Mothers Dayオレはまったく心ここにあらずだったというのに、女は随分と満足そうな声を上げていた。ただそれだけの事で、オレはもう女がうっとうしくなる。 ***
「ねえ、また会ってくれる?」お願いよ、それとも私が行ってもいい? 会ってくれるなら、どこにでも行くわ。 なかなか綺麗な女だったが、その愚にもつかない言葉を消すために、殺してやろうかと一瞬思う。 だが、すぐにそんな考えも消える。 こんな女は殺すほどの価値もない。 うるさくすがる女を蹴り飛ばし、オレはその場を後にした。 ***
別に、どこへ行くあてがある訳でもない。その気になればどこへでも行けるのだ。 立ち枯れた木ばかりの暗く陰鬱な森に横たわり、空を見上げる。 横たわった拍子に胸元から滑り出た石が、視界の端に映る。 氷泪石。 元々高価な宝石だが、氷女が子を産む時に造る石は希少な最高級品だ。しかも、本来なら薄水色であるはずが、この石は薄紅色をしている。 この石を見るとザワザワする。 どうしてお前はここにいるのだと、責められているような気さえする。 …捨ててしまえば、いい。 沼に捨ててもいい。 崖下に投げてもいい。 簡単な事だ。 この森は馴染みの森だった。 どこか適当な場所はないかと視線を巡らすと、見慣れない花があった。 たった一輪だけで咲く、青い薔薇。 肉厚の艶やかな花びらと、深い緑色をした鋭い棘。 辺りの荒んだ風景にはそぐわない、強く鮮やかな、凛とした佇まい。 多分、オレか蔵馬のどちらかが落とした種が、芽吹いたものだろう。 どれくらいの間その花を見つめていただろうか。 オレは花を手折り、石を元通り胸元にしまい、その森を後にした。 ***
この森は、たっぷりの緑に彩られている。魔界らしからぬ、香り立つような瑞々しい風景。それはやわらかく穏やかに、この森の住人を包み込んでいた。 木陰に引っ張り出した長椅子の上で、蔵馬は飛影を後ろから抱きかかえるようにして眠っていた。 普段なら、オレが気配を消していても蔵馬はすぐに気付いて起きるのだが、今日はどうやら目覚める様子はない。まあ、この森には結界が張られているのだから侵入者の心配はしなくていいわけだが。 十夜ほど前から腹の古傷の具合が悪く、苦しそうにしていた飛影を、蔵馬はずっと寝ずに看病していた。 妖怪だって眠らずに過ごすには限度がある。目を覚まさないのも無理はない。 ご苦労なこった。 その甲斐あってか、どうやらだいぶ回復したらしい飛影の顔色は薄く色づいて、蔵馬の腕の中に心地よさそうにおさまっていた。 自分の膝にかけられた毛布に映る木漏れ日。 風が木々を揺らす度にそれが位置を変えるのが不思議でしょうがないらしく、それを捕まえようとするかのように手をゆらゆらさせていた。 …忌々しい。 この愚かで脆弱な生き物の、細く白い首をへし折ってやりたい衝動にかられる。 まるで、オレの思いが聞こえたかのように、飛影がふと、こちらに視線を向けた。 長椅子の傍らに座ったオレを見て、嬉しそうに目を細める。 この空っぽ頭の、不具者が。 馴れ馴れしくオレを見るな。 赤い瞳の視線の先が、オレからオレの手元へと移る。 そこでようやく、花を持っていた事を思い出した。 青い薔薇には多くの棘が生えていた。 もちろん植物を操るオレの手をそれが刺す事はなかったし、そもそもまともな頭があるやつなら棘のない部分を持つだろう。 オレは黙ってその薔薇を飛影に差し出した。 なんの躊躇いもなく、飛影は両手で受け取った。 「…ん!」 鋭く硬い棘に何箇所も手を刺され、飛影は驚いて手を引っ込めた。 みるみる血が流れ出した手を、目を丸くして見つめている。白い毛布にぱたぱたと落ちた雫は、まるで赤い花びらのように見えた。 「ぁ…くら…ま…」 小さく弱々しい呼びかけ。庇護者に助けを求めているのだろう。 だが蔵馬はよほど疲れているのか、目を覚ます気配はない。 「…くらま」 赤い瞳が、オレに真っ直ぐ注がれる。 それは傍らに眠る者に対する呼びかけではなく、オレの事を呼んでいるのだと、オレはようやく気付いた。 小さな手が、オレの銀色の髪を掴む。 その手にはまるっきり力がないのに、オレはなぜだか引き寄せられた。 「…くらま……くら…ま……」 オレの事を、呼んでいる。 唯一話せる、たった一つの言葉で。 血に濡れた手がオレの髪を掴み、頭を抱き寄せる。 小さな手に抱きしめられて、胸にザワリと風が立つ。 まるで、氷泪石を見つめている時のように。 「くらま……」 冗談じゃない。 オレまでこの狂った輪に閉じこめられる気などない。 甘ったるい血の匂い。 飛影の体温。細い腕。薄い胸元。赤い瞳。 「…くらま…」 飛影の体温。細い腕。薄い胸元。赤い瞳。 胸にまたザワリと風が立つ。 オレは大きく溜め息をついて、飛影の手を取った。 まだ血を流している傷口を綺麗に舐めとる。 傷が塞がるまで手を舐めると、地面に落とされた青い薔薇を拾う。 その薔薇に妖気をほんの少し流し、棘だけを落とす。 つるりとした茎を持ち、もう一度飛影に差し出した。 「…お前にやるよ」 飛影は懲りもせず、受け取ろうと両手を差し出し… その両手を、オレは引っ張った。 長椅子から落ちた体はオレの膝の上に毛布ごと着地し、腕の中の宝物を奪われた蔵馬がさすがに目を覚ました。 「っ、おい、何を…」 慌てて飛影を抱き上げようとするその手をオレは振り払い、青い薔薇を握ったままの飛影の顔を上向かせた。 びっくりしたような、それでいて嬉しそうな、その顔。 愚かで脆弱で… ……温かな…生き物。 千五百二十一夜目の今日、オレは初めて母親に口付けた。 ...End |