冬の窓

生き物の体内でもあるこの要塞の壁に、素っ気なく白いありきたりな人間界のカレンダーは、どうにも異質だった。

いくつかの丸や書き込みのあるカレンダーを、飛影はベッドにひっくり返って眺め、くるりと寝返りを打つ。
寝返りを打った視線の先には、脱ぎ捨てられたままの形で転がっているブーツがある。

ベッドに上がるなら靴を脱ぐ。

そんなことをしているのはここでは自分だけだろうと、自分にその習慣を与えた男のことを考え、再びくるりと寝返りを打ち、カレンダーを眺め、飛影は舌打ちをする。

「なんなんだ、あいつ…」
***
元旦、とかいう人間界では一年の始まりである日に会いに行かなかったのが悪かったのだろうか、と飛影は考える。
魔界の風に吹かれ、両の目を閉じ、額の目で狭間に落ちた人間たちを探しながら。

そもそも、何かの節目やら行事やら、そういう日にこそ人間たちは浮かれ騒ぎ狭間へ落っこちやすい。
それを回収する役目がある者たちに人間界のカレンダーなどという物が配られることになったのはそのためだ。
仕事、などという人間じみた言い訳を言いたくはない飛影だったが、今回の年の変わり目はパトロールの割り当てがあったのだ。

年が明けて数日後、人間界を…つまり蔵馬の部屋を…訪れた飛影を迎えたのは、いつも通りの蔵馬の笑みと広げられた両腕だった。

「最後にしたのは、去年のあの晩…」

轟音を立てて何もかもをなぎ倒し進む要塞のてっぺんに腰を下ろし、記憶をたぐるように、飛影は全ての目を閉じた。
***
クリスマスでもない、大晦日でもない、中途半端な十二月の終わりの日だった。

いつものように飛影は窓から訪れ、蔵馬は笑顔で出迎えた。
会話と食事と風呂と。そして決まりごとのようにベッドで上になり下になりして汗をかいた。

「朝か…?」

目を閉じたまま飛影は首を傾げるが、あの日のことでたいして思い出せることもない。思い出せることもないというのは、いつも通りだったということだ。

朝は…普通に食事の用意があった。パンがあって、オムレツがあって…?

「あ」

そういえば、ケーキがあった。
紙に包まれたそれを指さした飛影に、蔵馬は少し躊躇うように。

「ああ、それ?…どうぞ。茶菓子に出されたのをもらってきた物なんだけど」

そう言って蔵馬が置いた皿の上には、いかにも手作りの少し不格好なパウンドケーキがあった。

蔵馬は食事は作るが菓子は作らない。買う方が美味しいから、とあっさりと合理的に宣言し、飛影のために時々買ってくるだけだ。

もっとも、飛影にはそのケーキの作り手が誰であるのかは、食べる前からわかっていた。

「美味しい?」
「…ああ、美味い」

美味い、という答えに、異議を示すかのように蔵馬がほんの少し眉を上げたことを飛影は笑う。

正直に言うなら、あまりいい出来ではない。
なんだかパサついているし、不格好だ。かかっているジャムもやけにゆるい。

「雪菜だろう?」
「わかるんだ?」

ちょっと驚いたように、蔵馬はコーヒーカップを置いた。
もちろん飛影にはわかっていた。紙に包まれていても、血を分けた者の匂いがわからないはずもない。

「当たり前だ。あいつの匂いがする」

氷河では食い物なんぞ食えればいいという代物だからな。人間界にいればそのうち上手くなるんじゃないか。
兄ぶった飛影のその言葉に、蔵馬はなんと返したのだっただろうか?

とにかく…。

移動要塞のてっぺんで、飛影は目を開ける。
とにかく、そのこと以外は何も変わったことなどない日だった。

あの日が最後で、それっきり蔵馬が自分を抱かなくなるような理由など、何もなかったと。
***
年が明けてから飛影が人間界を訪れたのは三回で、三回とも蔵馬は笑顔で飛影を迎え、そして何もしなかった。

食事も風呂もベッドも笑顔も変わらずあるというのに、セックスだけが元々そんなものはなかったかのように。

「……まあ、いい」

飛影は独りごちる。

セックスがしたくて人間界に、蔵馬の元に通っていたわけではない。
必要なのは魔界と人間界との情報の共有と、飯と寝床くらいだったのだから。

「しないなら、それでいい」

今まで通りに飯や寝床が手に入るなら、何の問題がある?そもそも、飯や寝床でさえどうしても必要な物でもない。

明快な解答に頷き立ち上がった途端、爆発音が上がる。
敵襲を知らせる鐘の音に、飛影は不敵に笑う。

反撃のために今まさに要塞から飛び出そうとしていた一団の前にひらりと降り立ち、片手を上げて制した。

「オレが行く」
***
窓辺に降り立った黒い影を迎える者は、今夜は長い髪から水を滴らせていた。

「いらっしゃい」

腰にタオルを巻いただけの蔵馬の姿に、飛影は面食らう。

「風呂か?こんな遅くにめずらしいな」
「そっちこそ。誰にやられた?」

一本の線のように走る傷と、流れた血で赤く染まった頬を蔵馬の指が滑る。

「誰だと?知るか。敵だ」
「お前に傷をつけるとは。なかなかの相手だ」
「数が多かっただけだ」

百は下らなかった敵のことなど、飛影にとってはもうどうでもいい。
広い肩幅や、その肩に滴る水滴や、タオルに包まれた下肢にちらちらと視線を走らせる。

「…水が垂れているぞ」
「ああ、お前の気配がしたから慌てて」

蔵馬は苦笑し、腰に巻いていたタオルを外し、そのまま髪を拭く。

人間界の無粋に明るい真夜中の部屋の中では、やけにはっきり全てが見える。
いつもは服に隠されている、顔に似合わずきちんと筋肉がついた体は、薄く残る石けんの匂いの下に、確かに物の怪のにおいを含んでいる。

「…くら」

背骨を伝うようにかけ抜けた熱さが足の間にじわりと溜まるような感覚に、飛影はぶるりと身を震わせる。

「お前は気分屋だから。部屋にいないと帰っ…」

窓枠を一蹴り、血と泥に汚れたまま飛びついてきた飛影を受け止め、蔵馬はベッドに後ろから倒れ込む。

「飛影、どうした?」

身軽な猫のようにひとっとびに飛んできた飛影は、自分でもなぜそうしたのかわからないとでも言うように、仰向けになった蔵馬にまたがったまま、大きな目をぱちくりさせている。

「飛影?」

蔵馬はベッドの上で、裸で、仰向けで。
血と泥に汚れたコートで、その裸の体に飛影はまたがって。

赤い大きな目で見下ろせば、ご立派なものが嫌でも目に入ってくる。

「…………したい」

飛影の口から唐突にこぼれたその言葉は、静かな部屋の中にぽかんと浮いた。

「飛影?」

靴を、コートを、ズボンを。
あっという間に飛影が脱ぎ捨て放り出した服は、床の上で黒い小さな山になる。

「蔵馬」

黒い服を脱げばどこもかしこも白い体に、頬の傷と目の赤がひどく映える。

覆い被さるようにして、飛影は蔵馬に唇を重ねる。
拙い動きで舌が差し込まれ、微かな血の味を運んでくる。

明るい真夜中の部屋に、舌を絡める水音が響く。
次に進むにはどうしたらいいのかと、飛影の舌が動きをとめる。

いつだって、始めるのは蔵馬で、進めるのも蔵馬なのだ。
自分から始めたはいいが、行く先がわからずに飛影は戸惑っている。

「……くら…っ」

焦れたように、小さな手が湿ったままの髪を握り、引っぱった。

「あ、ふ…あ…ん……おい、蔵馬…」
「飛影、もう一回言って」
「…ん、ふ…何、を…?」

ちゅぱ、と濡れた唇を離した飛影が、眉を寄せる。

「…さっき言ったこと」

見下ろした蔵馬の唇は飛影と同じように濡れていて、人間界の明かりに光って見えた。

「……したい。…お前と」

のばされた長い腕が、覆い被さる体を骨が軋むほど強く抱き寄せた。
***
「…っん…は……っう」

白い体のあちこちに、散らばる赤い跡。
膝が肩につくほど広げられた足の間には、潤んだ目と紅潮した頬が覗いている。

「…っ、う…くら、ま…!」
「ん?」

先端だけを差し込み、入口を広げるように回す動きに、悲鳴にも似た声が上がる。

「っあ!うあ!あ、くら、ま…なん、で…っ」

いつもならとっくに、激しく突き上げられているはずだ。
入口だけを刺激され続けて、飛影の太ももは痙攣し始めている。

「うっあ!あ、くら…」
「言って。どうして欲しいのか」
「……っ」

赤い目は、抗議の色をたたえている。
何をいまさら。言わなくたってわかるだろうにと、恨みがましく大きな目で睨む。

「ほら、飛影」
「………く…っあ……おく…」
「奥?」
「おく、…ん、あ…っ、奥に…」

奥に、と消え入りそうな声で言うと、これ以上言うものかと、飛影はぎゅっと唇を結ぶ。

「奥?奥まで入れていいの?」
「…お前…っ、今日、は、何なんだ!…っうああ!」

ぐちゅっと音を立てて、突然奥まで突き込まれ、飛影の背が反り返る。

「…あ!っあ、あ、あああ!」
「飛影…ひえ…」

パン、と音を立てて蔵馬は腰を振る。
待ち望んだ刺激に、飛影のつま先がキュッと丸くなる。

「っあ!あ!うあ!っ、あ!」

二人の皮膚がぶつかり合う音と、突き上げられるたびに上がる声が、明るく静かな部屋に響く。

「うあ!あ、く、くら…あ!ぐ、う!」

背に巻きついていた片足を外し、肩に担ぎ上げ、斜めになった体を抉るように蔵馬は腰を振る。

「あっ!あ!あ!ぐ、あ、うあ、ああ、ぁ、ひ!」

突き上げられ、勃ち上がっていたものを握り込まれ、どろりとした液が蔵馬の手を濡らす。

余韻に浸る間も飛影に与えず、繋がったままの体をひっくり返し、小さな尻を今度は後ろから蔵馬は突く。

「あ!くら、蔵馬!あ!っうあ!あ!あ!あ!」

尻だけを高く上げ、ベッドに顔を埋め、飛影は喘ぐ。
パン、パン、と音とともに送り込まれる快感に、耐え切れずに身を捩りながら。

「あ、待っ、あ!ちょ……とま、うあ!くら、ま!っあ!」

シーツを握りしめていた両手を引き剥がされ、強い力で後ろへ引かれる。

「…く、……う…ひえ…い、好き…」
「ああ!うあぁ……!あーーーっ!!」

両腕を引かれ浮き上がったままの体で飛影は仰け反り、何度目かの絶頂に叫び声を上げる。

「……あぁ…っ」

体内に広がった熱さに飛影は小さく笑い、ゆっくり目を閉じた。
***
「はつもうで…?」

電気の消えた部屋で、聞いたことのあるようなないような言葉に眉をしかめた飛影の声は、すっかり掠れている。

「一年の計は元旦にあり、って」
「…なんだそれは」
「人間界の諺。お前が来てくれなかったから」

三時間近くも喘がされ、ぐったりとした飛影を腕の中に抱いたまま、蔵馬は呟くように続ける。

お前が来てくれなかったから、今年は久しぶりに実家で年越ししたんだよね。
家族で近所の神社にお参りして、柄にもなくおみくじも引いたんだけど。

「おみくじ?」
「占いみたいなものだな。魔界にも似たような物はあるだろう?」

ベッドから身を乗り出した蔵馬は、サイドテーブルから小さく折りたたんだ紙を取る。

人間界の暗がりは二人にとって闇ではない。
長く綺麗な指で紙を広げ、蔵馬は読み上げる。

「恋愛。相手の優しさにつけこむべからず」

疲れとだるさに眠そうにしていた飛影が、あくびをする。

「わけのわからんことを…。いつからそんなものを信じるようになったんだ?妖狐蔵馬ともあろう者が」

人間に宣託をする側だろうが、お前は。
また欠伸をし、飛影は本格的に目を閉じる。

「信じているわけじゃないけど、ちょっと身につまされて」
「は?」
「お前は優しいから」

お前の優しさにつけ込んで、こういうことをしてるのかもなって。

つつ、と下りてきた蔵馬の指先が、さんざん嬲られまだ赤く尖っている乳首をつまむ。

「っ、あ!やめろバカ…だいたいな」

誰が優しいって?オレがか?
本当の母親でもない人間ごときのために死のうとしたお前に、優しいだのなんのと言われる筋合いはないぞ。

「…お前は全然わかってない。お前は優しいよ」

オレがあの人のために命を捨てる気だったのは確かだけど、それは恩返しでしかない。
先に優しさを差し出したのはあっちで、オレはただそれを返しただけだ。

「なのにお前ときたら」

やわらかな毛布で飛影と自分を包み、蔵馬はため息をつく。

「お前は雪菜ちゃんのためにいつでも死ねる。お前は空の城から落とされて、雪菜ちゃんはその城で何事もなく大きくなったのに」
「…それは」
「邪眼?あんな物を付けるなんて正気じゃないね。移植の生存率がごくわずかなことはオレが知らないとでも?死んだ方がマシだってくらいの痛みだっただろう?」

短い黒髪をかきあげ、蔵馬は閉じられた邪眼の縁に唇を這わせる。

「ん、あ!やめ…」
「お前は優しいよ。…幽助のためにも、なんなら軀のためにだって死ねるだろうな」
「蔵馬…」

闇の中の蔵馬の目は、冬の森のように、深く暗い緑色をしている。

夜の森。暗い森。何もかもを飲み込む、深い森。
うっとりと、飛影はその目を覗き込む。

「……それで、オレが優しさとやらでお前とこうしていると?」
「…ちょっとそんなことも考えたけど」

夜の森で咲く花のように、蔵馬が微笑む。
その微笑みに、自分が言った言葉を思い出し、飛影は赤くなりぷいと顔を背ける。

「…相変わらず、性格が悪い狐だ」
「悪くもなるよ。お前はオレには滅多に優しくしてくれないから」

千年生きた狐の子供じみた嫉妬に、飛影はため息をつく。
疲れ果ててひどく重くなったように感じる体で、自分を抱く体を抱き返す。

「飛影」
「蔵馬、オレは……」

続く言葉を待つ蔵馬に、聞こえてきたのは幸福な寝息だった。

「…ずるいなあ」

咎めるように、傷の消えかかっている頬をつつき、蔵馬は笑った。
いつになく寒いこの冬の窓に降りた、優しい物の怪を抱きしめて。


...End.