Happy Cat夕暮れ前の街を歩く。仕事や学校から帰る人間やネコやイヌもまだあまりいない時間、街は少しだけがらんとしていて、わりと好きな時間だ。 陽の当たる石畳の道はあたたかくて、気分がいい。 雪菜と過ごした一日の帰りだった。 妹の他愛ないおしゃべりを聞き、買い物やら食事やらお茶やらに付き合わされた帰り道。 ふと、足を止めた。 「……?」 酒の、におい。 声をかけられるより先に、懐かしいにおいに俺は振り向いた。 「おおーい」 懐かしいにおい。懐かしい声。 陽のあるうちから酒のにおいを漂わせている大男が、ドカドカと大股に、こちらへ近づいてくる。 でかい図体。髭面。両側を剃り上げ、真ん中だけをふっさりと立てた奇妙な髪型。 「……酎?」 なにより、相変わらず酒臭い陽気な男が、よお、と笑った。 ***
「なんだよお前。挨拶もなくいなくなるなんてよ」目の前の男は、俺をなじる。 いつくかのテーブルやカウンター、どっしりとした酒樽の並ぶ店の中で。何人かの人間はこの店の従業員なのか、酎に威勢のいい挨拶をした後は、黙々とそれぞれの仕事に精を出している。 様々な料理や酒のにおい。 「お前の店なのか?引っ越したのか?」 「いんや。ここは最近開店した三号店。俺様の素晴らしき経営手腕で店は三店になったわけだ」 がははは、と大口を開けて笑う。 それより、と、少しだけ真顔になって、酎は俺を見る。 「どこぞでおっ死んでんじゃねえかって心配したんだぞ。挨拶ぐらいして行けよ」 俺は黙って、肩をすくめる。 酎と出会ったのは別の街にいた頃だ。あの頃の俺は、俺を心配するような人間がいるなどとは夢にも思っていなかったが、そうではなかったらしい。 「なんでお前に挨拶する義理がある?」 「変わらねえなあ。その生意気なところも」 生き別れた妹を探しながら、いろんな街をさ迷っていた。 野良ネコ生活をしていた俺は、文字通りゴミ箱を漁っていたところで酎に会ったのだ。 もっとも、漁っていたゴミ箱は酎の店のゴミ箱だと後から知ることになったが。 飲み屋を経営していた図体のでかい酒臭い大男は、ゴミを漁っていた俺に、そんなもん食うなよと顔をしかめた。 猫もネコも好きだという酎は、それから俺や他の野良ネコによく飯を作っては食わせてくれるようになった。野良イヌと喧嘩ばかりしている俺を、小さいくせにいっちょまえだと、褒めているのだかけなしているのだかわからないことをよく言ったっけ。 「妹見つかったのか。そうか!良かったなあ!しっかしお前が飼いネコになるなんてな」 俺の首にかかる石を眺め、しみじみと、酎は言う。首輪をしているのは、飼いネコの印だ。 テーブルには馬鹿でかいグラスに注いだビールがふたつ。一応舐めてはみたが、こんな苦くてショワショワしたものは飲めない。 「いいやつに飼われてるんだろ?良かったな」 「…飼われてなんかいない」 「首輪してるじゃねーか」 「一緒に暮らしているだけだ!」 ムッとして返した俺の話を聞いてるんだかいないんだか、酎は三杯目のビールを空ける。 「一緒に暮らしてる、だけ?お前がか?」 痛いところをつかれて、再びムッとする。 「まあいいんだ。お前が幸せに暮らしてることがわかって良かったぜ」 「…なぜ俺が幸せだとわかる?」 そんなこと、ひとことも言ってないのに。 「あの頃お前はガッサガサのボサボサの野良ネコだったぞ。目だけ爛々とさせてる」 なのに今はなんだか、ツヤツヤでふわふわしてるぞ。 「ツヤツヤ!? ふわふわ!?」 「いやいや、ただの例えだっつの」 それに、と、四杯目のビールが消える。 「お前が気に入らないやつとなんか暮らすわけがねえ。そうだろ?」 「……な、俺は…」 上手く、返せない。 もともと話すのは得意ではないが、酎なんかにやり込められるとは。 無骨な指が、俺の首輪を弾く。 ピン、と澄んだ音を石は立てた。 「いいじゃねーか。幸せなんだろ?それの何が悪いんだよ」 おっとそろそろ開店だ、と言い、俺が一口だけ飲んだビールまで酎は空けた。 「飛影、今度そいつと飯食いに来いよ」 「…断る」 「昔さんざん飯食わせてやっただろうが。ちっとは素直に言うこと聞けよ」 たっぷりご馳走してやるぞ、と店の名前や地図が記されたカードを渡され、背中を叩かれながら店を出た。 ***
においを嗅いでいただけで飲んだわけでもないのに、なんだかふにゃふにゃするのは気のせいか。さっきよりもゆっくりと、石畳を靴の裏に感じながら、俺は歩く。 ーいいじゃねーか。幸せなんだろ? 幸せ、だと? 妹は見つかった。 今日のように一緒の時間を過ごしたり、何よりも、いつでも声が聞けて笑顔を見ることができるようになった。 あの頃、酎に飯を恵んでもらっていた頃、俺の望む幸せはそれだった。 妹がどこかで生きていて、笑って過ごしていること。願わくば、生きているうちに会いたいと。ただそれだけだった。 それが叶うのならば、何もいらないと思って生きていた。 多分、自分の命さえも、いらなかった。 なのに。 今の俺には帰る家がある。 そこには、妹ではない、俺を待っているやつがいる。 ショーウィンドウの大きなガラスに映る自分を眺める。 ツヤツヤで、ふわふわだと? 確かにきちんと食事をし風呂にも入り、破れた服も着ていないのだから野良ネコだった頃とは違う。髪にも肌にもつやがある。そもそも自分の肌や髪なんて気にしたこともないが。 でも、なんだか… 俺は確かに“ツヤツヤふわふわ”している! ……幸せ、だからか? 妹。 帰る家。 待っているやつ。 それは、幸せというものなのだろうか。 …そうか。 俺はじゃあ、幸せなのか。 考え事をしながら歩いていたせいか、いつの間にやら家の前だ。 辺りはすっかり暗くなり、家々は明かりを灯し始めている。 見慣れた家にも、明かりが灯っている。 キッチンの窓からただようのは、チーズスープのいい匂い。 帰る家。 ここは…俺の…家? ほんの少しためらって、いつも通り玄関でにゃあと声をかけた。 ぱたぱたと足音がし、扉が開く。 「おかえりー。飛影」 もう何度言われたかわからない“おかえり”なのに、胸がきゅっとなったのは気のせいだろうか。 俺の帰りを待っていた男は黒いエプロンを着けたまま玄関に現れ、俺をぎゅっと抱きしめる。 「楽しかった?」 「え?……ああ」 家の中はあたたかくて、いい匂いがする。 「雪菜ちゃんとこで、ご馳走食べてきたんでしょ?」 そんなにお腹ぺこぺこでもないかなと思って、夕ご飯は軽めにチーズスープとパンにしたよ。あとね、ツナサラダ。 促されるままに手を洗い、テーブルにつく。 いつものように、向かい合っての食事が始まる。 トロリと溶けたチーズとたまごのスープ。 それは昼間雪菜に連れられていった高級なレストランの料理とは全然別のものだったけど、美味かった。 「…蔵馬」 後から思い起こしてみると、自分でも何に感極まったのかはよくわからない。 家で待っていてくれたから。 明かりをつけて待っていてくれたから。 スープが美味かったから。 サラダにツナがいっぱい入ってたから。 蔵馬の長い髪がとても綺麗で、 蔵馬の碧の瞳がとても綺麗で、 これは、俺のものなのだ。 と思ったら。 なんだか急に。 すごく、嬉しくて。 俺はスプーンを置き、身を乗り出して両手で蔵馬の髪を引っぱった。 「え、ひえ…」 テーブルの上、スープの湯気ごしに俺は蔵馬の顔を引き寄せ、キスをした。 スープの味がする、あたたかい唇。 それに俺は吸い付き、ぴちゃぴちゃと貪った。 ほんの何秒かのことだ。 俺はすっかり満足して唇を離し、再びスプーンを手に… 「ぅにゃ!?」 手をつかまれた。 蔵馬は俺を、じっと見つめている。 なんだ?どうした? 「飛影…何かあったの?」 「別に。幸せだと思ったから、した」 食事の続きをしようとしていたのに、スプーンを取り上げられた。 「おい?」 「…食事は後にしよう」 「は?な、なんだ?」 たった今テーブルの向いに座っていたはずの蔵馬が、いつの間にやら後ろにまわり、俺を抱き上げようとする。 「なんだおい!食ってから…」 「何言ってるの」 見上げた先には、明らかに欲情している顔があって、俺は面食らう。 「あんなかわいいこと言っといて、ご飯の後?待てるわけないでしょ」 「…にゃっ…?」 無理やり椅子から引っ張り出され、抱き上げられた。 いったいなんだって蔵馬が急にその気になっているのか、俺にはさっぱりわからない。 けれど、どうもなんだか、今夜は抵抗しても無駄な気がする。 「いいでしょう?スープは後で温め直してあげるから!」 そう言ったくせに。 嘘つき蔵馬。 温め直したスープにありつけたのは、結局翌朝だったのだ。 ...End. |