変わりゆくもの

白いドレスの彼女は、くるりと背を向ける。

そう多くはない人垣から、湧き上がる歓声。
彼女は空へ向かって、誇らしく高く両手を挙げる。

白いブーケが、青い空に綺麗に弧を描いた。
***
「素敵なブーケを、ありがとうございました」

大はしゃぎしている輪からそっと離れた彼女が、オレに近付き囁く。

どういたしまして、とオレは笑い、彼女を見つめた。
興奮と喜び、そして少しの寂しさが彩るその顔は、本当に綺麗だった。

「教会の方が、あの綺麗な男の子は弟さんですか、って」

綺麗な男の子という言葉に、弟さんという言葉に、オレは苦笑する。
確かに今や、オレは彼女の弟のように見えるのかもしれない。

以前は子供を相手にするように屈まなければ、こんな風に目を合わせて彼女と話すことはできなかったのに。
今の彼女は、女性にしては長身の部類に入るだろう。

人間で言えば、彼女の年齢は二十代半ばというところだろうか。
美しい少女は美しい女性になり、オレにとっては仲間という言葉では足りない人間と、良く晴れた今日、結ばれた。

人間ではない少女を十年以上も思い続け、そばに居続けた友を、オレは心の底から尊敬している。
生きる時間も場所も違うのだと、氷のように頑なに拒み続けた彼女を、彼はあの熱意でとうとう溶かしてしまったのだから。

「……兄は…やはり来てはくれなかったですね」
「かわいい妹を桑原くんに盗られるなんて、我慢できなかったんだよ」

茶化すようにオレは言い、風が乱したベールを整える。

新郎はもちろん、幽助もコエンマも、誰もかれもが彼が来ることを望んでいた。
彼はあっさりと、そしてはっきりと拒絶した。

この場にたった一人いない彼を想いながら、オレの指先は繊細なレースの上をすべる。

「蔵馬さん」

左耳のすぐ上、ブーケとお揃いの花の髪飾りを外し、彼女はオレに差し出す。

「これを」

静流さんの手によるものであろう、凝ったマニキュアの施された指先。
淡い白、濃い白、オレには何だかわからない、まるで氷のかけらのようにも見える、きらきらした細かな石がちりばめられた、白一色の濃淡で輝く指先。

「…これを兄に、渡していただけますか?」

雪菜ちゃーん!行くよ!
大きな声でぼたんが呼ぶ。その手には先程のブーケトスの結果がある。
この後は幽助のラーメン屋台での宴会という、今日夫婦になった二人らしい時間が用意されているらしい。

小さな教会の小さな式。
大切な人だけに囲まれて、という彼女の希望通り、本当に素晴らしい時間だった。

「…何て言って、渡せばいい?」

オレは彼女の母の姿を、もちろん知りはしない。
けれどわかっていた。

今の彼女はきっと、死んだ母親に生き写しだ。

「……あなたの幸せを、願っていますと」

その素朴な姿が好きなのだと、彼女が選んだマーガレット。

「…二度と会えなくとも、心から……願っていると」

真実の愛という花言葉を持つ花。
白い花びらに、彼女の涙は宝石となって輝いた。
***
ネクタイを緩め、鍵を開ける。
このマンションの玄関には、姿見が元々付いていた。
下駄箱の向かいに取り付けられた、ふちの錆びた鏡が、今日はなんだか物悲しかった。

鏡の中のオレが、手を上げる。
冷たい鏡に触れ、オレは自分をじっと見つめた。

綺麗な男の子。

そうだ、オレは何も変わらない。
十七歳だったあの時のまま、鏡の中のオレがオレを見返す。

会社で噂になっていることはもちろん知っていた。
数少ない学生時代の友人たちもまた、噂していることを。
何より、両親の困惑も、わかっていた。

やばいんじゃないか。

教会に向かう途中。久しぶりの旧友と待ち合わせたのは、古びた雰囲気のいい喫茶店だった。結婚式があるから少ししか時間は取れないと電話で素っ気なく言ったオレに、海藤が指定した店だ。

これまた古ぼけてはいるが清潔なカップ、美味いコーヒーを片手に、海藤は呟いた。

「南野、お前、もう三十過ぎてるんだぞ」

年上の妻と、もうじき幼稚園に入るという娘。
父親になった海藤は、あの頃よりずっと頼れる男に見えた。

「そうだよ。三十二歳だ。同級生なんだからオレの歳くらい、よくわかってるだろ?」
「なんで、そのままでいるんだ?」

よくわからないが、姿を適当に変えるくらい、お前はできるんだろ?
オフクロさんが生きている間はここにいるって決めたなら、見た目も人間に合わせて変えた方がいいぞ。

コーヒーの香り。BGMのない店内に響く、手挽きのミルの音。

もうオレは、海藤のクラスメイトには到底見えないだろう。
弟だとしても、歳が離れ過ぎている。せいぜい伯父と甥というところか。

「わかってるって。お前が心配することじゃない」
「わかっているのに、そうしない理由は?」

腕時計に目を落とす。
もうじき式が始まる。行かなければ。

コーヒーを飲み干し、長いままの髪を背に払い、立ち上がる。
同じように立ち上がった海藤を、振り返った。

「そうしない理由も、お前はわかってるんだろう?」
***
髪飾りにしたマーガレットは花瓶に飾るには小さくて、水を注いだコップに活けた。
どこに置こうかと1DKの部屋を見渡し、小さなテーブルと机で少し迷う。

机、小さなテーブル、安物のパイプベッド。組み立て式の本棚。三十を超えた男の部屋にはとても見えない。
この部屋はまるで中高生の部屋で、野の花のようなマーガレットの置き場に迷うオレは、少年だった。

開けたままの窓から吹き込む風は、春の宵らしい、ふくよかな匂いがした。
そこにふいに混ざった、よく知る匂い。

あたかかな夜の空気を切り裂くように、黒い影はオレの部屋に降り立った。

「いらっしゃい、飛影」

小さな影。小さな足。
靴のまま窓辺に立つ彼は、ちらりとオレの手元を見る。

隠すには遅すぎて、オレはマーガレットのコップを机に置いた。
きっと、隠すことにも意味はない。

彼女の笑みも、彼女の幸福も、彼女の涙も、彼女の寂しさも。
額の目は何もかもを視れるのに、彼は一度も彼女の門出を見なかった。

今日だけではない。
飛影はもう何年も前に、彼女を視ることをやめていた。

彼女のことだけではない。
幽助のことも桑原くんのことも、多分、もう。

ブーケトスの階段で、一際大きな歓声を上げ、桑原くんをからかっていた幽助を思い出す。
バサバサと伸びた髪を後ろでひとつに結んだ幽助は、人間のように老いたわけではない。
ただ、年月と共にどことなく雷禅を思わせる風貌は、隣に並んでいた恋人とはまた違う意味で、十年の歳月を感じさせた。

「花か」

マーガレットにちらりと視線を落とし、たいした興味もなさそうに彼は言う。
特別な花なのに、きっと飛影には道端の雑草も同じだろう。

それ以上何の感想もなく、靴を放って、彼はいつものように座り込もうとする。
どう伝えたらいいのか、帰り道の間中考えていたのに、言葉はぽろりと零れた。

「…雪菜ちゃんの結婚式、今日だったんだよ」

コートを脱ぎかけていた手が、止まる。
床に座ったままオレを見上げる赤い瞳が、一瞬大きく揺れた。

「あの潰れ顔のどこがいいんだ?趣味の悪いやつだ」

妹の結婚が面白くない兄。自分が嫌いな男と結婚したことにふてくされて、結婚式にも出てこない兄。

彼はそう見えるように一生懸命ふるまっている。
そうじゃないことを、オレは痛いほどに分かっている。
多分幽助も、気付いている。だからこそ無理やりに今日の式に連れて行くようなことは彼もオレもしなかったのだ。

飛影は変わっていく者に脅えている。
遠くを視るために付けた目は、飛影からたくさんのものを奪った。

小さな手、小さな足、誰と話す時も見上げるしかない小さな体。
今の飛影は、妹のことさえ見上げるしかない。

出会ったあの時と、飛影は何も変わらない。

成長を止めたのは邪眼かもしれないし、あるいは混血の血がそうさせたのかもしれない。どちらにせよ、小さな子供は小さなまま、大きくなっていく周りの者に囲まれるしかなかった。

変わっていく物事も人々も、彼をおいてけぼりにした。
途方に暮れた子供は、そこから逃げ出した。

「飛影、おいで」

パイプベッドに腰掛け、隣を指す。
いつになく大人しく隣に座った飛影は、大きな赤い瞳でオレを見上げる。

「…セックスしようよ」

短い髪を指先でかき上げ誘うと、飛影は小さく頷いた。
***
もし今、誰かがこの部屋を覗いていたとしたら、そこに見えるのは高校生と小学生のセックスだ。

唇を濡らしてキスをし、互いの舌を絡め合い、ベッドに倒れ込む。
オレは飛影のタンクトップを押し上げ乳首をつまみ、もう片方の手で、勢いよくズボンを脱がせた。

オレの指と変わらないような小さな性器。
陰毛の見当たらない、なめらかな股間。

仰向けに寝かせたまま、大きく足を広げさせる。
ひくひくしている先端から下までをねっとりと指先でなぞり、その先の窄んだピンク色の穴をつついてやる。

「…あ、あ…くら…ま…」

手製のオイルの瓶はいつでもベッドの下に置いてある。
指にたっぷり絡め、穴にずぶずぶと押し込んだ。

「っ、あ!ああ!んあ…!くらま…く、あ」

飛影の乱れた呼吸、オレの指と飛影の穴とが立てる、くちゅくちゅという音。
唇に、頬に、耳に、鎖骨に吸い付き、オレは増やした指で、あたたかな内臓が蠢くのを感じ、小さな性器を擦ってやる。

「飛影……ひえ、い…」
「ああ、あああ…く、ぁま……ああ!!」

指を引っこ抜き、両腕をつかんで体を起こさせる。
向かい合い、膝に抱き上げたその体勢のまま飛影の尻を掴み、一気に押し込んだ。

のけ反る背。
白い喉から上がる嬌声。
赤い瞳は見開かれ、快感にとろけて濡れている。

彼との初めてのセックスを、オレは思い出す。

どこもかしこも小さな体は、内側も小さく狭くできている。
根元まで挿入し、ゆるく突き上げた拍子に、飛影のポーカーフェイスは崩れた。
腹の奥まで突き上げた圧迫感に、異物に体を開かれる痛みと恐怖に、耐え切れなかったのだろう。飛影は苦しげに顔を歪め、嘔吐した。

ごめん。
突き入れたものを慌てて抜き出し謝るオレを、飛影はぎらつく目で睨んだ。

苦痛に乱れた呼吸。汚した口元を拭い、蒼ざめた顔でオレを睨んで言った。

なぜ抜いた?と。
オレは子供じゃない。そのまま続けろと、悔しげに睨んだのだ。

あの目は忘れられない。
小さな体はセックスに恐怖と苦痛を感じ悲鳴を上げていたのに、プライドがそれを許さず、抑え込んだのだ。

高いプライド。
幼く小さな体。

「っあ…あっ…あっ…あ…」
「…飛影……ひえ…い…愛…し……てる…」

今ではもう、飛影の体に負担をかけずに、負担をかけまいと考慮していることを悟らせずに、抱くことができる。
妖怪らしい強い性欲に、オレはいつでも応えて腰を振った。

春の夜に、オレたちは汗だくで交わっている。
声を上げ、息を乱し、床にシーツに汗を撒き散らし、貪り合う。

何度も、何度も、何度も。

くたくたになるまで交わり、飛影の腹の中に種を注ぎ込み、迸る声を飲み込むように、乱暴に口付けた。
繋がったままのオレたちの、呼吸だけが部屋に響く。両足をぶるぶると痙攣させ、飛影はしがみついたままでいた。

「飛影…?だいじょ…」
「…蔵馬」

唇から唇に移すように、飛影がオレの名を呼んだ。

「ひえ…」
「どこにも行くな。蔵馬、お前は」

強く唇を重ねられ、続く言葉はくぐもった。
くぐもっていても、その言葉はわかっていた。

わかっていたのではなく、知っていた。

蔵馬、お前は変わらないでくれ。
変わらないまま、そばにいてくれ。

意地っ張りな子供の、心からの、願い。
オレを信じ切れないからこそ願うしかない、かわいそうな子供。

唇が、離れた。
そのままオレの視線を避けるように首筋に顔を埋めた、飛影の表情はわからない。
視線の先には、白く輝く、特別なマーガレットがある。

「飛影」

骨が鳴るほど、飛影を抱きしめ、耳元に唇を近付ける。

「オレは変わらない。オレはどこにも行かない。だから」

だから、お前はオレのそばにいろ。
オレだけを、見ていろ。

「わかったか?」

飛影は答えず、俯いたままでいる。

「愛してる。……お前を愛してるよ、飛影」

誰が何と言おうと構わない。
お前のためなら、どんなことでもできる。
何にでもなれる。 だから。

春の風が、薄いカーテンを揺らす。
安っぽいコップに活けられた、願いを込めた花が、風にひらりと花びらを落とした。


...End