ねこたび

この島の空気の半分は、水でできているのかもしれない。
暑く湿った空気を深く吸い込み、飛影はそんなことを考える。

潮をたっぷり含んだ海風が、全身を包む。
隣で寝そべる妹が髪飾りにしている花も、目の前にある果物も、飛影にとっては見慣れぬものだ。

「兄さん」

小さなナイフで毒々しい濃赤の果物を二つに割ると、雪菜は差し出す。
あふれた果実の汁が、白い指を光らせる。

青い空、青い海。
二人の休暇は、始まったばかりだ。
***
「なんだか気味が悪いな」

ドロドロとしたゼリー状の果肉の中には、深緑の種が無数に入っている。
すくって食べるのだとスプーンを飛影に手渡し、雪菜は早くも次の一個に手を伸ばしている。
落っことしたら粉々になりそうな薄く繊細なガラスのスプーンで、飛影は中身をすくう。

甘く、すっぱく、何よりも強い香りが際立つ。カリカリとした種は噛むべきなのか、そのまま飲み込むべきなのかよくわからない。
初めての味わいに、飛影はしっぽをぶるっとふるわせる。

「美味しいでしょ?」
「まあな。すっぱいが」
「素直じゃないわねー」

からかうように雪菜は言い、スプーンをくわえたまま笑う。

大きな樹が作る木陰。
細かな砂の付いた妹の白い肌。
山と積まれた香り立つ果物。

青い空と青い海を区切る白い線は、この世の果てまで続いているかのように飛影には見えた。

休暇。
そもそも働いているとはいえない兄妹に与えられた休暇という時間に、兄の方はまだ困惑している。
***
「嫌。あなたがいない旅行なんて」

なめらかなビロードのソファの上。
六種類のチーズで六層に仕上げたケーキ、という、なんだか複雑でとても美味しいチーズケーキの皿を片手に、飛影は目の前のやりとりを眺めていた。

飼い主である躯と二週間ほど、海の綺麗な島へ旅行へ行くと話していた雪菜だったが、どうやら躯は仕事にトラブルが発生し、行けなくなったと雪菜を宥めているらしい。

「嫌よ。仕事なんて部下に任せればいいじゃない」

ケーキのフォークをくわえたまま、雪菜はふくれっ面をする。
水色の髪をやさしく撫で、躯は困ったように笑う。

「今回はそうもいかなくてな。召使いたちはそっちへやるから、ゆっくりしてくるといい。お前の好きなエステやらなんやらもあそこはたくさんある。車で出れば買い物も楽しめる」
「一人で?嫌よ」
「わがままなやつだな」

そこが可愛いがな、と目を細め、躯はコーヒーカップを取り、ふと飛影に目をやる。

「そうだ。雪菜、飛影と行ってきたらどうだ?」

白い耳と黒い耳をピンと立て、兄妹は顔を見合わせる。
生き別れになったのは幼い時だったし、出会ってからは派遣ネコだったのだからそんな暇はなかった。兄妹は二人で旅行などしたことがない。

「兄妹で旅行をしたこともないのか?なら、今回はうってつけだろう。そう遠くもないしな」
「俺は…でも蔵馬が…」
「なんだ。お前も飼い主がいないとさみしくて駄目なのか?」

からかうような躯の言葉に飛影はむっとして、しっぽを揺らす。

「さみしい?そんなわけな…」
「ならいいだろう?お前の飼い主も休みを取れるなら一緒に行ったらいい。どうせコテージを予約してあるんだ。部屋はいくつもある」

飛影の返事も待たず、この部屋によく似合う金色の古風な電話を躯は取り、金属の指先でダイヤルを回した。
***
さすがに急に二週間の休みは難しいな。
でも、雪菜ちゃんと旅行なんて初めてじゃない?行っておいでよ。

笑顔で言う蔵馬に、飛影はぼそっと返した。

「でも…」
「でも?」
「…ここにいるのが、俺の仕事だろう?」

黒いしっぽが、力なく揺れる。
仕事用の椅子から立ち上がった蔵馬は、ひょいと飛影を抱き上げ、ふわふわの耳に、きれいなカーブの頬に、小さな唇にキスをした。

「…ん」
「いいよ、兄妹で旅行に行けるのも滅多にないじゃない?俺はちゃんとここで待ってるから」

こうして夏の休暇が、始まった。
蔵馬の用意した荷物の詰まった小さなボストンバッグ一つを飛影は持って、生まれて初めての飛行機に雪菜とともに乗ったのだ。
***
「飛行機、苦手なんだ?言えばいいのに」

言えば、も何も初めて乗ったのだ。自分が飛行機が苦手なのかそうでないのかすら飛影にはわからなかった。考えたこともなかった。

だいたい鉄の塊が空に浮くこと自体がおかしい、と飛影は思う。あの、地面を離れる瞬間の、なんともいえないフワッとした感覚。

簡単に言えば、飛影は飛行機に酔った。

今日はとても安定して飛んでいると雪菜は言ったが、飛影は今にも逆流しそうな胃袋を押さえ、寝そべれるほど広い座席に小さくまるくうずくまっていた。

ミントを浮かべた冷たい水や薬を運び、背をさすろうとした召使いたちを、蔵馬以外に触られるなんて冗談じゃないと飛影はきっぱりと遠ざけ、ウニャウニャとぼやきながらもなんとか空の旅を乗り切った。

島に着いた途端に現れた大勢の人間達は恭しく二人を迎え、洒落た車のドアを開け、小奇麗なコテージに案内した。

雪菜の手元には綺麗な鈴があり、軽く振るとどこからともなく人間が現れ、二人の注文を聞いてくれる。
それが食べ物や飲み物であれ、新しい服やタオルや靴であれ、どこかへ行きたいという命令であれ、今すぐ眠りたいという願いでさえ。

それがここに到着し、つい二日前まで続いていた二人の生活だ。

優雅なカーブを描く木の長椅子は白い帆布が張られており、寝そべって海を眺めるにはぴったりだ。しかもこの浜辺は、このコテージに滞在する者だけが出入りができるものなのだという、貸切の海だ。

とはいえ、雪菜のように堂々と寝そべり、海を眺め、さらさらの砂を握っては落とし、喉が渇けば鈴を鳴らし、近くで待機しているらしい人間が飛んでくる、という生活に少しも馴染めずに飛影は椅子の上で丸くなっていたのだが、たったの二日でこの生活に根を上げ、雪菜に頼んで大勢の召使いたちを遠ざけてもらった。

「だいたい…」

兄妹二人きりになり、ようやく海の美しさを気兼ねなく眺めることができるようになった。
金持ちの飼い主に甘やかされ、元々贅沢だったのがさらに磨きがかったらしい妹に飛影がぼやいた。

「ネコが人間を使うって…おかしくないか?」
「おかしくない。人間がイヌやネコを使うことはたくさんあるじゃない。兄さんはネコを人間より下の生き物だと思っているわけ?」

ぐっと詰まる。
口下手の兄とこの妹では勝負にならない。
これ以上やぶ蛇にならぬようにと、飛影は大人しく口をつぐみ、海を眺める。

海を初めて見たわけではない。けれどもこんなに青く澄んだ海は初めてだ。
手ですくえばどこまでも透明に見える水なのに、少し離れると青く見えるのはなぜだろう。蔵馬に聞いたら教えてくれるだろうか、と遠い街にいる飼い主のことを考える。

二週間。
それはきっと過ぎてみればあっという間の時間なのだろうが、飛影にはずいぶん長い時間に思えた。
***
波打ち際をぱしゃぱしゃと歩く。
濡れた白い砂の中に指先がもぐり、規則正しく打ち寄せる波が、それをさらっていく。

朝と昼との中間のような時間に二人は起き、朝と昼との中間のような食事をとる。その後は大抵、雪菜はエステとかネイルとかいう、何度聞いても飛影には理解できないものへ出かけてしまう。
おやつの頃に雪菜は戻り、二人で海を眺め浜辺で遊び、眠くなれば昼寝をし、目が覚めれば夕暮れの海辺のテラスで夕食だ。

昼の海は驚くほど青く、夕暮れの海は赤から紫、濃紺へと素晴らしい変化を見せる。
月の綺麗な夜には、海には銀色の道が現れる。

美味い物を食べ、ただ海を眺め、望むままに眠る。

それが休暇というものらしい。
青く澄んだ海を眺め、ぱしゃぱしゃと歩きながら、飛影は溜め息をつく。

バナナの葉にくるんで蒸した魚と米、たっぷりの果物という食事の後、日に焼けた肌をケアする、というエステに雪菜は今日も出かけてしまった。
そもそも日に焼けるのが嫌ならば、どうしてこんな場所へ休暇へ来るのかも飛影には理解できない。

何をしたらいいのかわからない、とぼやく飛影に、本だとか楽器だとかボールだとか、なんでもあるよ、と雪菜は言う。

「なんでも持ってきてもらえるよ。習い事とかもできるの」
「習い事?」
「ダンスとか」
「ダンス!?」
「布を織るとか」
「布!?」
「綺麗な石を磨くとか」
「はあ?」
「お料理のレッスンとかもあるよ」
「…料理は蔵馬の仕事だ」
「したくないなら、何もしなくてもいいの。だって休暇だもん」

海を眺めて、歩いて、眠くなったら寝ようよ。
あ、日焼けには気をつけて。麦わら帽子を被ってね。
あんまり日焼けすると、兄さんほんとの黒猫になっちゃうよ。

そう言うと、つばの大きな麦わら帽子を飛影に被せ、雪菜は笑った。
***
そんなわけで、今日も手持ちぶさたな飛影は、白いショートパンツ、素足に麦わら帽子という姿で波打ち際を歩く。

ネコ族には、泳ぐという習慣がない。
そもそも水に入ることを大抵のネコはあまり好まないし、ましてや海は塩でべとべとの水だ。
飛影も全身で漬かることはしないし、雪菜などつま先を浸す程度で、さっぱり海には入らない。

「…暑い」

見渡す限り誰もいない海で、飛影はぼそっと呟く。
膝の辺りまできている海水は上の方だけあたたかく、つま先あたりではほのかに冷たい。

蔵馬は、泳げるのだろうか。
右足の親指と人さし指で砂をつかみ、水の中に放ちながら、飛影は考える。

蔵馬と海を見に行ったことはあるが、泳いだことはない。
泳がない自分に合わせてくれたのか、単純に泳ぐ気はなかったのか、あるいは泳げないのか、飛影は知らない。

蔵馬が帽子を被っているのも、見たことがない。あの家の中で帽子を見た記憶もない。
風に波打つ麦わら帽子が飛んでいかないように紐をとめ直し、飛影は考える。

蔵馬は、葉っぱで包んで蒸した魚を食べたことがあるだろうか。
蔵馬は…。

「つっ」

つま先に何か硬く尖った物が触り、飛影はハッと我に返る。

こんなに綺麗な海。真っ白でさらさらの砂浜。
生まれて始めての妹との旅行。

なのに、蔵馬のことばかり考えている。
潮風にかすかにしょっぱくなった唇を、飛影は噛む。

コテージには遠距離用の電話がない。
声を聞くことも、できない。

「…ちっ」

舌打ちをし、指先で器用に砂を掘り、硬く尖った物を飛影は拾い上げる。
白から薄い紅色へと綺麗なグラデーションの巻き貝が、飛影の手のひらでつやつやと光る。

二人の暮らす街には海がない。

そうだ。やることもないのだから、綺麗な貝殻でも集めよう。蔵馬への土産にしよう。
そう考え、飛影はショートパンツのポケットに人さし指ほどの大きさの巻き貝を捻じこんだ。
***
「いっぱいになったねえ」

丸いしゃれた厚手のガラス瓶は、雪菜が買い物に出た小さな街のアンティーク屋で買ってきてくれた物だ。
白、ピンク色、オレンジ色、水色、紫色と、色も形もさまざまな貝が瓶の八分目ほどまで入っている。互いにぶつかって壊れないよう、白い砂も一緒に入っている。

「することがないからな」

飛影の一日は、砂浜と波打ち際で貝殻を探すか、眠るかだ。
最初はなんでもかんでも拾っていた貝殻も、今ではすっかり厳選されたコレクションになっている。

夜寝る前に、板張りの床に今日の収穫物を並べ、特に綺麗な物だけを三つほど選び、残りは海へ返す。
ようやく見つけた「やること」に、飛影は今のところ没頭している。

「それ、どうするの?」
「持って帰る。蔵馬に」

そんなものを、と笑われるかと身構えた飛影だったが、雪菜は頷く。

「素敵。蔵馬さん喜ぶよ」
「そうか?」
「うん。兄さんが毎日せっせと集めたんだもん、喜ぶよ。本当に綺麗だし」

ほっとしたように瓶を眺めている飛影に、雪菜は目を細める。

意味が分からない、と飛影が天を仰いだこのコテージは、大きな居間が一つ、小さな居間が一つ、バスルームが三つ、寝室は六つもある。
七人の召使いたちのためには隣のコテージが取ってあると聞かされた時には、飛影はもう一度天を仰いだ。

今夜も二人は、ソファに床にと思い思いに寝そべり、冷たく甘いミルクと香ばしいナッツをつまんで夜を過ごしている。
規則正しい波音に、雪菜がうとうととしっぽを垂らし始めた瞬間、飛影の黒い耳がピンと立つ。

誰か、来た。

居間や寝室には不思議な形のベルがあり、それを鳴らすと隣のコテージにいる召使いが食事であれ着替えであれ外出であれ、用意してくれる。逆に言えば、ベルを鳴らさない限り、勝手にここへ来ることはない。

「誰だ…」

ネコらしい、しなやかな動きで飛影はサッと起き上がり、眠っている妹を起こさないように扉へ近寄る。
軽やかな足音、何かバサバサいう音、強く甘い、南国の花の香り。

そっと扉に近付き、彫刻を施されたノブに手をかけ…。

「雪菜!」
「うにゃあ!」
「にゃっ!」

そっと触れた扉が急にバアンと開き、飛影はしっぽを逆立て飛び退き、雪菜はソファから飛び起きた。
扉を押さえる金属の手。もう片方の手には大きな花束を抱え、躯が立っていた。

「躯!?」

ソファからぴょんと起き上がり、雪菜は躯に文字通り飛びついた。
慌てて避けた兄が尻餅をつくのに構わず、妹は飼い主の首にかじりつく。

「躯!どうしたの!」
「お前に会いたくてな」

普段目にすることのない、少し照れたような、はにかんだような躯の顔。

「仕事終わったの!?」
「ああ。終わらせてきた。驚かせたくてな。連絡はしないでここへ向かったんだ」
「嬉しいー!嬉しい嬉しい!」
「まあ、時雨は今ごろ青くなってるかもな」

そう言って躯は豪快に笑うと、花束とかじりついた雪菜を抱えたまま、ソファにどさりと腰を下ろす。
躯の膝に乗り、短い茶色の髪に頬に唇にキスを降らせ、花束に歓声を上げ、しっぽを振ってはしゃぐ妹に、飛影の胸にちくりと何かが刺さる。

妹が恋人といちゃついているのが、いたたまれないのか?
自分といるより、躯といる方が雪菜が嬉しそうで悔しいのか?
兄妹の水入らずを邪魔されたようで癪なのか?

「違う…」

飛影がぽつりと呟いた言葉に、ようやく躯が顔を上げた。

「飛影、驚かせてすまん。悪かったな急に」
「帰る」

唐突な言葉に、躯と雪菜が目を丸くする。

「おい、俺は別に邪魔をするつもりじゃ」
「そうだよ兄さん!部屋はいっぱいあるんだし」
「帰る。俺は…」

俺は。
俺も。

俺も…会いたい。

飛影の胸をちくりと刺していたのは、嫉妬だ。
妹を取られたような気がしたのではなく、自分も会いたいのに、という嫉妬。
どうして蔵馬は俺に会いに来ない、という、八つ当たりに近い、嫉妬。

会いたいのを、我慢していた。
十日間も。

「…お前も会いたくなったか?」

水色の髪に指を通したまま、躯が低く優しい声で尋ねる。

そんなわけあるか、といつものように返そうとし、声と同じように優しく光る目に捕まる。
嘘や虚勢を見通すような、片方だけの目。綺麗な目。

二人を交互に眺め、きょとんとしている雪菜から目をそらし、飛影は小さく頷いた。
***
ボストンバッグはそう重いわけではない。
それでも、なんならそれを引きずって歩きたいような気分なのは、またもや飛行機に酔ったせいだ。

空港から家の近くの通りまで、抜かりなく手配されていた車で送ってもらった。
玄関までお荷物をお持ちいたします、という召使いたちをなんとか断り、飛影はようやく、見慣れた扉の前に立つ。

すっかり暮れた街は、街灯の明かりや家々の窓からこぼれる明かりに彩られている。

このところ、月の光や小さなキャンドルで過ごす海辺の夜に慣れていたせいか、飛影の目にはやけに眩しく映る。 玄関からちらりと覗けば、ダイニングの明かりが豊かな夏の庭に零れているのが、目隠しがわりの大きな木の隙間に見える。
そわそわと扉に手をかけ、鍵がかかっていることに飛影は気付く。

「うにゃー」

そうだった。
持って行くと無くしちゃいそうだから、と蔵馬に言われて、鍵は置いてきたのだった。
そっと鍵を開けて家に入り、蔵馬を驚かす、ということはできない。コテージの鍵を召使いから受け取ることができる躯とは違うのだ。

ということは、選択は一つ。
チャイムを鳴らし、蔵馬にドアを開けてもらうのだ。

チャイムのボタンに指を置いたまま、飛影は動かない。

何をためらっているのか、自分でもわからない。
チャイムを押す、蔵馬はドアを開けてくれる、ただいまと言う、それだけでいいのに。
予定の二週間より四日ほど早いが、問題があるとは思えない。まさか蔵馬が、もう帰ってきたのかと舌打ちをするはずもない。

ない、はず。

もしかして、世話の焼けるネコがいなくて、蔵馬はのびのび過ごしているかもしれない。
実家に帰って母親とゆっくり過ごし…それはない、明かりがついているのだから。家にいるのは確かだ。
もしかして、他の人間がいたりして。あるいは、他のネコが。まさか。

ボタンから指を下ろし、幼い顔を曇らせて黒い耳を寝かせて、飛影は考え込む。

いや、こんなところで考え込んでいてもしょうがない。
鍵もないし、行くところもない。
飛行機に酔ったせいで、くたくただ。早く家に入りたい。あのいつものクッションで丸くなりたい。

よし。

すうっと息を吸い込み、飛影はボタンを一度だけ、強く押す。飛影の気分と裏腹に、チャイムは軽やかに鳴り響く。
はーい、と聞こえた十日ぶりの声に、心臓が跳ね上がる。

「今開けま…」

夜分遅く、という時間ではないが、夕食時だ。
なんとなく、蔵馬の声には迷惑そうな響きを感じるのは気のせいだろうか。

「………飛影?」
「にゃあ」

無表情にこちらを見下ろす目に、飛影はまた、何かが胸にちくりと刺さるのを感じたが、次の瞬間、勢いよく伸ばされた腕に力いっぱい体を引かれ、ボストンバッグを落っことした。

「飛影!」
「にゃっ!」

体が浮き上がり、ふわっと回る。
着地したのは蔵馬の腕の中で、今度は骨が軋むほど抱きしめられた。

「飛影!どうしたの!」
「くら、ちょ、待っ」

先程の無表情が嘘のように、蔵馬の目はきらっきらに輝いている。
その輝きに、抱きしめる腕の力に、飛影はほっと息をつく。

大丈夫。蔵馬は喜んでいる。
この笑顔は本物だ。なんで帰ってきたなんて、少しも思っていない。

「くら」
「あ、もしかして」

心配そうな声とともに、蔵馬の両手が飛影の頬を包む。

「具合悪くなっちゃったとか?なんか顔色良くない…」
「違う、そうじゃない」

するっと蔵馬の腕を抜け出し、飛影は玄関に靴を脱ぎ捨てる。
たったの十日離れていただけで、家の匂いを懐かしいもののように感じ、飛影は深呼吸をする。

「ちょっと飛行機に酔っただけだ。お前こそ」

チラッと確認した台所は、久しく使っていないかのように乾き切っており、テーブルの上には、近くのデリの量り売りのサラダとサンドイッチが、皿にすら盛られずに乱雑に開けられている。どうやら蔵馬は夕食の最中だったようだ。

「俺がいないと、飯も作らないのか?」
「だって」

普段は栄養だの体のためになどと飛影に説教している手前、ばつが悪そうに蔵馬は肩をすくめる。

「君がいないのに料理なんかしてもね、つまらないし」
「困ったやつだな」

気に入りのクッションに近寄り、ばふっと身を投げ、飛影は嬉しそうに言う。

「あれ?ところでさ、どうして早く帰ってきたの?雪菜ちゃんとケンカでもした?」
「してない。えーと………お前が心配だから帰ってきてやったんだ」

咄嗟に思いついた、あまり上手くもない言い訳をし、飛影はクッションに頬杖をつく。

「でも、雪菜ちゃんは?」
「仕事が終わったとかで、躯が来た。だから心配ない」

俺もお前に会いたくて帰ってきた、などとは飛影は言わない。言えない。
心配だから帰ってきた、が精一杯の言葉だ。

「えー。俺ってそんな心配されちゃうほど頼りない?」
「ああ」
「参ったな。でも、まあ」

クッションに寝そべる飛影に覆いかぶさるように蔵馬も寝そべり、日に焼けた首筋に唇をつける。

「くら…」
「…会いたくて死にそうだったよ。帰ってきてくれて嬉しい」
「蔵馬」

くるりと体を返し、飛影は覆いかぶさる体を受け止め、求められるまま唇を重ねる。
角度を変え、深さを変え、舌先で相手の口内を探り合う。

「ん…」

ちゅぱ、と音を立てて唇を離し、久しぶりの感触に、飛影はうっとりとしっぽを揺らす。

会いたくて死にそうだった。帰ってきてくれて嬉しい。
願った通りの言葉が嬉しくて、ゆらゆらとしっぽを揺らす。

「お腹空いてないの?」
「そんなには…あ、そうだ」

クッションからぴょんと立ち上がり、飛影はダイニングの入り口に投げっぱなしだったボストンバッグを引き寄せる。
服に包んで入れてあった丸い瓶を取り出すと、蔵馬へ差し出す。

「土産だ」
「これ、どうしたの?」
「集めた。海で」
「飛影が集めたの?すごい!」

白、ピンク色、オレンジ色、水色、紫色と、色も形もさまざまな貝。
隙間を埋めるように、白くさらさらの砂がたっぷり詰められている。

「いいやつだけ、集めたんだぞ」
「俺のために?ありがとう」

心底嬉しそうな蔵馬の言葉に、飛影は目を細めた。
***
パスタを茹で、ツナ缶と残っていたデリのサラダと混ぜた簡単な夕食とシャワーを済ませると、二人は寝室へ向かう。
する、とも、したい、とも言っていない二人だが、なんとなく、言わなくてもわかっていた。

寝室の小ぶりなチェストの上から、何冊か置いてあった本をどけ、丸い瓶を蔵馬は置いた。
しげしげと眺め、持ち上げては底も眺める。

「飛影」
「なんだ?」

着心地のいい、慣れたパジャマ。
体にしっくり馴染んだベッドの上で、飛影は蔵馬を眺める。

「これさ、瓶から出してみてもいい?中の貝も見たいから」
「いいぞ」

寝室の端、窓辺にそって蔵馬はゆっくりと中身を傾ける。
流れ落ちる白い砂の中には、いくつもいくつもの貝が隠れていた。

「綺麗…。こんなにたくさん」

丸い瓶は、思ったよりもたっぷり入る。
寝室の窓側の一辺を覆うように、砂と貝は広がっている。

「どうした?」

砂と貝を見つめたまま考え込んでいる蔵馬に、飛影は声をかける。

「ね、飛影。これどう?」

寝室のクローゼットから、蔵馬は厚手のタオルケットを取り出す。
いつも夏の終わりに使うことにしているそれは、青と紺の中間のような色合いだ。
貝と砂から一メートルほど離した床に蔵馬はそれを敷くと横たわり、飛影を手招きした。

「こうすると、海みたいじゃない?」
「なるほど」

確かに、と飛影は頷く。
部屋の隅の小さなライトがぼんやり白く輝く窓辺に、細い砂浜と光る貝殻。
青いタオルケットの海の中、二人は並んで横たわる。

「海、綺麗だった?」
「ああ」
「美味しい物食べた?」
「ああ」
「雪菜ちゃんと何して遊んだの?」
「…昼寝とか」

横たわった右側、蔵馬の手や足が自分の体に触れるのにどきどきして、飛影は上の空の返事を返す。

「もー。それだけ?南国でしょう?リゾートだよ?詳細はないの?」

ぷっと吹き出した蔵馬は、肘をついて起き上がり、飼いネコを覗き込む。
短い髪をかき上げ、額に唇を落とし、また笑った。

「飛影、日焼けしたね?」
「そうか?」

あんなに大きな麦わら帽子を被っていたのに?
飛影が不思議そうに眺めた腕を、大きな手がつかむ。

「蔵馬」
「白い肌も好きだけど、今だけ限定の、この小麦色も悪くないね…」

手のひらに口づけ、手首や、やわらかな腕の内側を蔵馬は唇でなぞる。
着たばかりのパジャマのボタンを外し、長い指が胸を探る。円を描くように胸を撫でた指先が、きゅっと乳首を摘む。

黒い耳としっぽをぷるっと震わせ、飛影は目を閉じた。
***
海にいたときより、暑い。
湿った乱れた呼吸を繰り返しながら、飛影は考える。

四つん這いになり、蔵馬の股間に顔を埋め、口の中に入り切らないものを小さな舌で何度も舐め上げる。
普段はあまり口ではしないが、今日はなぜかしたいと思い、飛影の方からしかけた。

「んっ…あ、あ…っにゃ」

高く上げた尻の中では、蔵馬の指が動いている。
くちゅくちゅと音を立てて中を掻き回され、思わず叫びそうになるのを堪え、飛影は口を動かし続ける。
歯を立てないように、根元から舌を這わせ、先端を銜えたまま、ちらりと蔵馬を見上げる。

「…っ、飛影!それ、だめ…!」
「んん!ぐ!」

硬く反り返っていたものが、飛影の口の中にどろりとした液体をぶちまける。
飲み込み切れずに咽せる飛影に、ごめん、と蔵馬が申し訳なさそうに言う。

「…げほっ、く、ごほっ…う、あっ!にゃああ!」

入ったままだった指が激しく動き出し、飛影は蔵馬の足の間に突っ伏す。

「…ひえ…い」
「や、あ、にゃ、うあ!あ!ああっ」

にゅぷっと音を立てて指が抜かれ、両腕を引かれて体を起こされる。

「に、あ、くら…蔵馬…あ…うあ…」
「…たまらないな…」

くたくたと力の入らない体。潤んだ赤い瞳。
とろけたような飼いネコの姿に、蔵馬の股間はあっという間に硬さを取り戻す。

「…飛影…どうしたい?」
「………顔…見……にゃ、がら…した…い」

真っ赤になって、もごもご言う姿。
汗に濡れる髪をかき上げ、蔵馬は微笑み、タオルケットの上に仰向けに飛影を寝かせる。

「足、広げてごらん」

一瞬ためらい、おそるおそるといった様子で飛影は足を広げる。
何度抱いても恥じらうこの姿が、より一層蔵馬をかき立てることなど知りもしないで。

「……くらま」
「あは」

何を笑われたのかと目を丸くする飛影の体に、蔵馬は指を滑らせる。

「蔵馬…?」
「ここだけ、焼けてない」

小さなライトがぼんやり照らす小麦色の体は、ショートパンツを履いていた部分だけ、くっきり白い。

「にゃ……っくら、あ」
「なんか…すごくエッチだね。これ。白くて」
「あっ!」

これ、と指で突いた小さなものに、唇を寄せる。
口の中で二三度扱いただけで硬くなるかわいらしさに、蔵馬は目を細めた。

「くら、も、にゃ!、だ、あ、ああ!もう…っ」

射精寸前に、唇を離す。
散々指で慣らしてもらった場所は、ひくひくと口を開け、待っている。
待ち切れずに両手を上げ、自分を抱き寄せる黒猫の両足を蔵馬は持ち上げ、肩にかけた。

「くにゃ…蔵馬!くらま!…もっ…う、はや…」

ひくっと、しずくを零すそこ。
真っ白な中心の、赤く色付いたその場所。

「…飛影…大好き…っ」
「あ!んあ!…にっ…あああ!」

ぐにっと先端が穴を開き、ずるっと奥へ進む。
十日ぶりに開いた体はなんなく蔵馬を受け入れ、弓のように背を反らす。

「…くら…!あ、ああ、にゃあ…んあ……いっ!」
「ひえ…い…っ」

入れたまま動かずに、飛影の熱い締め付けを楽しむ。
自分の出したものと唾液に汚れる飛影の口元に、蔵馬もまた耐えられないような暑さを感じる。

窓辺の風に、広がる砂。
控えめな明かりにてろりと光る、綺麗な貝殻。
くしゃくしゃと乱れたタオルケットに横たわる、体。

それはまるで、海辺でこうしているかのようで。

「…ひえ…、動いていい?」
「っあ…にゃ……め…だ」

だめ、という意外な返事に、蔵馬が顔を上げる。

ぶるぶる震える両手が、蔵馬の首に巻き付く。
汗にすべりながらも、小さな手が必死でしがみつく。

「くら……俺、に…会いた、かっ…たんだろ…?」
「…死ぬほどね」

耳に直接吹き込むように、囁いた。
はっ、はっ、という飛影の乱れた呼吸に合わせ、締め付けが一層きつくなる。

「飛影…?」
「……なら…俺を、離すな」

俺も会いたかっただとか、さびしかったから帰ってきただとか、この飼いネコは言いはしない。
言わないくせに、全身でそれを叫び、望んで出かけて行ったくせに、自分を離すなと怒る黒猫。

蔵馬はゆっくりと腰を引き、一気に押し込んだ。

「なあ!ああああ!んあ、あ!」
「…離さ、ない、よ…」

抜ける寸前まで腰を引き、また叩き付けるように押し込む。
ぬるぬると狭い中を激しく擦り、腹の間で小さなものをこねくりまわす。

「あ!あっ!あっ!うああっ!にゃうっ」
「…飛影…俺、と…一緒じゃなきゃ…う、あ、もう…どこにも」

どこにも行かせないからね、いいの?
意地悪く片方の眉を上げ、飛影の上に汗をぱたぱたと滴らせながら、蔵馬は問う。

「どこにも…行…な、よ…ひえ…」
「くら…ま!……うぁ、しょ…うがにゃ……いか、ら」

お前の所に、いてやる。
俺がいないと、お前はだめなんだろう?

尻を激しく突かれながら、飛影は擦れた声で途切れ途切れに言う。

「…うん…いないと、だめ」
「なら…にゃっ…くら…離すな…よ」

ざざ、と砂が鳴る。
吐息と、濡れた音と、二人だけに聞こえる潮騒。

一人と一匹は、夜が明けるまで海の中で絡み合っていた。


...End