帰る場所「飛影…!?」蔵馬の声に安堵したせいで、ベランダに降り立ったオレの足はふらついた。 妖気を感じるより先に血の匂いがしたと、後で蔵馬に言われたが、まあそうだろう。 怪我をした顔と頭に、いつも首に巻いている布を一応巻いてはみたが、血はひっきりなしにオレの肩に流れ、既に全身がぐっしょり濡れていた。 窓ガラスに倒れ込みそうになった寸前、それは開けられ、オレの体は蔵馬の腕の中にあった。 着いた。 …間に合った。 温かい腕の中にいることにホッとして、オレは手の中に握っていた物を落とす。 「…飛影!」 開いた手の平から、ヌルリと滑り落ちたそれも、蔵馬はちゃんと受け止めた。 赤い眼。 温かな、オレの眼球。 血まみれのそれは、蔵馬の手の上で、じっとオレを睨んでいるようにも見えた。 …オレを睨んでいる。 オレの眼だというのに。 苦笑した途端、頭を割るような激痛と多すぎた出血のせいで、オレの意識は暗転した。 ***
靄がかかったような、嫌な気分。蔵馬のやつが、麻酔をかけたのだろう。 「…これで、よし」 蔵馬の、溜め息交じりの声。 もう一度眠ってしまいたいという欲求を振り払い、無事な方の右目を薄く開ける。 ベッドの傍らに置いたトレイの上に、カチャリと器具を置く蔵馬の長い指が見える。 いくつもの器具もトレイも、血に塗れている。 蔵馬のマンションの寝室は、血の匂いが充満していた。 大量の出血と、飛び出した目玉は、顔面の半分を吹き飛ばした一撃のせいだった。 機嫌の悪い時の躯は、本当に強い。まるで歯が立たない。 それはつまり、普段はオレに手加減をしているということだから、それもまた面白くはないが。 蔵馬は傷を縫合し、肉を吹き飛ばされた箇所は再生用の薬草で覆う。 綺麗に消毒した眼球も、そっと眼窩に納め、きっちりと包帯を巻いた。 …麻酔が切れた後、どのぐらい痛むかなど、今は考えたくもない。 「ほんとに…貴方って人は…」 どうにか片目を開けたオレに、蔵馬はぼやく。 蔵馬の目は怒りと安堵に満ちていて、オレには見慣れたものだった。 「……蔵馬」 「頭を動かさないで。じっとしてて。服を切るから」 「……」 手当てが済むまで、服を脱がせることができなかったのだろう。 蔵馬は血でどろどろに汚れた、オレの服を鋏で切っていく。 濡れた布を切る、重たい音。 「…躯、だよね?」 「……」 答えない、のは、肯定と同じことだと、蔵馬は言うが。 蔵馬は、躯のことを嫌っているらしい。 嫌う理由もないだろう?と以前聞いたオレに、蔵馬は、嫉妬だよ、と苦笑した。 貴方と一つ屋根の下に暮らしているだけで、十分嫌う理由になる。そう言った。 一つ屋根の下、なんて表現は百足にはおよそ似合わなくて、オレは笑った。 第一、あの移動要塞にはたくさんの妖怪が住んでいる。別にオレは躯と二人で暮らしているわけではない。 「手合わせはいいけど、ずいぶん手加減なしなんだね」 「……」 「どうしてポッドに入れてもらわなかったの?」 どうしてだろう? 顔と頭の半分が吹き飛ばされた後、ここに来ることしか思いつかなかった。 蔵馬は手早くオレの服を切り裂き、脱がせる。 お湯で絞った温かいタオルで、血で汚れた全身を拭かれる。 白々と明るい人間界の明かりの下で裸でいるのは落ち着かないが、どのみち起き上がることもまだできない。 「人間界まで来る途中に、行き倒れたらどうするのさ?」 「……」 「…聞いてるの?」 百足の主に外まで吹っ飛ばされたのに、百足に戻って手当てしてもらうのも間が抜けた話だ。 だから、ここに来た、…のだと思う。 返事をしないオレに、蔵馬は苛つく。 「ここまでたどり着けなかったらどうするつもりだったんだ?」 「……貴様には関係ない」 手当てをしてもらい、裸にされ、体を拭いてもらっている、この状態。 関係ない、はさすがにないだろうとオレも思う。 けれど、他に何と言えばいいのだろう。 お前に会いたかった、とか? 「…関係ない、ねえ?」 洗面器に熱いお湯を足し、タオルをゆすぐ。 まだ湯気の立っているタオルで、蔵馬は… 「うあっ!熱っ…!!」 陰部を、熱いタオルでギュッと包んだ。 「ん!熱い…っ!バカ、やめ…」 熱いタオルはそのまま、棹をしごくように降り、尻を割り開くようにして狭間を拭く。 足を広げさせ、丁寧に、丁寧に、蔵馬は尻や陰部を執拗に拭く。 熱さと、濡れた布の感触に、思わず下肢が跳ねる。 「あっあっ…」 オレが頭を動かしたのを見て、蔵馬は慌てて手を止めた。 塞がっていない傷口が、包帯にじわりと血を滲ませ、麻酔の殻をも打ち砕く激痛が走った。 「うあっ!!」 「頭を動かさないで!」 「…き、さまが…!おかしなことをす…」 「ごめん、もうしない。じっとしてて」 先ほどまでとは打って変わって、蔵馬は手際よくオレの両足を拭き、裸の体にシーツと毛布をかけた。 みっともない姿をようやく隠すことができて、オレはやっと人心地がつく。 「はい。寝なさい」 本当に貴方はオレに心配ばっかりさせるんだから。 服の切れ端や汚れたタオルを片付けながら、蔵馬がしかめっ面をする。 「まあ、目玉をちゃんと持ってきたことだけは褒めてあげるけど」 …ああ、そうだった。 目を、拾って持ってきた。 それは自分のためというよりは、躯のためだった。 オレと躯は、似ている。 平常心を取り戻した時に、オレが自分と同じように片目になっていたら、躯はきっと後悔するだろうから。 「この綺麗な、宝石みたいな瞳が見れなくなったら困るよ」 なのに、蔵馬はそんなことを言う。 蔵馬はしょっちゅうオレの赤い眼が好きだと、綺麗だと言うが、この赤い眼がなかったら、オレを欲しはしなかったのだろうか。 「…オレが、二目と見られない顔になったら、どうする?」 手も足も無くして、化け物のような顔になったら? オレはポツリと、そんなことを聞いてみる。 それはあり得ないことではない。 魔界では、そんなことは日常茶飯事なのだから。 オレを見下ろす、蔵馬の碧の眼。 かつては冷酷な金色だったであろう、眼。 いつものように温和な笑みを浮かべた顔ではなく、真面目な顔をして、蔵馬はベッドの側に跪いた。 「オレは、貴方のその、赤い眼が好きだよ」 その言葉は、オレの胸を刺す。 「でも…それだけじゃない」 蔵馬の顔が、近付く。 オレの頭を動かさないよう、そっと、蔵馬はオレの唇に自分の唇を重ねた。 「貴方を、愛してる」 顔も、体も、心も、魂も、全部。 「…貴方の存在そのものを、愛してる」 碧の眼は、真っ直ぐにオレを見る。 自分で聞いたことなのに、いたたまれなくてオレは目を閉じる。 「だからって、オレの愛を試すために、このかわいい顔を潰したりしないでよね?」 茶化すように、やつは言う。 「…誰が…かわいいだと…?」 「はいはい。怪我人は寝なさい」 治ったら、貴方の体をよーっく調べさせてもらうから。 そう言って、蔵馬はニヤッと笑う。 「…治ったら、即、帰るからな」 「手当てをしてあげたオレを置いて、怪我をさせた躯の所に帰るってわけ?」 冗談じゃないよ、だから躯は嫌いなんだ、と蔵馬は口を尖らせる。 愛されている。 大切にされている。 一体いつから、オレはそんな価値のあるものになったのだろう? …オレと躯は、似ていない。 躯には、蔵馬はいないのだから。 だからこそ、オレは百足に帰ってやろう。 まあ、手当ての礼に、一度くらいは蔵馬にヤラせてやってからだな。 何笑ってるの、と怪訝そうにする蔵馬を無視し、オレは目を閉じた。 この体がどこへ帰ったとしても、オレの心は結局こいつの側にあるのだと、悔しい再確認をしながら。 ...End |