ある方の「生まれ変わって前世の記憶が薄らあるひえが「くらま」という人物を思い出すために何枚も何枚も何枚も絵を描くんだけど描いても描いても自分の納得のいく「くらま」が描けなくて画家としてはめちゃくちゃ評価されてるけど一生1人で「くらま」の絵を描き続ける」というツイートに萌えあがって書いたお話。


K

紙の上を鉛筆がすべる音が、微かに聞こえる潮騒を消してしまう。

漆喰の壁は所々剥がれてはいるが、それでもまだ充分に白い。
壁も床も天井も、家具さえも白いこの家で、黒い服しか身に着けない彼はひどく目立つようでもあり、不思議と溶け込んでいるようでもある。

イーゼルもカンバスも使わない。
ただの厚手の画用紙をテーブルに、あるいは床に置き、どこにでも売っている鉛筆で彼は描く。

「こんにちは」

私はいきなり人の住まいに踏み込むような礼儀のない人間ではない。ドアベルを鳴らし、ノックもした。
きちんと手順を踏んでこの部屋に来たが、彼はいつものように何度か声をかけられてからようやく振り向く。

今日は床だ。
クッションもない床にあぐらをかき、大きな画用紙を置き、鉛筆を握っている。
黒い服とは対照的に肌が白いのは、外に出ることが滅多にないせいだけではなく、元々色が白いのだろう。素足のつま先が寒そうに見えた。

ちらりとこちらを見ると、何事もなかったかのように彼は絵に戻る。

海に面した大きな窓があるこの部屋はとても広く、キッチンも、テーブルも、ベッドも、何もかもを置いてもまだたっぷりの広さがあった。
テーブルにはパンの入った紙袋とりんご、空のままの皿とグラスがある。

「朝食は、まだなのかい?」
「ああ」

壁に立て掛けるように置いてある白い時計は十一時を指している。
彼は届けられた朝食を食べてはいないし、私がこのまま帰れば昼食も食べることはないだろう。
拒食症でもなんでもない、ただ、食べることを忘れているだけだ。

鉛筆がまた、小気味よい音を立てて紙の上をすべる。

彼は極端に、口数が少ない。
そのせいばかりでもないだろうが、幼い頃は精神科の病院にあちこち連れて行かれたらしい。だがごく普通、というより、並み以上の知能指数はあるし、何か精神の病にかかっているわけでもない。

とはいえ、幼い子供が外で遊ぶでもおもちゃやゲームに興味を示すでもなく、ただひたすらに絵を描き続けていたら、大抵の親は不安になるだろうし、持て余すのも無理はない。

お茶を淹れようと、私はキッチンに立つ。
やかんを火にかけ、湯が沸くまでに、あちこちに散らばるくしゃくしゃの紙を拾い集め、できるだけ伸ばし、専用のケースに片付ける。

くしゃくしゃにしたり破いたりしなければ、売れば数十万から時には数百万を超えるのだが、彼は全く頓着しない。
描いている最中はあれほど没頭しているのに、描き終えたものには興味がないらしい。描き終えると、大抵の場合はくしゃくしゃに丸めてそこらに放り出してある。

「お茶を淹れたよ。一緒に食べよう」

紙袋の中身、今朝は焼き立てだったであろうパンを皿に並べる。
蝋引きの小さな紙箱に入った、ぬるくなったサラダも皿に盛る。

声をかけてはみたが、急かすことはしない。描き終えれば彼はテーブルにつく。
もう三年近い付き合いだ。そして私は年寄りだ。今さら急ぐことなど何もない。

私が一杯目のお茶を飲み干し、二杯目のための湯が沸いた頃にようやく彼は鉛筆を置き、こちらを振り向いた。

「どうぞ。熱いうちに」

淹れ直したお茶のカップを、彼は素直に手に取る。
床にひらりと置いたままの絵を見下ろし、ゆっくりとひとくち飲んだ。
彼の前にパンの皿を押し、私も絵を眺める。

乾いた白い木の床に、白い画用紙。
黒い鉛筆で描かれた男…というには若い、少年というべきか…は、今日は後ろを向いており、どんな表情をしているのかわからない。

「今日は、後ろ姿なんだね」

そうだな、と彼は素っ気なく返し、私が剥いたりんごを一切れ、口にする。
小さな口がりんごを咀嚼する、小さな音。

K、と名付けられたこのシリーズを、彼が描き始めたのは一歳を過ぎたばかりの頃だというのだから恐ろしい。
子供というものは、大抵一歳、二歳にもなれば絵を描き始める。もっとも、それは意味をなさない線や円で、単純に紙に色や線が現れるのが楽しくて手を動かすにすぎないものだ。

彼のその頃の絵が残っていないのは、ほとほと悔やまれる。
幼子の手が生み出した稚拙な絵とはいえ、明らかにそれは人物を描いたもので、その人物はいつも同じ人物だった、最初はなんて上手に絵を描くのかと驚いたが、自分でも夫でもない、見知らぬ人物を描き続ける子供がそのうちに気味が悪くなったと、母親は俯いたまま言った。

強い女性ではなかったが、悪人でもなかった。
不幸な形で終わった結婚生活の後もしばらくは、一人で子供を育ててはいたらしい。

未成年の子供が稼ぎ出す金は、ある意味では親の物でもある。けれど彼女は金は受け取らず、成人したら本人に渡してやってくれと言い残し、姿を消した。

子供を捨てる酷い親だと罵る者もあるだろうが、自分を愛してくれない、もっと言うなら興味すら持ってくれない相手を、例え血を分けた子供だとしても愛せるだろうか?ずっと愛し続けることは可能だろうか?

私にはそれは、不可能なことに思えた。

絵の中の少年は、長い髪をしている。
癖のある髪で、たいていは無造作に下ろしているが、まれに髪を結っている姿もある。

三年近くもの間見てきたというのにいまだに、奇妙な絵だ、と思う。
奇妙で、そしてどうにも抗い難い魅力がある。

Kのシリーズに、こちらを見ている絵はない。
横顔や後ろ姿、ごくまれにこちらを向いていても、絵を見る者と焦点が合うことはない。
ただ立っていたり、座っていたり、時には眠っている。

彼が描き終えた途端にくしゃくしゃに丸めて捨てる絵を拾い、丁寧にのばし、私は自分の画廊で売る。売り上げの三割が私の儲けで、七割は彼のものだ。
これは随分と彼に有利な契約ではあるが、構わなかった。画商としては、私はずいぶん成功している。彼との取引は、仕事というよりは個人的な好奇心なのだから。

連作で売ることもあれば、一枚で売ることもある。彼の絵は派手ではないが、根強い人気があった。同じモチーフだけを描き続けているというのに、熱心なファンはいくらでも現れた。
成人したあと一生働かなくとも暮らせるくらい、すでに彼は金持ちでもある。

好き嫌いの激しい、絵でもある。
ひと目見て、この絵を売ってくれとまくし立てる者もいれば、この絵は嫌いだ、と吐き捨てるように言い目を背ける者もいる。

それは絵の力だ。
上手くなるのは技術だ。しかし絵の力は、月並みな言葉ではあるが、才能だ。

彼に幼稚園の子供が使うような十色のクレヨンを与えてみたこともあったが、所詮、道具は道具でしかない。
使う者が道具に命を与えるのだという認識を、再確認するだけに過ぎなかった。

人々の足を止める、心を掴む、心を引き裂く絵。
何をしても欲しいと、身の毛もよだつほど嫌いだと、一目でそう思わせる力。

時には、大嫌いなのに欲しい、と矛盾することを言う客もいたが、その気持ちもわからなくはない。

大きな窓、そう広くはない庭を挟んで、海が広がる。
彼の目は時折窓の外を見ているが、海を見ているわけではない。

海辺に住みたがる芸術家は多い。山奥に住みたがる者も同じくらい多いが。
海の手前、海と窓との間には荒れた庭があり、彼がここに住みたがった理由はこの庭だったらしい。
西洋かぶれなこの建物は、庭に洒落た柵があり、錆びた柵にはほとんど枯れているような植物が巻き付いていた。

薔薇だ。

彼がそう言ったあの時、私は驚いた。
およそ植物に明るい方だとは思えなかったし、海を目当てにこの家に住みたいと言い出したのだと私は思っていたのだ。
薔薇は咲いていてこそ薔薇であって、枯れ果てたようなつるや茎を見て、たいていの人間は薔薇だとわかるまい。

朽ちた庭を気に入るなど、芸術家はわからない。
気に入ったわりには手入れも水やりも彼はせず、潮をふくんだ風に、庭はますます荒れていくように見えた。

***
今日はめずらしく、くしゃくしゃに丸めることなく絵はそこにあった。

すっと通った鼻筋、薄く形のいい唇、風がなぶる黒髪。
切れ長の綺麗な目は、どこか遠くを見ている。

今日のKは横顔で、ぞっとするほど美しい。

ベッドの壁際、小さくちいさく丸まって眠る彼に声をかけたが、返事はない。
白い毛布を体に巻き付けるようにして、胎児のように丸くなって。枕は使わない。
それが眠る時の彼のいつものスタイルだ。大きなベッドは三分の一も使っていない。

ガスにかけたやかんから、湯の沸く音がする。
微かな潮騒と、湯の沸く音。ただそれだけの空間に、小さく声がした。

「………くらま」

私は驚いて、顔を上げた。

毛布を肩からかけたままベッドから半分起き上がり、床にひらりと落ちた絵を見つめるその目。
自らが生み出した、横顔の少年に向かって呼びかけるその声。

くらま。
くらま、ならば頭文字はKだ。

心をゆさぶる、ノックする。
それがKシリーズの個展のお決まりのコピーだ。誰が名付けたのかは知らないが、その意味で「Knock」の頭文字から付けたKだと私は思っていたが、もしかしたら違うのかもしれない。
なにせKシリーズは私と彼が出会うずっと前から始まっていたのだから。

「それは…」

彼は無言で、絵を見つめている。
身を乗り出し、のばした指先で絵をなぞる。黒鉛が白い指先を黒く染める。

「それは、その人の名前なのかい?」

答えはない。というより、多分彼の耳に私の声は届いてはいない。
指先がなぞる線は滲み、黒い靄になる。

「………せめて、こっちを見ろ…ふざけやがって…」

自分で描いた絵なのにおかしなことを言う、と笑うことなどできない。

その声には、ぞっとするようなさびしさがあった。
悲しみを通り越した、空虚なさびしさ。それは長く生きた者だけが知るさびしさだ。
そんなさびしさを、年端も行かない子供が、どうして知っているのだろう。

ふいに、電気も水もガスも通るこの家が、廃虚のように感じられた。

朽ちた庭、枯れた薔薇。
海辺の潮に風化する死んだ家。

白い頬、白い指先。

人間はさびしいと、どんどん白く小さくなる。
それは何十年も前に死んだ祖母の言葉で、どうして今、そんなことを思い出したのだろう。

いつものように食事を用意し、相伴はせず家を出た。

玄関から庭の入口まで、朽ちた庭を歩く。
薔薇は今日も枯れ果て、潮風にかさかさと乾いている。

海辺に薔薇など、咲くのだろうか。

私もまた植物に明るいわけではない。それでも潮風の吹く場所に向く植物がそうそうあるとは思えなかったし、野薔薇という言葉があるくらいなのだから、薔薇は野山が自生地なのではないだろうか。

叫び声と、何かが割れる音。

私は振り返り、慌てて家へと戻る。
強盗でも入ったのかと、よくよく考えればそんなはずもないのに私は動顛し、戻った部屋には割れた皿やグラス、散らばった食事があった。

さっきまで彼が見つめていた絵は、紅茶とティーカップの破片で見る影もない。
散らかった部屋、窓のすぐ前の床に彼は座り込み、また新しい紙を置いていた。

「せっかくの、絵が」
「それはくらまじゃない!」

ぴしゃりと、彼は言う。

「そんなものじゃない!それはただの……」

彼が笑うのも、泣くのも、私は見たことがない。
今この瞬間も、彼の唇は硬く結ばれ、頬は乾いている。

「……ただの、絵だ」

泣いてくれればいい。そう思った。
彼が私の前で泣いてくれたら、この絵の中の男に泣くことさえも捧げているのじゃないか、などという馬鹿げた考えをしなくてすむのに。

大きく息を吐き出すと、何事もなかったかのように、彼は絵を描き始めた。
***
車の中には、いい匂いが満ちていた。

知り合いのレストランで作ってもらったビーフシチューとグラタン、それに焼き立てのパイとデザートもある。
あたたかい食事を届けさせてもそのまま放っておく彼に、今日は私がきちんとした食事をとらせようと思ったのだ。

車を停め、ドアを開ける。
あたたかな料理の匂いと混ざる、その香り。

ふいに誰かに押されるように、私は家を見上げた。

香水か。
いや、違う。

この香り、これは。
料理の匂いも、車の暖房の独特のにおいも、一瞬で私の前から消し飛んだ。

老いた足をもつれさせ、私は家へと走る。
錆びた門扉を開け、よろめいた。

薔薇だ。
薔薇が、咲いている。

頭のどこかでは、そんな馬鹿なことがあるかと叱る声がする。
昨日まで蕾すらなかったというのに、薔薇が咲くはずがない。あるいは、今まで見落としていただけで、ずいぶん前から薔薇は蘇っていたのだ。注意散漫な老いぼれめ。

確かに私は注意散漫な老いぼれかもしれない。
だが、真っ赤な薔薇が咲きかけていることにも気付かず庭を通るほどには老いてもいない。
彼の名を呼び、ドアベルもノックもなく私は部屋に飛び込んだ。

彼は、眠っていた。
眠っているように、見えた。

小さな体には大きすぎるベッドに、仰向けに真っ直ぐ横たわっている。
まるで誰かが掛けたかのように、腹のあたりまで白い毛布がかけられ、胸のすぐ下で彼の白い指が組まれている。

彼は泣いていた。
彼は笑っていた。

目じりからこぼれた涙は耳を伝い、シーツにまるい染みを落としている。
薄い唇は、まぎれもない笑みの形をしていて。

唇に笑みを浮かべ、彼は冷たくなっていた。

のびやかに横たわり、組まれた指先。
白い指の間には。

一輪の、薔薇が。
血のように赤い薔薇が。

よろめいて、後ずさる。
後ずさった背に何かがぶつかり、思わず声を上げ、振り向いた。

全身に鳥肌が立った。

絵の中の男が、こちらを向いていた。
Kは真っ直ぐにこちらを見つめ、その唇は薄く開いて笑みを浮かべている。

それは自分のものだとでも言うように。
迎えに来たとでも言うように。

部屋の隅で埃をかぶっていたはずのイーゼルに立て掛けられた、その絵。
彼が一度も描くことができなかった、完全なK。

息をすることをようやく思い出した瞬間、開いたままの窓から強く風が吹き、噎せるような香りが立つ。
潮の匂いはまったくしない、すさまじい薔薇の香りと強い風に涙が滲む。

目を閉じてはいけない。
目を閉じたら、きっとこの絵も薔薇も、そして彼も消えてしまう。

魂をKに奪われた、冷たい亡骸だけを残して。

わかっていた。これは老いぼれのささやかな抵抗だと。
彼はもう、誰の手も届かない場所にいるのだと、本当はわかっていた。

刺すような風に私はきつく目を閉じ、彼に別れを告げた。


...End.