遠距離普通は彼女と呼ぶものだ。恋人、という呼び方はちょっと変で、でも南野くんが言うと許せる。というのが、多少の異論は聞こえつつも女子社員の総合的な意見で、私もまあ許せると思っている。 たいした規模の会社ではないとはいえ社長の義理の息子で、仕事ができて、それでいて威張るでもなく優しく穏やか。 何よりも、顔がいい。長い髪は流行りに照らし合わせればちょっとダサいのだけど、本当に顔がいい。 だいたい、男女どちらにしたって、流行りを完璧に着こなすよりもちょっとダサいくらいがモテるのだ。 モテ要素を凝縮したような男なのに、なかなかかわいい女子社員からのアプローチにやつはあっさりとこう言ったらしい。 「すみません。遠距離なんですけど、恋人がいまして」 しょんぼりしているなかなかかわいい女子社員こと後輩にランチをおごってやりつつその話を聞き、ほー、と思った。 遠距離の彼女がいつつ、近距離の女をつまみ食い、なんてよくある話なのに。 まあ多分、つまみ食いするにしても会社の女なんて結構です、ということなのだろう。あるいは、付き合い立てで舞い上がっているか。 そのどちらかだろうと、南野くんより人生経験も社会経験も十年ほど長い私は考えた。 愛は永遠には続かないし、恋はもっと短い。 それを知るくらいには、私は人生というものを知っている。 ***
「土曜日、来ます?」席替え模様替えが趣味の部長のおかげで、今期の会社のデスクは、二つずつが向かい合う島のような形で配置されている。 中途半端な高さのパーテーション越しに、回覧板をちらりとかざし一応声をかけるが、返事はいつもの通りだ。 「あ、すみません。パスで」 彼がいわゆる“親のコネ”を使うのはこういう時だけだ。 オレと酒が飲めないのかよう、などと、もちろん冗談ではあるのだが言ってしまう先輩たちに、そうは言わせないコネの壁を無言で持ち出すのだ。 仕事に関してもそうだ。南野くんはほとんど残業をしない。 時間内に片付ける能力もあるが、どうしても終わらなければ持って帰ってしまう。 長い時間会社にいることを会社への忠誠の証のように考える人は未だに多いが、私もそういうタイプじゃない。 そしてそういうタイプじゃない私が、一応彼の直属の上司ということになっている。なので何も問題はない。 パスという言葉に私は頷き、南野くんのところにバツを、少し迷って、お気に入りの中華料理の店が会場であることを理由に、自分のところに丸を付ける。 いわく。 散々告白し、散々断られて、めげずに付きまとい、ようやく落とした彼女。 なのに彼女は、遠く離れた京都に進学し現在は大学生で。 遠距離恋愛なのにアポもなく平日休日問わず、突然やって来ることしばしば。 事前に連絡もしないくせに不在であれば機嫌を損ね、すぐに京都へ帰ってしまう。 それならばと彼氏が京都へ会いに行ったところで、機嫌が悪ければ会ってもくれない。 すごい。 すごい女だ。 京都からアポもなく東京にやってきて、彼氏が家にいなければ怒ってそのまま帰ってしまうとは。 交通費を考えただけで、こっちは眩暈がしてくる。さては新幹線代などものともしない、甘やかされたお嬢様なのだろうか?いや、若者は体力勝負の格安高速バスかもしれない。などと取りとめもないことを考える。 「冬の京都もいいよね」 南野くんに言ったようでもあり、独り言のようでもあるようにこぼした言葉に、彼が顔を上げる。 冬の京都で美味しい湯豆腐でも食べたい、と考えながらパソコン仕事で凝った肩を揉んでいた私に、南野くんが笑う。 「冬もいいですよね、京都」 「だよね。彼女がいるなら、穴場も案内してもらえていいね」 コーヒーの入ったマグカップを片手に、彼は首を傾げる。 「オレの恋人は人混みが嫌いなので、観光は難しそうですけど」 「なんじゃそら」 なんじゃそら、だ。 女なんてみんな京都が大好きだろう。というか、そうじゃないならどうして京都に進学したんだ。 京都ラブ!で進学して、今ごろプチプラコスメのグロスでつやつやになった唇からエセ京都弁を吐き出しているんじゃないのか。 「じゃあ、彼女がこっちに来た時も出かけないの?」 「あまり。家にいることが多いですね」 「お家デートだ」 「はい」 ふーん。じゃあ、彼女は東京の利便性や刺激を愛して遊びに来るわけではなく、純粋に南野くんに会いに来ているというわけか。 「写真とか、見たいよ。そのベタボレ彼女の」 立ち上がり、デスクの上の携帯を指して私が言うと、彼は笑って首を横に振る。 いつでもそうらしい。彼女の写真が見たいと言ったのは私できっと三十人目くらいなんだろう。 本当に、いるのかな。 ふと、そんな考えが頭をよぎる。 社長の息子で、仕事ができて顔が良くて。女子社員たちから放っておかれるはずもない。面倒を避けるために適当な架空の彼女を作って話してるんじゃなかろうか。 ふと、南野くんが立ち上がり、パーテーション越しに身を乗り出し、私に囁いた。 「…好きすぎて、誰にも見せられないんですよ」 「え」 思わず見つめてしまう。 一瞬、呼吸をするのを忘れてしまう。 本当に綺麗な顔をした男だ。そこらの芸能人も目じゃない。 …時々まるで、人間じゃないみたいに思えるくらい。 「オレの恋人は…」 気が強くて小さくて白くて、黒髪のショートヘアなんです。 世界一かわいいので、誰かに見せたら取られちゃうかもしれないでしょう? 「他の人に、言っちゃだめですよ?」 いたずらっぽく人さし指を唇に軽く当て、彼は笑った。 そのはにかんだような笑みは本物の笑みで、私の中で、ぼやぼやとした影だった恋人が光になる。 南野くんの“彼女”ではなく“恋人”。 気が強くて小さくて白くて、黒髪ショートで世界一かわいい恋人。 お先に失礼しますの声に、お疲れ、と片手を上げ、椅子にドシンと腰掛けた。 いつの間にかスクリーンセーバーになっていたパソコンをマウスを動かし叩き起こしたが、目の前の文字は頭に入らない。 ぼやぼやとした影だった恋人が光になってモニターをかすめる。 気が強くて小さくて白くて、黒髪ショート。 人混みを嫌い、アポもなくふらりとやってくる。 なぜだろう。 会ったことも見たこともないその恋人が、新幹線でもバスでもなく、空にある…例えるならどこでもドアのような物から…ふわりと南野くんの腕の中に降りてくる、という光景が思い浮かぶ。 「どこでもドア?」 私、疲れてるのかな。まあいつでも疲れてるんだけど。 やれやれと頭を振り、今日の仕事は諦めてパソコンの電源を落とす。 気が強くて小さくて白くて、黒髪ショート。 人混みを嫌い、アポもなくふらりとやってくる。 きっと好むのはシンプルな黒い服に違いない。 なぜか、そんな気がした。 ...End. |