ふたりの夏まずはガラスの器を凍らせる。霜で覆われ真っ白になった器の上に、白い手がかざされる。 ふわふわの、氷というよりは雪に近いそれに、毎年のことながら三人は見惚れた。 ***
幻海の遺産であり、今は雪菜がひとりで暮らすこの寺は、相変わらず濃い緑に覆われている。昔ながらの蚊取り線香が煙る縁側で、幻海の形見である白地に藍色の朝顔が染められた浴衣を着た雪菜は、次々に器を満たしていく。 雪菜が用意していた梅酒に抹茶蜜、餡や白玉と並んで、幽助が持ってきたイチゴにメロンにレモン、毒々しく青いブルーハワイのシロップの瓶が並んでいた。 「どうぞ」 「サンキュー、雪菜ちゃん。しかし八月も終わるってのにあっちーね」 幽助の言葉に頷きながら、蔵馬もかき氷を受け取る。 「今年もなかなか涼しくならないですね。でも暑いからこそ美味しいですよ」 「いくらでも作りますから、おかわりいる人は言ってくださいね」 氷女の言葉は、涼しげに響く。 エアコンなどというものは、もちろんこの寺にはない。 開け放たれた屋敷を吹き抜ける風と、雪菜の作るかき氷で涼をとるのが、恒例の夏の集まりだった。 雪菜が一人で暮らすここを訪れ、荒れ放題の庭をざっと手入れし、墓参りをし、かき氷を食べる。 大鍋でカレーを作り、夜には持ち寄った酒を飲み、蚊帳を吊るして眠る。 なんだか懐かしい感じがする。 子供の頃の、夏休みのお泊まりみたい。 いつぞや螢子が呟いたお泊まりという言葉が、この集まりにはしっくりくる。 庭掃除にも墓参りにも参加するでもなく、縁側に続く広間、色褪せた畳の上に飛影は大の字でひっくり返っている。 古びた木の天井を眺め、室内にまで飛び込んで鳴いている蝉を、ぼんやりと眺めながら。 何にしますと聞いたところで、無視か、あるいはなんでもいいという返事しか返ってこないことは、蔵馬はよくわかっている。 雪菜に手渡された器を見下ろし、少し考えると、イチゴシロップ、練乳、白玉という組み合わせを選び、蝉の声がわんわんと響く広間に入る。 「ほら、飛影」 寝転んだまま伸ばされた飛影の手を、蔵馬はぺちっと叩く。 「だーめ。絶対こぼすんだから。起きて」 「…口うるさいやつだな」 「兄さん、座って食べて」 雪菜に言われ、しぶしぶ起き上がった飛影は、凍った器を受け取った。 銀の匙で、赤く染まった氷をすくい、口に入れる。 その視線は、縁側に腰を下ろす幽助と雪菜、その向こうの夏の庭に注がれている。 「和真さんと螢子さんは、遅くなるんですよね?」 「あー、でも晩飯には間に合うよう来るってよ」 社会人として働く二人は忙しく、朝からは来れなかったのだ。 同じように、何やら霊界がごたごたしているらしく、ぼたんも顔を出していない。 期せずして妖怪の四人だけがいるこの状況に気付き、幽助はひとりずつ顔を眺める。 「妖怪だけじゃね、今」 「ほんとですね」 幽助、蔵馬に飛影に、雪菜。 この四人だけという組み合わせは、今までなかった気がする。 青銅の風鈴が、ある種の鋭さを持って、鳴る。 ブルーハワイに餡という珍妙な組み合わせの氷を、雪菜はさくりとすくい、口にする。 「ここでは、氷はすぐに溶けてしまう」 ここ、というのが人間界を指すことは、他の三人にもわかった。 風鈴が、また鳴った。 「すぐに、消えてしまう。……人間みたいに」 困ったような顔をして氷を頬張る幽助に、雪菜は微笑みかける。 「あなたのように、強くなれたらいいのに」 雪菜が桑原からプロポーズを受けていることは、皆が知っていた。 妖怪である雪菜からしてみれば短すぎる寿命を持つ桑原が、どれほどの思いでそれを告げたのかも、知っていた。 「螢子さんは、いくつに?」 「ん?えーと。確か二十九だと思ったけどな」 「そう…」 「もうすぐ三十路だぜ。ババアだな」 そのババアに対する愛情が詰まった声に、ほんの少し、空気がゆるむ。 「私も幽助さんみたいに、言えたらいいのに」 青い氷が、小さな口に消える。 広間の太い柱を木と勘違いしているのか、しがみついた蝉は高らかに鳴いている。 「妖怪と人間が、一緒に生きていける?私はあの人を幸せにできるのかしら?」 「…ごめん。正直言うと、オレもわかんねーんだ。でも」 あいつが嫌だって言わない限りは、オレは側にいるよ。ばあちゃんと孫みてーになっちまっても、あいつがいいって言ってくれるなら、オレは側にいる。 あっさりと言う幽助の笑顔は、中学生の時と何も変わらず、時間の中で迷子になった子供のように見えた。 「…兄さんたちが、羨ましい」 ふいに振り向いた雪菜に、あたふたと白玉を飲み込んだ飛影は、困ったような顔をした。 隣でシンプルに抹茶蜜だけをかけたかき氷を口にする蔵馬もまた、高校生の時の姿のまま、時間の中の迷子だった。 「蔵馬さん。もう、決めました?」 「うん。もう限界だね。今年いっぱいで、終わり。魔界に帰るよ」 蔵馬の右手が、冷たくなった飛影の左手を握る。左手の包帯は、氷の器のせいで少し湿っていた。 薄く頬を染めた飛影だったが、握られた手を振りほどくことはしなかった。 ***
雪菜ちゃんはゆっくりしてて。飛影はどうせ役に立たないんだから、ここにいなよ。 そう言い残し、幽助と蔵馬はカレーの支度をしに、勝手へ向かう。 広すぎる寺の勝手はずいぶん離れていて、二人きりの広間は蝉の声だけになってしまう。 「兄さん、こっち」 縁側の、自分の左側をぽんぽんと雪菜は叩く。 いつになく素直に飛影は立ち上がり、隣に腰を下ろした。 「はい」 再びふわふわと満たされた器を受け取り、盆に並べられたイチゴシロップを、先ほどと同じ味だと気付いているのかいないのか、飛影はたっぷりと注いだ。 「ねえ、兄さん」 「…なんだ」 「私たちの中で、ずっと一緒に生きていけるのは、兄さんと蔵馬さんだけね」 いくら妖怪とて、病で死ぬこともある。戦いで死ぬことも少なくない。けれど、妹の言葉の意味はそういうことではないとわかっていて、飛影は無言のまま、氷をすくう。 青銅の風鈴の音は、飛影には鋭すぎるように思えた。 「一緒に、暮らすんでしょう?」 「……多分」 歯切れの悪い兄の返事に、妹は笑う。 自分を探している中で蔵馬と出会い、文字通り恋に落ち、今となってはそれは愛と呼ばれるものに変わったことを、雪菜はわかっている。 兄妹であることを隠すこともなくなった今では、こうして兄といろいろな話もできるようになった。 「多分ってなによ。嬉しいくせに」 およそ気が長い方とも思えない飛影が、蔵馬が魔界に帰る日を待ち続け、人間界と魔界を行き来する生活を何年も送っていたことも、もちろん雪菜は知っている。 人間と比べれば不老不死にも等しい蔵馬の体は、もはや若く見えるなどという言葉ではごまかしがきかなくなっていた。 魔界に帰ると告げた日の飛影の顔を、蔵馬は一生忘れることはないだろう。 「ねえ、兄さん。幸せ?」 「幸せじゃ…ない」 「どうして?」 「…お前が幸せでないなら……オレは、幸せにはなれない」 驚いたように顔を上げた雪菜の目に、兄の顔もまた、迷子の子供のように映った。 「馬鹿なこと言わないで。はぐれ者の私たちが、愛し愛される人に出会うなんて、奇跡なのよ」 ほとんど青い水となったかき氷を、器に直に口を付けて、雪菜は飲み干す。 「幸運を手に入れたのなら、ためらっては駄目」 「…お前にとって、桑原は違うのか?」 今度は雪菜が、返事に詰まる。 「もし……蔵馬が人間と同じ寿命で死ぬとしても」 溶けかかったかき氷を銀の匙でかきまわし、飛影は続ける。 「……蔵馬が人間と同じ寿命で死ぬとしても、オレは…蔵馬の側にいたい。蔵馬を…」 続きは聞かなくともわかっている。 小さな声に含まれた意思の重さに、雪菜は唇を噛んだ。 氷の国から地上へ落とされる兄を、為すすべもなくただ見ていた。雪と氷に閉ざされた、あの日。 こんな日が来るなんて思いもしなかった、あの日。 高く青く、雲ひとつない空を見上げる。 二人にとって、鈍色の空はもう、記憶の彼方だった。 「…おかしいわね」 空になった器を置き、濡れた手を雪菜は浴衣でぬぐう。 「お説教するのは、いつも私だったのに」 「雪菜…」 「わかってる」 半分ほどになった蚊取り線香を、雪菜は消す。 人間がいない今、こんなものは必要ないのだ。 「私の数多い欠点に、憶病はなかったはずなのにね」 下駄を履き、雪菜は庭におりる。 蔵馬が手入れをした庭は、緑をたっぷり残しつつも、気持ちよく風が抜けるようになっていた。 「蔵馬さんと、結婚するんでしょう?」 太陽に向かって能天気に咲いたひまわりを指で突いた雪菜の目に、イチゴシロップにも負けないほど赤くなった飛影の顔が見える。 思わず笑い出した雪菜に、飛影は赤くなったまましかめっ面をした。 「蔵馬のやつ…」 「違うよ。蔵馬さんから聞いたわけじゃないの。ただ、あの人ならきっと、兄さんに求婚するだろうなって」 裸足のまま、飛影も庭におりる。 天に向かってそびえる木々も、競うように咲く花々も、残りわずかな夏を力強く謳歌していた。 「結婚なんてね。そんな約束事は魔界では馬鹿らしいけど、蔵馬さんならそうするだろうな、って思ったの」 飛影の左手に、雪菜はそっと触れた。 普段は右腕にしか巻かれていない包帯は、今日は両腕に巻かれている。 白い包帯を、ゆっくりと丁寧に、雪菜は外していく。 「…ふうん。結構似合うね」 雪菜の右手の上には、飛影の左手。 白いその手の薬指には、魔界の希少な鉱物でできた、シンプルな指輪があった。 「蔵馬さんには、嵌めてあげないの?」 「……オレは」 「あ、もしかして」 自分だけ先に幸せになっちゃいけないとか思って、返事を保留にしちゃってるとか? もー、兄さんてばなんでそういうとこ義理堅いの?馬鹿だなあ。 「さっさと返事して、蔵馬さんにも指輪を嵌めてあげなよ」 「…だが」 「言っときますけどね、私だって兄さんと同じくらい、兄さんの幸せを願ってるんだから。わかってる?」 「わかって…るが…」 「すぐに私も追いつきますので、ご心配なく」 赤い瞳が瞬き、雪菜を見つめる。 「じゃあ…お前」 「色恋で兄さんに背中を押される日が来るとはねえ」 ひまわりを揺らし、雪菜は自分の左手を見下ろす。 「綺麗な指輪、買ってもらおーっと」 指をからめるように飛影と手をつなぎ、雪菜はくすくす笑う。 「和真さんが寿命を全うして、ひとりぼっちになったら、魔界に帰って兄さんたちの愛の巣に押しかけるからね」 「…いつでも来い」 「愛の巣ってとこは、否定しないの?」 「雪菜!!」 大笑いしている雪菜に手を引かれるように、二人は熱い大地にひっくり返る。 強い陽射しに、白い手を翳す。 高く青く、雲ひとつない空。 「ざまーみろー」 間延びした雪菜の声が、空に吸い込まれていく。 「誰に言ってるんだ?」 「氷河のババアども。きっと聞こえてるよ」 ふいに、やわらかな笑みを飛影も浮かべ、ざまあみろ、と空へ向かって呟いた。 高く青く、雲ひとつない空。 終わりゆく夏の大気に、カレーの匂いが混ざり始めた。 ...End
2016年2月再アップ |