インソムニアの夜明け...12「…最初?初めてのやつって事か?」飛影はなぜそんな事を聞くのかと、おかしそうに笑った。 病室に付いている浴室もまた豪華な造りではあったが、浅めの浴槽やあちこちに取り付けられた手すりのせいで、病院くささは否めない。 蔵馬にとっては初めての、飛影にとっては久しぶりのセックスの後、二人は泡立てた湯につかっていた。 「顔も思い出せないな…。薬の、売人だった。ヤラせてくれるなら、薬をタダで都合すると言ってきた」 メイユールの養子になったんだから、お金に困っていた訳じゃないだろう?どうして…? 蔵馬の困惑した問いかけに、別に、と飛影はまた薄く笑う。 「深い意味なんか、ない。してもいいと思ったからだ」 「好きだったの…?その人のこと?」 飛影はやれやれとでも言うように、眉を上げた。 「…好意がなくたって、できるだろう?お前だってそうだろうが」 「できないよ!俺は…君のことが……」 わかったわかった、そう言うと、飛影は水色で丸い、いい香りの石鹸を放った。 「洗え。これも外してな」 言われた通りに、蔵馬は石鹸を泡立て、飛影の体を手でやさしく洗ってやる。 動かせない右腕に付けられたタグも外し、痕のついたその腕も丁寧に洗う。 「…痛くない?」 「こっちの腕は感覚がないと言っただろう。ヤブ医者」 そ、そうだったよね。ごめん。 慌てて謝る蔵馬に、飛影が溜め息をついた。 「…ねえ、飛影、夢の話だけど…?」 夢?ああ、そのことか。 なんだ。覚えてたのか。しつこいやつだな。 忘れてりゃいいのに。 飛影は片手で泡をすくい、ふうっ、と吹く。 「ちょうど、この頭痛がし始めたぐらいだったか…」 元々、子供の頃からあまり眠れない方だったがな。 この頭痛が始まってからは、なおさら眠れなくなった。頭が割れそうに痛いってのに、眠ることができると思うか? …薬を使えば、なんとか日常生活を送れたし、少しは眠ることもできたんだ。 「でも…夢の中で…」 淡々と話していた飛影が、続きを一瞬、躊躇した。 「…夢の、中での…俺は…」 夢の中では、この額の目は開いてるんだ。 まるで普通の目みたいに。 つまり…三つ目だ。ひいき目に言っても、化け物だな。 おまけに、額の目は、人の目では見えないような遠くまで見える、特別な目なんだ。 「遠くまで…本当に遠くまで見れるんだ」 だが、俺の知っている世界は、孤児院と、メイユールと、この病院と、それだけのはずなのに、風景は妙にリアルで。 この病院にも図書室があるだろう、そこで調べたんだ…。 「俺の見た…夢の中の景色は…本当にある場所ばかりなんだ…」 ちゃぷん、と音を立て、水滴が水面を揺らす。 「…俺は…気が狂っていると思うか?」 「…そんなこと…」 蔵馬は力なく否定する。 それは、筋の通った説明のつかない、奇妙な話だった。 例えば…薬物を使っていたことのフラッシュバックなら、あり得なくはない。 だが、だとしたら夢の中の景色が本当にある場所ばかり、というのはおかしい。 …けれど。 けれど、そもそも図書室で調べたことさえ、飛影の幻覚や妄想の一部だったら? そう考えると、蔵馬は何と答えたらいいのか、わからない。 「…馬鹿正直なやつだな、お前は」 言葉とは裏腹に、飛影はなんだか楽しげだった。 「普通、こういう時は、そんなことはない、って否定するのがマニュアルだろうが?」 「う、うん…」 「上がるぞ。…頭が痛くなってきた」 「あ!点滴外してるからね。もう上がろう」 バスタオルを取るために立ち上ろうとしかけた蔵馬の濡れた髪を、飛影がくいっと引っぱった。 「どうしたの?」 「週二回くらい…かな」 「え?」 お前と、セックスできる回数。 毎日したら俺のこのイカレた頭がぶっ壊れるからな。 赤い瞳を細めて、飛影はニヤリとする。 「…俺のことが好きなんだろう?」 「好き…です。でも、遊びとかそういうんじゃな…」 パシャ、と飛影は蔵馬に泡のたっぷり立った湯を弾く。 「…なら、いいだろう?週二回だ」 飛影の白い左腕が蔵馬に巻き付き、顔を引き寄せる。 薄く形のいい唇が、蔵馬の唇をかすめ、頬をくすぐり、耳元に囁いた。 「…もっと、上手くなれ」 他のやつで練習してきたって構わないぜ、と笑う飛影に、蔵馬はぶんぶんと首を横に振るのが精一杯だった。 ***
例えば。公園をデートするとか。 映画を観に行くとか。 美味しいランチの店で一緒にごはんを食べるとか。 初めてのキスは、こんな風にしたいとか。 いくら勉強漬けの生活だったとはいえ、蔵馬にも、まあ人並みに想像してみたことはあった。 「人生って、想像とはずいぶん違うよね…」 「へ?どうしたんだい?深刻な顔しちゃって」 医局で日誌を付けていたぼたんが顔を上げた。 「あ、なんでもないんです。独り言」 「大丈夫かい?やっぱり一人の患者に付きっきりってのは参るよねえ」 「いえいえ、そんな」 むしろ、嬉しいです。 なんて言うわけにはいかない。 週二回、と言っていたセックスは、飛影の体調のいい時には、三回することもある。 その度に、下手くそ、だの、痛い、だの言われながらも、体を重ねていた。 飛影の頭痛がひどくなり中断することもままあったが、赤い瞳を潤ませて、快楽に声を上げる姿を思い出し、蔵馬は思わず赤くなる。 「あ、そうだ。今日は妹さんが来るって連絡来てたよ」 「そうですか。伝えておきます」 妹の雪菜は最近とみに忙しいらしく、尋ねてくる頻度が減っていた。 飛影が喜ぶだろうと、蔵馬は病室に急いだ。 ***
「婚約したの」妹のその言葉に、飛影は驚いて顔を上げた。 気を利かしたつもりの蔵馬は同席しておらず、病室には兄妹二人きりだった。 そんな顔しないでよ兄さん。 そうね…確かに、閨閥結婚ではあるけれど、なんていうのかしら…いい人なの。 大丈夫、って思える人なの。 側にいてくれると、安心できる、感じ? 全然かっこよくないんだけどね。 でも…。 ああ、見つけた、って思ったの。この人が、私の側にずっといる人だって。 雪菜は一息にそう言ってしまうと、ちょっと紅潮した頬で、恥ずかしそうに笑った。 「…お前がそう思うなら、いいやつだ。…おめでとう」 「ありがとう。兄さんにも会いたいって言ってるの」 来週、連れて来るね。 バタバタしててごめん、今日はもう帰るけど、また来るね。 「…兄さん、大好きよ」 雪菜はそう言うと、飛影の頬にキスをし、リボンのかかった小さな箱を渡して、病室を出た。 じきに蔵馬が戻ってくるだろうが、今現在一人きりのこの病室は、広すぎて、そして空虚だった。 …もうこれで、大丈夫。 雪菜は、幸せになれる。 どうしようもない寂しさは、否めない。 だが、妹が本当に愛し愛される者を見つけたなら、兄である自分が祝福しなくてどうするというのだ。 小さな箱の、リボンを解く。 箱の中身は、置き時計だった。 先日飛影が時計を壊したことを知り、新しく買ってきてくれたのだ。 時刻はピッタリ合っていて、規則正しく時を刻む。 時間が、動く。 時が、流れ出す。 これでもう、ここにいる必要はない。 やっと、自由になれる。 …心残りは、何もない。 時が、流れ出す。 |