Minimal Days

妖狐だった頃は好き放題、自分勝手に生きてきた。
手に入らない物などなかったのに。

なのに今こんな風に、わがままな恋人と日常の些事に振り回されるなんて、因果応報というやつだろうか?
***
「なるほどね…」

すっかり葉を落とした街路樹のあるこの道には、一定の間隔で古ぼけたベンチが置かれていた。

「…何が、なるほどなんだ?」
「しーっ。外では喋っちゃダメだって言ってるでしょうが」
「貴様が喋るのが悪い」
「はいはい。あとはパン屋さん寄ったら帰るからね」

膝の上に抱いていた恋人の、紺色の小さなコートとピンク色のマフラーの襟元を直してやりながら、蔵馬は言う。

平日の午後の二時という中途半端な時刻で、オフィス街ではないこの街では歩いているのは主婦とおぼしき女性やその子供、そして老人たちばかりだ。

こんな時間の住宅街を若い男が一人でうろうろしていては困ったものだが、子連れであることはまるでそれがパスポートであるかのように蔵馬をすんなりと街に溶け込ませていた。

現に一つ離れたベンチに座る子連れの母親は、こちらと目が合うとにっこり微笑んだ。

「…何ヶ月ですか?」
「七ヶ月です」

蔵馬もにっこり笑う。
そもそもこんな質問くらいでうろたえているようでは話にならない。ちゃんと人間界の赤ん坊として不自然でない月齢を覚えておいてある…と言いたい所だが、飛影を抱いて買い物に出かけた初日に店先でそう声をかけられ、大いに慌てたのだ。

「抱っこなんですか?大変ですね」
「ベビーカーだと大泣きするもんで」

あらら、甘えんぼさんね、とその母親は笑った。

「いて!」
「え?」
「いえなんでも…それじゃ失礼します」
「ほら、バイバーイ、しなさい」

母親はベビーカーの我が子に手を振らせる。何が楽しいのか、赤ん坊は笑い声を上げて小さなこぶしを振った。
蔵馬も笑って手を振り、少しも笑わない赤ん坊を抱いてそそくさと立ち上る。

「…つねらなくてもいいじゃない」
「誰が泣くって?」
「あなたがベビーカーは嫌だって言うから。ほら、パン屋さんに着くからしーっ、だよ」
「子供扱いするな!」
「子供っていうか赤ちゃんなんだけどねー」

ふと振り返ると先ほどの母子連れはだいぶ離れたたというのにまだこちらを見ている。
ベビーカーに乗った赤ん坊も、にこにこ笑ってまだ手を振っていた。

「ちょっとは笑ってあげてよ。手を振ってあげるとかさ」
「…ふざけるな」

蔵馬はもう一度笑って手を振ると、ベビーカーをうらやましく眺める。

なるほどねえ。
今度は口に出さずにぼやく。

あれってすごく便利だ。
両手が空くし、ちょっとした荷物も載せられるし。

今まで気にも留めた事がなかったが、歩く事のできない子供を連れている親たちは、みなベビーカーを使って両手を自由にしている。

…ベビーカーなら実家にもあったのだが。
物持ちのいい…というか思い出のある物を処分できない性質の志保利は、息子の子育てに使った物をほとんど全部取ってあった。

服だの靴だのと一緒にベビーカーも一応マンションに持ってきてはみた。

飛影はあっさり、そして断固として拒否をした。

以上、ベビーカーに関する顛末だ。
そもそもどうして買い物だのささいな用事だのに、飛影がついてきたがるのか蔵馬にはさっぱり分からない。

どうやら冬の午後二時というこの時間は、子供のいる人間にとってお散歩タイムの時間らしい。
通りの反対側を、これまたベビーカーを押している女性の二人連れがのんびり歩いて行った。

いいなあ。

左手の温かい荷物は人の気も知らずに歩く揺れに合わせてうとうとし始めている。
よいしょ、と右手の買い物袋を持ち直す。ずり落ちかけてる飛影も抱き上げ直し、蔵馬は小さく溜め息をついた。

金銀財宝を山ほど持っていて、あんな手押し車をうらやましがるなんて我ながら情けない。
これぞ因果応報、だ。
***
赤ん坊を抱っこして外出するというのはとても不便な事だった。
買い物をしてしまえばもう片方の手も塞がってしまう。
不便、というより時々不可能な事もある。

例えば、カバンから家の鍵を出して開けるとか。
例えば、財布を開けてお金を払うとか。
例えば、パン屋でパンをトレーに載せるとか。

「後でもう一回来ようかな…」

マンションに戻る途中にあるパン屋のショーウィンドウを覗いて、呟く。
飛影を連れて、二度ほど入った事のある店だ。

なかなか美味しかったし、感じのいい夫婦が二人でやっているこぢんまりした店だ。二度ともトレイは持たずにフランスパンと丸パンだけを口頭で頼んで買ったが、快く応じてくれた。でも、やっぱり気が引けるし面倒だ。今日はいろいろ一週間分くらい買いだめしておきたい。

抱っこしている飛影と野菜だのなんだので重たい買い物袋ですでに両手は塞がっている。
一度マンションに戻って買い物袋を置いて、それから出直そう。
そう考えた蔵馬がショーウィンドウから離れようとした時、ガラスの扉が開き、買い物を終えたらしい客が出てきた。

「ありがとうございました!」

この店では夫の方がパンを作り、妻の方がレジに立っている。
元気のいい声だが、いつもの声ではなかった。

「あら、いらっしゃい!」

蔵馬の目線よりはだいぶ下に、まんまるに太った老婆が満面の笑みで扉を押さえていた。

「どうぞどうぞ。大変ねえ。赤ちゃん抱えて買い物は」
「え、あの…はい…」

明るい大声に気圧されて、蔵馬は店内に入る。
老婆はレジの奥から小さな椅子を持ってきた。

「はいあんた。ここに荷物置きなさいな」
「あ、ありがとうございます」

明るい老婆はどうやら妻の母親らしい。顔がそっくりだ。

「今日はねえ、娘は同窓会で泊まりがけで出かけたんだよ」
「ああ、それで代わりにお店番されてるんですね」
「そうそう。どれ、その子よこしなさい。片手じゃ危ないよ」
「え!」

いやいや、ちょっとそれは…と止める間もなく、老婆はふっくらした手で飛影を蔵馬の腕から抱き上げた。

「…!!」

飛影は一瞬、目を見開き、蔵馬のコートに縋り付くような姿を見せたが、さすがに老婆は手慣れたものだ。あっさりと自分の腕に納めた。

「ほら、両手が空いた方が取りやすいでしょうが」
「あ…はい…でも…」
「大丈夫大丈夫。何人子供育てたと思ってんの」
「あー…あはは。そうですよね…」
「大人しい子だねえ」

飛影は老婆の腕の中で完璧に固まっていた。

元々、人に触れられるのを飛影は好まない。
しかも今は、見知らぬ他人。
しかも人間だ。

ちょっとの間我慢して。蔵馬は視線だけで、そう伝える。
明らかに怒りの篭った視線が返されたが、この状況では選択の余地も無い。

選ぶも何もなく、目に付いたパンを適当にトレイに載せ、慌ててレジに行く。

「ゆっくり選んでいいのに。あらあら。戻りたいってさ」

レジ前に立った蔵馬の方に、飛影が早くしろとばかりに腹立たしげに手を伸ばす。

レジに載せたトレイと引き換えるように、飛影を受け取る。
蔵馬の腕の中に戻り、飛影はほっと息をつく。

「あははは。やっぱりお母さんがいいんだねえ。ほっとした顔しちゃって」
「え!?」

蔵馬はその言葉に仰天して小銭を落っことす。

「ああいいよ。私が拾うから」
「あの、お母さんって…」
「しっかし最近のお母さんは若いねえ。ええとね、お会計は1,270円だよ。1,200円にオマケしとくよ」
「いや…違います、オレ…」

ぷは、と蔵馬の胸元で吹き出す声がした。

「あら、笑ったよ。お母さんとこがよっぽどいいんだね。お母さん美人だもんねえ」

飛影が今度は声を上げて笑い出した。
それは普段聞いた事のない、弾けるような素直な笑い声。

小さな生き物特有の、澄んだかわいい笑い声。

「ちょ…飛影!」

おかしくておかしくてしょうがないといった表情で飛影はころころ笑い続ける。

かわいいねえ、と老婆が目を細めた。
***
「何がおかしいわけ!?」
「いい気味だ」

マンションのエントランスには人気がない。
それをいい事に、これ持ってて!と蔵馬は腕に抱いたままの飛影にパンの袋を押し付ける。
カバンから鍵を引っ張り出し、解除キーを回し暗証番号を叩きつけるように打ち込む。

「ったく!あのパン屋にはもう行かないからね!」
「そうか?オレは気に入ったがな」

蔵馬の腕に抱かれたまま、飛影はガサゴソとパンの紙袋をあさる。
自分の顔とたいして変わらない大きさのクリームパンを取り出し、かぶりつく。

「もう!部屋についてからにしなよ」
「何をカリカリしてるんだ?」
「わかってるくせに」
「…美人だとさ。良かったな。ところで美人ってのは男にも使う褒め言葉なのか?」

普段はからかわれる立場の方ばかりの飛影は、ここぞとばかりに復讐を楽しんでいる。
エレベーターの扉がポーン、という音をたてて開く。

「…飛影、いい加減にしないと…」
「いい加減にしないと、どうする?」
「エッチな事しちゃおうかなー」

食べかけのパンを取り上げ、飛影の唇に付いたクリームを、蔵馬はペロリと舐め取った。

「三ヶ月の間、セックス抜きだって言っただろう!」

顔を赤くした飛影が怒鳴る。

「まあね。セックスは無理だけど。でも触ったり…あそこに指を挿れたりぐらいはできるかなー。この体でも気持ちいいか試してみない?人間なら犯罪だけど君は妖怪だもんね?」
「な、…こ、この変態!!」
「冗談だよ」
「…悪趣味な冗談言うな!」

玄関のドアを開けた途端、飛影はぴょんと飛び降り、リビングの方へ走って行ってしまう。

その小さな後ろ姿を眺めながら、蔵馬はさっきの笑い声を思い出す。

女に間違われるのは面白くないけど…

澄んだかわいい笑い声。
外は真冬だというのに、なぜか五月の日差しや緑を思い出すような、声。

約束の三ヶ月の間に、あの笑い声をもう一度聞けるといいな。

そう思って、蔵馬は微笑んだ。


...End.