インソムニアの夜明け...14二人の走るスピードはほぼ同じだった。体の弱っている患者と走る速度が同じとはずいぶん情けない話だが、蔵馬の方はまだ薬の効き目が残っている状態だ。 「放せ!!」 蔵馬がどうにか飛影を捕まえたのは、病院の門のすぐ手前だった。 「放せと言っただろう!! 」 「どこへ…!?」 「俺はここを出る」 「出る!? どこへ行くんだ!? そんな…まだその眼がどういう症状を表すかも分かっていないのに!? 無茶だ」 「無茶で結構。俺はもうここにいたくないんだ。一秒たりともな」 「妹さん……雪菜さんを、置いて?」 飛影の顔に、初めて逡巡がみえた。 「雪菜は…大丈夫だ」 桑原…とかいったか? …あの婚約者の男は、いいやつだ。 ちょっと癪だがな。俺には分かるんだ。 「だから、俺はもうここを出る。出た結果、死ぬことになっても構わない」 でも… 悲痛な声で、蔵馬は言った。 「でも、俺はそんなの嫌だ!俺は…君が好きなんだ」 「でも、俺はそれでいい。俺はお前を好きじゃない」 蔵馬の言葉を真似るように、飛影は返した。 ここまで言えば、誰にだってわかるはずだ。 いくらこいつが鈍くても。 「…なるほど。タグを外すために、俺を利用したってわけだね」 「ああそうだ。一応悪かったとは思ってる」 悪かったと思っている態度ではないが、蔵馬がそれに怒る気配はない。 「…君が好きなのは俺じゃないってことは、分かってる」 「なら、手を放せ」 「嫌だ」 「頼むから、放せ!お前は俺をここにずっと閉じこめたいのか?…永遠の、実験体に?」 額に輝く第三の眼は、深い紫色の輝きを魅せる。 まあ、お前が利用された復讐としてそうしたいというなら、しょうがないがな。 飛影は、またいつもの皮肉っぽい笑みを浮かべる。 「違う…そうじゃない。俺は君が好きなんだ」 「俺が他のやつを好きなのに?それでもお前は俺が好きなのか?」 冷酷な矢を、飛影は放つ。 さすがに、諦めるか、怒るか、そのどちらかだろうと思ったのに、蔵馬は手を緩めない。 「だって…」 「だって、なんだ?」 だって…と、もう一度呟き、蔵馬は頬を赤くする。 「だって、相手が自分のことを好きだからって、好きになるわけじゃないよ」 ただ、君を好きになってしまっただけだ。 君が想うのが、他の人であっても、それは変わらない。 碧の瞳は、門灯の僅かな灯りに煌めいて映えた。 「だから…」 君の側に、いさせて。 俺も一緒に、連れて行って。 思ってもみなかったその言葉に、飛影は目を丸くする。 「馬鹿を言うな…!お尋ね者になりたいのか?世間はきっと、お前を誘拐犯に仕立て上げるぞ」 「構わないよ」 「へえ。お前の母親はどうなる?メイユールはお前の母親に危害を加えたりするような者じゃあないが、世間はどうかな?」 蔵馬の瞳がさすがに揺らぐ。 綺麗な目が、苦悩に閉じる。 「…母さん、は…」 絶句。 その沈黙の隙に、飛影は腕をそっと解く。 「お前はここで、普通に暮らせ。医者になるのが夢だったんだろう?」 蔵馬の瞳がゆっくり開く。 その瞳はもう、揺らいではいない。 「…君と一緒に行く」 「母親を置いてか?」 「………そうだ」 飛影は驚いて、顔を上げた。 自分を見つめる真剣な眼差しに、今度は飛影の瞳が揺らぐ。 「でも…俺は……俺、は……」 「そこまで聞きゃ、十分だな」 急に聞こえた野太い声に、二人は驚いて振り向いた。 「お前…!?」 雪菜の婚約者、桑原だ。 なぜ、ここに?…飛影はあと一歩だった病院の門に視線を走らせる。 一瞬後には飛影は駆け出していたが、長い入院生活をしていた病人の走るスピードなど、まったくお笑い草だった。 背が高く、力もある婚約者に、あっさりと捕まる。 「放せ…っ!お前は雪菜を守ると、幸せにすると約束しただろう!雪菜を不幸にしたいのか!?」 「馬鹿言うなよ。俺は雪菜さんの幸せしか考えてねーぜ」 俺は雪菜さんの幸せしか考えてねえ。 だから、来た。 雪菜さんに頼まれて。 雪菜に何を頼まれたのか、桑原の口調はすっかり“家族”のようだった。 暴れていた飛影が、ピタリと大人しくなる。 「雪菜に…頼まれただと…?」 「そうだぜ。なのにまったく大暴れだな。兄ちゃんよ」 桑原はポンと飛影の頭をたたき、羊皮紙で出来た、大きな包みを渡した。 「手紙…?」 中には手紙と、さらに小さな包みが入っていた。 ***
兄さんへこれを読んでいるということは、 蔵馬さんの兄さんへの気持ちは本物だったということね? その判断は、彼に任せたの。 私が行ったら、きっとまた兄さんを引き止めてしまう。 だから、彼に託すわ。 彼なら、私の代わりにそれをちゃんとしてくれることはわかっているから。 まず、私は謝らなくてはいけない。 もうずいぶん長い間、兄さんを苦しませてしまった。 双子だった私たちのどちらに、その第三の眼が出来てもおかしくはなかった。 なのに、運命は兄さんを選んだ。 そのことだけでも、兄さんにはずいぶん苦しい思いをさせたのに、 そこから逃れる道さえ、私は絶ってしまった。 本当は、あの日、兄さんを死なせてあげるつもりだった。 それが、兄さんを助けることにもなると分かっていたから。 でも、あの血に染まったバスルームを見た時… だめだった。 兄さんを助けたのは私のエゴよ。 愛情とは言えない。 あれは、怒りだった。 私を一人置き去りにしようとしている兄さんを許すことはできなかった。 一生病院に縛りつけてでも、生かしておこうと決めたの。 それが生き地獄であろうとも。 どうせ兄さんには行く場所もない。 本当に兄さんを愛しているのも私だけ。 二人で、生きて行ける。 そう思っていた。 でも…私の人生に彼が現れた。 兄さんの人生には、蔵馬さんが。 やっと私は一緒に生きて行く人を見つけた。 そして本当に兄さんを愛してくれる人も。 でも、疑い深い私はまだ蔵馬さんを信用しきる訳にはいかないの。 だから、この手紙を彼に託すわ。 兄さんへの蔵馬さんの愛情が、本物だと信じれたら、 これを渡してくださいと。 これを読んでいるのなら、もう何も心配しないで。 私は大丈夫。 メイユールは、大丈夫よ。 蔵馬さんの家族も心配しないで。後は私に任せて。 だから、行って。 望む場所に。 行きたい場所に。 でも忘れないで、どこにいても、 愛してるわ。 雪菜 ***
「……雪菜…」へなへなと崩れ落ちる飛影の体を、蔵馬が慌てて支える。 どうやら薬の効き目は切れたらしく、ちゃんと抱き留めることができた。 飛影の手から落ちた包みが解け、その中には何やらたくさんの書類と、車の鍵が入っていた。 「運転、できるか?」 門の外に停めてある車を指し、桑原が蔵馬に尋ねる。 「え?うん。一応…」 「なんだよ、頼りねえ返事だな。それで俺の兄貴を任せられるのかよ?」 「もちろん!あ…でも…飛影…」 「……なんだ?」 ぼんやりとした表情で、飛影が顔を上げた。 「まだ俺、返事貰ってなかった。…俺、君の側にいてもいい?」 一緒に行っても…いい? その必死の表情に、飛影は小さく吹き出す。 「笑ってる場合!?」 「いいぜ。来ても。…俺がお前に惚れる保証はないがな」 第一、俺は車の運転はできないんだ。右手が使えないんだから、この先もな。 だから選択の余地は、無い。 いかにも飛影らしい、返答。 「それでもいい…一緒に、行きたい」 「勝手にしろ」 「おいおい、いつまで話し込んでんだ。さっさと行かねーと人が来る」 確かに、夜勤と常勤の交代時間が近付いている。 「雪菜さんは、俺に任してくれい。絶対に、幸せにする」 だからお前も、頼んだぜ。 蔵馬に向かって、桑原は言う。 「俺にとっても兄貴なんだからな」 桑原は二人を押し込めるように車に乗せ、さっさと行けと急かした。 ***
ここで、休もうか。そう言うと、緑萌える森が広がる湖のほとりに、蔵馬は車を停めた。 観光地というほどでもないが、ちらほらと人影も見える。 いくつかの丸いテントがあり、どうやら自然を楽しむ人たちのキャンプ場らしい。 たくさんの書類は、国外でも使える偽造した二人の身分証明書や、驚くほど多額の小切手だった。偽の身分証明書は何の問題もなく二人を通し、一つ目の国境を越えた。 雪菜の用意した車はいわゆるキャンピングカーで、寝泊まりも十分可能で、小さなキッチンも付いている。 「…お前、運転も下手だな。まだラリってるのか?」 「違うよ!久しぶりの運転なんだよ」 備え付けのソファで横になっていた飛影はじろっと蔵馬を睨む。 十時間近くも車に揺られていたせいで、不機嫌極まりない。 ソファの横に蔵馬は跪き、飛影の手を取り脈を診る。 「ちょっと診るから、口を開けて」 「必要ない。俺はもうお前の患者じゃない」 「だめ。顔色悪いよ。気分悪くない?疲れてるんでしょう?」 それはそうだ。 もう何年も病院の外には出ていない。いくら額の痛みから解放されたとはいえ、衰えた体力はそうすぐに回復するものではない。 「…気分はいいぜ」 「…そう」 「今まで、俺があそこに何年いたと思う?」 外に出れただけで、最高だ。 飛影はそう言った。 「ご飯作るよ。何がいい?」 「…それより、眠りたい」 「運転が下手で、全然寝れなかった?ごめんね」 「そうじゃない…俺はどこでも眠れない。…眠れなかったんだ」 来い、と手招きされ、蔵馬は飛影の横に座る。 座った蔵馬の膝枕で、飛影はまた横になる。 「知ってたか?……お前の隣でなら、俺は眠れる」 「え…?」 ほんとに? 俺の側だと、眠れるの? 蔵馬は、はしゃいだ声で尋ねる。 「ああ。だからそれだけでも、お前には価値があるな」 「それ以外の価値も欲しいけどなあ」 苦笑する蔵馬に、飛影もニヤリとする。 「セックス相手にもなるしな」 「ちょっ、それって…」 「もう頭は痛くないんだから、遠慮はいらないぜ」 「え、遠慮って!」 寝る、もう黙れ。 そう言うと、飛影は目を閉じた。 閉じた二つの目の上には、もう一つの瞳。 その瞼を、蔵馬はそっと撫でた。 目を閉じたまま、飛影はそれを感じる。 「…世界を、見たい。この瞳が見た景色が、本当に存在するのを確かめたいんだ」 「いいよ。この車、旅に出るにはぴったりだしね」 世界中、見に行こう。 どこにでも、ついて行くよ。 「鬱陶しいやつ」 「そんなあ。運転手だし、料理もするよ。君の世話、なんでもするから!」 眠そうに、とろんとした目を飛影は薄く開ける。 …俺を退屈させるなよ。 朝も昼も、……夜も、な。 「……はい」 嬉しそうに答えると、蔵馬は眠りに落ちた飛影の唇に、自分の唇をそっと重ねた。 ...End. |