heaven's day...12

蔵馬の服装は出て行った時と全く違う。

見覚えの無い青いシャツに、水色の長い布をまるでスカートのようにふわりと巻いている。どちらも血が紫色の水玉模様のように散っている。

どこで何の仕事をしてきたのか、乱雑に巻いた右手と右足の包帯は血に染まり、同じ右側の頬や首筋には広範囲のすり傷がある。

「派手にやったな、ウェイ」
「爆弾さ。小型でなけりゃ挽き肉になってるところだ」

おかげで右耳が聞こえなくなったよ、今だけならいいんだけどね、と蔵馬は溜め息をつく。

「さてと、酎。帰れよ」
「まあ座れや。今日はキットは持ってないけどな、お前よりマシに包帯を巻くことぐらいはできるぜ」
「いらないね。帰れ」

床にあぐらをかき、芯だけになったリンゴを持った飛影の前に、蔵馬が立つ。

「君ってちっちゃなネズミみたい」

悪意のある笑みで、蔵馬は飛影を見下ろす。
頬の傷から染み出す血でひどく汚れているというのに、整った顔はそれさえ凄みのある美しさに変えてしまう。

「何をこそこそかぎ回ってる?美味しい餌でも探してるのか?」

いつものようにカッとなって言い返すことが飛影にはできなかった。
手の中で甘い匂いを放つ芯を握ったまま、心はついさっきまでの話の中にあった。

狐を守って死んだ母親。
狐が殺した蔵馬の母親。
半分血の繋がった兄弟。

自分と同じ名を幾人もに与えた父。
弟を生かし、利用している兄。

それは正義なのか、復讐なのか。
見上げた先にある緑の瞳の中に、飛影自身の姿が映る。

「帰ってくれ、酎」

飛影の言葉に、酎は眉をしかめる。
この場をそのままに帰っていいものかと、蔵馬と飛影を交互に見る。

「大丈夫だ、酎」

帰るよう促すように、飛影は立ち上がり、酎とドアへ向かう。
蔵馬の靴を引っかけて外へ出ると、ドアを閉めた。

「ほんとに大丈夫かよ?」
「ああ。俺が頼んだことだ。お前は何も悪くない」

後ろ手にドアノブをつかんだまま、飛影は酎を階段へ続く廊下へと押した。

「一つわからない。兄弟は一緒の名だと言っていたぞ。プランダが名付けたのか?」
「逆だろ。逃げた女が子供に付けた名をどこかから知って、手元に残った子供にも付けたんだ」
「なぜだ?」
「だからよ、イカレてたんだって。逃げた女への仕返しだったんじゃねえの?あるいは執着か」

廊下には窓もなく、昼間だというのに裸電球が湿ったコンクリートを照らす。

「帰るけどよ、何かあったら呼べよ」
「呼んだら来るのか?」
「ま、手が空いてたらな。俺も忙しいんでね」

階段への、これまた錆びたドアを酎は開けた。

「それにしても、狐が消した情報だろう?よく調べられたな?」
「なんせ女房が麻薬捜査官だからな」

目を丸くした飛影に、ばーか、冗談だよと酎は笑い、階段を駆け降りて行った。
***
「…おい、大丈夫か?」

飛影がそう声をかけると、氷を包んだタオルで右頬と右耳をおおうように押さえたまま、蔵馬が振り向いた。
スカートのようなひらひらした服の足元は女物のようにも見える青い華奢な革靴で、ウェイなら女のふりもできるという酎の言葉を飛影は思い出す。

「悪かった。その…勝手に」
「調べて何がしたいんだ?」
「…別に。ただ知りたかった」
「なんで?」

なぜかと問われても答えはない。どうしたかったのだろう。
問われると、飛影は返事を思いつかない。咄嗟に上手い嘘をつけるたちでもない。することもないから暇つぶしに、というのとも違う。
お前だって俺のことを勝手に調べたんだからおあいこだ、と喧嘩腰になるのもできなくはないが、それも違う。

「…知りたかっただけだ。それだけのことだ」
「へえ。それはそれは」

空いている左手にデバイスを持ち、蔵馬は何やら指を動かした。

「ま、予想通りだなって兄さんも言ってた」

ふいにデバイスから流れ出した甲高い声が自分のものだと気付き、ぎょっとして飛影は顔を上げる。
小さな画面上では、犬のように腰を振る蔵馬と、それに応えて激しく尻を揺らす自分とが映っていた。いったいどの角度から撮ったのか、赤く充血した結合部分や性器まで丸見えで、飛影は思わずもぎ取ろうと手を伸ばす。

「ちょっと」
「止めろ!! 見るな!」
「何言ってんだか。隣の部屋のやつに壁を叩かれるくらいよがって叫んだくせに」

ピッと音を立てて映像をオフにし、蔵馬はベッドにデバイスを放る。

「おい…大丈夫なのか。耳が聞こえなくなったんだろ?」
「いつものことだよ。爆発音の衝撃の一時的なものだよ、多分ね」
「多分…」
「いつまでも聞こえないままなら、右耳が聞こえなくなったってことだろうし」

飛影には理解できない。
血の繋がった弟を危険な仕事に差し出し、怪我をしても誰も一緒に帰ってくるでもない。

飛影は立ち上がり、冷凍庫から氷を取り出し、新しいタオルを水で絞って氷を包み直した。
血が染みてぬるくなったタオルを蔵馬の手から取り、替わりに新しいタオルを差し出すと、蔵馬は不審げな眼差しを向ける。

「何?」
「取り換えろ。血だらけじゃないか」
「…俺に執着しないでね」
「執着?」

意味がわからず瞬く飛影に、蔵馬は冷たく笑う。

「君はいつだって、誰かのために何かをしたいタイプだろう?」

自分のために生きる理由が見当たらない。そんな理由があったことがない。
妹を助けるために自分を売ったのも、他にすることなんかなかったからだ。自分のためには君は努力も執着もできない。希望も持てない。そうだろう?

「君はそういう人間だよ。自分に価値を認めない。だから誰かを助けることで、初めて生きる理由ができる」

次々と放たれる矢に、飛影は血塗れのタオルを握ったまま、なすすべもなく突っ立っている。

「もちろんそれは君の勝手。君の生き方だ。でも」
「でも?」
「俺は君の家族でも友人でも恋人でもない。一度ヤったくらいで俺に固執しないでよ。生きる理由が必要なら、他に探せば?」

言うだけ言うと、蔵馬はどこからともなく取り出した錠剤を口に含み、マットレスに寝転がる。
いったい何の薬なのか、蔵馬はたちまち眠そうに目を細める。

「だいたい、俺は…」

血がマットレスに染みるのも気にする様子もなく、蔵馬は目を閉じた。
目を閉じるのを見計らったかのように、甲高い電子音が二人の間に響く。

いまいましそうに蔵馬はデバイスを確認し、舌打ちをし起き上がる。

「おい」
「兄さんの呼び出しだ」

血で汚れた服を脱ぎ捨て、脱ぎ散らかしてあったシャツをかぶり、ジーンズを履く。
濡れたタオルで顔を拭い、デバイスを切り替え鏡代わりにする。自分の顔を確認し、とても外に出れる顔ではないと判断したのか蔵馬はもう一度舌打ちをした。
開けたままの大きな鞄を探り、フードの付いたパーカーを着込むと、顔の右半分を隠すように髪を整え、フードを下ろした。

「どこへ…」
「仕事。プランダの残党狩りはまだ終わっていない。君は鍵をかけてここで大人しくしてることだね」

言い捨てると、ふらつく足で蔵馬は部屋から出て行く。

閉まるドアを見つめて十秒。
飛影はドアを開け、湿ったコンクリートを駆け出した。
***
見慣れた通りは一変していた。

相変わらず汚らしく、猥雑であることに変わりはない。
けれども違う。娼婦も、男娼も、変わらず通りに立ってはいるが、ピリピリと辺りを見渡し、警戒している。

プランダは壊滅的な状態だと聞いてはいたが、飛影はどこかでそれを信じてはいない部分があった。
しかし現実に、この通りには売人が見当たらない。いくらプランダが街中を独占状態だったとはいえ、はぐれ者の売人もいたはずだ。なのに、全く見当たらない。同業者の見分けが飛影につかないはずはない。

問題はそれだけではない。
売り手がいなくなった今、買い手であるジャンキーどもはいったいどこへ行ったというのだろう。プランダが壊滅状態となったのなら、薬の供給は断たれる。ジャンキーにとってはまさに死活問題のはずだ。

忙しなく視線をあちこちに飛ばす飛影の目に、白いフードが飛び込んできた。
右足を引きずっているのをごまかすためか、緩やかな足取りで、飛影にも見覚えのある娼館への入り口がある脇道へと入っていく。

脇道は人目につかないよう、小汚い造花の大きな鉢がいくつも置かれている。
小柄な体ですり抜けるように入口の近くへたどり着いた飛影に、聞き覚えのある声がした。

「ウェイ、服はどうした?」
「汚しただろ。女物の替えはなかったんだ」

朽ちかけた看板のわきに飛影は慌てて隠れ、そっと声のした方をうかがう。
あの声。あの冷たく低い声は狐だ。

「その格好では娼婦には見えないな」
「じゃあ、男娼で行くよ。どの部屋?」

ウェイの声は投げやりで、耳がおかしいせいなのか、声も擦れている。
狐が考え込んだのはほんの一瞬で、六番が男娼待ちの客だ、行け、と短く命令をし、控えていた部下らしき者と一緒に姿を消した。

この娼館は飛影もよく知る娼館だ。
娼婦を抱えてはいるが、十五ほどの持ち部屋をよその娼婦や男娼に貸すこともしている。

六番の部屋をノックし、戸を開けた男はフードをかぶったウェイに不審そうな顔を一瞬したが、見える部分の顔が随分と美しいことにもすぐに気付き、相好を崩して招き入れた。

何がなんだか、さっぱりわからない。
ただ追いかけてきたものの、飛影は何をするべきなのかも、状況もまるでわからない。

六番が男娼待ちの客だ、行け、とは?男娼のふりをしろ言うのか?
女物は替えがなかった、という蔵馬の言葉を思い出す、違う。狐は女の格好をして来ることを期待していたのだから、つまり。

造花の鉢に隠れたまま、どうするべきかわからずにいた飛影の前を、いかにも男娼のなりをした男が通りすぎる。
見覚えのある足取りに飛影はハッと顔を上げた。

「…あれは」

男娼じゃない。あの独特の歩き方はジャンキーだ。
何を持って…?

男が六番のドアの前に立ち、小型の拳銃を取り出した瞬間、飛影は物陰から飛び出した。

そこから先はあっという間だった。

銃でドアノブごと鍵を撃ち抜きドアを開けた男は、相手が一人ではないことに少々驚いたようだったが、怯むこともなく室内へと躍り込む。
二発目の銃声と同時に、飛影も部屋へと飛び込み、男を後ろから蹴り飛ばし、暴発した銃は娼館の雨漏りにたわんだ天井に盛大に穴を開ける。

仰天して半裸でベッドにへたり込む男を背に、ジャンキーに向かって無表情に銃を構える蔵馬の姿が見える。
なんの躊躇いもなく撃鉄を起こした蔵馬は、飛び込んできた飛影に目を丸くし、狙いが反れた。

「蔵馬!」

ジャンキーの打った弾は蔵馬の腕をかすめ、蔵馬の打った弾はジャンキーの髪をかすめ、壁に穴を穿つ。
頭の傷が痛むのか、顔をしかめ、ふいによろめいた蔵馬の頭に銃口が向けられる。

「させるか」

軽く腰を落とし、飛影は小柄な者ならではの身の軽さで跳躍する。
振りかぶった足を側頭部に力いっぱい叩き付けられ、広くもない娼館の部屋を飛ぶようにしてジャンキーは壁に激突する。
床に降りると同時に、飛影は体を半回転させるともう一度足を振り上げ、まだ銃を離さないジャンキーの右腕を折った。

「逃げるぞ、蔵馬!」
「…え」

床に転げてわめく男。まだベッドの上でぽかんとしている男。
飛影は二人の男の間から蔵馬の腕を引っぱると、ドアを開けた。

「ちょっと、飛影、待て」
「何をぐずぐず…」

ドアを出たところで蔵馬は振り返ると、床に転がるジャンキーの頭を二発撃った。

「おい!なんで殺す!?」
「説明は後で。逃げよう」

ベッドの上の男がようやく我に返り、悲鳴を上げ始める。
銃声と悲鳴にかぶさるように、サイレンが聞こえる通りを二人は駆けた。
***
「待って、本当に待てってば」

じわじわ滲む血が蔵馬の白いパーカーを赤く染めている。
飛影の方も治り切ってもいない体での久しぶりのハードワークに嫌な汗を浮かべ、息を切らしている。

「飛影、ちょっと隠れよう。今は戻らない方がいい」

蔵馬の手を引いていた飛影はしぶしぶではあるが、街中に響くサイレンに頷き、どうする?と目で問いかける。
ピッと音を立ててデバイスを起動し、手ごろな隠れ家を確認したのか、今度は蔵馬が飛影の手を引く。

娼婦向けではない、ごく普通の時間貸しの宿へと二人は滑り込む。
血で染まったパーカーに嫌な顔をした店主は、差し出された三枚の銀貨にあっさりと態度を変え、鍵を渡した。

新しいとは到底いえない部屋だが、カビてもたわんでもいない壁や天井、シーツを替えたばかりらしい大きなベッド、きちんと独立した風呂場がある。
ドサリと座り込んだ飛影の隣に、これまたドサリと倒れ込むように蔵馬は横になる。

「飛影、大丈夫か?」
「それはお前だろ。ふらついてるじゃないか」

そう言ってはみたものの、飛影も青ざめた顔色をしている。
骨折の治ったばかりの手足も、治りかけの裂傷が疼く体内も。たったあれだけの乱闘で体中が悲鳴を上げているようだ。

「今夜はここで休もうか。どうせ外は大騒ぎだし」
「なぜ殺した?」
「当然だろ?あいつを殺すために待ち伏せてたんだから。あれはプランダの残党だ。知らない顔なのか?」
「なんだと?」

君の元同僚だよ。まあプランダは巨大な組織だったから知らない顔も多いんだろうけど。
売人が自分の売り物に手を出すのもよくある話さ。あいつは売り物に手を出し、自分が使う分を確保するために薬に混ぜ物をした。プランダに追われて、少し前からこの街を離れてたんだ。ところがこの騒ぎで国中から薬の供給が断たれた。

「となると、どういうことがおきると思う?」

話ながら部屋の隅にある小さな冷蔵庫を指差し、蔵馬は飛影に銅貨を渡す。
銅貨を二枚入れると開く冷蔵庫には、瓶入りの飲み物が何本か入っていた。適当に二本取り出し栓を開けると、飛影は一本を蔵馬に手渡した。

「どういうことがおきるかって言うと、今現在この国にある薬の価格は跳ね上がる。驚くほどにね」

冷たい瓶からごくりとひと飲みし、蔵馬は続けた。

「末端のジャンキーどもには到底手が届かない値段だ。生活必需品が買えない値段の高級品になる。するとどうなる?」
「…強盗。あるいは強盗殺人」
「正解。今この街は強盗だらけだ。しかも相手を殺すのも厭わない、厄介な強盗だよ」

とはいえ、暴徒化したジャンキーの始末は警察の仕事だ。
でも、プランダの残党はこっちの管轄だからね。プランダの残党を狐は生かしてはおかない。

「さてと。なぜ殺したって質問に俺は答えたよ。君は何で来たの?」

返事を引き延ばすために、飛影も冷たい瓶に口を付ける。
瓶入りの飲み物は酒で、アルコール度数ばかり高く、いかにも安物ならではの刺すような味わいを、たっぷりの香料でごまかしていた。
冷たい以外には取り柄のない飲み物を、飛影はもうひとくち飲んだ。

「俺は、借りを返しに来ただけだ」
「へえ。律義だね」

飲み干した瓶を床に置き、蔵馬は目を閉じる。
男とは思えない長い睫毛が縁取る瞼に、飛影は思わず引き寄せられる。

「…借り、ねえ」

目を閉じたまま、蔵馬は呟く。

「本当に、それだけ?」

長い睫毛が揺れ、いきなり緑色の宝石のような瞳がぱっと煌めく。
飛影は息を飲み、左右で濃さの違う瞳を見つめた。

どうしてついてきたのだろう。
なぜ助けなければと思ったのだろう。
貸し借りなど知ったことではない。間違えば脳天を打ち抜かれて今度こそ死ぬところだったはずだ。

「……助けたいと思った」
「どうして?」
「わからん…でもそう思ったんだ。俺が何を思うか指図される謂れはない。お前には関係ないだろう」

執着するなと釘を刺したはずだと、きっとこいつは冷笑するのだろうと、唇を噛んだ飛影の頬に、手が伸ばされる。
乾いた血で汚れた蔵馬の手。顔半分はさきほどのドタバタでまた滲み出した血で染まっている。

「ありがとう、飛影」

何を邪魔しに来たんだ、って腹が立ったよ。
でも、ちょっと嬉しいと思ったのも本当だよ。

「というのは嘘で」
「何を言ってるんだ…お前は」
「君が飛び込んできて、俺の名前を呼んだ」

ふいに、蔵馬は起き上がり、両手で飛影の頬を挟む。
血の匂いを感じるほど近くで、二人は見つめ合う。

「あの瞬間…ちょっと嬉しいんじゃなくて、すごく嬉しかった」

血で汚れた赤い唇が近付いてくるのを受け止め、飛影は目を閉じた。


...To Be Continued.
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