邂逅

五月の空は夏ほど濃くない青で、たっぷりの木に囲まれたこの場所の風は緑のいい匂いがする。
引きずってきた木の椅子を窓辺に置き、腰かける。
いつもは騒がしいこの学習室も、休日の朝の今は静かなものだ。

静かで居心地がよくて、そしてオレは絶望している。

椅子と揃いの木のテーブルには、誰かが置きっぱなしにしていった抹茶味のクッキーの箱があった。
ひとつつまみ、袋を破って口に放り込む。
土産物にしてはいやに本格的に苦い抹茶の味が、ざらりと舌に残る。

先週の修学旅行の行き先だった京都は、オレにとっては何度か訪れたことのある地で、それでもクラスメイトとまわる何度目かの神社仏閣をそれなりに楽しんではいた。

千本というのは多い数の例えだとかで、実際は数千本はあるという赤い鳥居をくぐり抜け、自由行動だったあの日は山頂を目指していた。
意外に長く次第に険しくなる道のりに根を上げて引き返すやつも多いらしいが、どうということもなかった。オレはこの学校で一番小柄だが、体力はある。

歩きやすいとは言えない道を登りながら、オレはいつものようにすれ違う、あるいは追い越す人間の顔を一人ひとりそれとなく眺めていた。

時折こちらを見下ろすような石でできた狐たちをいくつも通り過ぎ、急な階段に片足をかけた所で、何かに呼ばれた気がした。

振り向いた先は下りる者が通る側の道で、赤い鳥居越しに男と目が合った。

長い髪をゆるく束ね、涼しげなジャケットを羽織った背の高い男。

綺麗な目を大きく見開き、何かを言いかけて口を開け、鳥居の間を抜けるようにしてオレに向かってのばされた左手の薬指には、シンプルな銀色のリング。
隣には色の白い、男とは対照的に背が低く髪の短い女。左手の薬指にはシンプルな銀色のリング。

瞬時に身を翻した。

足の早さには自信がある。人の群れを縫うようにしてこれほどのスピードが出せることに自分でも驚いた。
クラスメイトたちの驚きの声を振り切り、上ってきた参道を駆け下り、全てに別れを告げたのだ。
***
口の中に残る抹茶の味は苦かったが、食堂に飲み物を取りに行く気にもなれずに外をぼんやりと眺める。
寮の朝食は七時で、そろそろ寮生たちが起き出してくるだろう。

抹茶の粉の残る指先をすり合わせ、部屋へ戻る。

机にベッドに本棚というシンプルな部屋にそぐわない、大きな嘴を持つ鳥のようでもあり、目玉のあるナッツのようでもある陽気なぬいぐるみを枕にし、寝転んだ。

何を見ているの?
何を探しているの?

子供の頃から、両親に友人に教師にと質問され続けてきた。

何も探していない。
そう答え続けた。

それは偽りの答えで、本当はこう答えるべきだった。

わからない、と。

出かけたがりで旅行が大好きで、その割には観光地そのものではなくそこに集まる人ばかりをきょろきょろと眺めるオレを、両親は不思議がりはしたものの否定はせず、あちこちへと連れ出してくれた。

「くらま」

数十年ぶりなのか数百年ぶりなのかわからないその名前を口にした瞬間、目の前の景色が歪み、あたたかい水がこぼれ出し、ぱたぱたとぬいぐるみに落ちる。

認めるのは癪だが、今のオレはあの頃よりもずっと弱い生き物だ。

誰を探しているの?

唯一オレにそう尋ねた祖母は、もうこの世の人ではない。
きょろきょろと人の顔ばかり見ているオレをキョロちゃんと呼び、同じ名前を持つこのおかしなぬいぐるみをくれた祖母は、もういない。

わからない。

そう答えたオレに祖母は、そうか、と頷いた。
キョロちゃんの探し物、見つかるといいね。あたしも祈ってるよ、と。

赤い鳥居が並ぶ境内、急な山道、千年の時を経た場所だけが放つあの香り。

見開かれた目。
オレを見つめたあの目。

ずっとずっとわからなかったことが、探していたものが、あの真っ赤な鳥居の下で全部わかった。

オレが全てを理解したあの瞬間、蔵馬もまた全てを理解したことはわかっている。
そして隣に並ぶ女と、二人の左手の薬指に鈍く輝いていた揃いの輪の意味も、わかっていた。

ドンドン、と部屋のドアがノックされ、おーい、飯行こうぜー、という隣の部屋のクラスメイトののん気な声。
声が震えないよう深呼吸をし、今行くといつものように答え、濡れた顔を大きな嘴でぬぐった。

先に顔を洗い、濡れたタオルを首にかけたまま食堂へ行く。
食堂の大きな窓からはあふれるような緑と、古びた門と…

門の向こうを通りすぎる、長い髪の男。

おい、とか、どうした、とか言う声をどこか遠くに聞きながら、オレは走り出す。
タオルはどこかへ飛んでいき、大抵の寮生が履いているのと同じサンダルが脱げたが、構わず裸足で走った。

この学校は子供を閉じこめるためにあるのかと疑うような山奥にあり、このあたりでは道路に飛び出した所で車にはねられる恐れもない。
文字通り飛び出したオレに、門の外側に寄りかかるようにして立っていた男が笑った。

「飛影」

飛影。
その名を呼ばれた瞬間、何もかもが粉々になった。
人間として生まれ変わったこの生も、何かを探して、何を探しているかもわからずにいた日々も。

「………蔵馬」

思い出した。
見つけた。
見つけることができた。

でも。

「…お前も、思い出したのか?」
「あの時にね」

あんな風に逃げ出したって、お前は制服を着ていたし、まわりの子に聞けばどこの学校かなんてすぐにわかるのに。

蔵馬はまた笑い、今日はあの頃のようにおろしている髪をかき上げた。

探して、探して探して、見つけた。
何もかもを思い出した。
なのに、何を話せばいいのかもわからない。

「…会えて、よかった」

そんな風に言ってみる。
会えてよかったのかどうかさえ、わからないままに。

「休みの朝だってのに何をしているんだ?家族の元に帰れ」
「家族は、いないよ」

驚いて顔を上げると、蔵馬は大きく両手を広げ、オレをじっと見つめている。
大きく広げられた両手。左手の薬指には、銀色の輪は見当たらず、かつて指輪をしていた跡だけがある。

「あの、女は…」
「別れた」

思わず後ずさると、道路に落ちていたらしい小石が足の裏に食い込んだ。

「別れたって…」
「別れた。あの人は今はもう元妻ってやつだ」
「オレは!そんなつもりじゃ…」

そうだ。
蔵馬もまた人間に生まれ変わって幸せに暮らしているのなら、それを邪魔する気はない。
だからあの場から逃げ出したのだし、もう二度と会うこともないと思っていた。

蔵馬も雪菜もいない世界、氷菜には似ても似つかないが優しい母親と気のいい父親のいるこの世界で、ひとりできちんと生きていくつもりだった。

上げていた両手をゆっくりと下ろし、蔵馬はオレを見つめている。
その唇には、もう笑みはない。

「…オレは全てを捨ててもいいし、お前の今の人生の全てを壊してでも、お前を手に入れるつもりだけど?」

背筋に、痺れるような感覚が走った。
ひどく懐かしい、その熱さに足が震えた。

「お前、いくつなんだ?」
「三十二。お前が高校二年生ってことは、十五歳年上ってことになるな」

男同士で、歳は十五も離れていて。オレはまだ学生で、人間の両親もいる。人のいい、優しい、真っ当な人間の両親が。
だいたい、こいつは今どこに住んで何をしているのだろう。

「オレとお前が昔のように一緒にいるには、ずいぶんと困難が多いんじゃないか?」

できるだけ軽く、茶化すように言ってみる。
蔵馬の目の光は、少しも変わらない。

食堂の開けられた窓からのざわめきが、かすかに聞こえる。
人気のない道に風が吹き、緑の匂いを運んでくる。

「蔵馬」

緑の風が色を与えるのか、あの頃と同じ、緑色をおびた目が真っ直ぐオレを見る。

「………またオレを、愛せるのか?」

ゆるい風にさえかき消されそうな声で、必死でしぼり出したその問いに。

「もう、愛している」

そう返して広げられた腕の中に、裸足のままオレは飛び込んだ。


...End.