home alone

「泊まり?」
「ちょっと仕事の相手先にさ…どうしても行かなきゃで…ごめんなさい…」

何を謝っているんだか、俺にはわからない。

「なにを謝る?行けばいいだろうが」
「でも…三泊四日なんだよ」
「三泊四日?だからなんだ?」
「一泊ならまだしもさ…心配だよ。ねえ、一緒に行く?先方にお願いしてみるからさ。仕事だから、ほとんどかまってはあげられないんだけど…」

かまって?
カチンときた。

「あ、雪菜ちゃんの所に預かってもらうっていうのはどうかな?」

預かってもらう?
ムカッときた。

「…ふざけるな。かまわれる必要も預けられる必要もない!! 何日でも行ってくりゃいい」

まったくこいつは俺をなんだと思っているんだ。
朝から晩まで世話がいる、子ネコだとでも思っているのか?

かばんに着替えや何やらを詰めながらも、蔵馬は俺をチラチラ見る。
やっぱり心配だなあ、などと小さく呟きながら。

「朝と昼と夜、電話するから出てね?」
「断る」
「じゃあ、夜だけでもいいから」
「断る。電話は嫌いだ」

これは本当だ。
俺が電話をかけたり、かけられたりするのは、妹の雪菜だけだ。
蔵馬が外出先から電話をよこしても、俺が出たことは一度もない。

「ご飯は温めて食べるんだよ。もう寒いんだからその辺で寝ちゃだめだよ。ベッドに行くんだよ」
「余計な世話だ」
「だって、心配だよ。電話くらい出てよ」
「断る。俺は用はない」
「飛影~。もう、頑固なんだから」

それでも、蔵馬だって仕事でした約束を違えるわけにもいかない。
嘆きながらも、かばんは着々と埋まっていく。

「君が電話に出てくれないのはわかってるけど」

もし、何かあったらここに電話するんだよ。わかったね?
そう言って、ネコ用電話のそばに、宿の電話番号を書いた紙を置いて。

「とっとと行け。なんなら十日くらい泊まってこい」

そう毒づく俺に苦笑いし、俺の両方の耳にキスをして、蔵馬は小さな車に乗って出かけて行った。
***
見送りなど、俺はもちろんしない。いつものクッションに丸くなっていた。
だが、車のエンジン音が家の前の道路を過ぎ、角を曲がって聞こえなくなるまで、俺はネコ耳をすまして聞いていた。
音が完全に聞こえなくなったところで、俺はゆっくり目を開ける。

黒くてまるい小さな車は、最近買ったものだ。
電車やバスを嫌う俺のためにと、蔵馬がある日いきなり買ってきた。

「見て、飛影。この車、ちょっと飛影みたいじゃない?」

車は二人乗りで、小さくて、ツヤツヤの黒だった。

これでさ、どこでも一緒に出かけられるね。
蔵馬は嬉しそうに言ったが、その車に乗って、今日は一人で出かけてしまった。

まあ、仕事なんだからしょうがない。せいぜい稼げ。
うるさいのがいなくて、久しぶりの一人の時間も、悪くない。

「せいせいするさ」

口に出して言ってみる。

自分の他に誰もいない家の中に、俺の声はなんだか響いた。
***
キッチンには、冷蔵庫から棚の中まで、メモのつけられた鍋や皿が所狭しと並んでいた。それぞれに、日付と、朝、昼、夜、おやつ、火にかけて15分温める、冷蔵庫にあるソースをかける、などのおせっかいが書き込まれた、メモ。

飯ぐらい自分で用意するというのに、なんなんだ、あいつは。
外に何か買いに行くとか、食べに行くとかだって、できるというのに。

…そんなこと、しないが。

時間がないから車の中で食べると言って、蔵馬はサンドイッチを包んで持って行ったので、テーブルの上には俺の分の朝飯だけが、ぽつんとある。
皿に綺麗に並べられた、一人分のサンドイッチと、スープカップ。オレンジジュースのグラス。
見慣れない光景に、なんだかいらつく。

せっかく口うるさい蔵馬がいないのだ。
久しぶりに靴も履かずに外に出て、一日中散歩しよう。野良イヌと喧嘩でもして、好きなように過ごしてやろう。

そう決めると、俺はサンドイッチを口に押し込み、外へ出た。
***
にゃあ、と玄関で鳴いたのは、いつものくせがつい出たからだ。

一人で出かけて、帰ってくると、俺はいつも玄関でにゃあと言う。そうすると、蔵馬は飛んできて、俺を抱きしめ、おかえり、と笑う。雨に濡れていれば風呂に湯を溜め、裸足の足が汚れていれば温かいタオルで拭いてくれる。

蔵馬は、おせっかいなやつだから。

雨に濡れ、野良イヌや野良ネコと一悶着起こしたせいで全身汚れている俺は、廊下にぺたぺたと泥の足跡を付けながらバスルームへ向かう。
バスタブはきちんと洗って、栓もしてあって、あとは湯を入れればいいだけになっていた。

ご丁寧に、入浴剤もすでに入れてある。

…ムカつく。
何に、ムカつくのだろうか。

蛇口をぐいっとねじると、湯は勢いよくバスタブをたたく。
入浴剤のいい匂いのするあたたかい湯気が、俺の顔をつつむ。

家の中はしーんとしていて、湯がバスタブに落ちる音だけが、やけに大きく聞こえる。
さほど大きいわけでもないが、それでもここは一軒家で、一人でいるには無駄に広い。

野良だった頃は、いつだって一人でいたのに。
生き別れだった妹の雪菜を見つける前は、ずっと一人だった。

熱すぎないよう、俺の好みの熱さに設定された湯が、どうどうと流れ落ちる。
野良だった頃は、冷たい水で、体を洗っていた。湯につかることなんて、滅多にない贅沢だったのに。

「……この、腑抜け」

自分に、言ってみた。
温かい湯を使って、温かい飯を食って、温かい寝床で、あたたかい蔵馬にくっついて眠る日々。

蔵馬の腕の中で、眠る日々。

「…腑抜けてる」

再び蛇口をねじり、湯を止めた。
鎖のついた栓を引っぱり、三分の一ほど溜まっていた湯を流す。

無性に、腹が立った。自分に腹が立った。

俺は軟弱な飼いネコなんかじゃない。
なってたまるか。

シャワーのコックをひねり、降り注いだ冷たい水の中に、俺は頭を突っ込んだ。
***
水が、床にぽたぽた落ちるが、知ったこっちゃない。
水を浴びた俺はタオルで拭くこともせずに裸のままキッチンへ行き、冷蔵庫を開ける。

メモの貼られた大量の皿や鍋を無視し、取り出した牛乳をコップにも移さず、直に口を付けて、冷たいまま飲む。
真夏以外は、蔵馬は牛乳を温めて…しかも温めすぎずに…俺に出してくれる。久しぶりの冷たい牛乳に、背筋がぞくりとした。

適当な鍋を取り出し、そのままテーブルに置いた。カゴにあったパンをちぎって、シチューとおぼしき鍋の中身につけて、食べる。
温かろうが冷たかろうが、そもそも蔵馬の作った飯を食っていること自体が腑抜けてる、とは自分でも思ったが、冷たい水を浴びて、冷たい飯を食う方が、まだマシな気がした。

冷たいシチューは、ひどく食べにくくて、俺は早々に鍋に蓋をする。びしょびしょの髪から耳から滴る水が、体を流れ落ちて、寒い。
素っ裸で飯を食っている自分が急にバカみたいに思えて、これまたご丁寧に畳んでソファに置かれていたパジャマを、濡れた体のまま着る。

ーご飯は温めて食べるんだよ。もう寒いんだからその辺で寝ちゃだめだよ。ベッドに行くんだよー

…余計な世話だ。おせっかい蔵馬。

冷たい水を浴びて、濡れたまま服を着る俺を叱る者も、髪を乾かしてくれる者も、食事を温めてくれる者も、俺をベッドに運んでくれる者もいない、余計な干渉を受けない、快適な家の中。

「口うるさいのがいなくて、いい」

ベッドになんか行かなくたって、今夜も明日も明後日も、どこででも寝れる。
お気に入りのクッションを濡らすのを一瞬ためらった自分を罵り、俺は窓辺のクッションに丸くなる。

濡れたしっぽがから垂れた水が、床にぴちょんと音を立てた。
***
……寒い。

くらま…。
…ん?………蔵馬?

いつものように蔵馬の体にすりより、暖まろうと思ったのに、少しも暖かくない。
隣に横たわる蔵馬の体は、冷たく濡れている。

蔵馬…?

その冷たさに驚き、俺は蔵馬の体を揺さぶる。
目も開けない、何も言わない冷たい体はまるで死体のようで…

「…蔵馬っ!!」

俺は、がばりと跳ね起きた。

「………にゃ、ぁ…ゆ…め…?」

自分でもびっくりするほど、俺は震えていた。

…夢。
ただの夢だ。
夢であったことに心底ほっとし、俺はクッションに突っ伏した。

寒い。
震えが止まらない。
たかが夢で、俺は何をこんなに震えている…?

「…にゃ、ゲホゲホゲホッ!ゲホッ!…うにゃあ?」

寒い。
いや、熱い?

「…ゴホッ、ゲホゲホッゲホッ!ゲホッゲホッ!! ニャッ!」

咳が止まらない。
顔も体も熱いのに、寒くてたまらない。
体の節々が、軋むように痛い。

…馬鹿か俺は。
どうやらきっちり風邪を引いたようだ。

激しく咳込みながら、起き上がったクッションの上は、濡れた髪やしっぽ、おまけにぐっしょり汗をかいたせいで、嫌な感じに湿っていた。
汗を吸ったパジャマが肌に張り付いて体温を奪い、寒いったらない。
汗がつうっと頬を伝った。なんなんだ?熱いのか?寒いのか、よくわからん。

よたよたと濡れたパジャマを脱ぎ捨て、ふらふらと寝室へ行く。
ベッドに置いてあった蔵馬のパジャマを着込み、ベッドに潜り込んだ。

本当に、馬鹿か俺は。
自分に嫌気がさし、頭の上まですっぽり毛布にくるまり、俺は熱いまぶたを閉じた。
***
「…ゴホッ、ゲホゲホッゲホッ!! ゲホゲホッゲホッ、にゃあっ!! ゴホッ」

息ができないほどに咳込んで、目が覚めた。
部屋に差し込む光は昼の光で、どうやら俺はずいぶん眠ったらしい。
途切れ途切れに、嫌な夢を見た。

「ゲホッゲホッ!!…な?…っぇぐ」

胸が、正確に言えば胸の中が、燃えるように熱い。
おまけに、いまや咳は息もできないほどに、激しくなっている。
熱い胸が、ひゅうひゅうと嫌な音を立てる。

変だ。
前にも風邪ぐらい引いたことはもちろんある。
けれど、なんか、違う。

「…にゃ、う、ゲホッ、ゲホッゲホッ!! ゲホゲホッゲ、ぅにゃあぁ」

これ、風邪か?風邪って、こんなに苦しかったか?
乾いていたはずの蔵馬のパジャマも、水につけてきたように濡れている。

熱い。でも寒い。
はあはあ、ひゅうひゅう、と忙しなく呼吸をする。

苦しい。咳き込むたびに胸の中が焼けるような、変な痛みが走る。
肋骨が折れるんじゃないかと思うほど、激しく咳込む。

水が飲みたい。今は何時なのだろう?
どうにか起き上がり、床に片足をそろりと降ろし…

「うにゃにゃんっ!!」

かくんと足の力が抜け、見事に床に落っこちた。
落っこちた床の上で、またひとしきり咳込む。

なんだかもう、動けない、気がする。
熱くて、寒くて、胸が痛くて、起き上がれない。
陽の射す床は暖かかったけど、震える体が寒い寒いと訴えていて、ようやく自分が高熱を出しているらしいとわかる。
冬が始まったこの季節に、野良ネコ気取りで冷たい水を浴び、冷たい飯を食い、濡れたまま眠った昨日の自分を呪ってはみたが、呪っても何も解決はしなさそうだ。

蔵馬。
あいつ、いつ帰ってくるって言ったっけ。
さんぱくよっか?…三泊四日?つまり、今日はまだ二日目だ。

「うにゃ~ゲホッゲホッゲホッゲホッ!!」

三泊四日だと?
呪う!

……誰をだ?

咳込みながらベッドの端から垂れ下がっている毛布をずるずると引っ張り、俺は床に落っこちたままそれに包まる。
もう眠れそうにないし、しかも、別の困りごとが発生し始めてしまった。

別の困りごと。

……トイレに、行きたい。
トイレまで、行けるだろうか?なんて考えるなんて、まったく情けない。

毛布を引きずりながら、よたよたと、半ば這うようにして、どうにかトイレは済ませた。

こてんと、俺は廊下にひっくり返る。
一体どれだけ熱があるんだか、体中の関節がバラバラになりそうだ。

「…ゲホッゲホッゲホッゲホッ!!…ふ、ぅにゃ~」

ひっくり返ったまま、視線の先、リビングの片隅には、ネコ用電話が見える。
傍らには、蔵馬の残していった、メモ。

「………」

ーもし、何かあったらここに電話するんだよ。わかったね?ー

何かあったら。
何かって、なんだ。
……具合が悪い、とか?

女々しい。
具合が悪いから、帰ってきてくれって?そう電話して、蔵馬に泣きつく?

馬鹿馬鹿しい。
しかも、具合が悪いのは自業自得もいいところだ。
電話なんか、できるか。

でも…

蔵馬は、今日も、明日も、帰ってこない。
帰ってくるのは、明後日だ。

明後日。
廊下にひっくり返っている俺には、なんだかそれは、想像もできないほど、先のことに思える。

ふらつく二本の足では立てなくて、ぺたぺたと這ったまま、ネコ電話にたどり着く。
二回ほど間違いながら番号を押した俺の耳に、聞き慣れない声が飛び込んでくる。

「お電話ありがとうございます。ホテル…」

早口の女の声と、舌を噛みそうなホテルの名に、俺は驚いて受話器を落とす。

「お客様!お客様!どうされました!?」

そうか。この番号は宿のものなんだから、直に蔵馬の部屋に繋がるわけじゃないのだ。よく考えれば当たり前のことなのに、てっきり蔵馬の声を聞けると思っていた俺は動転してしまう。床に落ちた受話器から、もしもし、大丈夫ですか、と見知らぬ女の声がする。

…蔵馬の名前を言えばいいのだ。そうすれば、蔵馬に代わってくれる

「……ぅにゃ…」
「お客様?お」

女の言葉を遮るように、俺はがちゃんと電話を切る。

「…ゲホッゲホッゲホッゲホッ!!…にゃ、ゲホッ!」

自分でも、理不尽な、説明のつかないみじめさがこみ上げる。
蔵馬が電話出なかったことが、蔵馬が今ここにいないことが、どうしようもなく……

腹が立つ、というよりは…
……悲しい?

…悲しいって、なんだ。
どういうことだ。

悲しいなんて思うなんて、俺はどうかしている。

「にゃ、ゲホッ!ゲホゲホゲホッ!!にゃ…っぐ。にゃにゃ…」

電話番号の書かれたメモ。手の中のその小さな紙をクシャッとつぶし、力なく放った。
***
どうして、悪夢にばかり、夢の続きというものがあるのだろう?

目の前に、目を閉じ横たわる蔵馬。
冷たい体に触れるのが怖くて、俺は躊躇する。

おそるおそる、手を差しのべ…

蔵馬……。

「飛影」

蔵馬が、俺の名を呼んでる…?
ああ、大丈夫だ。この蔵馬は、生きて…。

「飛影!しっかりして!」
「………にゃ…?」

ぼんやりかすむ視界に、黒髪と、緑の瞳が映る。

「……く」

なんだ?言葉が出ない。蔵馬、と呼びかけることができない。
一瞬また人語が喋れなくなったのかと思ったが、そうじゃない。

「ゲホッゲホッゲホッ!!ゲホッゲホッゲホッ!!…にゃ、ゲホッ!」

咳込みすぎて、話など到底できない。
胸が、破裂しそうに痛い。頭がくらくらする。

いつの間にか毛布で俺を包んだ蔵馬が、誰かと電話をしている。
急病、とか今すぐ、とか、よくわからない言葉が聞こえる。

蔵馬に抱き上げられ、車に乗せられた。
そこからの記憶は途切れ途切れだ。

目を覚ましたのは、ここがどこなのか説明してもらわなくともすぐわかる、病院の薬くさいベッドだった。

「ごめんね。ちょっとチクッとするねー」

知らない誰かが服…薄っぺらいガウンのような変な服…をまくるのに、ぎょっとする間もなく尻に打たれた注射はやたらと痛かったが、文句をつける力もない。

知らない女が、側に立ち、あれこれとボトルのような物を吊るしている。白衣を着ているのだから、看護婦なのだろう。
腕に刺された針から、冷たい薬が流れ込んできてますます寒気がした。

蔵馬、蔵馬はどこに…?

「ああ、ネコちゃん。大丈夫だからね。横になっててね」

誰がネコちゃんだ。アホか。
毒づきたいが、のどがカラカラで、声が出せない。
切実に、水が飲みたい。

「かわいそうに。ひどい目に遭ったね。もう大丈夫」

かわいそう?ひどい目?
この女は何を言っているんだ。

混乱している俺を見下ろし、点滴の管にぶつからないよう布団を直し、女はカーテンの向こうへ行ってしまう。

…世話もしないで
…かわいそうに

女が、誰かと話している。蔵馬の声がしないかと耳をそばだててみたが、聞こえるのは知らない声だけだ。
点滴や注射が即効性を現したのか、俺の聴覚はみるみる明瞭になっていく。

…まだ子ネコじゃない。虐待よきっと
…こんなに具合が悪くなるまで放っておくなんて!
…そうね。そんな飼い主に引き渡せないわ

虐待?

「違います!虐待とか、そんなこと」

やっと、蔵馬の声が聞こえた。
認めたくはないが、それだけで俺はなんだか嬉しくなってしまう。

さっきの声は女だったが、今度は知らない男の声もした。

「ですが…どうしてこんなに悪くなるまで?ネコ肺炎おこしてますよ?」
「それは…留守で…。とにかく会わせてください!」
「ネコ族は人間よりも、体は弱いんですよ。わかってますか?」
「本当にすみません。俺のせいなんです。でも、会わせてください」

話が変な方向へ向かっているらしいことにようやく俺は気付く。

さっきの女が、またカーテンを開けて入ってきた。
蔵馬に会わせろと言いかけ、女の手元に思わず釘付けになる。

水。
水の入った、蓋のあるプラスチックのコップに、ストローが差してある。

「お水、飲める?」
「……」

死ぬほどのどが渇いていた。
けれど、嫌だった。

知らない人間。知らない人間のにおい。見慣れぬ手。
蔵馬以外の人間の、差し出す水。

嫌だ。

俺は頭をぶるぶると振って、口に突っ込まれそうだったストローを弾き飛ばしてやった。

「ダメ?ストローじゃ飲めない?哺乳瓶じゃないとかな?」
「…っぅにゃぁあ?」

哺乳瓶!? 子ネコじゃあるまいし!
けれど、女は冗談を言っている風でもない。
蔵馬め、何をしている!? さっさと…

さあっと、カーテンが開き、見慣れた黒髪がなびく勢いで蔵馬は入ってきた。
後ろにいた医者とおぼしき男は慌てた様子で、追ってくる。

「飛影…!大丈夫?」
「…く」

女が、蔵馬が俺に近づくのを阻むかのように立った。

「…にぁ?」
「この子に、あなたの所に帰りたいのかどうか聞いてみませんと、お引き渡しできません!」

俺も蔵馬も、目をぱちくりさせる。

虐待。
そうか。この医者と看護婦は、蔵馬のせいで俺がこんなことになったと、思ってるんだ。その証拠に、看護婦は俺をかばうように、立ちふさがっていた。

俺のせいなのに。蔵馬は何も悪くない。
冷たい水を浴び、冷たい飯を食い、濡れたまま眠り、このザマだ。
看護婦に説明しようと息を大きく吸った途端、胸がひゅうっと音を立て、カッと熱くなる。

「…ちが…ぅ…に、くにゃ…ま」

子ネコみたいに舌足らずに喋る自分が心底嫌だったが、声を出すだけでも、苦しくて噎せてしまう。
力の入らない手で看護婦をそっと押しのけ、蔵馬に両手を差し伸べる。

「くにゃにゃ……」

なんとか、蔵馬の名を呼んだ。

「飛影!ごめんね」
「………くにゃにゃ」

駆け寄ってきた蔵馬の首にかじりつき、帰りゅ、と呟く。

しかめっ面をした看護婦が、蔵馬を睨んだ後、俺に声をかける。

「ネコちゃん、本当に大丈夫?この人に意地悪されているならここにいていいのよ」
「…ゲホゲホッ!! にゃ…くにゃ、にゃ…」

熱い体は思うように動かなかったが、看護婦への返事代わりに、俺は精一杯蔵馬を抱きしめる。

蔵馬の長い髪、蔵馬の体温、蔵馬のにおい、蔵馬の胸の中。
俺を抱き上げる蔵馬の腕は、あたたかく力強い。

連れて帰るのなら、一週間は、つきっきりで看護が必要ですよ。
それと、少なくとも二週間は毎日通院してください。往診?往診の場合は料金は二倍です。薬は…

女の声が、だんだん遠く聞こえる。
重くなる体に逆らわず、蔵馬の腕の中で、俺は眠りに落ちた。
***
シーツを換えたベッドには、そこに寄りかかって起き上がれるように、やわらかいクッションが積み上げられている。
赤いやかんの乗ったストーブのついた部屋。乾いたパジャマ。朝の陽射しがベッドをあたため、気持ちがいい。たっぷり飲ませてもらった水のおかげで、少しは喋れるようにもなった。

昨夜は一晩中、蔵馬は起きていたらしい。
俺は朦朧としてはいたが、冷たいタオルが額に乗せられ、咳込む度に背中をさする手に、ひどく安心したような記憶がある。時折口に流し込まれる薬は甘いのに苦いという奇妙な味だった。

口にくわえさせていた体温計を抜くと、蔵馬はホッとした顔で、微笑む。

「熱、下がってきたね。座薬が効いたかな。良かった」
「……けほっ…にゃ…!」

恥ずかしさに、顔面だけ熱が上がったような気がした。
夜中に何度か、ズボンを脱がされ、座薬を入れられたことはさすがに憶えていた。

……ちゃんと溶けるのを確認するまで、指を突っ込まれていたことも憶えている!

ベッドに乗せた盆の上から蔵馬はガラスの鉢を取り、得体のしれない中身をスプーンですくって、俺に差し出す。

「すり下ろしたりんごだよ。あーん、して」
「……」
「じゃあ、ミルク粥は?ちゃんと冷ましてあるから。あーん」
「……」
「もう。少しは食べなきゃ」

何なら食べれそう?なんでも食べたい物作ってあげる。何食べたい?
緑色の瞳が、心配そうに俺を覗き込む。

「…ねえ、飛影。今は食べれない?もう少し寝たい?」
「………お前の…せいだ」
「わかってるよ。一人で留守番なんてさせてごめんね。もう二度と…」
「違う!…にゃっ!ゲホッゲホッゲホッ!!」

大きな手が背をさすり、膝にかかっていた毛布を掛け直してくれる。

「飛影…?」

寒い場所で寝ようが、水風呂に入ろうが、平気だったのに。
残飯を食らっていられる、強い野良ネコだったのに。

今じゃすっかり、蔵馬が与えてくれる場所に、温度に、居心地のいい腕の中に、ぬくぬくしている飼いネコだ。いや、留守番すらもできないバカネコと言うべきか?

「ゲホッゲホッ!!…お前のせいで…俺は…」

唇を、噛む。

「俺は…まるで…腑抜けた飼いネコじゃないか」
「え…?」

蔵馬が目を丸くする。

「…そんな風に、思ってたの?」
「違うとでも言うのか?」

濡れた床やパジャマ、あたためられた形跡もない料理。俺が自業自得で風邪を引き、連絡もせずにこじらせたことはわかっているはずだ。
蔵馬はスプーンを皿に戻し、自分もベッドに入ると、俺を後ろから抱きかかえた。

「放せ」
「…君は本当に、困ったネコだよね」

抱きしめる腕を解こうともがいていた俺は、その言葉にぴたりと動けなくなる。

困ったネコ。
やっぱり、蔵馬もそう思っているのだ。

至れり尽くせり用意して出かけたというのに、馬鹿なネコは自分勝手なことをして、揚げ句の果てには病院でネコ虐待の疑いまでかけられて。

「ご飯も食べてないし」
「……」
「クッションで寝ちゃうし」
「……」
「具合が悪くなったのに、連絡もよこさないし」
「……」
「ホテルに電話してきたのに、にゃ、だけ言って切っちゃったらしいし?」
「……!? なんでそれを?」

そうだった。
昨日はそれどころではなかったが、よくよく考えたら、なぜ蔵馬は帰ってきた?

蔵馬はクスクス笑いながら、俺の髪に顔を埋める。

「10部屋くらいしかない小さなホテルだったからね」

ホテルの人も、10人くらいしかいなくってね。夕食の時に、フロントの女の子が給仕してくれたんだ。
さっき、にゃあ、だけ言って切れちゃった電話があったんですよ、って、教えてくれてね。そりゃあ、ネコ族は君だけじゃないけどさ。でも、君のような気がしたんだ。

「大当たり、でしょ?」
「……ぅにゃぁ…。あ、お前…!仕事はいいのか!?」

蔵馬は一瞬困った顔をし、すぐに笑った。

「いいんだよ。仕事は他にもあるからね」

つまり、今回の仕事は、俺のせいでダメにしたということか。
しみじみ、情けないというか恥ずかしいというか。

「ケホッ……お前は…俺に腹が立たないのか?」

背中をさする手は、あたたかい。
まだ長く起き上がっていられるほど良くはなっていないのか、とろとろと眠くなってきた。

「立たないよ。君は困ったネコだから、俺がちゃんと、ずーっと面倒みてあげる」

それに…俺が側にいなくちゃダメなのかな、って、ちょっと嬉しいな。
もう一人で泊まりでどこかへ行ったりしないから。

「別に…行けばいいだろう」
「あれー?どの口がそんなこと言うの?この口?」

油断した隙に、蔵馬はまたスプーンを持っていて、口の中にりんごの味が広がった。
りんごは少し冷たくて、甘くて酸っぱくて、旨かった。

「…蔵馬」
「はい」
「…………おかえ…り、ぅにゃっ!!」

首筋に、キスされた。

「にゃにをする!」
「あはは。おかえりなんて、かわいいこと言うから」
「ふざけ…」
「怒らないで。また熱上がるよー?」

座薬、まだあるけどね、と蔵馬がニヤリとする。

「ご飯食べたら、ね」
「じっ、自分で入れるからいい!!」
「何照れてるの?いつも散々弄ったり舐めたりしてる場所じゃない」
「お前…!! 黙れ!っぐ、ゲホッゲホッゲホッ!!」

ほらほら、まずは食べちゃって。
食べ終わったら、お薬飲んで、少し寝るんだよ。午後には病院から往診の先生くるから。ほら、お粥も冷たくなっちゃう。あーんして。

…蔵馬は、本当におせっかいなやつだ。

でも…

口に出しては言いたくないが、帰ってきてくれて………嬉しい。
帰ってきて欲しかった。側にいて欲しかった。
具合が悪かったからというだけじゃなく…多分…俺は……。

…その思いを告げることは、まだ当分できそうに、ない。

今度蔵馬がどこかへ行く時は、留守番など誰がしてやるか。
俺も、一緒に行く。

俺を腑抜けた飼いネコにしたこいつに、責任取らせてやる。

薄く口を開け、差し出されたスプーンを受け止めた。


...End.



99999リクエスト「飛影が夜におるすばんをすることになって、寂しく過ごした後、体調を崩して、帰って来た蔵馬に優しく甘やかされて看病される話」
ゆき様よりリクエストいただきました!
ありがとうございました!(^^)