afterwards心を体を、研ぎ澄ます。私は歩く。 心を体を研ぎ澄ませ、目指す場所へと。 黒い大地はしっとりと濡れ、眠る木々に水を送り込んでいる。 香り高くみずみずしい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。 魔界らしからぬ、緑豊かな森。 夜空には星が瞬き、ゆるく風が吹く。 小さく歌を口ずさみながら、奥へ奥へと私は歩く。 迷子を探して、私は歩く。 ***
美しい森は、朝を迎えても美しい。一晩中歩き続けた。 朝霧に湿った服が体にまとわりつく。 本当にこの森は緑が深い。 迷子になるのも無理はない。 だってこの森はあの人を思い出させる。 植物を自分の体の一部のように操った、あの人を。 歩きながら、目を閉じる。 迷子を見つけるのは、面倒ではあるがそれほど難しいことではない。自分とどこか似ている妖気を探せばいいのだから。 湿った空気を吸い、辺りを探る。 ふと、目の前に影が落ちた。 「大きな樹…」 目の前の、ひときわ大きな樹を見上げる。 ぴりっと冷たい朝の空気に、薄水色の空へ向かって大きく枝を伸ばす、大樹。 太い根を蹴り、枝へと飛ぶ。 上の枝へ。そのまた上の枝へ。 「…見つけた」 太い枝にしがみつくようにして兄は横になっていた。大きな目をぱっちり開き、薄い唇は結ばれている。 私と同じように、朝露に湿った髪や服。 手を伸ばし、白い頬に指をすべらせた。 「…こんな所で、何してるの?兄さん」 そう声をかけても、起き上がる気配はない。しょうがなく、両脇に手を入れ引っぱり起こす。 「……雪菜?」 「探したよ、兄さん」 兄は夢の中にいるとでもいうように、ぼんやりと彼方を見ている。 私に視線を戻すと、小さく長い、ため息をついた。 なぜここにいるのがお前なんだと、責められているような気がした。 「…ここになら、いると思った」 誰が、とか、何が、とか。 そんな無駄なことはもう聞きはしない。 風が吹き、緑の香りが私たちに降り注ぐ。 …こんな森で、兄が迷子になるのは無理もない。しょうがない。 怒る気にもなれず、太い枝の上で私は立ち上がる。 「ほら、帰ろうよ」 「帰るって…どこへ?」 「百足に。躯が心配してるよ」 「躯…?」 二三度まばたきをすると、兄は、ああ、と頷いた。 「…躯か」 もし、心配してるのはあの人だと、あの人が百足で待っていると言ったなら。 兄はここから飛び降り、一目散に駆けていくだろう。私のことなど置き去りにして。 「…あの人は、いないけど」 あからさまな失望。 暗く濁る赤い瞳から目をそらし、私は明るく笑ってみせる。 「そのうち帰ってくるわ。だから今日は帰りましょう」 ね?と顔をのぞき込む。 冷たい頬に唇を落とすと、兄はこっくり頷いた。 ***
「ご苦労だったな」森からようやく百足に戻るとすっかり夜で、巨大な戦艦は闇に包まれていた。 濡れた服を脱がせ、お風呂に入らせた。眠るための薬をしのばせた食事を食べさせると、兄は子供のようにことんと眠ってしまった。 「…本当、ご苦労だったわ」 軽く茶化して、読みかけの本に戻る。 枕を重ねた兄のベッド。寄りかかって本を読む私の隣で、兄は眠っている。 躯は何か言いたげに立ち去らない。 一晩中、兄の妖気を探して森を彷徨った。くたくただった。躯が何を言いたいにしろ、今はそれを聞きたい気分ではなかった。 「雪菜」 「今は聞きたくない」 ふと、氷河の女たちを思い出す。 誰もが恐れる魔界の女王にこんな口の利き方をしてるのを見たら、あの婆どもは卒倒するだろう。 おとぎ話のように聞かされていた、魔界三大妖怪の話。 恐ろしく強くて残酷で、そう聞かされていた怪物は、私たち兄妹の眠るベッドを困ったような顔で見下ろしている。 残酷、ねえ。 なんだか少し、おかしくなる。 産まれたばかりの赤子を、天空から地上へ落とした者たちが語る怪物とは、いったい誰なのだろうかと。 本を閉じ、ベッドからそっと抜け出す。 「ごめんなさい。お茶でも淹れるわ」 部屋の隅に置いた卓へと躯を促し、お湯を沸かそうとして、やめた。茶器の入っている籠に入れておいた酒瓶を取り、茶器にとぷとぷと注ぎ氷を浮かべた。 女王はあぐらをかき、火のついていない煙管を所在なさげにくるくると指先で回す。 「どうぞ」 「ああ」 しばらく二人で黙ったまま、白濁した強い酒を啜る。 どちらも酔いはしない。酔える気分でもなかった。 部屋の中は静かだった。 茶器の中の氷が時折たてるカランという澄んだ音、そしてかすかな寝息だけが、部屋の中にはある。 「このままでいいのか?」 女王らしくもないぼそっとした物言い。 なんと答えたらいいのかわからずに、ただ氷を揺らした。 「別にお前が、犠牲になる必要はないんだぞ」 氷を揺らす。目を閉じる。 かすかな寝息に、耳を澄ませる。 「せめてパトロールを免除してやろうか?別にあいつが行かなくたって人手は足りてる」 少し考え、私は首を横に振る。 環境の変化は、避けたかった。慣れ親しんだ場所と仕事、その方がいいだろうと思えた。パトロール先でたびたび迷子になってしまい、その度に探しに行く自分の苦労を考えても、だ。 「やさしいのね」 酒を注ぎ足しながら言うと、躯は驚いたような顔をした。 「…ずいぶん長く生きてきたが、そんなことは言われたことがないな」 「じゃあ、周りが馬鹿なのね。それとも私たちにだけやさしいの?」 苦笑し、躯は酒を干す。 綺麗な筋肉におおわれた躯の白い喉を、私は無意識に見つめていた。 ここで、兄の部屋で一緒に暮らすようになって、二年が経った。 つまりそれは、あの人がいなくなって二年経ったということだ。 「この間、人間界に行ってきたわ」 灰色や黒の大きな石が並んでいるそこが人間界での墓地であることは知っていた。 女はその石のひとつに花を捧げ、傍らの老いた男と若い男の言葉に笑みを浮かべていた。 あの日、あんなに泣いていたくせに、女は笑っていた。 苦しみも悲しみも過去のものとして、笑っていた。 あの女は、兄よりずっと賢く、強かった。 「あのね、あの人の母親は笑っていたわ」 躯の手の中で、氷が鳴った。 ちらりとベッドを見ると、先を続けろとでも言うように、軽く頷く。 「兄もそうすればよかったのよ。身も世もなく泣いて泣いて、嘆いて、悲しんで。そうすれば…」 そうすれば、きっとまた立ち上がることができた。 なのに。 二年前のあの日。 誰にとっても、本人であるあの人にとってさえ、予想もしていなかった日だっただろう。 短い時間だったが、コエンマは人間たちを操り、無人となった部屋で私たちをあの人に会わせてくれた。 大きな建物。白っぽい部屋。 部屋の中は嫌なにおいがした。それは私たちの誰もが知っているにおいだった。 汗と、血と……死のにおい。 おずおずと伸ばされた兄の手は、白い布の上の手に近づき、触れるかと思った瞬間、すごい勢いで引っ込められた。 「飛影!?」 止める幽助さんの手を振り払い、兄は窓から飛び出した。 振り返りもせず、風のように消えてしまった。 あの時の、兄の顔。 多分それを見たのは私だけだった。 見開かれた赤い瞳。 握りしめられた両のこぶし。 ブーツが埃っぽい窓枠を蹴る、硬い音。 窓の向こうの、暑い空気。 腹立たしいほどよく晴れた青い空に舞う、黒いコート。 あの人の最期を看取ることなく、兄は逃げ出した。 ***
「あいつが死んだのも、こいつが今こうなったのも、お前には何の責任もない」「そうね。何の責任もないわ。とんだ災難よ。でも」 姿を消した兄を、私たちは散々探し回った。魔界がどれほど広いのかを本当に思い知らされた。百足の戦士たちの何人かも、躯の命令でその捜索に参加してくれた。 やっと見つけた兄は、どれほどさ迷っていたのか、汚れた顏と破れかけた服で木の枝にまたがり、途方に暮れたような顔で私を見た。 そして放ったひと言は、全員を凍りつかせた。 「……蔵馬がいない。蔵馬は…どこだ?」 旅に出るって、言ったんだ。 でももう帰ってくるはずなのに。 どうして帰ってこないんだ? いったい誰が、それに返事ができただろう。 ***
酒瓶を戻し、籠に入っている丸みを帯びた二つの瓶を取り出す。片方の瓶は大きく、水色をしたごくごく小さな粒状の丸薬が、瓶の八分目ほどまでぎっしりと詰まっている。 最初は、一粒でよかった。 それだけで、兄は深い眠りについた。 今は違う。段々薬の効きが悪くなってきている。 眠りが浅くなってくるたびに薬を増やしていた。だが妖怪を無理やり眠らせるほどの薬は副作用も強い。 四粒になった薬に、兄は吐いたり失禁したりするようになった。 わかっている。 限界なのだ。もうそれは、近づいている。 もう一つの瓶。 その瓶はごく小さく、たった一つだけ、薬が入っていた。 真っ赤で、まるで一滴の血液のようにも見える、その薬。 あの日震える手が私に渡した、二つの瓶。驚くほど乾いた手の感触を、今もまざまざと思い出す。 息も絶え絶え、とはああいうことを言うのだろう。 そうとしか言い様のない、かすれた声であの人は私に言った。 それは遺言だった。 二つの瓶とともに私に託された、遺言だ。 決めるのは私だと、あの人は言った。 そんなのは、卑怯だ。卑怯な頼みごとを受ける謂れはなかったのに。 無言で瓶を受け取り頷く私に、あの人はほっとしたような笑みを浮かべ、目を閉じた。 ***
「……っん、う…」ベッドから苦しげな呻きが上がり、毛布が動く。二粒ではやはりだめか。思わずため息をつく。もう少し薬を飲ませようかとも一瞬考えたが、やめておく。 今日は本当に疲れていた。 これ以上薬を与えて汚物の片付けまでさせられてはたまらない。下働きの者をいくらでも使えばいいと躯は言うが、そんな惨めったらしい兄の姿を他の者に見せる気にもなれなかった。 続きはまたね、と躯を送り、私はベッドに腰掛けた。 汗ばんだ髪。痙攣する瞼。 眠れずにぐずる子供をなだめるように、湿った髪を解くように、ゆっくり髪を梳いてやる。冷たい指に兄の体がびくっと震える。 暑いのか落としてしまっている毛布を拾って足元にだけかけてやったが、兄は足で毛布を跳ねのけてしまう。 だめか。 今日くらい大人しく眠ってくれたらいいのに。 「飛影…」 この時だけは、兄とは呼ばないことにしている。 「ほら、飛影。足を広げて」 ズボンを膝まで下ろし、足の間を探り、それを握ってやる。 すり寄ってきた兄は、私の首筋、長い髪に顔を埋める。 ゆっくりと揉むように上下に擦ると、首筋にあたたかな息がこぼれる。 私の手の中で硬くなり向きを変えるそれ。汚らしい忌まわしい、もの。 「……っ、ふ、ぁ…」 口でして欲しそうなそぶりを見せたこともあったが、とてもそこまでしてやる気にはなれない。 単独で生殖が可能である氷女であるせいか、性には淡泊な方だったし、そもそも近親相姦の趣味はない。 「ん、んん、ぁ…!」 手のひらに、どろっとあたたかい感触。 生臭い液体を拭うように、シーツに擦り付けた。 「……ん…っ」 兄は両手に絡めた私の髪を放さない。 まだ続けたいのかとうんざりする。 …あの時もそうだった。 私の部屋は兄の部屋の隣にある。躯が用意してくれた、小さいが居心地のいい部屋だった。 兄が眠るのを見届け、なんとなく兄のベッドでぼんやりしているうちに私も眠ってしまったらしい。 髪を引く手に驚いて目を覚ますと、眠っていたはずの兄は私の髪に指を絡めるようにして、こちらを見つめていた。 「…にい」 呼びかけようとして、言葉に詰まった。兄が何を求めているのかわかったからだ。 冗談じゃないと振り払い、自分の部屋に駆け戻った。 扉をきっちり閉め、開けられないよう氷で覆ったが、兄が追ってくる気配はなかった。 翌朝もいつも通りの兄に、寝ぼけていただけなのかと安心したのに。 その夜だった。 パトロール先でまたいなくなった兄をようやく探し出してみれば、男と交わっていた。 崖っぷちの硬い岩場で、兄は人間に抱え上げられ、腰を振っていた。 「……あぁ…!」 兄の声。甘ったるい声を上げ、男にしがみついているが、男は兄を見てはいない。ただ額の魔物の目に釘付けだ。 あやつられている者特有の動き。そもそも人間が魔界のこの瘴気の中にいられるはずもない。兄を抱えて腰を振る男の肌は、薄気味悪い土色になっている。 「……っく……ぁま…」 男は長い髪をしていた。 だが、それ以外に何もあの人と似ているところはない。 こんな、男と。 こんな人間と。 気付いた時には、氷の刃が出現していた。 ほとんど何の手応えもなく、男の首は吹っ飛んだ。 「何してるのよ!!」 茫然と私を見上げる赤い瞳は、たった今までの性行為のためか潤んでいる。 素っ裸で、返り血を浴びたその姿。まだ勃起したままのものまで血に染まり、赤く小さな蛇のように見えた。 血塗れの死体を崖下に蹴り飛ばし、兄をひっぱたいた。 力いっぱい。何度も何度も。 自分の手が痺れていることに気付き、ようやく我に返った。 逃げるでも怒るでもなく、腫れ上がり血を流す左頬をおさえるでもなく、硬い岩場の血だまりとそこに張り付いた長い黒髪を兄は見ていた。 兄は泣きはしない。 嘆きもしない。 当然のことだ。 泣いたり嘆いたりしたら、認めることになってしまう。 あの人が、死んだということを。 もうどこにもいないということを。 二度と、会えないということを。 それからだ。 私が兄を抱いてやるようになったのは。 ***
催促するように髪を引かれ、あの日の記憶から自分を引きはがし、ベッドの中に戻す。指からそっと髪を外し、兄の体をうつぶせにした。 腰を引き上げ、足を広げさせる。 白い尻と、その奥の穴が丸見えだ。 みっともなく収縮する穴に油を塗り、ゆっくりと人さし指を差し込む。 「……んん」 枕に顔を埋め、兄が小さく声を上げる。 こうして私の手で慰められている間、兄は決して目を開けない。 まるで、この手があの人の手だと、思い込もうとしているかのように。 指を増やし、くちゅくちゅと中を弄ってやる。 あたたかく指を締めつける内臓は気色悪いの一言だったが、もう慣れたものだ。 入り口の筋肉の輪を広げ、奥を探る。 ぬめる体内を指でかき回し、少し硬い部分を何度も押し上げてやる。 「…あ、ふ、あっあっ……っ」 ねえ、と頭の中で話しかける。あの人に。 ねえ、どうしてこの人を連れていってくれなかったの。 あなたがこの人をこんな風にしたんじゃない。 連れていくのが、義務じゃないの?責任ってものじゃないの? …せんないことだ。 あの人だって、そうしたかっただろう。 あんな風に思いもかけない急な死でなければ、きっと兄を連れていっただろう。 それが兄にとっても、幸せだったはずなのに。 やわらかな臓物に、爪を立てる。 白い背が大きくしなり、甲高い声が部屋に響き渡った。 ***
「どこか、行くか?」パトロールは休みで、表向きの私の仕事である躯の手伝いも今日は休みだった。 遅い朝食を部屋でとりながら、兄が言った。 「どこか?」 「外へ。いい天気だぞ」 いいよ、と答え、コートを羽織る。 セックスを…あれをはたしてそう呼んでいいのかはわからないが…した次の日の兄は、まともの度合いが上がる、などと意地の悪いことを考えながら。 ここ最近、兄と出かけることもあまりなかった。もっぱら私が兄を探しに行くだけだ。 移動要塞である百足は、周りの風景がいつでも違う。 今日の景色は水辺が多く、そここに大小の湖がある。背は低いがたわわに実をつけた木ばかりが続いていた。どうやら豊かな土地のようだ。 私たちでも、十分に手が届く。試しに齧ってみた紅色の実はたっぷりの水分をふくみ、とても甘かった。いつか人間界で食べた、さくらんぼに少し似ている。 一番きれいで一番大きな実を探そうと上ばかり見て歩いていたら、地面から大きく盛り上がっていた木の根につまずいた。 兄がさっと差し出した手が、私を支える。 「根が多いからな。気をつけろ」 まるで… まるで妹を心配する兄であるかのような、まともな振る舞い。 ちゃんちゃらおかしい。 立ち止まり、目に付いた大きな実を二つもぎった。 大きいと言っても、手のひらに包めるほどの大きさだ。双子のように茎でくっついていた実をぷちんと引き離す。 「どっちがいい?」 両手の中にひとつずつ実を包み、兄に差し出す。 きっと私は、無邪気な笑みを浮かべている。 「お前、それ時々やるが、なんなんだ?」 いぶかしげに、それでも兄は手を伸ばす。 そうだ。私は時々これをやる。 食べ物をひとつずつ手で包み、兄に差し出し、選ばせる。 「当たったら、ご褒美あげる」 「いつもそう言うが、何も寄越さないだろう」 兄の伸ばした手が、私の左手を選ぶ。 手のひらをくるりと返し、私は実を渡す。 「…何もあげてないのは、ずっと外れだったからよ」 「そうなのか?」 だったら、オレはずいぶん運が悪いな。 二分の一なのに。 苦笑しながら、受け取った実を兄は口へ放り込む。 口の中で甘い実は弾け、兄の喉を伝って体内へ落ちる。 「…甘いな」 「そうだね」 ポケットの中を、探る。 小さな瓶の、中身は空っぽだ。 「それで、これは当たりなのか?」 歩き出した兄を追い、私も歩く。 躯へのお土産にしようかと、持っていた巾着袋に実を詰めながら。 「…外れ」 「何が当たりなんだ?」 「いつか当たるわ。二分の一だもの。ずっとは避けられないわよ」 避ける? 不思議そうに聞き返す兄を追い越し、背伸びをして実をつまむ。 「当たりはね、素晴らしいものなの。楽しみにしててね」 兄が選ばなかった方の実。もちろん私はこれを食べたりはしない。 小瓶の入っているポケットに小さな実を押し込み、私は微笑んだ。 ...End |