ない。 蔵馬はそんなやつではない。そんなことは言わない。言うはずがない。 そのくらいオレももうわかっている。 月のものが腹に居座る間、オレはいつでもそんなことばかり考えてしまう。 物事を悪い方へ、怖い方へ、気持ちをかき乱す方へと。 時雨はそれも月のものが影響すると言っていたが、たかが余計な臓物ひとつに、自分が左右されると考えることさえ腹が立つ。認められない。 「くら…」 ふいに蔵馬は立ち上がり、目の前に立つとオレをひょいと抱き上げる。 オレを抱いたまま蔵馬は寝台にそっと座り、オレを覗き込んだ。 「蔵馬?」 「オレを信じてない、ってわけじゃないんだね?」 「そうじゃない、が…」 「じゃあ、これからはオレが側にいるから。身を隠す必要はない」 「オレは」 「オレが側にいる。いいな?」 いつもなら、えらそうに指図をするなとオレは激高しただろう。 けれと月のものは、何もかもをどろりと粘度のある膜で包みこみ、オレをとろとろと溶かしてしまう。 強い口調に、ちらちらと見え隠れするのは間違いなく嫉妬で、オレはかすかな優越感を感じずにはいられない。 会ったこともない男に、時雨に、蔵馬は嫉妬している。オレがあいつの言葉に従い自分を疑ったと思って。 「お前の体に合わせて、痛み止めを作るよ。いくつか試してみよう。布ももっとやわらかい物に変えた方がいい、それから…」 甘く低い声。抱き上げられた腕の中のあたたかさ。 痛み止めを作ってやると言われただけで、まだ飲んだわけでもないのにふわりと痛みがやわらぐ。 眠ってもいい。ここでなら眠っても、大丈夫だ。 押し寄せる眠気に抗わず、オレはうとうとと目を閉じた。 ***
深い森のような、濃い緑のいい匂いがする。枕も、寝巻きも、この部屋も、オレを後ろから抱きしめる男も、すべてがいい匂いだ。 蔵馬が何やら細工した枕は緑の葉のすっとした匂いがする。背中に感じる体温が心地よくて、オレはまたまどろむ。 生臭いような血のにおいを嗅ぎたくなくて、大きな枕を両手で抱きしめて、顔を埋めた。 時折、オレは目を覚ます。 目を覚ました瞬間、もう眠い。ねむくてねむくてたまらない。 抗わず眠ってしまった方が月のものは大人しくなると、教えてくれたのは蔵馬だ。 とろとろと、時が流れる。 足の間から流れ出す血さえ、ゆっくりと染み出すようだった。 オレの腹にまわされた手の中に、摘んできたらしいやわらかな緑の葉がある。 いつの間にか一緒に眠ってしまったらしい男を起こさないよう、葉を一枚引き抜き、手のひらでくしゃりと揉む。 すうっとする、いい匂い。 痛みが香りにくるまれるように、弱くなっていく。 こうして過ごすようになってから、ちょうど十回目の月のものだ。 窓から覗く月はオレと同じように満ちていて、夜に光を滴らせている。 「…飛影」 寝言でまでオレを呼ぶのかと、笑ってしまう。 嬉しくて、笑ってしまう。 「蔵馬」 小さく呼び返して、腹にまわされた手に自分の手を重ねる。 満ちた月を包む、大きな手。 ー男と交わって子種を注がれたとしても、子ができることは多分ないとは思うー 多分、か。 多分など……絶対ではない。 体をそっと返し、向かい合った蔵馬の長い髪に指を通し、背を抱いた。 初めて愛した妖は、オレを腕の中に納めていることに満足して眠っている。 …こいつの子種が、この腹の中でもし芽吹いたら。 それもいいと、思える。 子など、面倒で邪魔なだけだろう。 けれどこいつとなら、それも悪くない。 あの日のオレが今のオレを見たら、狂っていると吐き捨てるだろう。 欠けた月だったはずなのに。 いつの間にか、オレの月は丸く満ちて、待っている。 昇る日を待って、今夜もまた満ちていく。 ...End |