依存症...side H

なめらかに、という言葉を俺はいつでも思い浮かべる。
蔵馬は、なめらかだ、と。

俺の左側、運転席に蔵馬はいる。
大きな車は静かだったし、蔵馬の運転はなめらかだ。

けれど、小さな振動やめまぐるしく変わる景色に、体が痛み、胃がむかむかするのはごまかせない。本当はもう一週間、入院しているはずだった。
けれど蔵馬は、平然と今日迎えに来た。同室の患者やその家族、看護婦たちにもにこやかに微笑んで。
仕事や人付き合いやその他日々のこともろもろを、なめらかに片付けることができるのだ、この男は。

左手をハンドルに置いたまま、蔵馬の右手が俺の膝を軽く撫でた。
それにビクッとしたことを、蔵馬が気付かなかったはずはない。

「もうすぐ、着くからね」

優しい言葉。優しい笑み。
二週間前に俺を壁に床に叩き付け、散々に殴った男とは思えない、その笑顔。
***
今どき携帯電話を持っていないのはよほどの年寄りか子供だけなのだろう。各階に一つずつある公衆電話は、いつも無人だった。

あちこちが破れスポンジの飛び出したビニールのソファに座り、黄緑色の電話を見つめたまま、動けずにいた。
病院で支給される寝巻きは薄く、廊下にいるには寒かったが、羽織るものは持っていなかった。雪菜に電話をすれば持ってきてくれるだろう。けれど、頼むのは気が引けた。もう呼ばないで欲しいと言われたのは初めてではなかったし、きっと最後にもできないのだろう。

寒くてたまらないのに、俺は汗をかいていた。
怪我のせいで熱が下がらないのだと看護婦は言ったが、そんなことは言われなくともわかっている。
汗ばむ手の中を見下ろす。雪菜のくれたテレホンカードは、公園のような場所を舞い上がる、色とりどりの風船の写真だった。

絵のように青い空。緑の濃い、大きな木々にはたっぷりの葉。なんとなく、日本ではないのだろうということはわかった。どこか外国の公園であろうそこを舞い上がる、たくさんの風船。

今すぐ、ここに行けたら。
雪菜と二人で、こんな場所で暮らせたら。

ふと、顔を上げる。
無数のシミが浮かぶ壁、同じ病院着で行き交う人々。黄緑色の電話のコードはねじれている。誰かの引きずる点滴の器具が、耳障りな音を立てていた。

テレホンカードの中の世界と、ここは正反対の場所だ。

自業自得。
わかっている。百も承知だ。

病院着のズボンで手のひらの汗を拭う。薄い布ごしの、自分の体が熱い。
俺の憶えている電話番号は二つしかない。一つは雪菜の携帯で、もう一つは。

立ち上がり、受話器を取る。
テレホンカードが、勢い良く吸い込まれる。

090、そこまで押して、指が止まる。

ーやめろ、よせ、電話をするなら、そっちじゃない。
ー同じことを何度繰り返せば、お前は目が覚めるんだ。本当の馬鹿なのか。

頭の中の声に押されて、もう少しで7を押すところだった。
だった、のに。

ー飛影

あの、声。俺を呼ぶあの声が。

ー飛影。君がいないと、俺は

7に触れた指先が力なく下り、3を押した。
***
「お風呂、入るでしょう?」

13階の角部屋。
4LDKのマンションは、玄関から居間から風呂場まで、シンプルだが金のかかっていることがわかるインテリアだ。
家中に、蔵馬の香水がほのかに香る。緑の森の中のような、不思議な匂い。台所からは、かすかにコンソメのような匂いもする。

「ポトフ、昨夜から煮ておいたんだ」

ベーコンたっぷり入れたんだ。美味しくできてるよ。君の好きなパンも焼いたんだ。
嬉しそうに、蔵馬が言う。

ふいに、怒りに似たものがわき上がる。

こんな所にいたくない。
頭も胸も腹も肩も痛い。体中が痛い。それは誰のせいだ?
何が風呂だ。何がポトフだ。今望むのは横になりたい、それだけのことだ。

今すぐここから出て行きたい、それだけだ。

ーなら、出ればいいじゃない。
ーどうして、できないの。

何度も雪菜になじられた。

ーわがままで、自分勝手で、束縛しているだけじゃない、あの人は。
ーどうして離れないの。どうしてまたあの人の所へ帰るの。
ー思い込みのくだらない嫉妬で暴力を振るう、そんな人を、どうして愛せるの?
ーあの人は狂ってる。頭がおかしいよ。
ーなのにどうして、あの人の所へ帰るの?
ー家へ来て。ちゃんと部屋もあるから。聞いてるの?

ーねえ、本当にいつか、殺されちゃうよ。

雪菜の言葉が、頭の中でぐるぐるまわる。

「お風呂、入るでしょう?」

二度目の言葉とともに、軽く腕を引かれた。
知らず知らず、俺は蔵馬を見上げるように、睨んでいた。

蔵馬を見上げた俺は、ひどい顔をしているはずだ。

今朝、病院の共同の洗面所で見た自分の姿を思いだす。
二週間前には茄子のような色をしていた痣も、今は薄い茶色と黄色のまだらになっていた。右目は真っ赤に充血し、昨日抜糸したばかりで洗うことができずに拭くだけだった髪は、ごわごわしていた。

つかまれた腕を振り払う寸前、ふわりと抱きしめられた。
コートを着たままの蔵馬の体。長い腕が、傷に響かないよう気を使っているのか、そっと背にまわされる。

「…放せ」
「飛影」
「放せ!!」

蔵馬の唇が、右の眉のあたりに落とされる。
思わず閉じた瞼を、濡れた舌がなぞる。

「会いたかった…飛影」

馬鹿馬鹿しい、と雪菜なら一喝するところだろう。
会えなかったのは、あなたが怪我をさせたからじゃない、と。
なのに俺は腕を振り払うこともできずに、固まっていた。

コートに包まれた、蔵馬の体。
長い髪が、俺の顔に肩にかかる。
抱きしめられると、香水の匂いが強く立った。

振り払え。逃げ出せ。
ここにいてはだめだ。こいつと一緒にいてはだめだ。

二週間前、パジャマのまま裸足で逃げ出したこの場所。
どうして俺は、ここへ帰ってきた?

「…飛影」

聞くな。
こいつの言葉なんか聞いてはだめだ。

「飛影、ごめんね…」

涙声。俺の首筋に蔵馬が顔を埋める。
首筋に落ちる、涙の雫が冷たい。

「二度とあんなことはしないから…許して…」

いつものことだ。
何度謝られたって、何も変わらない。
だから、俺がここから逃げださなければならない、のに。

「飛影…」

だめだ。言うな。
耳を塞ごうと上げた両手が、蔵馬に阻まれる。

聞いてはだめだ。
それを言われたら、俺は、また。

「飛影…君がいないと……俺は生きていけない」

全身の力が、すうっと抜ける。

ー君がいないと俺は生きていけない

それは魔法の言葉。
悪魔の囁き。

なじることも責めることも動くことも逃げ出すこともできなくなる、言葉。
なめらかに俺の中に吸い込まれてしまう、その言葉。

三年前、突然俺の人生に妹が現れた。
雪菜は俺を、兄として愛してくれた。大切にしてくれた。初めて愛してくれたのは、雪菜だったのに。

目の前の、狂った男の顔を見る。男は驚くほど綺麗な顔をしていて、驚くほど狂っていた。男は俺から仕事を取り上げ家を取り上げ、ここに閉じ込め、とっておきの呪文をかけた。

君がいないと俺は生きていけない、と。

初めて人に必要とされた。
お前を必要としていると、俺に言ってくれたのはこの男が初めてだった。
だから、俺は。

体が持ち上げられ、ソファの上に下ろされる。
蔵馬にされるがまま、髪を顔を撫でられ、降り注ぐキスを受けた。

「…愛してるよ、飛影」

返事のかわりに、俺は傷めていない方の腕を蔵馬に回し、ぎゅっと抱きしめ返した。

わかっている。
これもまたとんだ茶番だ。続くのはいつも通りの茶番。

このソファの上でセックスをする。そして風呂に入る。
蔵馬は俺の全身を、髪を、気味が悪いほど丁寧に洗うだろう。そして風呂の中でもう一度セックスをする。どれほど優しく抱かれたとしたって、きっともうその頃には傷が痛くて、俺はげんなりしているはずだ。

風呂から上がれば、蔵馬は嬉々として俺の好物のポトフを温める。それを食べさせられ、ベッドへ行く。大きなベッドで、蔵馬に抱きしめられて眠る。

明日も明後日も、蔵馬は仕事が終われば真っ直ぐ家に帰ってきて、何かしら俺の好物を作る。風呂だ食事だと甲斐甲斐しく俺に尽し、傷めた体をそっと撫で、俺を抱くだろう。

その生活は、しばらく続く。
一週間か、一か月か。あるいは長くて半年か。
次に俺が、蔵馬の気にくわないことをするまでは。

俺が外へ出て他の男としゃべっただの、誰かをじっと見ていただの、訳の分からない理由で激怒し、俺を散々に殴りつけ、耐え切れなくなった俺が逃げ出すまでは。

…あるいは、もう逃げ出すことさえできないほどに痛めつけられた俺が、死ぬまで、か。

「……飛影」

いつの間にか、服は脱がされている。
広げられた足の間で、飴を舐める子供のように、蔵馬が俺をしゃぶっていた。舌はいつも通りの動きだったが、感じる快感はなぜか鈍い。
俺は蔵馬の長い髪を指で梳きながら、白い天井を眺める。

真っ白い天井。
けれど、俺の目に浮かぶのは、色とりどりの風船だ。

今ごろ雪菜はきっと、汚れた荷物を受け取り、家に帰っているのだろう。
あの、風船の舞い上がる、テレホンカードとともに。

解き放たれ、自由に舞い上がる、あの風船たち。

「飛影…愛してる…どこにも行かないで…」
「………」
「お願い……飛影…君がいなきゃ…俺は生きていけない…」
「…………ああ。俺はどこにも行かない…お前の…」

側に、いる。

わかっている。
解き放たれ、自由になることなど、俺は本当は望んでいない。
ここにいるのが幸せだと、この男の側にいたいと、心が体が、望んでいる。

雪菜は俺を愛してくれた。けれど必要とはしてくれなかった。

この男だけが、本当に俺を必要としてくれている。
俺がいなければ生きていけないと言う、その言葉に嘘はない。
それだけは確かだった。

だから、俺はここを動けない。
例えいつか、本当にこの男に殺される日が来ても。

…むしろ、それを望んでいるのかも、しれない。

蒼い瞳。
俺を心配し、そして責めている、蒼い瞳。
嘆いて、憂いて、そして哀れんでいる、綺麗な瞳。

すまない。
心の中で雪菜に詫びながら、目を閉じる。

「飛影…愛してる…愛してるよ…」
「………蔵馬」

閉じた瞼の裏に浮かぶのは、色とりどりの風船。

空高くのぼる、
自由で孤独な、無数の風船だ。


...End.