依存症...side Y

DVとは、しょせん共依存である。

病院に向かう電車の中で、いつだったか読んだ本にあった一文を、私はまた思い出している。火曜日の午前11時。電車は空いていて、差し込む陽射しが暖かい。

暴力を振るう側と、振るわれる側。
それは共に、相手を必要としているのだという。

だとしたら。

目的の駅に着いたことを知らせるアナウンスに、私は立ち上がる。
この駅に降りるのも、もう何回目だろうか。

共に、相手を必要としている。
そうなのだとしたら。

私はいったい、何を必要として、誰に必要とされて、今ここにいるのだろうか。
***
大抵の人と同じように、私も病院が大嫌いだ。

大きな建物は古ぼけていて、過去と今の、嫌なにおいをすっかり吸い込んだ壁でできている。
汗や、排泄物や、薬のにおい。そして痛みや苦しみや老いや死のにおいが、昼近くなった病院に漂う昼食のにおいに混ざり、ひどく不快だった。

総合病院であるこの病院の、外来受付の時間はもう終わっている。
暇そうに受付に座る初老の女性に声をかけ、決まり通りに免許証を見せて身分を証明し、病室を教えてもらう。

古い病院の古いエレベーターは、軋みながら上階へと上る。

どうして、ここにまた来てしまったのだろう。
廊下の手すりにすがって歩く病人や怪我人を追い越し、教えられた部屋を探す。
***
忙しさを示すためにわざと乱雑に書いたのではないかと思うような、名札。
ゆるい角度で起こされたベッド。
点滴の管は膨らんだ袋に繋がり、絶え間なく雫を落とす。

「飛影。来たよ」

寝てはいなかったらしい。
赤い瞳の片方が、ゆっくり開き、私を見上げる。

「…雪菜」

仕事なのにすまない、だとか、忙しいのに悪かった、だとか、くだらない言葉を口にする飛影に、私は心底うんざりする。
売店で買った有料のカードを冷蔵庫に差し込み、水やお茶のペットボトルを入れてやる。

「いいよ別に。大丈夫?」
「…階段から、落ちたんだ」

私は何も、尋ねてはいない。
なのに飛影は、目を泳がせて、自分から怪我の理由を話そうとしている。

「階段?また?」
「……ああ」

階段。
この馬鹿げた言い訳も、これで何度目になるのだろうか。

「へえ。そうなんだ。災難だね」

顔の右半分は、右目も含めて包帯できつく巻かれている。
包帯から飛び出した髪は血で汚れてごわごわに固まり、嫌なにおいがした。

「そんなに頻繁に怪我をするなら、ロフトに上らない方がいいんじゃないの?」

ロフトには、はしごよりはマシ、という程度の幅の狭い階段が付いていた。けれど、物置のようになっているロフトに、なぜしょっちゅう上がる必要があるのか。
たかが2メートルほどの高さのロフトに上がる階段から落ちて、どうして顔半分をぱんぱんに腫らし、食事もできないほどに腹部を強打し、肩を脱臼し、肋骨を二本折るというのか。

数え切れない古い痣や新しい痣が、どうして白い肌をまだらにしているのか。

そう問い詰めることに意味はないことを、私はもうよくわかっている。
私は追い詰め、飛影は逃げる。そのくり返しに過ぎない。

「これ、入れとくね」

飛影がこうして病院に運ばれるたびに持ってきている紙袋を、ベッドサイドの棚にしまう。中身は下着や洗面用具、百円玉が30枚ほど入ったがま口の小銭入れ。テレホンカード。

「必要ない」
「どうして?」
「もう帰る」

ナースステーションにいた看護婦からは、簡単な説明を聞いただけだった。医者から話をするので、1時に来てくれと病院から言われていた。
その話を聞くまでもなく、今日帰れるわけもないということは、見ればわかる。
ここでくだらない言い争いをしたくはない。カーテンに覆われた他のベッドの中では、退屈を持て余した患者たちが耳を澄ませているのだから。

四人部屋には、昼食が運ばれてきていた。
もちろん、食事ができない飛影の分はない。

「今日は車で来てないよ。だから駄目。帰れないよ」
「電車でいい」
「私におんぶしろって言うの?」
「歩ける」
「そう。でもご飯が食べれるようになってからね」
「食える」
「なら、今すぐお昼ご飯もらってくるけど?」

意地悪く言うと、さすがに飛影は黙り込んだ。
そもそもこんな状態では、飛影は帰ることなんてできないはずだ。
入院の書類にサインするために、私は呼ばれたのだから。

受付の女性は、警察を呼ばなくていいのか、と言った。
この病院でだけではない。それはもう、何度も何度も言われた言葉だ。けれど被害者に訴える気がないのならば、何もできることはない。

「もう、私を呼ばないで。飛影」

何度、飛影に言っただろう。

加害者から離れる気も、訴える気もない。私の忠告も、助言も、縁を切るという脅しも、一切聞かなかった。そのくせ、こうして病院に運ばれるはめに陥った時にだけ、唯一の肉親である私を呼ぶ兄。

助けを求めておいて、何一つ言うことを聞かない、兄。

「…悪かった。もう呼ばない」

さびしそうにぽつりとこぼす言葉も、もう飽きた。

それも、何度も聞いた。
なのに、こうしてまた、同じことのくり返し。

「…私のところに来る気には、まだならない?」

私のお給料は、それほど高いわけじゃない。
無理をして車を所持していた。無理をして2DKのアパートを借りていた。

いつか、飛影が私のところに逃げてくる時のためにと。

この二年間、空けておいた六畳間は無駄に埃をかぶっていた。おんぼろの中古車は、バッテリーが上がらない程度に使っているだけだ。
女の子以外は欲しくなかった両親が、産まれたばかりの飛影を施設に捨てたことを知った三年前、私は両親を捨てた。

私たちは、二人きりの家族だった。

「……蔵馬が待ってる。帰らなきゃ」

ベッドに付けられた転落防止の柵を、私はぎゅっとつかんだ。
そうでもしないと、目の前のこの痩せて傷んだ体を、力いっぱい揺さぶりたくなってしまう。

あの人と同じように、飛影を痛めつけてやりたくなる。

「…なら、勝手にしたらいいじゃない」

ちゃちなプラスティックの椅子から立ち上がり、飛影を見下ろす。

“これ”が始まったのは、二年前のことだった。
あの頃私を訪ねてくる飛影の目には、助けを求める光があった。
ここから脱け出したいと、何かを変えなければならないと。

けれど、今はもう違う。
覗き込んだ飛影の目には、私を求める光などない。
ただただ、家に帰りたいと、恋人の元へ帰りたいと、渇望する光だけ。
病院の書類に肉親のサインがいらなければ、もう私に連絡すら寄越さないのかもしれない。

「あいつには…俺がいないと駄目なんだ」

これもまた何度も聞かされた言葉だというのに、今回はカッとなった。
サッと手を伸ばし、飛影の右手を乱暴につかんでやる。

脱臼した肩や折れた肋骨や強打した腹部や殴られた顔や頭に響くことはわかっていて、強くつかんで引っぱった。

飛影が、苦しそうに顔を歪めた。
無事だった方の左手で押さえた口元から、小さな悲鳴がこらえ切れずに漏れる。
そこでようやく、私は我に返った。

「………ごめん」

痛みに潤んだ目は、私を責めてはいない。
本当に責めるべき相手のことも、責めてはいない。

「お医者さんと話して、退院する日に来るから。要る物あったら携帯に電話ちょうだい」

これ以上、ここにいたくなかった。
ここにいる飛影も、二度と見たくなかった。
***
今日もまた、火曜日だ。
電車は変わらず空いていて、差し込む陽射しの弱さだけが、二週間分冬に近付いたことを教えてくれる。

携帯の画面に表示されている何件もの着信。同じ番号からの、着信。
昨日から続いているそれに、今日も車は必要ないだろうと、電車で来た。

今日の受付は、私とそう年も変わらない若い子だった。名乗った途端、女の子は他の人を呼びに行ってしまう。

「何度もお電話したんですよ」

しかめっ面で出てきたのは、この間の初老の女性だった。

「あなたのお兄さん、勝手に退院されて」
「…そうですか」
「どうして電話折り返してくれなかったんです?」

無駄だから、という返答を、私はかろうじて飲み込む。
どうせ、飛影はあの人のところに帰ってしまうんだから、という言葉も。

昨日の午後に来た男は、きちんと支払いを済ませ、ナースステーションに礼まで言い、飛影を連れ帰ったのだと受付の女性は私に説明した。

あなたのお兄さんはどう見ても誰かに何度もひどい暴力を振るわれているし、迎えに来た人がきちんと保護できるかもわからなかった。けれどあなたに連絡はつかないし、支払いも済んでいた。何よりも本人がその人と帰ると言い張ったものだから、病院としては止められなかったのだと。

「あの人、前にも迎えに来た人でしょう?」
「…そうですね」
「失礼ですけど、どういうご関係なの?お兄さんをちゃんと保護できているようには思えないけれど」

保護。
なんだか可笑しくて、唇を噛んだ。

あの人が兄の、顔を殴り腹を殴り骨を折り腕を肩から抜いたのだと、この人の良さそうな女性に言ったらどういう反応をするだろうかと、つい想像してしまう。

「あなたが唯一のご家族なんでしょう?どうして他の方が」
「ごめんなさい。兄はもういないんでしょう?帰りますね」

ちょっと、と言う声を背に、私は歩き出す。
車椅子の並ぶ、大きな入口まで来たところで、追いかけてきたさっきの女の子に声をかけられた。

「あの、すいません。これ」

忘れ物だと渡されたのは、二週間前に持ってきた紙袋だった。
中には、汚れた下着と濡れたままの洗面道具。三百円ほど残った小銭入れ。使いかけのテレホンカード。
入口前の大きなゴミ箱に目をやったのは一瞬で、私はその袋を抱えたまま病院を出る。

…DVとは、しょせん共依存である。

飛影はあの人から離れられないし、あの人は飛影から離れない。
家に帰った私はきっといつものように、下着を洗い、洗面用具を乾かし、小銭入れをまたいっぱいにしておく。

次に飛影が、私を呼んだ時のために。

私はいったい、何を必要として、誰に必要とされて、今ここにいるのだろうか。


...End.