One and only

「ただいまー」

のんびりと玄関を開けた蔵馬を出迎える者はない。
構わず靴を脱ぎ、もう一度ただいまと言ってみるが、返事はない。

車で一時間ほどの、母親と義理の父が住む家に久しぶりに蔵馬は顔を出してきた。一緒に行かないかと飛影を誘ったが、答えはもちろんノーだった。

自分以外の人間に馴染まない…あるいは懐かない…ことは飼い主としては嬉しいような困ったようなことではある。飛影の生活は、蔵馬と雪菜と、時折会う雪菜の飼い主、そしてこの小さな家とで完結しているらしい。おかげで飼い主である蔵馬は、母親のあれを飲めこれを食べろもっとゆっくりしていけ、の引き止めを笑顔でかわし、早々に帰ってきたのだ。

「飛影ー?いないのー?」

大きな紙袋をキッチンテーブルにそっと置く。
中身はいつものように食料品で、最近ほんの少しではあるが酒を飲めるようになった飛影のためにと、甘い白ワインの瓶もある。

「飛影ー?」

遊びに行っているのだろうか。朝はそんなことは言っていなかったはずだが。
鍵はかかっていなかったが、飛影は外へ出る時に鍵をかけるということを、何度叱っても忘れてしまう。治安のいい街ではあるが、蔵馬としては困りものだ。

首をかしげながらも、蔵馬は買ってきたものを手際よく冷蔵庫に片づけ、去年の夏に作っておいたトマトソースの瓶を棚から取り出そうと身をかがめる。
そこでようやく、床に転がるスプーンに気付いた。

「…あれ?」

べったりとピーナツバターのついたスプーン。
椅子の影に隠れるように、ピーナツバターの瓶も蓋もないままに転がっている。それは最近の飛影の好物で、放っておけば一瓶まるごと食べてしまう困ったお気に入りなのだ。

「飛影?」

その転がり方はどこか不吉で、蔵馬は立ち上がり、さして広くもない家の中を見て回る。

リビングでは畳んでソファに置いておいた洗濯物が床に散らばり、ここにもピーナツバターがこぼれている。
慌てて廊下を寝室をと見てみれば、雪菜からのプレゼントである壁にかけられた小さな絵が傾き、本棚からも何冊かの本が落ちていた。

「飛影!? いないの!?」

転がるスプーン。何があったにせよ、その時飛影は家にいたということだ。泥棒だとか強盗だとか、そんな考えが蔵馬の頭をよぎる。
玄関には鍵はかかっていなかった。もちろん物や金などどうでもいい。飛影はどうしたのだろう。まさか、誘拐?

「飛影!! ひ」

大きなチェストから半分突き出した引き出しから、黒くつやつやの長いものがぷらーんと垂れている。
それは紛れもなくネコのしっぽで、蔵馬は安堵半分、心配の反動での怒り半分で、足音も荒くチェストに近寄る。

「もう!! 飛影!心配するじゃない!またこんな所に入っ…!」

つやつやで、耳からしっぽまで、全身真っ黒の毛並み。
畳まれた服に小さいながらも鋭い爪を立て、大きな瞳を見開いたそれ。

「ニャー」

蔵馬の両の手のひらに乗せられるであろう大きさの、その小さな生き物。
正真正銘の黒猫がそこにいた。
***
「……………………………ひ、えい…?」

たっぷり十秒は口も利けずにいた後、蔵馬はおそるおそる名を呼んだ。
黒猫はらんらんとした目で蔵馬を見上げたまま、ニャンと鳴く。

蔵馬の視界を、何か光るものが掠めた。
長い革ひもでできたそれは首輪で、丸く半透明の宝石は雪女の涙と呼ばれる希少な石だ。

床に転がる、飛影の首輪。

震える手で黒猫を抱き上げようとすると、抵抗するそぶりを一瞬見せた後、黒猫は大人しくつかまれるままになる。
猫は本当に小さかった。体の大きさに見合わないずいぶんと長い立派なしっぽを持ち、ちょこんと手の中に収まる。

「……嘘でしょう…?まさか……ひ、え…飛影なの?本当に?」

黒猫はしっぽをぐるんと回すと、タッと床に下り、人間には到底敵わない素早さでサッと走り出す。

「ちょっと待って!」

実に身軽に走る黒猫はリビングへと駆け込み、飛影のお気に入りの大きなクッションにピョンと飛び乗り、威嚇するようにシャーと鳴いた。
唖然としたまま追いかけてきた蔵馬が唖然としたままソファに腰を下ろすと、しばらく威嚇していた黒猫も落ち着いてきたのか、蔵馬から目を離さないままクッションの上で丸くなった。

無意識に拾っていたらしい、手の中でなぜかぬるつく首輪に視線を落とし、蔵馬は深呼吸をする。

ネコ族が、猫になる?
そんなバカなことがあるはずがない。そんな話は聞いたことがない。どう考えたって、そんなはずはない。
けれどこれは紛れもなく飛影の首輪で、ここにいるのは飛影にそっくりの小さな黒猫で。

「飛影?」

黒猫はなんだとでも言うように顔を上げ、しっぽをぱたりと振る。

「…飛影、なの…?」

しっぽが再び、ぱたりと振られる。
ふいに黒猫はクッションから降り、窓辺に寄る。つるつるとしたガラス窓に爪を立て、外へ出たいというようなそぶりでじっと蔵馬を見る。

「…ひえ…あっ!」

ピンとしっぽを立て、ぶるっと黒猫は震える。
蔵馬を見上げ、ニャと小さく鳴く。

「…大丈夫だよ。怒ってないよ」

散らばっていた洗濯物からタオルを取り、床にできた温かい水たまりをきれいに拭き取ると、蔵馬は冷蔵庫から取り出したチーズと水を黒猫の前に置いてやる。
嬉しそうに近寄ってきた黒猫は、小さな口でチーズに噛み付いた。

黒猫はチーズを咀嚼し、時折水を舐める。
その様を呆然と眺めていた蔵馬だったが、ようやく我に返ると、ネコ病院の電話番号が書いてあるノートを取りに行くことを思いつく。
勢い良く立ち上がった蔵馬に怯えたように、黒猫はチーズから口を離し、後退る。

「…ごめん」

そうだ、飛影は病院が大嫌いだった。
こんな風になって途方に暮れているだろうに、慰めるより抱きしめるより先に病院を真っ先に考えるなんて。

「ごめん、今はいいよ。おいで」

抱き上げ膝の上に乗せると、黒猫は困ったように蔵馬を見上げる。
体の大きさに見合わない大きな瞳と、黒くつやつやの毛並み。

「大丈夫だよ。元に戻れるよ」

毛並みに添って、頭を、背を撫でてやる。
次第に緊張を解き、膝にくっつくように寝そべった黒猫はうとうとし始めている。

「もしね、もしだよ?元に戻れなくても大丈夫だからね。一緒に暮らしていくのには変わりないんだから」

眠そうにしていた黒猫は目を薄く開け、ニィ?と小さく唸る。

「信じてよ。大丈夫。セックスができない体になったって、俺は君を愛し」

びゅんと唸りを立てて飛んできたスリッパが蔵馬の後頭部に直撃するのと、女の子の弾けるような笑い声が響いたのはほぼ同時だった。
***
「あーはっはっはっ!あははは!! にゃはは!!! もーだめ!我慢できない!」
「バカかお前は!!!!」

白いふわふわのしっぽをふりふり、涙が出るほど笑い転げているのは雪菜で、その隣でもう片方のスリッパを構え、顔を真っ赤にし怒っているのは紛れもなく、蔵馬の愛猫だ。

「それ、猫、猫!! 飛影じゃな…あははははは!! にゃっはー!」
「何を考えている貴様は!それは猫だろ!!」

双子に一方的にまくし立てられ、蔵馬はらしくもなく瞬く。

「………飛影?」
「あったりまえだ!他の何に見える!?」
「だって……この子…え?ひえ…?」
「バカ!アホ!マヌケ!なんで俺が猫になる!? 常識で考えろ!ネコ族は猫になんかならん!」

常識、という、およそ飛影の口から出たとも思えない言葉。

「じゃあ……これはただの猫?」
「他の何だってんだ!」

この騒動に眠ってなどいられないと、大騒ぎにすっかり興奮し立ち上がった黒猫が、蔵馬の手に爪を立てる。

「あ、いてっ、こら飛影!」
「違うと言っている!」

再びびゅんと飛んできたスリッパが、蔵馬のおでこに盛大にぶつかった。
***
「メモくらい残しておけばいいでしょうが」
「そんなバカな勘違いすると誰が思う!?」

ネコらしい気まぐれで、ふと思い立って約束もなしに遊びに来る途中だった雪菜は、飛影への土産を買おうと車を止めた通りで黒猫を見つけたのだという。

首輪もしていない猫はおかしなことにしっぽにリボンを巻いていて、そこには下手くそな字で〝拾ってください〟と書かれていた。しっぽに巻かれたリボンがよほど嫌だったらしく、パニックを起こしくるくる回っている猫をそのままに出来ず、雪菜はなんとか黒猫をつかまえ車に乗せ、兄の家まで連れてきた。

連れてきたはいいが、猫は見知らぬ場所にさらにパニックになり大暴れ。家の中はめっちゃくちゃ、おまけに庭に飛び出し姿が見えなくなり、慌てて兄妹は外へ探しに出たのだ。

「何ちゃっかり戻ってきてるのよ。もう。散々外を探したんだからね」

猫の額を指先でつつき、雪菜が口を尖らせる。
ニニ、と目を細め、黒猫はあくびをする。

「それで、どうするのこの子」
「大丈夫。うちの会社の人で飼いたいって人がいたから」

蔵馬の言葉に、雪菜があっさりと頷く。
雪菜の言う〝うちの会社〟とはすなわち飼い主である躯の会社で、宝石商を営んでいる。躯の命令で嫌々猫を飼うのではないかと蔵馬が控えめに尋ねると、それはないと雪菜は首を振る。

「去年、二十年近くも飼ってた猫が死んじゃって落ち込んでた人なの。捨て猫だって言ったら、捨てるなんて許せない、自分が飼うって」

兄妹のデートはどうやらこの猫のおかげで今日は中止になったらしく、迎えに来た者に持ってこさせたらしいバスケットに黒猫を入れ、いつものように後部座席に優雅に雪菜は座る。

「またね、飛影。近いうちにデートし直しましょう」

バスケットの蓋の隙間から出てきた小さな黒い足をペチと叩き、走り出す窓から雪菜は手を振った。
***
「バカか。ネコ族が猫になるわけないだろうが」

まだぷんぷん怒っている飛影に、蔵馬はごめんと肩を落として謝る。
言われてみればもっともだ。なぜあの猫を飛影だなんて思い込んだのだろう。

「…なんか、似てたんだもの。威嚇する感じとか…雰囲気っていうか」
「どこが似てる!お前あいつが漏らしてもまだ俺だと思ってたのか!?」
「ごめんてば。それにしたってさ、二人して俺がバカみたいに猫に話しかけてるのを見て笑ってたなんてひどくない?」
「雪菜が面白いからもうちょっと見てようとか言い出したんだ」

なるほど。いかにも、言いそう。
蔵馬は苦笑し、夕食の支度をしようと野菜のカゴに手を伸ばす。

「あ、そういえばなんで首輪外して置いて行ったの。それもあってあの子を君かもなんて勘違いしたんだよ」
「……ピーナツバターをこぼしたからだ」

一瞬眉をひそめ、飛影はそっぽを向いて言う。
なるほど、それでぬるぬるしていたのかと蔵馬は頷く。ピーナツバターをまた食べていた証拠の隠滅のために外して拭こうとしていた所に、あの猫を連れて雪菜がやってきたのだろう。

「まーたあれ食べてたの?」
「うるさい」
「ご飯にする?」
「…いらん。腹が痛い」
「ピーナツバターのせいだよ。一度にたくさん食べるとお腹が痛くなるって何度も言ってるでしょうが」
「うるさい!」

ツナサラダとパンと消化にいいというハーブティーだけという質素な夕食と風呂とを済ませ、二人はいつものようにベッドに並んで入る。

「さて、変な一日だったね。おやすみ」
「……もう腹は痛くなくなったぞ」
「良かった。あのハーブティー、効くね」
「だから」

だから?枕元のランプを消そうとしていた蔵馬が振り向く。

「だから、してやってもいい」

赤い瞳が、蔵馬を睨む。
白い頬が、ほんのり赤い。

「しようよ、とかないんですかねえ」
「うるさい。するのか?しないのか?」

返事の代わりに笑みを浮かべ、蔵馬は覆いかぶさった。
***
「ん!ふ!ああ、んー、んん、ひ、あ……くら…にゃ」

大きく広げた足の間に蔵馬を挟み込み、飛影は腰を揺らす。
小さな体の小さな穴が、うねるように自分を絞り上げるのを感じ、蔵馬も熱い息を吐く。

「い!あ!あああぁぁぁあ、ん!んん!」
「なんか……いつも…より…絞まる……ね」

飛影の両足は蔵馬の背に硬く巻き付き、疲れなど感じないかのように腰は振り続けられている。突かれる度に、黒いしっぽが揺れる。
半開きの唇をこじ開け、舌を絡め、蔵馬もまた夢中で貪る。

「あ!ああ、くら……ま!そこ……っあ!あぁぁぁあ」
「困った…ネコだね…あの小猫…うち…で飼うことに…ならなくて…よかったよ…こんなの…見せられ…」

急に、ぱちっと目を見開き、飛影は蔵馬を睨む。

「飼う…だ…と…っあ、あ、にゃ、っあう、あああああん!」

飛影の両脇に手を差し入れ、ぐいっと起こす。
対面座位の姿勢を取り、蔵馬は激しく突き上げた。

「ひあっ!にゃ…ちょ、ま…っひ、あああ!ああ!ああ!ああっ!」
「うちで…飼っても、よかっ…たのに」

瞬間、飛影はぐっと爪を立て、蔵馬の背に赤い筋をざっと引いた。

「いたっ!ちょっと」
「いらん。猫なんか…」

はあはあと喘ぎながら、飛影は蔵馬を睨み続ける。
渾身の、まなざしで。

「…飛影?」
「許さん。猫など、飼わせん」

蔵馬の肩を両手でつかみ、勢いよく飛影は腰を上げる。

「ん!あ!ひっ、あああ!!」

先端だけを残して引き抜くと、乱暴なまでに強く腰を落とす。

「あああぁぁぁぁあ!あああ!」
「うあっ…ひ、ひえ…い!」

衝撃に、二人は揃って背を反らした。
なんとか蔵馬は持ちこたえ、びくびくと液を噴き出させている飛影のものを握ってやる。

「飛影…今日…なんか……すご…い」
「……あっ!ひあ、く…う……ぁ…俺…だけ…」

息も絶え絶えだというのに、強気な瞳はそのままに、飛影は続ける。

「俺だけ…見てろ。蔵馬」
「…え?」

人も猫もネコも、見るな。
よそ見するな。

俺だけ、見てろ。

「…わかった…か!?」

か、の所で、飛影の穴は強烈に蔵馬を締め付けた。
脳みそごと吸い出されるようなその感覚に、蔵馬も小さく声を上げた。
***
私だけ、愛して欲しいの。
誰とも愛情を分け合いたくないの。
ネコって、すっごくやきもちやきなんだから。

腕の中で眠るネコを見つめたまま、いつぞやの雪菜の言葉を思い出し、蔵馬は笑う。
尻を突き出し、股を開き、何度でもイッた飼い猫を思うと、またもや股間に熱を感じるが、さすがに疲れ果てて眠ったところをもう一度襲うのは気が引ける。

人も猫もネコも、見るな。
よそ見するな。
俺だけ、見てろ。

「…かわいいこと、言ってくれちゃって」

汗で張り付く髪をかき上げ、頬に、耳に、キスをし、耳元に吹き込むように囁く。

「…俺は、君のものだよ」

どんな夢を見ているのか、口元をゆるめ、ふにゃ、と寝言を呟くネコを抱きしめる。
同じ夢を見たいと願い、蔵馬もまた目を閉じた。


...End.