over and over「別に、今日じゃなくてもいいだろうが…」我ながら苦しい言い訳だ。 今日じゃなくてもいいが、今日ではだめだという理由もない。 「今日でもいいじゃない」 あっさりと、いつも通りの言葉を雪菜は言う。 生まれ変わってドライになったのか、もともとそうだったのか、オレにはよくわからない。 学校指定の黒い鞄から小さな袋を出し、毒々しい色のグミを雪菜は口に放り込む。 いる?と差し出された袋の中から、比較的大人しい水色のグミを取り、口に入れた。水色から予想したミントやソーダの味ではなく、それはリンゴの味がした。 座りたいから入ろうよ、と雪菜が指差すいつもの店に入り、いつものように紙コップに入った安いコーヒーを二つ買う。 座りたい、というのはオレが座りたいだろうという雪菜の気遣いで、雪菜自身は別に座りたいわけではないのだ。 「足、痛くない?大丈夫?」 「ああ。大丈夫だ」 足を二ヶ所も骨折したのは一ヶ月ほど前のことで、もう痛みはほどんどない。 とはいえ、立っているよりは座っている方が楽には違いない。 「何度も言ってるじゃない。昔みたいにはいかないんだから」 「…気をつける」 子供の頃から中学生になった今に至るまで、オレは本当に怪我の多い人生を過ごしている。 それは雪菜に指摘されるまでもなく、自分が以前の…つまり前世の?…記憶や感覚にとらわれているからだとわかっている。 例えばそれは、三メートルを超える高さからひょいと飛び降りてみたり、ということだったり、体が定期的に栄養を必要としていることを忘れる、ということだったり。 家族と暮らしていなければ、毎日食事をするということだって忘れてしまいかねない。 やっていいことと悪いことがあるし、今の体ではそれは確実に「悪いこと」だ。 あの日、地上にすとんと下りた途端に足に走った衝撃に、痛みより先に驚きを感じた。自分の体を気づかって生活をする、ということが、十年以上もこの体で生きていてもまだ、時々できなくなる。 学校の教師やクラスメイトたちは、多分オレをちょっと頭のおかしなやつだと思っているだろう。 なぜ飛び降りた、猫じゃあるまいし、と呆れたように言った父親は、それでも鍼灸師という職業柄、オレの体のあちこちに鍼を刺し、それは病院の医者を驚かせるくらい足の治りを早めてはくれたが。 「いた」 飲み物は年中熱い物を、というのが我が家の方針だ。 熱いコーヒーが冷めるのを待っていた雪菜が、小さく声を上げる。 砂糖とミルクを入れてかきまわしていたカップからオレはあわてて顔を上げ、道路を挟んで向かいにある高校の門を見る。 背の高い男が、反対側の歩道を歩いて行く。 今のオレには心臓というものがある。 見たことはないが赤くてまるいらしい臓器が、胸から喉元まで跳ね上がった気がした。 整いすぎた顔というのは、時として無表情にも見えるものだ。 相変わらず、話しかけられればきちんと返事はするくせに、誰と群れるでもなく、一人でさっさと門を出て駅へ向かうその姿から目が離せない。 長い髪は、いつものように後ろで一つに結んでいる。 流行りでもなんでもない髪形だが、あいつにはやっぱり長い髪が似合う。 身を乗り出して、その背が見えなくなるまで見つめていた。 「で?」 「で、って…」 いつの間にやら、雪菜の手元には揚げたてのポテトの袋がある。 雪菜が席を立ったことにも気付かず、窓の外を見つめていたのかと思うとちょっと恥ずかしい。 「いつ会いに行くの、蔵馬さんに」 蔵馬、という名前だけで、また心臓が跳ねる。 指先でつまんだ熱いポテトを口に入れてみたが、味などわからない。 「そのうちな」 「そのうちって、いつ」 熱いポテトを冷ますように揺らし、雪菜はため息をつく。 今は九月で、この店でこのやりとりを始めたのは四月のことだ。 長袖が半袖になり、夏休みが始まり夏休みが終わる今になってもまだうだうだしているオレに、雪菜は呆れながらも一緒にいてくれた。 ぬるくなった甘いコーヒーを口に含み、古いふるい、この世界での一番古い記憶をオレはたぐる。 オレにかけられていたやわらかな布団は、さっき食べたグミによく似た水色で、ふかふかとやわらかいその場所で、寝返りを打った。 女の声らしい歓声、あたたかい手。 寝返りを打っただけで喜ばれるその世界では、隣に眠る生き物がいた。 色の薄い髪、白くまるい頬、ぷっくりした唇は眠っているのに笑んでいて。 …雪菜。雪菜だ。 赤ん坊だったオレが感じたのは、紛れもない歓喜だった。 今度は、一緒なのだ。 雪菜に会えた。 この世界では、雪菜が一緒にいる。 なら…もしかしたら…。 きっと…。 嬉しさと安堵と、もう一つの願いへの期待に包まれて、オレもまた目を閉じた。 ただぬくぬくと眠っていることが許される、やさしい世界で。 ***
「せっかく見つけたのに、なんでぐずぐずしてるの?」台所の窓は、料理の湯気に曇っている。 グリルでこんがり焼かれた鮭をひっくり返した雪菜に、もう何度目になるのかわからない質問をぶつけられる。 「…別に、急ぐ必要もない。学校がわかっているんだし」 シチューをかきまぜ、かぼちゃのサラダを器に盛り、オレは力なく答える。 白い飯に焼き魚にシチューにサラダ、ぬか漬け。組み合わせがめちゃくちゃな夕食だが、オレたちの父親は食事の内容に文句を言うことは一切ない。 「三年生だったら、もうすぐいなくなっちゃうよ?」 「心配ない。あいつは二年だ」 「そこまで調べてるくせに、なんで話かけないの?」 でーきた。父さん呼んでくるね、とエプロンで手を拭い、雪菜はぱたぱたかけていく。 湯のみを三つ並べ、どっしりとした急須から熱いほうじ茶を注ぐ。香ばしい匂いを吸い込み、考えるのはあいつのことだ。 「蔵馬…」 小さく、誰にも聞こえないように呟く。 この名前を口に出すだけで、体の奥が熱くなる。 好きだった、という過去は、再び出会えた瞬間、今も好きだ、という感情にたちまち変わった。 名前が変わっていようがいまいが、あれは絶対に蔵馬だ。確信はあった。 顔は生まれ変わりそのものだし、ちょっとした仕草も、一見優しそうに見えて、冷たく乾いた視線も。 三人分の箸を並べたところで、雪菜と父親が戻ってきた。 いつものように、手を合わせてから食べ始める。 だいたい、この国にいったいどれだけの人間がいるというのか。 奇跡なんかで出会えるはずがない。もう一度出会う運命だから、出会えたのだ。 ………多分。 「どうした?」 箸が止まっていたらしい、いぶかしげに父親に問われ、オレは食事を再開する。 この男の存在も、蔵馬に会いに行くことができずにいる理由のひとつのような気がしてならない。 違う世界で、オレの額に穴を開け、紛い物の目玉をねじ込んだ男にひどく似ているが、オレや雪菜と違って、この男には以前の記憶がないらしい。 物心がつき、側にいたのが一番古い記憶の声の持ち主の女ではなくこの男だったことには心底驚いた。 自分は血の繋がりはない義父だと言い、そもそもどうして引き取ることになったのか、母親との関係はなんなのかは、オレたちが成人した時に説明すると言い、こうして一緒に暮らしている。 生業は鍼灸師で、三人で暮らすこの一軒家の一階で商売をしていた。 大儲けできるような仕事にも思えないが、腕は相当いいらしく、客は引きも切らずにやってくる。 元々、口数の多い男ではなかったが、それも変わらない。 必然的に食卓で喋るのは雪菜で、男二人はただ合いの手を入れるだけ、という日常だ。 父さん、と呼ぶのにも慣れた。 この男が父親であることに戸惑いがないわけではなかったが、そもそもオレたち二人に飯を食わせ排泄の後始末までやってくれていたのだから、紛れもなく父親ではある。 米の一粒も残さず綺麗に食べ終わった男は、いつものように手を合わせ、風呂から上がったら店に来いと言った。 ***
腰にタオルを巻いただけの姿で仰向けになり、体中に刺さっている銀色の鍼を眺める。何度経験しても不思議だが、長く細い鍼が刺さっていても痛みはないのだ。 「だいぶ、いい」 具合はどうだと聞かれ、いつものようにそう答える。 怪我の絶えない息子に呆れつつも、こうして忙しい合間を縫って治療にあたってくれるのだから、感謝しなければならない。 人のことを言えた義理ではないが、無口な男だ。 体中に針を刺したまま、オレは今日の記憶を反芻する。 蔵馬の通う学校は進学校というやつで、今のオレの成績で入れるかどうかはあやしいものだ。 どこかで偶然を装って、蔵馬の前に…。でも… 「…いっ!」 折れた部分、もう繋がっているとはいえまだ痛む部分を急に押さえられ、思わず声が出た。 「少しは地に足をつけて生きたらどうだ」 「は…?」 「何を悩んでいるのかは知らんが、ふらふら迷っている時間があるのか」 ふらふら? オレは何も迷ってなどいない。ただ、いつ行動を起こすのか考えているだけで…。 考えないと、ならない。 考えずに飛び込んでいくなど、できはしない。 手早く抜かれていく針を眺め、開きかけた口を閉じた。 ***
「私は私で、和真さんを探さないとだから忙しいんだけど」「どこがいいんだ、あの男の」 「心」 即答で断じ、雪菜はポテトをつまむ。 今日もまたオレたちは同じ店で、蔵馬の通う高校の門を眺めている。 「私たち、もうそろそろこの店でポテトってあだ名、付けられてるんじゃないかな」 そんな軽口をたたきながら、雪菜は律義に一緒に門を見つめている。 この店にはハンバーガーやサンドイッチもあるが、夕食は家で食べる決まりになっているオレたちは、せいぜい飲み物とポテトぐらいの冴えない客だ。 塩のついた指を舐め、オレもまた門を見つめる。 待っている。 同じ制服を着ている者の群れで、群れにいるふりをして、群れからはぐれている男を。 「…あ」 結んだ長い髪、整った顔。 長い手足を持て余すように、退屈そうに歩くその姿。 今日も会えた。 いや、見れたと言うべきか。 長い髪が揺れる背中が見えなくなるまで、食い入るように見つめ、見えなくなった瞬間、息を吐いて腰を下ろす。 「…言おうかどうしようか、迷ったんだけど」 「え?」 困ったような顔で、雪菜がオレを見る。 「蔵馬さん、学校辞めちゃうらしいよ」 「辞める!?」 「クラスメイトに、同じ学校に行ってる兄弟がいる人がいて、聞いたの」 驚きに、カップを置く。 辞める?辞めていったい何をする?どこへ行くというんだ? 「なぜ…」 「そこまではわからないけど。でも、その話が本当なら、猶予はあんまりないんじゃない?」 今日じゃなくてもいい、明日じゃなくてもいい、なんなら来年でもいい。いつでも会える。 そんな風に考えて、のらりくらりと逃げていたオレに、急に現実が叩き付けられた。 ***
オレたち二人はどちらも、父親に言わせればカラスの行水、というやつだ。けれど今夜のオレは、カラスの行水を返上し、のぼせるまで湯につかり、天井から落ちる雫を眺めていた。 「…明日」 明日、蔵馬に会う。 会って、そして。 そして、どうするというのか。 そうだ。 蔵馬を見つけた。せっかく見つけたのになんだかんだと理由をつけて逃げていたのは。 この世界では、お前はお呼びでない。 そう言われるのが、怖かったからだ。 あるいは、思い出してすらもらえずに、お前は誰だと尋ねられる。 それが怖くて、動けずにいたのだ。 あの頃のオレには、強さがあった。 やつの隣にいることが許されるくらいの、強さが。 今はどうだ?いったいオレに何がある? 蔵馬の通う高校はこの辺りでは有名な進学校だ。力を失ったのは蔵馬も同じかもしれないが、少なくともあの頭脳は健在だということだ。 第一、蔵馬は誰のことも探してはいない。 誰かを何かを、探す気配はまったくなかった。 学校、というものに所属している間は安心だと、高を括っていた。 辞めるだけじゃなかったら?どこか遠くへ行こうとしているのだったら? 深く息を吸い込み、頭のてっぺんまで勢いよく湯につかった。 ***
一人で行く。そう言ったオレに、雪菜は頷いた。 今日は、コーヒーと揚げ油が香る店のガラス窓も、しょっちゅうバスが通る道路も隔ててはいない。 見飽きるほど見た門の側に突っ立って、オレは蔵馬を待っていた。 心臓が、跳ねている。 同じ制服を着ている者の群れの中、群れない者を探して。 十六時半。 いつもなら、もうそろそろ…。 長い髪が、視界をかすめる。 結ばれていない長い髪が、風に舞い上がる。 この世界では、初めて見る姿だ。 「……く」 くらま。 その名で呼んでいいのだろうか。 口の中で言葉がつかえて、思わず伸ばした手で、制服のジャケットをつかんだ。 この世界でも蔵馬は背が高くて、この世界でもオレは小さくて。 振り向いた蔵馬は、不思議そうな顔でオレを見下ろした。 「…何か?」 木っ端微塵。 文字通りのそれだ。 蔵馬の言葉も、オレを見下ろす目も、不審な赤の他人に向けるそれだった。 「あ……」 力の抜けた手から、ジャケットの生地が離れていく。 冷たく乾いた視線が、乾いたままオレの上を通りすぎた。 遠ざかる背。 同じ色の背の中で、同じではない、唯一無二の。 「……蔵馬!」 オレの大声に、同じ色の背はいくつも振り向いた。 なのに、蔵馬は。 つま先でくるりと回るようにして、オレは走り出す。 背を向けた相手にオレもまた背を向けるようにして、逆方向へ走り出す。 辛いとか苦しいとか、情けない、とか。 ぐちゃぐちゃの感情の中で。 何よりも、悲しかった。 足の痛みのことも忘れて、オレはひた走る。 人混みを縫うように、精一杯のスピードで。 飛ぶように走れたのは、昔のことだ。 今のオレときたら、ズキズキ痛む足を抱え、体だけは昔と同じ小さいままで。 やっと探した、本当に探していた者にさえ。 「…あっ」 せいぜい三センチかそこらの段差に躓き、盛大に転びかけ… 腕を、つかまれた。 大きくて、熱い手に。 追ってきた相手も、今は人間なのだ。 息を弾ませ、乱れた髪をかき上げている。 「相変わらず、足が早いね」 やわらかく笑う目は、もう乾いてはいない。 「…相変わ…ず……お前、何を…?」 「ちょっと意地悪、したくなってさ」 「………は?」 「あの頃」 記憶の中と同じ声が、耳に溶ける。 あの頃、お前を追いかけていたのはオレだった。 追いかけたのはオレ。捕まえたのはオレ。 だから今度は、お前がオレを。 「お前がオレを、探してくれるといいなって。見つけてくれるといいなって」 「探、し…オレは…」 「ずっと待ってたのに。やっと来たかと思えば、お前は雪菜ちゃんとのんきにポテトなんか食べてばっかりで」 嫌になっちゃうよ、と笑う声。 痛む足での全力疾走で、オレはまだ息が整わない。 いや、整わないのは、頭の中か? 「く……らま……蔵馬?…蔵馬っ…!」 伸ばされた両腕に抱きしめられ、骨が軋む。 長い髪が、あの頃のように香った。 「…はい。飛影」 ***
熱い茶を少しでも冷まそうと、白い手が湯のみを揺らす。「…これで、よかったのかな?」 「いなくなるなどと嘘をついて焚きつけて、今更だろう」 「焚きつけえ?コーヒーとポテトで半年も付き合ったんだから、できた妹でしょう?」 熱い茶を熱いまますする男は、ため息をついた。 差し入れにと患者が持ってきた煎餅の袋を破り、豪快に割って口に放り込む。 「…何度止めたとて、無駄なことであろうよ」 「何度?」 「結局こうなる。毎度のことだ」 「毎度?」 毎度って。何度って。何度目なの? 詳しく聞かせてよ。 笑う雪菜に、煎餅を飲み込み、男は苦く笑う。 「…そのうちに、な」 ...End. |
2022年、くらひの日に捧げて。 展覧会だのねんどろいど化だの実写化だのと盛りあがっていて嬉しい限り。 今後もマイペースでお送りしますのでよろしくー 実和子 |