糸...5机の上に真っ直ぐに、きりりと一輪、置かれた白い菊。みずみずしく、すぱりと切れた切り口も鮮やかだ。 人差し指と親指で摘み、窓から差し込む光にかざす。 花も大きく、茎も色濃い。立派な菊だ。 憎しみを込めて置かれたものだろうに、健気に香っている。 無言のままのクラスメイトたちが俺を見ていることは、もちろんわかっている。 肩をすくめ、菊の花を持ったまま廊下へ出た。 これほどみずみずしい花をそのまま捨てるのは気が引けた。 生物部の部室へ行き、ロッカーの上で埃をかぶっていたフラスコに水を入れ花瓶代わりにし、窓辺に置く。 白い菊。 フラスコを置くオレの手。 その左手、小指の根元には、今日も赤い糸がゆらゆらと揺れている。 ***
「考えておきます」笑顔でそう答えた俺に、担任は頷く。 進学先にと勧めてきた大学はどこもいわゆる名門で、行けばそれなりに役に立つこともあるのだろうけど。 大学に進学するつもりはさらさらなかった。高校を卒業したら、旅に出ると決めていた。 日本中を旅するのだ。それでもだめなら、世界中を。 この赤い糸の、繋がる先を探して。 俺が暮らすこの街はそれなりに都会で、人も多い。 この街だけではない。暇さえあればあちこちへと出かけてみたが、学生の身分では時間が足らなすぎる。 金の問題は、早々に解決している。 半分は趣味でいくつか作ったアプリは、数年間海外を旅してまわったとしても問題ないくらいの金は稼ぎ出してくれていた。 担任の呼び出しから教室に戻った俺に、声をかけてくるような友人もいない。 しょっちゅう相手を変えては、一日と持たずに別れる俺は「一日彼氏」とあだ名され、一部の女子生徒とほとんどの男子生徒から嫌われている。 自分の席に戻り、我ながら盛大なため息をつき、窓の外を眺める。 死を願う仏花を机の上に置くという嫌がらせをされたのは初めてではないし、相手からしてみれば無理のないことなのかもしれない。 自分で声をかけて相手をその気にさせておいて、あっという間にもう用はないと振ってしまう。憎まれても当然だろう。 とはいえ、人の心を慮ることのできない人でなしだと言われようが、知ったことではない。 それどころじゃない。 物心ついた時から探していた相手を見つけられないまま、もう十七歳になってしまった。 なりふり構ってなんかいられるわけがない。 俺にとって一年で一番憂鬱な日は、自分の誕生日だ。 また一年が過ぎてしまったと、暗澹たる気持ちになる。 どこにいる? どんな姿をしている? 今、何をしているんだ? 苛立ちに変わりそうな憂鬱を、何度目かのため息で押し流す。 指先で触れた糸は、相変わらず細くなめらかだ。 指の根元から十センチくらいの所で、まるで空気中に溶けるかのように消えている。 …この指を切り落としたら、どうなるのだろう。 子供の頃から今に至るまで幾度も考えたことを、また考えてみる。 何度考えてみても指を切り落とすという決断にはならないのは、断面になってしまった指から糸がのびている、あるいは、糸は何事もなかったかのように隣の指へ移ってしまう、という可能性を考えたせいもあるが。 なによりも、どうしても。 この糸が繋がる先を知りたい。 この糸が繋ぐ相手に会いたい。 結局はそこに行き着くのだ。 ***
教室内のざわめきと、廊下から聞こえる声に顔を上げる。定期テストの順位の貼り出しだ。 以前は毎回、俺も見に行っていた。 順位が気になるからではない。自分を周りに印象付けるためだ。 勉強もスポーツもそつ無くこなし、自分で言うのもなんだが、整った容姿をしている。流行りではない長い髪が目立つこともわかっていた。 目立ちたかったのだ。 なぜって、目立てば見つけてもらえるかもしれないから。 俺が赤い糸の繋がる先を探しているように、相手も俺を探してくれているかもしれない。 その場合、ひっそり目立たぬ男であるより、大いに目立つ男である方がいいだろうと。 とはいえ、この学校ではもうあまり意味がない。共学とはいえ男女比の差の激しいこの学校の女子生徒はだいたい把握済みだ。 そもそも、順位なんてどうでもいいことだったのだし。 成績さえキープしていればサボりにうるさい学校ではない。今日はもう、帰ってしまおうか。 鞄を手に、立ち上がった瞬間。 「…いっ」 思わず声が出た。 赤い糸が、小指をきつく締め上げている。 なんだ? 左手を押さえてみたが、糸はきつく締まったままだ。 むしろどんどん締めつけはきつくなり、指は赤紫色を帯び始めている。 「な…」 なんだ? いったいどうなっている? 指の切断について指の持ち主が検討するどころか、この糸に強制的に決められるなどということがあるだろうか? ゆらりと糸が舞い、廊下を指す。 痛む左手を押さえるようにして後を追った俺の目に、飛び込んできたのは。 男の子、だ。 もしこの場に傍観者がいたのなら、男の子という表現はおかしいと指摘しただろう。 同じ高校に通っているのなら、年の差なんてせいぜい一つか二つなのだから。 男の子、と考えたのは、彼があまりに小さかったからだ。 制服を着ていなかったら、小学生にしか見えない。周りのやつらとも、もちろん俺が今着ている制服とも同じものを着ているのに、全く違う服にさえ見えるくらいに。 見覚えがない、ということは高等部からの編入生だ。 これほど小柄ならばそれはもう特徴だ。会ったことがあれば覚えていたはずだ。 短い黒髪は整えた様子もなく四方八方を向いている。白い肌に大きな目と小さな口。 意志の強そうな顔立ちなのになぜか揺らいで見えるのは、どうやら見上げている順位表のせいらしい。 不安そうな顔で、張り出された順位表から自分の名前を探している。 縦書きに並ぶ名前を右側から確認するのではなく、左側から確認する姿は、自信のなさを表している。 この子が? この糸が繋がる先なのか? 小さな口が、ほうっと小さく息を吐く。 どうやら、許容できる順位だったらしい。 「…っ!」 悲鳴を上げなかったことを褒めてもらいたいぐらいだ。糸が食い込む小指は、冗談抜きに恐ろしい紫色になっている。 いつだってふわりふわりと人をからかうように舞っていたはずの糸が、まるで直線のように、ピンと真っ直ぐ彼を指した。 食い入るようにその横顔を見つめても、彼は振り向く気配もない。 赤い糸は真っ直ぐに彼を指したまま、ふいに根元をゆるめた。 彼の視線は俺に向けられることもなく、声をかけてきたクラスメイトへ移ってしまう。 チャイムの音はどこか遠くに聞こえ、気付けば廊下に突っ立っているのは俺だけだ。 順位表を見上げ、彼の名を探す。中高一貫校のこの学校で、見慣れない生徒の名ならわかるはずだ。 ほっとした顔をしたのは確かこのへんだ、と検討をつけた場所、二十八位に彼の名はあった。 「…ひえい。……飛影」 名字もめずらしいが、名前もめずらしい。 子供の名前に「影」という文字を使うとは、変わった親なのだろう。 けれどその名は、美しい名字とともに彼にふさわしい完璧な名に思えた。 「飛影」 舌の上で転がすように、もう一度その名を呟いた。 ***
保護者の名前、家族の名前、住所に電話番号。教師というのは大抵がアナログ人間で、パスワードを手帳にメモし、その手帳を教室に平気で忘れて行くような連中だ。 そして俺は、何かに役立つこともあるだろうと、それを控えておくような人間だ。 おかげで難なく学校のデータサーバーに入ることはできた。失敬してきたデータからたどり着いた彼の家は、俺の家からバスで十五分ほどとそう遠くない。 古くからある商店街に残る、小さな一軒家もぽつぽつと並ぶ通り。 小さな商店と小さな住宅とがくっつくようにして立ち並ぶ通りは、どこか懐かしい匂いがする。 祖母の姉妹、という謎の保護者と彼が二人で暮らす家は、この通りのほとんどの家と同じように、小さくて古い。 戦前を描いた小説に出てくる、三番手の妾の家のようだ。見方によってはレトロでアンティークと言えなくもないが。 さてと。 思わず家の前まで来たはいいが、どうしたものか。 玄関で呼び鈴を鳴らし、実は俺の小指には赤い糸があって、もしかしたら君に繋がっているのかもしれない。君が俺の運命の人か確かめさせてくれないか、具体的にはキスがしたい、と言う。 速攻で玄関の扉を閉められそうな話だ。 先祖の霊を慰める壺とか、神のエネルギーが宿る水。そんな物を売りつけに来るようなやつと大差ない。下手したら警察沙汰だ。 二車線の狭い道路を挟んで彼の家の斜向かい、そこは揚げ物がメインの総菜屋で、どうやら人気はコロッケらしく飛ぶように売れている。 腕時計を見れば、六時を過ぎたところだ。夕飯時に押しかけて保護者のお婆さんにいきなり嫌われるというのも避けたい。今日はこのまま帰って、作戦を練り直すべきなのだろう。 わかっているのに、コロッケの匂い漂う歩道で未練たらしく彼の家の玄関を見つめていたのは、糸のせいだ。 あんなにはっきりと、まるで赤い針のようにピンと誰かを指したのは初めてだったし、初めてというなら、男を指したのも初めてだ。 彼が?俺の? 運命の相手が、赤い糸の繋がる相手が、女ではなく男? 信じられない。 まるで俺の視線に耐えかねたかのように、磨りガラスの引き戸が開いた。 黒いパーカーにジーンズという姿になった彼が、靴を履きながら出てきた。 パーカーもジーンズもぶかぶかで、彼には大きすぎる。玄関に鍵をかけているということは、どこかへ出かけるらしい。 生まれた時から赤い糸に繋がれているような生活だ。人の尾行をするのも初めてではない。 目立つ見た目をしているというのは、尾行にはマイナスだということもわかっている。 見失わない、かといって気付かれることもないよう、彼を追う。 目的地は決まっているらしい。小柄なのに、足は早い。 サイズの合っていない服の中で、しなやかなに動く体。 時折見せる横顔は、白くて綺麗だ。 白くて、綺麗? 信じられない。 信じられないのは、彼をもう好きになり始めている自分自身だった。 ***
様々な色をした、光の洪水。床に振動さえ伝わるような大音量の音楽に、客はみな楽しそうに体を揺らしている。 未成年はお断りとはいえ、高校生ならこの手の場所に潜り込めなくはないだろう。とはいえ、それは普通の高校生の場合だ。 知り合いでもいて顔パスで入れるとしたって、小学生みたいに小さくてあんなに幼い顔をしていては、いくらなんでも無理だろう。 ということは、アルバイト。それ以外の可能性はなさそうだ。 そう判断をし、いかにも常連という風情の女に声をかけて潜り込んだこの場所は、人を探すのは不可能に思えるような人の多さだ。 スタッフらしき人間はみな二十代に見える。彼のような高校生は見当たらない。 予想通り常連らしき女はあちこちから声をかけられ、誰にでも愛想よく笑っている。 好きなの飲んでいいよ、と言われたところで酒を飲む習慣はなく、水色やピンク色ではないという理由で無難そうなジンライムを頼んだ。 チケットとやらがなくてもすんなりと酒が出てきたところを見ると、あの女は本当にここでは顔が利くのだろう。 失敗したような気がする。 中に入るのではなく、外で待ち伏せした方が確実だったかもしれない。表の入り口も細い路地に面している裏口も、位置的には同時に見張ることもできなくはなさそうだったのに。 外で見張ろう。あるいは、家の前で…。 耳というよりは脳に響くと言った方がいいレベルの大音響が、ふいに止む。 様々な色の光だけが、俺の目の前を無音で横切っては消えていく。 「あれ?」 我ながら、間の抜けた声が出た。 チーズの焦げた、香ばしい匂い。いかにも冷凍のピザの皿をカウンターに置いたのは、追っていた当の本人だ。 左手の小指に、痛みを感じる。 見て確認しなくてもわかる。糸がまた小指を締めつけている。 邪魔なピザの皿を押しのけ、手をのばす。 彼の左手を、俺の左手でぎゅっと握る。 「うちの一年生、だよね?」 わかりきっていることを、白々しく聞く。 俺を見上げる彼の目は、どう見ても好意的とは言いかねる。いまいましいと言わんばかりの、睨むような視線だ。 「名前は?」 もうすでに知っている名を、尋ねた。 彼の口から彼の声で、その名を聞きたかった。 「名前は?顔はわかるんだけどな。いつも順位表の所で不安な顔してる一年生でしょ?」 無言でこちらを睨む彼に焦れて、そんな風に言ってみる。いつもも何も見かけたのは今日が初めてだったのだが、図星だったらしい。 掴んでいた手を、力いっぱい振り払われた。 まるで全力疾走の後のように、心臓が跳ねている。 落ち着け、と自分に言い聞かせ、ジンライムの冷たいグラスに触れる。濡れたままの指先で、もう一度彼の手を取った。 「…おい、離せ」 「キスして。してくれたら離す」 目を丸くした彼がまたもや手を振り払い、はあ?と間の抜けた声を出したのと、叩き付けるような音楽が戻ってきたのは同時だった。 あたりを見渡せば、客は変わらずに狂ったように踊り続けている。遥か遠くに見えるDJやフロアに出ているバイトも何も様子に変わりはない。音が聞こえなくなったのは、気のせいになのだろう。 「キスして」 「ふざけるな。なんで俺がお前に!」 なるほど。どうやらこの糸は彼には見えてはいないらしい。 この音の中では、互いの声もろくに聞こえない。カウンターに身を乗り出し、彼の耳元に口を寄せる。 「こんなところでバイトしてるのバレたら、困るんじゃないか?」 「それはお前も一緒だろう。バレればお互い退学だ」 これでこの話は終わりだと、一歩下がる彼を見つめたまま、ジンライムのグラスを取る。 ゆっくりひとくち飲み、彼に笑いかけた。 「そうだな。バレれば退学だ。ところで、俺は退学になっても困らないんだけど、そっちは?」 俺の言葉を受け止め、飲み込み、面食らい、考え込む。 ゆっくり数えた十秒後に、彼はカウンターに両手をつき、背伸びして身を乗り出し、俺に唇を重ねた。 触れて一秒で離れようとした唇を追い、舌を絡める。 カウンター越しに抱きしめた体は、小さくて熱い。 「んーーー!」 糸が、彼に向かってのびていく。 巻き付くように、搦め捕るように。 「ん、ぐ……っやめ…!」 突き飛ばされ、唇が離れる。 小柄なわりに、力も強い。 左手を持ち上げ、眺める。 糸は長くのびたまま、細く赤いその先は。 見つけた。 やっと見つけた。 探して探して、探していた相手を。 「ゆっくり優しくは後でしてあげる。取りあえず繋がらせて」 ***
今夜は金曜日だ。いつものように商店街の店で買い込んだ食料を手に、彼の家を訪れた俺を迎えたのは水音だった。台所にいた彼は、右腕を蛇口の下につき出し、水を流していた。 「飛影、どうした?」 「触った」 短く言った彼が左手で指すのはコンロの上のフライパンで、れんこんのきんぴらが湯気を立てている。 水を止め、彼はタオルを手に取る。右手首の上から肘に向かって、十センチほど続く赤い跡。 「それじゃだめだ」 「え」 棚から鍋を取り、冷凍庫の氷をあけ、水を注ぐ。 タオルで拭いたばかりの彼の手を取り、氷水に浸けた。 「おい」 「水じゃだめだ。ちゃんと氷で冷やさないと」 たいしたことはない、オーバーだぞ、とぼやく彼が冷たさに音をあげるまで氷水に浸け、水で絞ったタオルで押さえる。 「…ずいぶんと心配性だな」 「過保護と言って欲しいね」 「過保護?俺はお前に保護なんか…」 「心配性だとしても過保護だとしても、お前にだけだよ」 何か言いかけていた彼が、口をつぐむ。余計な世話だとかなんとか言いかけて、やめたのだろう。 この家に元々あった救急箱の中身は、どれもこれも使用期限が切れていた。最低限の物だけ買って入れ替えたのは先週のことで、我ながらいいタイミングだったと思う。 「慣れてるんだな」 年代物の救急箱は、この家の居間のずっしりと重い座卓に、しっくりと馴染んでいる。 火傷にも使える傷薬を塗り、ガーゼで覆って包帯を巻いていた俺にかけられた言葉に、顔を上げる。 「…そうだな」 慣れているも何も、他人に包帯を巻いたのは初めてだ。自分自身が包帯を使ったことさえ、片手の指で足りるほどの回数もない。 巻き始めは少しずらして斜めに交差させ、一周させたところでずらした部分を巻き込んだ。こうすると解けにくいからだが、一体いつそんなことを俺は憶えたのだろう。 「できたよ」 まあ、そんなことはどうだっていい。多分ネットだか本だかで見たのだろう。綺麗に巻けるにこしたことはないのだし。 綺麗に包帯を巻き終えた腕に唇を落とし、包帯と薬と彼の匂いを吸い込む。 「体に気をつけて。俺もまだ死にたくないし」 「なんで俺の体とお前の寿命が関係するんだ?」 救急箱の蓋を閉め、立ち上がった飛影が、不思議そうに言う。 座ったままの俺を見下ろす、大きな目。全てのパーツが小さいのに、目だけは吸い込まれそうに大きい。 「どちらかが死ぬ時にさ」 炎とか雷とか毒とか、呪いとか? そんなものが伝わって、一緒に死ねるんじゃないかなって思ってるんだけど。 「そういう仕組みなのか?この糸は?」 びっくりしたように、飛影が赤い糸が揺れる左手を上げる。 「いや、知らないけど」 「…適当なことを言うな」 呆れたようにため息をつき、救急箱の把っ手をつかんだ飛影の左手をつかむ。 「蔵馬?」 「お前が死んだら、俺も死ぬから」 大きな目が、さらに見開かれる。 「炎とか雷とか毒とか呪いとか、なかったとしても。俺はお前と一緒に死ぬから」 もしここに大人という生き物がいたら、俺の言葉を笑っただろう。 十代の子供の言いそうなことだと、自分たちにもそんな時代があったと。 けれど俺はわかっている。 この言葉は子供の戯れ言でも若気の至りでもなく、ただの事実でしかないと。 そして飛影も、それをもうわかっていると。 「…いつも言っているだろう。そういうことをお前が言うと、冗談に聞こえんと」 「冗談に聞こえないのは、冗談じゃないってわかっているからだろう?」 小さな唇が、きゅっと閉じる。 大きな目は、包帯が巻かれた右腕と糸が揺れる左手とを行き来し、ゆっくりと俺に戻ってくる。 「………わかっている」 ぼそっと投げるように言うと、俺の手を払い、音を立てて襖を開けた。 振り向いた飛影は場の雰囲気を変えるように、夕飯は近所の店のコロッケにしようと言った。 ***
田舎の大きくて古めかしい平屋にありそうな、厚みのある座布団の上に足を伸ばして座り、壁に寄りかかって飛影は本を読んでいる。その伸ばした足の上に腕を組み頭を乗せ、俺は大人しく本の台座になっている。 触れている部分から、彼の体温が伝わる。 体温、呼吸、本を手繰る指先の動き。 風呂上がりのシャンプーや石鹸の匂いの奥にある、乾いたさらさらの砂を思わせる、彼の匂い。 頭の上で聞こえるページをめくる微かな音さえ、俺にとっては幸福そのものの音だ。 飛影の読んでいる本は、ずいぶん昔に書かれた純文学だ。 好きで読んでいるわけではなく、授業で出された課題のために読んでいる。ネットであらすじを調べて適当に課題をこなすのではなく律義に読むあたり、性格が現れている。基本的に彼は律義なのだ。 ぱたりと本を閉じ、飛影はため息をつく。 「面白かった?」 「いや。さっぱりわからん」 苦笑いをする飛影の手から本を取り、体を起こす。 制服以外は黒い服を好む彼が他の色を着るのはパジャマくらいで、今夜の彼は白いパジャマを着ている。 白いパジャマの袖から覗く、白い包帯を巻いた腕。 手を伸ばし、なめらかな指通りの短い髪を梳く。 「あの店のコロッケ、やっぱり美味いな」 今夜の夕食は買ってきたコロッケとマカロニサラダと千切りキャベツ。れんこんのきんぴら、それに味噌汁だった。 照れ臭いのか恥ずかしいのか、飛影はそういう雰囲気になると普段なら話さないような雑談をしかけてくるのだ。 「美味しいよね。じゃがいもが粗くつぶしてあって、ひき肉がたっぷりで、衣もサクサクで」 「家で揚げるより…」 「あれがお前の口の中で砕けて、喉を通ってこの体の中に入っていくかと思うと、興奮しちゃうよ」 「…なんで…そういう…!」 言葉ひとつで、頬がみるみる赤くなる。 白いパジャマ、白い手に揺れる、赤い糸。 片手で抱けるくらいの腰を引き寄せ、唇を重ねた。 こうするのも、何度目だろう。 口の中で追いかける舌は、最近ようやく応えてくれるようになってきた。 息苦しくなるまで貪り、唇を離す。 「……っ」 「してもいい?」 「…この時点から嫌だっていう選択肢は、あるのか?」 返事の替わりに、また唇を重ねる。 「……ん…くら…」 色褪せた畳の上に、いつものように布団は敷いてある。 キスをしたまま彼を抱き上げ、洗い立てのシーツに小さな体を横たえる。 パジャマのボタンを外し、タンクトップを脱がせる。我ながら、なめらかに手際よくできるようになったものだ。 ズボンと下着は一緒に下ろし、無意識に閉じようとする足の間に、手を入れる。 「……っぁ、く…」 「口でしてもいい?」 「…っ!あ、だめ、だ!」 真っ赤な顔での拒否。 強行突破もできなくはないのだろうけど、今はまだその必要はない。楽しみはこの先にいくらでもとっておける。 「…っあ、う、あぁ」 「飛影、気持ちいい?」 答えを聞かなくたって、すっかり硬くなったものは俺の手の中にある。 敷いた布団から手の届く場所にある、古すぎて逆にアンティーク感さえある文机の引き出しから、ローションとコンドームをを取り出す。 カタン、という引き出しの開く音に、その音が何を意味するのかわかっている飛影の太ももがぶるっと震える。 大きな目は潤んでいて、この目を見るだけでイける気さえしてくる。 膝が肩につくくらい足を広げさせ、左手で硬くなったものを弄りながら、右手だけでローションの蓋をぱちんと外す。 たっぷりと指に絡め、ピンク色をした穴にゆっくり押し込む。 今使っているローションはほとんど無香で、かすかにミントの香りがする。 初めて買ったローションは、ローションというものに香りがあるとは知らなくて、よくわからずに選んだ物はいちごの香りだった。 そんなことを思い出し、ちょっと笑ってしまう。 「あ!…う、あ…くら…っ何…笑っ…」 「いや、この部屋で初めてした時さ、いちごのローションだったな、って」 彼の中に入れた指を動かし、くちゅくちゅと音を立てる。 あたたかくぬめる穴に、人さし指に添えるように中指も差し込み、広げるように大きく回す。 「うあ!ああ、っあ、あ」 「中々入らなくて、手がローションでぬるぬるで。それで」 締めつける穴から指を抜き、両手で飛影の足を抱え上げた。 指を抜かれたまま、口を開けてひくひく動くそこに、硬く大きくなった先端を押し当てる。 「あ…くら…ま…っ」 「糸にもいちごの匂いが残るかなって、考えたんだけど。残らなかったな」 「いち、ご…?…っあ!あああ!っうあ!」 もう手は離していたのに、根元まで押し込んだ途端にイくなんて。 可愛いにもほどがある。 抜けそうになるまで引き、奥をえぐるように押し込む。何度も何度も。 潤んだ目。ひっきりなしに声を上げる、薄く形のいい唇。 白い背が二度目の射精に綺麗なカーブで反ったのは、俺と同時だった。 しなやかな体をひっくり返し四つん這いにし、今度は後ろから覆いかぶさり、貫いた。 暖房器具のないこの部屋の寒さが、今はちょうどいい。 奥を押し広げるように突くたび、糸が跳ねるように揺らめく。 俺たちを繋ぐ細い糸は、輝くように赤い。 「……あっ!あっ!あっ!…も、う……くら…っ、ま!もう!」 長すぎる突き上げに、飛影が泣き声にも似た声を上げる。 足の震えはもはや痙攣のように、一時も止まない。 「っうっあ!ああ!ああああああぁ…っ!」 「飛影…ひえい……」 好きだよ。好き。 愛してる。 あたたかい腹の中を一際強く突き上げ、耳元にそう囁いた。 ***
「おま、え……」飛影の声は、かすれている。 布団に突っ伏した体は、まだ整わない呼吸に忙しなく上下している。 「……しつこ…い、…殺す気か…?」 「セックスで死んだりする歳じゃないよ、俺もお前も」 「いい…から…抜け…」 わざとゆっくり、穴を擦るようにして抜くと、飛影は甲高く小さな声を上げた。 「ア!」 「…そんな声出されると、もう一回し…」 拳で頭を殴られ、大人しく諦める。 右腕に包帯を巻いただけの素っ裸の姿。俺を殴った拳には、赤い糸が機嫌よくゆらゆら揺れている。 「飛影」 「…今夜はもうしないぞ」 「わかってるよ。飛影」 「なんだ?」 「好きだよ」 パジャマを拾い上げたところだった飛影が手を止め、俺を振り向きくしゃみをひとつした。 俺は笑い、文机の上に用意してあったポットのお湯で絞ったタオルで、飛影の体を拭いてやる。 ローションでぬるつく尻も丁寧に拭い、もう一度殴られた。 「電気、消すよ」 「ああ」 火の気のない部屋でも、一つの布団で二人でくっつくなら寒くはない。 小柄な体を抱きかかえるようにして、布団にもぐりこむ。 寒くはない、と考えたそばから、俺もくしゃみをする。 さすがにタオルケットと布団では冬は乗り切れない。明日、あの納戸のような部屋に毛布がないか探してみよう。なければ買って… 「おい。風邪、引くなよ」 「心配してくれてるんだ?」 「心配?」 まださっきまでの余韻を残したままの薄紅色の頬で、飛影が小さく笑う。 「俺だって、まだ死ぬわけにはいかない」 「え?」 「あんまり早死にじゃ、雪菜が悲しむからな」 「…飛影」 布団から顔だけ出していた飛影が、頭の先まですっぽりもぐりこむ。 パジャマ越しの胸元に、飛影の頬がぴたりとくっつく。 「…炎だか雷だか毒だか知らんが、お前が死ぬなら俺も死ぬんだろう?」 布団の中で、パジャマに押し付けた唇が零す声は、くぐもっている。 「飛影。…本当にそうなっても、いいのか?」 「…………いい」 素っ気ない、澄んだ返事。 小さくて誠実な返事とともに、眠りに落ちた体がゆるむ。 心地よく冷たい師走の空気の中で、熱い体を抱きしめ、幸福な眠りに向かって目を閉じた。 ...End |