死にたくない。

暗い森を死に物狂いで走りながら、心の奥底から湧き出てきた言葉の馬鹿馬鹿しさに飛影は笑ったが、その微かな笑みも、すぐに苦痛に歪む。

死ぬ場所を、死ぬ時を。
探してずっと生きてきたはずだったのに。

飛ぶように走りながら、飛影は幾度もふり返る。
山ほどの血や、得体のしれない肉片や臓物の欠片を撒き散らしながら逃げ続けているのだ、追っ手はいともたやすく追いつくだろう。

「…あ!」

地面から突き出していた大きな根に、らしくもなく足を取られた。
胸に抱えた荷をかばうように飛影は倒れ込み、背を強かに打つ。

背に刺さっていた数本の矢が体内で折れたことも、足がとんでもない角度に曲がり鈍い音を立てたことも、新しく噴き出した血に濡れる、ぱっくりと開いた腹の痛みにくらべればささいなことのようにさえ思えた。

「……っぐぅ!うあ…っひ、ぁ…」

もうだめだ。
離せ、置いて行け。
どこかにこいつを隠し、お前は追っ手を引きつけて逃げるんだ。

飛影の頭の中で聞こえた声は、自分自身の声のようでもあり、聞いたこともない誰かの声のようでもある。
腹を割ったその日に動けるわけがない、と必死で止めたあの男の声にも似ている。

わかっている。

耳障りな濡れた喘鳴は、自分のものだ。
口の中に満ちる、錆びた刃物のような味が何を意味するのかもわかっている。

二人で死ぬか、自分だけが死ぬか。
その二択に、何をためらっているというのか。

肘をつき、ふらつきながらもなんとか飛影は起き上がる。
目指していた場所は、もうすぐそこにある。

二三歩進んでは呼吸を整え、夜露に濡れる黒々とした岩にようやくたどり着いた。
洞窟の入口は、ごく小さい。小柄な飛影でさえやっと通れるくらいの穴に体をねじこむ。

入口の狭さとは裏腹に広い内部で、反対側には大きな穴が広がり、闇の中でかすかに森が浮かんで見えた。

辺りに生き物の気配がないことを確認し、くずおれるように飛影は座り込んだ。
離すまいと抱きしめていた包みをそっと下ろし、震える指で血に濡れた布をめくる。

濡れて張り付く黒髪、やわらかそうな白い肌。
ふえ、と声を上げた生き物が、小さな手を飛影に向かって差し出す。

「……嫌だ……く、ら…」

絞り出すような声が、洞窟の湿った空気を震わせる。
あたたかく小さな手が握った指先は、ひどく冷たい。

嫌だ。
離れたくない。離したくない。

嫌だ嫌だ嫌だ。

これは、オレのものなのに。
蔵馬がオレに遺してくれた、たったひとつの。

血ですっかり赤く染まった布の中では、生まれたばかりの赤子が大きな目を瞬かせている。
森のような海のような深い緑色の瞳は恐怖の色はなく、ただ不思議そうに赤い瞳を見上げている。

「いや、だ…」

ゆるゆると首をふった途端、凄まじい痛みが腹に突き抜けた。
赤子にかからないよう顔を背け、飛影は血を吐き出した。

嫌だ嫌だと泣き言を言って何になる?
選択の余地はない。時間もない。

「…持っていろ。落とすなよ」

指を握る小さな手をゆっくり解き、丸く、赤みを帯びた石を握らせる。
手を解かれたことに不満そうな顔をした赤子だったが、渡された石をぎゅっと握った。

「いい子だ」

飛影は笑い、顔を歪めた。

ちゃんと首にかけられるよう、紐を用意することさえできなかった。
あの女たちでさえできたようなこともできずに、オレは。

包みに覆いかぶさり、濡れた頬に、小さく開いた口に、飛影は唇を落とす。

そうして、精一杯考えた名を、赤子の耳元に囁いた。

洞窟の入り口まで這うようにして戻り、飛影は振り向いた。

もし、お前がオレのことを憶えていてくれるなら、せめて最期のこの瞬間は笑っていたい。
血にまみれた愚かな母は、幸せそうに笑っていたと。

「…幸せになってくれ。お前は光の中を、影のない道を行け」

小さな影は、森へ向かって駆け出した。


...End.