キス

キスしてもいい?
蔵馬がそう聞いた。

なぜだ?
オレはそう返した。
***
キスというのは唇を合わせることで、セックスというのは性器と穴を繋げることだ。
人間界の言葉ではそういうことになっていると知ったのは、ついこの間のような気がするし、ずいぶん前のような気もする。

蔵馬と二人、魔界でも人間界でもないこの奇妙な空間で今夜は過ごすことになった。
人間界のベッドによく似た寝具もあるし、椅子のような物もある。けれど電気とやらはここにはなくて、ぼんやりと光を発する壁や天井が、部屋全体を淡く照らしている。多分霊界は霊界で、人間界とは違う文明を手に入れているのだろう。

「痛みはどう?」
「人間じゃあるまいし」

脇腹のあたりに燃えるような熱さと痛みがあったが、耐えられないほどではない。
肋骨の間を通った刃が臓物まで傷付けたせいで、このいまいましい霊界に留め置かれるはめになったのだ。

助かった。ゆっくりしていってくれ。
ワシの私室の一つだ。気兼ねはいらん。

ベッドに横たわったまま睨み付けたところで、コエンマはひょうひょうとしていた。
牢から逃げ出した妖怪を捕らえるという厄介事をオレたちに押し付け、首尾は上々。傷が癒えるまでここにいるといいと上機嫌で言って、食い物だの飲み物だのを山ほど用意させて出て行った。

「…オレの方が強いのに」

悔しく、小さく呟いた言葉に蔵馬が顔を上げる。

いつだってそうだ。
絶対に、間違いなく、確実に、オレの方が蔵馬より強い。
なのにいつだって怪我をするのはオレで、のほほんと手当てをするのが蔵馬なのだ。
とはいえ、それが逆になって怪我をした蔵馬を手当てするという技術は、オレにはないのだが。

「年の功だよ」

薬くさい部屋で、オレが横になっているベッドに寄りかかって霊界の本を読んでいた蔵馬が笑う。

年を取るとさ、できるだけ傷を負わずに物事を片付けようと思うんだよね。
この体は半分人間だからやわだしさ。ただそれだけ。

「正面から向き合わない。躱すのが上手くなるんだ」

駄々をこねる子供をあっさり丸め込むような言葉。
暗にお前は子供だから無用な傷を負うと言われたようなものだ。いつだって蔵馬はそうだ。

「痛いんだろう?痛み止めを飲めばゆっくり眠れるのに」
「いらん」

蔵馬の作る痛み止めはよく効く。
けれどオレは、それが嫌いだった。

痛みが治まる薬などない。傷が癒える時まで痛みはそこにあるのだから。
ただ単に、痛みを麻痺させて、わからないようにさせる薬が嫌いなのだ。

それは本物の自分の感覚じゃない。

まがい物は嫌いだ。
まがい物はこの額の目だけで十分だ。

本を閉じた蔵馬が、ベッドにあごを乗せるようにして、オレを覗き込む。

「飛影」
「なんだ?」
「キスしてもいい?」

熱でぼんやりする頭を傾け、蔵馬の碧の瞳を見つめる。
何を言っているんだ、こいつは。

「なぜだ?」
「したいから」

冗談じゃない。
人間じゃあるまいし、とうそぶいてはみたが、脇腹の傷は相当痛いし、熱もある。
なのにこれからオレに覆いかぶさって足を広げて尻の中にねじ込もうと考えているのか、こいつは。

「するわけな…」
「キスだけ、だよ?」

綺麗な目をまるくして、蔵馬は驚いたように言う。

「は?」

驚いたのはこっちだ。
キスだけして何になる?体を繋げてこそ気持ちいいものだろう、あれは。
尻の中で蔵馬を感じるあの快感を思い出し、思わずふるっと頭を振る。

「っつ…ぅ」
「ほら、動かない。傷に響く」

冷たい水で絞った布で、オレの額の汗を拭うと、蔵馬は顔を近づける。

「飛影」

薄くて形のいい唇が、熱を持ったオレの唇に重なる。
ゆるりと押し付けるように動き、舌先が口内にそっと入ってくる。

「……ん」

一瞬離れ、互いに息を吐き出し、角度を変えて、また重ねる。
何度目かのぬるりとした感触に、オレも同じように舌を絡めた。

「ぁ……く、ぁ…ま」
「こら」

いつものように髪に触れたくて腕を持ち上げようとしたオレを、蔵馬が慌てて止める。
蔵馬の薄い唇を光らせているのが自分の唾液だと気付き、ぶわっと頬まで熱くなった。

「お前、何かしただろう?」

脇腹の傷の痛みが、急にやわらいだのだ。
口に何か薬を含ませたのかと眉を吊り上げたオレに、蔵馬は小さく笑う。

「何も。ただ」

ただ、好きだなーって、思って。
その思いを、いっぱい込めたよ。

馬鹿馬鹿しい言い草にオレはぽかんとし、我に返って唇を拭おうとし、その手をまた止められてしまう。
どうしてそんなことを言うんだ。恥ずかしいやつ。本当にこいつは、嫌なやつだ。

「寝る!」
「そうだね。今夜はもう寝よう」

いったいどういう仕組みなのか、部屋の明かりがふいに弱まり、眠るのに相応しいほの暗さで部屋を包む。
ベッドは二つあるというのに、蔵馬は当然のようにオレの隣に横になった。

脈打つ傷とは別の場所で、何かがとくとくと音を立てる。

「…おい」
「ん?」
「……………もう一回…しても、いいぞ」

ためらってためらって、絞り出した言葉。
ほの暗い部屋の中でもわかるくらいはっきりと笑みを浮かべた蔵馬が、ゆっくりとオレにキスを落とした。


...End.