閉じたドア人間じゃなくなったからって、オレは何も変わらない。そう思ってたんだけどな。 煙草に火をつけ、深く吸い込む。 眼前に広がる森は、魔界特有の暗く、不毛な森だ。 何の味もしない紫煙が流れる。 おかしな話だ。 人間でなくなってから、煙草の味など分からなくなってしまったのに、 まだこうして煙草を吸っているのだ。 暗く、不毛な森。 そう思ったのは人間だった時。 今はまるで違って見える。 不思議な生命力。暗く強い力を感じる輝く森。 …ここで生きるのは幸せなのか不幸なのか。 「彼女を妖怪にしたらいいでしょう?」 森から吹く風に髪をなびかせ、雪菜は事も無げに言った。 「あいつを?」 「…ええ。…螢子さんでしたっけ?あなたの恋人」 何度も螢子に会っているのに、雪菜は名前も覚えていない。 …どうでもいいことなのだろう。 それも悪くないかな。 そうしてここで一緒に暮らそうか。 「ああ…でも彼女は望まないかもしれないですね」 酷薄な笑みを浮かべ、雪菜は言う。 痛いとこ突かれた。 そうだ、あいつは望んでないだろう、そんな事は。 「…まったく雪菜ちゃんは優しくないねー」 「ごめんなさいね」 悪いとは思ってなさそうな笑顔。 「本当に、飛影に似てないね」 「ええ」 あっさり肯定する雪菜に、オレは苦笑した。 以前は儚く、脆い少女に見えたのに。 魔族になったオレにはもうそうは見えない。 雪菜は以前のようにやわらかな和服など纏ってはいない。 ざっくりとした生地の…人間界風にいうならズボンとTシャツ… 動きやすそうな服を着て、剣を携えている。 明らかに、いつでも戦闘に挑めるように、だ。 目に映るのは、冷たく鋭い氷の刃を思わせる女。 本当に、似てないな。 そりゃ、顔立ちやなんかはよく見ると似ているところもある…。 大きな目とか白い肌とか。何より小柄なところとか。 だが、内面はまるで似ていない。 「飛影に会いたいなあ。どうしてるかなあいつ」 「兄に?探しましょうか?」 「え?探す?」 雪菜は眼下に広がる広大な森を眺め、目を閉じる。 「…東」 「へ?わかるの?」 白く細い指が、東の彼方をスッと指差す。 「ずうっと東の森。あの森の奥に」 「邪眼もないのに、そんなに遠くのこと見えるの?」 「…見えるわけないでしょう。感じるんです。兄の妖気を」 「すげーな」 「兄の妖気ぐらい、どこにいたってわかりますよ」 素直に賞賛するオレに向かって、冷たい笑みを浮かべる。 …多分雪菜は飛影よりずっと強いのだろう。 飛影が知ったらショックだろうな。 じゃ、ちょっくら会ってくるわ、と言うオレに向かって、 雪菜はもう一度意味ありげに笑った。 ***
気配を消し、薄暗い森を歩く。前は気配を消すなんて出来なかった。 今は、簡単なことだ。 気配を消したのは飛影に気付かれたくないからだ。 友人、だと思ってるのに、飛影は会うと露骨に嫌な顔をする。 ー何の用だ? ー用がなくたって会ったっていいだろ。友達なんだから ー友達?誰がだ? と、まあこんな感じだ。 冷たい奴。 いきなり行って驚かしてやろうと思っていたのに。 木の陰からは、小さな声がした。 声がするということは、誰かと一緒なのか。 まあ、誰か、ってのは飛影の場合、蔵馬しかいないのだが。 音を立てずに、木に飛び乗る。 声のした方を、そっと見下ろす。 白い背。長い髪。 その背に巻き付く、細い腕。 小さな手…。 あららら。 お楽しみの最中ってわけか。 さっきの雪菜の笑いを思い出す。 …知ってて、オレに場所を教えたんだな。 なんという妹。 いい妹を持って幸せだなあ、飛影。 もちろん飛影に覆い被さっている白い背は、蔵馬だ。 覆い被さってりゃ、木の上は見えやしないんだから、気付かないだろう。 気配は完璧に消せている。それは自信があった。 だが、飛影は仰向けだ。 ちょっと辺りを見渡せばオレが見えるはずだ。 「あァッ…っん…っん…くらま…」 …周りなんか見渡さないな、きっと。 突かれる律動に合わせて上がる甘い喘ぎ声に、オレはそう判断した。 手も、足も、蔵馬に巻き付くように縋り付いている。 癖のある黒髪も、汗に濡れて額に張りついている。赤い目が閉じられていると、いつものような生意気な感じはしない。 幼い顔で、快楽を貪っている。 …アホくさ。 こっちはでばがめしに来た訳じゃない。 立ち去ろうと、腰かけていた枝から立ち上がる。 ふと、飛影がうっすらと目を開けた。 瞬間、オレを認めて目を見開く。 やべ。 あいつのことだ。 こんな所を見ていたのを知ったら、烈火のごとく怒る… 飛影はみるみるうちに真っ赤になり、口を開き何かを言いかけ… ふと、思い直したように口を閉ざした。 今さら立ち去れなくて、泡をくっているオレをじっと見つめると、 何を思ったか、ふわっとした笑みを浮かべた。 赤く染まった目元が淫靡な感じだ。 じっとオレを見つめたまま、何も気付いていない蔵馬に囁く。 おいおい、言い付ける気じゃ… 「く…らま……もっと……」 もっと? 蔵馬はクスクス笑うと、言われたとおりに律動を激しくする。 小さな体が仰け反る。 悲鳴とも嬌声とも区別がつかない声。 結合部が濡れた音を響かせる度、何度も何度も声が上がる。合間合間に、くらま、とねだるような縋るような声がする。 …そしてオレをチラリと見て笑う。 飛影がわざとオレに見せている、聞かせているのは、鈍いオレでもわかった。 ああ、オレやっぱり魔族になったんだ、としみじみ思う。 目の前で仰け反る体になんの嫌悪もわかない。 以前はどうしようもなく淫らに見えた絡み合う姿が、 奇妙な生命力に満ちて、輝くようにさえ見える。 ふいに、奇妙な気分になる。 自分が蔵馬になって飛影を抱いているような。 自分が飛影になって蔵馬に抱かれているような。 視線の先では、小さな体が一際大きく仰け反るのが見えた。 ***
「何か用か?」百足に戻ろうとしていた飛影を捕まえた。 何か用か?と聞かれるとは思ってなかった。 言葉に詰まる。 いつも通りの無表情。 さっきのことはオレの夢かと思っちまいそうだ。 「ええと」 「…用がないなら話しかけるな」 つれなく行ってしまおうとする飛影の腕を、思わずつかんだ。 「さっき…森で…いや覗くつもりじゃなかったんだけど」 何言ってんだ、オレ。 「何の話だ?」 言葉とうらはらに、頬が赤く染まる。 夢ではなかったらしい。 「蔵馬と…」 オレ、何言おうとしてるんだろ。さっさと帰った方がよさそうだ。 そう思って、つかんでいた腕を放す。 飛影は胡乱げにオレを見つめると… 「なんだ。お前もしたいのか?」 赤い頬のまま、首を傾げてクスクス笑う。 へ? いやそんなつもりは…。 絶句するオレに向かって、なおも飛影はたたみかける。 「別にいいぜ?」 「ちょ、ちょっと待て。何の話だよ…」 首に巻いていた白い布が、シュルっと軽い音を立てて解かれる。 首に散る赤い斑点。 あ、やべ、と思った時には、紅の瞳に射竦められた。 小柄な体が、オレにもたれる。 細い腕が背に回され… 突き飛ばされた。 「痛ってーなー、何すんだよ…」 見事に木にぶつかり、尻餅をついたオレを見下ろし、飛影が笑った。 「本気にするな、バカが」 白布を拾い上げ、首に巻く。 なんだ、からかっただけか。 相変わらず性格の悪い奴。 「…あーそーですか。へー。蔵馬とじゃなきゃイヤなんだー」 一途だね~、とオレも大人げなくからかう。 「誰とだって同じ事だ」 そっけなく飛影が返す。 言葉と裏腹に顔は真っ赤だ。 「ふうん。じゃあオレとでもいいんだろ?」 オレも大人げないな。いい加減やめとけ。 立ち去りかけていた飛影が、ゆっくり振り向く。 「…お前が人間ごっこを終わらせたならな」 赤い瞳が、オレを見据えている。 「何言って…」 次の瞬間、目にも止まらぬ早さで飛影に押し倒された。 あたたかく、湿ったキス。 飛影を抱きとめたまま、呆気にとられているオレに、 小さな妖怪は笑った。 「いい加減諦めたらどうだ。お前はもう人間じゃない」 小馬鹿にしたような薄い笑み。 人間にしがみつく気なら、オレの前に姿を見せるな。 立ち上がりながら、あっさりと言う。 トン、と地を蹴り、あっという間に飛影は姿を消した。 ずるずると木にもたれたまま、オレは座り込んだ。 「……螢子…」 悪りい。 やっぱもう人間には戻れないみてーだ。 暗褐色と黒が入り交じる魔界の空を見上げて、オレは呟いた。 ...End |