901つめたい水が洗い流した傷口には、すぐに新しい血があふれる。白い肌に血のしずくは赤く丸く浮き、あっという間に流れとなる。 真っ赤に輝くそれを舐め取りたい衝動を抑えて、オレは淡々と手当を続ける。麻酔を使うか使わないか迷うところだったが、そのまま縫っていいとそっけなく告げた彼の言葉を尊重し、オレは自家製の針を手に取った。 ひどく痛むだろうに、飛影は悲鳴を上げることもなく、もちろん泣き言も言わない。 もっとも、時折小さく鋭く空気を吸い込む音は、悲鳴よりもよほどエロティックだ。 それに彼が気づいているとは思えないが。 いくつかの深い傷を縫い合わせ、そうでない傷には薬草を練ったものを塗り込み、どちらの傷にも綺麗に包帯を巻いてやる。 首から肩、肩から肘へと覆う包帯は真っ白なのに、肌との境目ははっきりしない。 彼の肌の白さに気づいているのはオレだけだろうかと、ふいに奇妙な不安がよぎる。 さっさと手に入れなければ他の者に奪われるかもしれないというのに、オレはなにをぼやぼやと、善人ぶって手当てなどしてやっているのだろう? ***
座ったオレの前にひざまずくようにして、蔵馬は傷を縫い合わせる。細い針が皮膚と肉をすくう、その動き。 治療の邪魔になるからと後ろ一つに束ねられた艶のある黒髪、傷口に目を落としているためにふせられた瞼の、長いまつげ。 針がまた、傷口を刺す。 わめきだしたいくらい痛いというのに、オレはうっとりと、針を持つ指先をながめてしまう。 動かすことができないように、蔵馬の左手はオレの腕をしっかりと押さえつけている。 その温度、その力。 直に感じる“蔵馬”にオレがこんなに心酔しているなどと知ったら。 こいつはどんな顔をするだろうか? ***
いつ、行動をおこすつもりだ?自分に問いかけてみる。 仲間として、友として、充分な時間を過ごしたはずだ。 求められれるままに、治療し、看病し、食事を与え、休息の場を与え、時には助言も与えてきた。 ここまでしても彼はオレの想いには気づかず今日もまたのほほんと、ざくりと裂けた腕を、オレに差し出す始末だ。 待っていたって、この子供はオレの気持ちには気づかない。多分永遠に。 ***
血のにおい。薬草のにおい包帯のにおい蔵馬のにおい。 下腹部がじんわりと重くなるのを隠そうと、オレは足を組む。 顔が熱いのは自分でもわかっているが、これほど痛む治療の最中だ。蔵馬には不審がられることもないだろう。 くらま。 オレは声には出さずに、口の中で呟いてみる。 お前はいつ、オレがここに来る理由に気づくんだ? 頭のいいお前が、なぜ気づかない? 触れてほしいのは、傷口じゃない。 唇や頬やまぶたや首筋や、体の中で、お前の長い指を感じたいのに。 この、グズ。 のろま。 さっさと、オレに気づけ。 オレを見ろ。 オレに触れろ。 オレを、乞え。 ***
「はい、いいですよ」さすがに痛かったのだろう。 彼らしくもない、熱く長いため息が、オレの頭にこぼれた。 「泊まってく?」 そうしてやってもいい、と言わんばかりの横柄な態度に、オレの胸はドクンと打つ。 学生時代から使っていたベッドのスプリングがだめになり、つい先週買い替えたのだ。新品のダブルベッドに腰掛けたままの飛影を、立ち上がったオレは思わず見下ろす。 赤い大きな瞳が、いっそ無邪気といってもいいような色で、オレを見上げた。 「あなたが来たときにオレの寝る場所なくなっちゃうから」 まさか怪我人をソファに、オレがベッドにというわけにもいかない。 オレはいつでも、飛影にベッドを譲っていた。 「ベッドね、買い換えついでに大きいのにしたんですよ」 今それに気づいたらしく、飛影は自分の座るベッドをちらりと見ると、そうか、とあっさり言う。 どうやら、一緒に眠ることにもなんの抵抗もないらしい。 まったく、子供というのは手に負えない。 ***
やっぱり、そうだ。ベッドが大きくなっていることには、窓辺に降りた時から気づいていた。 大きくする理由はオレと寝るためだ。 誰と寝るにしたって、ベッドは大きい方がいいんじゃないか?別にお前と寝るためとは限らないだろう? そう頭の中で警告する声を無視し、オレはベッドに横になる。 「明日の朝、何か食べさせてあげるから」 今は食べない方がいい。多分熱が出るから、気持ち悪くなっちゃうと困るからね。 愚にもつかないことを蔵馬は言い、髪を解く。 なめらかにうねって背に流れる髪に、触れたくてたまらない。 「ほらほら、ど真ん中にいないで」 片側に寄ったオレの隣に、蔵馬の体がすべりこむ。 「我慢できないくらい痛くなったら起こすんだよ?わかった?」 「…ああ」 聞きたいのはそんな子供に言うような言葉ではないのに。 オレの不満など気づきもせず、薄い毛布でオレと自分の体をくるみ、蔵馬は目を閉じた。 「おやすみ」 ***
傷が痛むのかしかめっ面をしてオレを見た飛影だったが、十分も経たないうちに寝息を立て始めた。案の定熱が出始めたらしく、頬は赤いが、気持ち良さそうにすうすう眠っている。 いつ見ても、眠る彼は幼かった。 大きな目を閉じ、小さな口を小さく開けて、飛影は眠る。 「…まったく」 人の気も知らないで、いい気なもんだ。 傷に触れないようにそっと、眠った体を抱き寄せる。 血のにおい。 薬草のにおい包帯のにおい。飛影のにおい。 焦燥にも苛立ちにも似た感情が、静かにほとびていく。 腕の中の体温が、 途方もなく愛おしくなる。 ***
とろとろあたたかい眠りの中に、他人の温度を感じる。蔵馬の腕、蔵馬の胸元、 抱き寄せられて眠る、その幸福。 夢ならば、ずいぶんと都合のいい夢だ。 ひえい、と耳元で囁かれたような気さえした。 ***
清潔なベッドのピンとしたシーツの上。二人は薄いがあたたかい毛布に仲良くくるまり、眠っている。 飛影はぴたりと蔵馬にくっつくようにして。 蔵馬は飛影を包み込むようにして。 まるで一つの生き物のようにまあるく眠っていることに、 目覚めた二人は気づくだろうか。 気づいて、触れて、小さく口づけでも、交わすのだろうか。 鈍い二人のお話の続きは、 またいずれ。 ...End. |